石 川 啄 木
(東京の軌跡 1 明治35年 憧れと失意)

数え年17才の石川啄木は
激しく燃え上がる節子との恋のさなか
中学校卒業の半年前

学業を捨て、
文学界への飛翔を期して上京します。
明治35(1902)年のことです。

その憧れは友や与謝野一家との交流の中に
その後の活躍の礎として、脈々として育まれたのでしょうが

「浮雲  ねがはくは  大日を掩(おお)ふ  なかれ」
の願いも空しく、4ヶ月後

父に、迎えを求めなくてはならない結果となって
失意の中に帰郷しました。

関東大震災で破壊され
第2次世界大戦の戦火に焼け野原となり、その後の開発によって
ほとんど原型はありませんが、この時の啄木の姿は鮮烈に残されています。

最初の下宿跡

憧れの上京前夜

 東京に武蔵野の気配が留められていた頃です。あこがれ一途の啄木は万感の思いで上京の前夜を過ごします。

明治35(1902)年
 10月27日、上京を決心した啄木は
         「家事上の都合」を理由にして盛岡中学を中途退学します。
 恋、文学、成績不振、カンニング、高等学校への進学諦めなど多くの理由が挙げられています。

 10月30日、日記秋らく笛語(しゅうらくてきご)=(白蘋日録)」を書き始めます。
         (らくという字は音+出)

 「秋らく笛語」

 『・・・惟(おも)ふに 人の人として価あるは 其(その)宇宙的存在の価値を自覚するに帰因す。人類天賦の使命は かの諸実在則の範に屈従し 又は 自ら造れる社会のために左右せらるゝが如き 盲目的薄弱の者に非ず。宣しく 自己の信念に精進して 大宇宙に合体すべく 心霊の十全たる発露を遂ぐべき也。

 運命は 蓋し天が与へて 以て 吾人の精進に資する一活機たるのみ。されば 余輩は喜んでその翼に鞭うつて 人生の高調に自己の理想郷を建設せんとする者也。

 呱々の声をあげてより十有七年。父母の膝下を辞して 杜陵(=盛岡)の空に学ぶこと 八星霜。前途未だ漠として浮雲に入る。

 この秋 流転の水流に従って校を辞し 友とわかれ 双親とはなれ 故山を去り 恋ふ子の美しき面影とさへわかれて 孤影飄然(こえいひょうぜん)東都に出づ。嵯乎(さあ)、何人がよく遊子胸奥の天絃に知音たる者ぞ。・・・』

 理想を求めて、一人、上京する決意を語ります。「嵯乎」の「嵯」は山がごつごつして嶮しい様を云うそうです。それに「乎」の感嘆符をつけています。何と嶮しい道よ!!とでも云うのでしょうか。それにしても、確たる活動の基盤や手づるがあったのでしょうか。

 10月30日

 『・・・かくて我が進路は開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ。雲は高くして巌峯の巓(てん=いただき)に浮び 秋装悲みをこめて 故郷の山水 歩々にして 相へだゝる。

 あゝ この離別の情、浮雲 ねがはくは大日を掩ふ勿れよ。遊子 自ら胸をうてぱ 天絃凋悵として 腔奥響きかすか也。』

 夜は仲間と宴が張られます。

我が発程の急なるに皆驚く。
 夜。阿部 小野 小沢 三兄と共に 加賀野に伊東兄を訪ひ 別宴を張る。青春の望みに憧るゝ者は 幸ひなる哉。万づの勇と力 皆これより生ず。吟身 愁ひを知る者は 聖なる哉。紛紜の胸中 自ら清高の香あり。 あゝ 高き者よ、汝の座は天上に設けられたり。・・・』

 10月31日

 節子が別れを惜しみに訪ねてきます。
 『午前。湧くなる我血汐も かくては遂に溢れなん。別れなればの涙に わが恋しの君訪れ玉ひぬ。

 まこと今日のみならじ。わかれなればとて 永き宇宙の飄泛(ひょうはん)に 永遠を友とすてふ愛の世に 何の時か今日のみと云ふことおらむや。二つ並べる小笹舟 運命の波にせかれて 暫しは分るゝも 又の逢ふ瀬は 深き深き愛の淵の上に 波なき安けさぞ尊からむ。

 東都の春の楽の音に 共に目さめむも こゝ六ケ月のうち。あゝ さらば胸の轟きしづめて 蘋の身の、世の大波に暫らくはひとり南せんか。

 さは云へど 胸掩ふ愁ひの聖なるぞ 哀しや。うす紫に わが好む装ひして あたゝかき涙にくれ玉ふ 恋の心のたゞずまひ。

 女神 夕に星をうらむも かくやと許り、うつゝなの境ひを辿る情を、男なればの我身 辛くも涙を噛みぬ。』

 として、啄木が好んだ「うす紫の装い」で涙にくれる節子の姿を書き連ねています。
 午後、高橋写真館で友の4人と門出の記念写真を撮ります。啄木に係わる多くの写真集に掲載される「ユニオン会」の同人の写真です。

   啄木、阿部修一郎、小野弘吉、伊東圭一郎、小沢恒一

 盛岡中学校3年生の英語研究の親友です。後に借金や生活にルーズな啄木に対する糾弾の先鋒となり、啄木のために準備したにもかかわらず、啄木がスポイルした節子との結婚式を機に、絶交に至ることを、この時、誰が想定したでしょうか?

 そして、出発です。
 
 『五時、行李(こうり)を整え、車を走らせて海沼の伯母や姉等にわかれ、停車場に至れば、見送りの友人すでにあり。

 薄くらき掲灯の下、人目をさけ 語なくして 柱により、妹たか子の君の手をとりつつ 車中のわれを見つめ賜う面影!!あ、如何にあたたかきみ胸ぞ。

 たとえ吾を送るに 千人の友ありとするも、何れか よくこの恋の君の一目送の語なくしてかたる紅涙に若(し)く者あらんや。』 

 として、妹たか子=節子の末妹の手に支えられながら、人目を避けて薄明かり柱の陰で見送る節子に「紅涙」を流して出発します。


上野着

 11月1日

 午前10時、上野駅に着きました。啄木の降りた頃は、上野駅は東京名物といわれた「洋風レンガづくり2階建ての駅舎」でした。大正12年の関東大震災によって全焼し、その形を留めません。北に向けての鉄路がかすかに当時を偲ばせます。

 声高にお国訛りが飛び交ったであろう駅を出ると、当日は雨でした。中学の先輩、細越夏村(ほそごし かそん)の小日向台の下宿を目指して、俥(くるま=人力車)を走らせます。

 上野駅から夏村の下宿までどのようなコースをとったのでしょう? 幸い、当時の道の形は現在も残っています。春日通に出て、湯島天神の坂を越し、現在の本郷三丁目を経て小石川辺りから小日向台へ行ったのでしょうか? 本郷三丁目を通るときには、野村長一のことが脳裏をかすめたかも知れません。

 それとも、池之端から現在の東京大学の中を通ってどこか至近の近道を行ったのでしょうか? 約1時間を要し、11時頃、夏村(ほそごし かそん)の部屋に着いたとされます。この道筋を追っていると羽織袴の啄木が、夢に満ちて人力車の中でそわそわしている姿が浮かびます。その夜は、夏村の部屋で一泊します。

 『談つきずして夜遅くまで眠らず。出郷第一夜の夢はこゝに結びたり。』

 あれだけの高揚をして出発し、着いた第一夜です。まして、夏村(省一)は啄木より2年先輩で、金田一京助と同年、すでに新詩社の社友でした。この年、早稲田大学に入学して小日向台に下宿していたところへの訪問です。話は弾むを通り越して、すっ飛んだのではないでしょうか。啄木の研究家、清水卯之助氏は

 『啄木はちょうど夏村が早大に入学した直後に、その下宿を襲ったもので夏村を驚かした。暗いランプの下で、十九と十七の若者は語りあかしたが、たまたま届いていた「明星」の短歌欄に夏村は五首、白蘋(はくひん啄木)は二首採用されていた。』

 と書いています。その時の啄木の歌は次の2首でした(明星 第三巻 第六号)。

 菊あはせ
  夢はかくて 恋はかくしてはかなげに 過ぎなむ世とも 人の云はば云へ

 草紅葉
  雨の香を 鳩の羽に見る秋の堂 紫苑(しおん)さびしく 壁たそがるる

 将来のことと共に話題は広がり、「談つきずして夜遅くまで眠ら」なかったのでしょう。

 11月2日

 この日、夏村と小日向台を散歩し、夜には、夏村の下宿から1町(約110メートル)ほど離れた、小石川区小日向台町(こびなただいまち)3丁目93番地大館光(おおだてみつ)方に宿を定めます。

 『午前 夏村(かそん)兄と共に 秋の歌つくらむとてならず。細越白籔君の文 杜陵(=盛岡)より来る。あゝ 吾友よ。親しむべきは其あたゝかき胸のうちたる哉。我は謝す。!

 午後 夏村兄と共に散歩す。小石川の地 高燥にして繁ならず。友は 秋の季に最も通せりとて 称する事 甚だし。小日向台に上る。今わが俯瞰する大都よ。汝は 果して如何なる活動をかなしつゝあるか。何ぞ たゞ魔の如きのみたらむや。吾はこの後 心とめて汝の内面を窺はんか。

 夜。小日向台丁三ノ九三、大館光氏方に移る。室は床の間つきの七畳。南と西に橡(くぬぎ、つるばみ、とち)あり。眺望大に良し。夏村兄に伴はれて 机、本箱等種々買物す。故家への手紙認む。左かへり 夜静かにして 旅愁あはたゞしう 我心を襲ひぬ。
 あゝ我は永遠に目覚めたり。』

最初の下宿 小日向台丁三ノ九三の大館方は
その建物はありませんが、現在、文京区音羽町1−6−1に
「石川啄木初の上京下宿跡」があります。図は明治42年地形図修正から復元。

「江戸川橋」を護国寺方面に進むと
音羽通りの右側の奥に、ビルに挟まれて「今宮神社」があります。
その背後は住宅地で、今宮神社前を左に行くとすぐ「八幡坂」になります。(画像右)

坂は途中で折り曲がって、左に曲がると、登り切る寸前に、右画像のような
がっしりした構えの住宅があります。啄木上京最初の下宿です。

 壁面に、「石川啄木初の上京下宿跡」(文京区教育委員会 平成10年3月)の説明があります。それまでは、清水卯之助氏の本を頼りに、苦労して探し当てていたのですが、今度は誰にもわかり、文京区の配慮に感激です。なお、清水氏は、当時の景観を次のように書いています。

 『この下宿は小日向台の台地が、音羽の谷におちんとするはずれの崖上にあって、枳殻(からたち)の生垣に囲まれた茅屋根の一軒やだった。

 のちに夏村が「啄木の前半生」と題した回想記に「音羽から、神社の境内を通り抜けて小日向台に登る坂の九合目」あたりに啄木の下宿があり、彼の部屋から見渡せば、西のかた目白台は深いこんもりした翠緑に包まれ、南は縹渺
(ひょうびょう)無限の下町が続いていたと述べている。』 (
清水卯之助 石川啄木 愛とロマンと革命と 和泉書院 p164)

 まさに、啄木が『小石川の地 高燥にして繁ならず』と書いたように

その眺めは、一望千里であったことがわかります(近くの公園からの眺望)。
故郷とは違った癒しの場であったように思います。

もし、一葉の居た「菊坂」であったら、人情の厚みに触れたとしても
明治から次への変化を鋭く展望した啄木の視点は得られなかったのではないでしょうか。

 11月3日

 『午前、買い物、葉書認む。鉄幹氏へ上京報知す。
 午後。本郷にて 露子
(ろし)岩動(いするぎ)君に逢ふ。野村琴舟(きんしゅう)君(=長一(おさかず)=胡堂)を(本郷6丁目28 月村方)訪ふて逢はず。一人忍ばずの池の畔より上野公園に上り 日本美術展覧会見る。・・・。』 

 露子岩動は岩動孝久(いするぎ たかひさ)で、筆名が露子(ろし)、盛岡中学校時代の友人です。東京外国語学校フランス語科にいました。

 野村琴舟=長一・胡堂の下宿は本郷6丁目28、東大赤門に向き合う場所にありました。現在の町名では本郷5丁目になって紛らわしい限りですが、落第横丁の一隅にありました。(郁文館と落第横丁の看板の間を入って左側中程辺りです。一葉ゆかりの法真寺と福寿寺の間を訂正、2002.5.16.)

 盛岡中学校で、啄木の1年上級にいて、深い交流をもっていました。菫船(きんしゅう)とも号し、後に野村胡堂・あらえびすとして、銭形平次で親しまれ、レコード収集家、音楽評論家で名を馳せました。当時は、第一高等学校の1年に在学していました。

 啄木は上京に当たって、先輩に様々な相談・助言を求めて訪ねたようです。留守のため、不忍池から上野公園に上ります。今の東大の校内を突っ切って不忍池に出て 

不忍池からは、「清水坂」を登ったのでしょうか?

当時の日本美術展覧会は「帝室博物館第五号館」(竹の台陳列館)で行われました。
関東大震災で崩壊し、今は国立博物館として建て替えられています。

陳套なる画題を撰んで活気なき描写をなすは日本画界の通弊也。こ度の展覧会にて注意すべきは洋画の描写方を日本画に応用したる作の二三あること也 その中にて 弁慶の図など少しく可なり。・・・』

 17才の啄木が日本画界を痛切に批判します。並々ならぬ絵画への関心、識見を感じさせます。夜は節子への思いに涙です。

 『出京以来 漸く少しく心落ち付きたれば 杜陵(盛岡)なるせつ子の君へ手紙かきぬ
 迸しる涙のわりなき秋や、嘗
(しょう)(じ)賜ひし歌の手巾(しゅきん=ハンケチ)にて溢るゝを抑へつゝ記しぬ。あはれ恋しの君 わがこの文を読まぱ 君もや温かき涙にくれ玉ふらむ。

 二時就寝。涙!!!』

 岩動、野村の二人とも本郷に下宿しています。細越夏村は小石川の小日向台です。当時、地方から上京してきた学生が本郷と小石川に住み分けていたことがわかります。官学と私学でしょうか?

 また、啄木の下宿(小日向台町)から、野村長一の本郷の下宿まで、どのようなルートを通ったのか興味が湧きます。直線で約3キロ、その後の行動を見ても、10キロくらいは平気でこなして顔を合わせています。

 歩くだけなら、どうってことありませんが、時間にこだわらずに文芸の議論をし、人生を語るのですから、当時の学生が、いかに精力的に距離を超えた活動をしていたか、微笑ましくなりました。

 
 11月4日

 『空心地よく晴れ渡りたり。
 午前。阿部 小野 小沢 伊東四兄へ長き手紙認めたり。
 詠歌。鉄幹氏より来翰。晶子女史 御子 あげ玉ひし由。
 午後。牛込女子大学のあたりまで散歩す。』

   新坂              日本女子大学

現在の東京カテドラル聖マリア大聖堂

 「牛込女子大学」は現在の「日本女子大学」で、啄木の下宿からは、一度、音羽に下り、目白通りの新坂を登って「天主公教会」を経て来ます。キリスト教に関心を持つ、妹 光子に想いが馳せたかも知れません。

 この周辺は高台で、丁度、目白通が、尾根筋に当たるため、目白台、小日向台が一望に見えたはずで、その景観はさぞ見事であったことと思われます。また、近くには護国寺、天主公教会、目白不動、芭蕉庵などがあり、散歩先に恵まれ、啄木はよくこの周辺を歩いています。

 『四時頃より 野村菫舟君来り 夕飯を共にし 九時かへる。友は云ふ。君は才に走りて真率の風を欠くと。又 曰く 着実の修養を要すと。何はともあれ、吾はその友情に感謝す。』

 この日、野村長一(おさかず)は啄木に学業、中学生活を続けることを忠告したらしく、翌日から、学校廻りが開始されます。先輩の配慮に対し、「何はともあれ・・・」とする啄木のひっかかりに、興味を惹きます。

 11月5日

 『朝遅く起き 急ぎ飯を了へて 本郷の自炊に董舟君を訪ふ。安村兄工藤兄も在り。
 董舟君と共に神田辺を徒歩し諸所の中学に間ひあはせたれど何れも五年に欠員なくて入り難し。

 故に初めの志望通り斎藤秀三郎氏の正則英語学校の高等受験科に入ることに思ひ定め規則書在学証書等貰ひ来る。』

現在の「正則学園高等学校」

  野村長一と一緒に神田付近の中学を訪ね、5年生への編入を目指しましたが、欠員なく果たせませんでした。「正則英語学校」で書類をもらってきますが、それも果たせませんでした。正則英語学校は「正則学園高等学校」として同じ位置にあります。

 『古本屋多き猿楽丁を通りて 又 自炊にかへり 昼食。閑話して五時かへる。』

神田は町名が変わりその位置も変わっています。
明治42年測量図から町名の並び方と力行会の位置を復元しました。
いずれ、もう少しましな図にしたいと思っています。

 啄木は「猿楽丁」一帯に古本屋が多かったと書いていますが、右画像のように現在は大きなビルの一角になっています。なお、裏神保町は三省堂(左画像)の位置するところでしたので、そこから追ってゆくと当時の町割りが再現できます。

 『食後 夏村兄と日向台の暮色に散歩す。本日午前 金子君来訪せられし由なれど 留守にて惜しきことしたり。・・・』

 夕食後、近くの夏村兄と散歩に出ます。「日向台の暮色」は今では見当も付きませんが、地形図から推し量ると、右側に目白台、左側に本郷台、前面に江戸川の流れと市街地が見え、夕靄がたなびく広大なパノラマ展望の中に夕日が落ちたことが想定されます。

 翌日の日記に書かれる感慨はそのような場で湧き起こったものと思うと、啄木のあこがれの内容がより鮮明に伝わってきます。

 11月7日

 『朝、鉄幹氏への手紙投函す。神田錦町に金子君を訪ふ、路すがら野村兄に立ちよる。 

 オゝ繁華なる都府よ、人の多くはこの実相の活動に眩惑せられて成心なき一ヶの形骸となり了る。吾はこの憐むべき幾多の友を見たり。

 悪臭ある風塵を捲いて市街の至る所に吹き廻る、その吹き行く所、吹きつくる所、白粉化せられたる東京てふ者 骸骨を連ねて 燦として峙つを見る。

 人は東京に行けば堕落すと云ふ。然り 成心なき徒の 飄忽として この大都塵頭に立つや、先づ 目に入る者は 美しき街路、電燈、看板、馬車、艶装せる婦人也、胸に標置する所なき者にして よく此間に立つて 毫末も心を動かさゞる者あらんや。あゝ 東京は遊ぶにも都合のよき所 勉むるにも都合のよき所なり。・・・

 日本力行会にて飯岡三郎君に逢ふ。』

 神田錦町に金子君(定一)を訪ね、飯岡三郎君に逢います。金子定一は啄木の盛岡中学校時代の友人。筆名を磧鼠(せきそ)、香音児・香寧児(かねこ)として文筆の友でした。明治35年に経済上の理由から盛岡中学校を退学して、一足先に上京していました。

 陸軍士官学校への入学を目指して、神田錦町の日本力行会に身を置いて、アルバイトをしながら夜間の中学校=成城中学校に通っていました。啄木の東京での絶体絶命とも云えるピンチの時を共に過ごした数少ない友です。後、士官学校を卒業、陸軍少将になりました。

 飯岡三郎は金子定一と同宿の岩手県人です。後に啄木が神田を放浪するとき、金子定一と共に親身になって助力したと云われます。

日本力行会のあった場所

 今回の上京で日本力行会はいろいろと関係が出てきますが、場所は正則学園高等学校、錦城高校の並びで、神田警察署の前側になります。左画像が錦城高校からの現状で、右画像は神田警察署側から見たものです。

 日本力行会は島貫兵太夫(しまぬきへいだゆう)が創設した特色ある団体で、苦学生の救済事業を行って、神田錦町3丁目1と2に苦学部の「神田寮」を設けていました。金子定一と飯岡三郎(岩手県人)はそこの同じ部屋で生活していました。

 『金子兄と共に上野公園に紫玉会油絵展覧会を見る。数百枚のうち大方は玉置照信氏一人の作にして吾らの心を満足せしむること少きは残念なりき。

 数多のうち四枚の裸体画は下谷警察の厳諭によりて取りはづせるは誠に日本は滑稽なりと思ひぬ。概して色彩の使ひ方如何はしく旧派に属す。』

 11月3日と同じように「油絵展」も満足するものではなかったようです。そして、裸体画を取りはづさせるような日本は誠に滑稽なりとするあたり、啄木の真骨頂でしょう。

 啄木はこの日、小石川から本郷、神田錦町(3丁目)へ行っています。本郷通を通って、お茶の水で橋を渡り、明治大学の付近を抜けて行ったのでしょうか。

 その後は上野公園です。苦学する金子定一と一緒ですから、歩いたと思われます。その道はどこを通ったのでしょう?

 11月8日

 節子から手紙が来ます。
 『せつ子君の美しきみ玉章来る、表紙には百合子と認められたるも 先づ 心ゆく想出也。

 かくて我は また強き思郷の翼にぞ かられぬる 
 わかれてよりの長き長き思ひ、いとしき美の筆に上りて、吾には たとしへもなき尊さの絵巻物なり。胸に溢るめる感懐、あゝ吾恋しの白百合の一花よ。

 そらなる秋のみ神は 夜の黒髪に弦なるお櫛して 旅なるこの愁ひ子に さゝやき玉ひぬ。しろがねのゑまいさはやかなるに 我らが恋の祝福をやさとし玉ふ。吾は限りなき想ひもて 吾胸たる百合の花をなつかしみぬ。

 何なれば かくぞ独りほゝゑましむるぞ。あゝ いとしき者ぞ 世に尊とかりや。美しの人は云ふ、吾望みのすべては君なりと。あゝ吾らは幸ひなる哉。

 夜深ふして 目白台の森地洩るゝ燈の先もあはし。想のみ走らせて 北なる星にさめぬるとこしえの瞳に、吾は落ちゆく弦月の影を拝したり。

「新詩社」の会合に参加

 11月9日

 「新詩社」(東京新詩社)の会合に参加します。

 『快晴 朝。髪をとゝのへ、散歩してかへれるに金子兄、飯岡兄待たれてあり。・・・・昼食してわかる。

 今日は愈々
(いよいよ)そのまちし新詩社小集の日也。
 一時 夏村兄と携へて会場に至れば、鉄幹氏を初め諸氏、すでにあり。(牛込神楽丁二丁目二十二、城北倶楽部)

 東京社友間に回覧雑誌編輯の事、
 明年一月後の明星体裁変ゆる事、
 新派歌集の事、
 文芸拡張の主旨にて各地に遊説する事、新年大会の事等
を討議す。・・・』

 細越夏村に伴われて、憧れの新詩社の集まりに出席しました。啄木と夏村の下宿からは江戸川橋を渡って、筑土八幡の方から神楽坂を登ってきたでしょうが、わかりにくいので飯田橋駅から行ってみます。

 駅を降りて牛込橋方面に出て、橋を渡り、神楽坂に入ります。

 神楽坂を登り始めて、最初の花屋さんのある小路を左側に入り、正面に理科大を見て、すぐ右折すると右画像の通りに出ます。この左側に城北倶楽部がありました。接して泉鏡花、後に北原白秋の住む下宿がありました。

端からは東京理科大学の裏側になります。

 当日の出席者は、鉄幹、平木白星、山本露葉、岩野泡鳴、前田林外、相馬御風、前田香村、高村砕雨(光太郎)、平塚柴袖、川上桜翠、細越夏村、啄木ほか2名、合計14名と伝えられます。

 『・・・、鉄幹氏は想へるよりも優しくして誰とも親しむ如し。相馬氏の風貌(原文のぼうは白の下に八)想ひしよりは壮重ならず、平塚氏のみは厭味也。・・・平木氏は日本国歌の作者とも見えぬ清高の趣をもたる人、まことに詩人らしき詩人也。

 七時散会。吾は惟ふ。人が我心をはなれて互に詩腸をかたむけて歓語する時、集りの最も聖なる者也と。

 都は国中活動力の中心たる故 万事活溌々地の趣あり。かの文芸の士の、一室に閑居して筆を弄し 閑隠三味に独り楽しめる時代はすでに去りて、如何なる者も社会の一員として大なる奮闘を経ざるべからずなれり。人の値は、大なる戦ひに雄々しく勝ちもしくは雄々しく敗くる時に定まる。

 我は今日の集会に人力の進取の気盛んなるに大によろこぶ、その社員遊説の挙の如き以て徹すべし。あゝ吾も亦この後少しく振るふ処あらんか。

 小集のかへり相馬御風兄と夏村兄と三人巷街に袖をつらねて散歩す。九時まで夏村兄と或は小日向台の月色に清吟し或はその詩室に閑話す。かへりて信書を認めんとし心つかれてならず早く寝に就く。』

 啄木の興奮が伝わってきます。人物評も面白く、手紙も書けないほど疲れ、高調したことがわかります。2ヶ月後に、下宿を追い出され、神田のまちを放浪する姿など全くうかがえない充実の日でした。

               神楽坂商店街     相馬屋(善国寺の斜め前)

小集のかへり相馬御風兄と夏村兄と三人巷街に袖をつらねて散歩す」、こう画像を小さくすると雰囲気も半減ですが、神楽坂の歓楽・繁華街を散策したようです。そして、最晩年に最後の原稿用紙を買いに行った「相馬屋」の前を通って、意気軒昂のうちに小日向台へ帰ったのでしょう。

 この時、啄木は鉄幹と初めて会いました。鉄幹、啄木共に相互に深い印象を与えあったようです。啄木は、その翌日、そうそうに鉄幹宅を訪ねています。

与謝野家訪問


 11月10日

 豊多摩郡渋谷村字中渋谷382番地の与謝野家を訪問します。 
 与謝野家は、明治34(1901)年9月15日に中渋谷272番地から中渋谷382番地に移っていました。晶子には、11月1日に長男光が生まれていました。

 『昼食を了へ、早忽として廬を出でゝ渋谷の詩堂を訪はんとて出づ。
 女子大学の前より目白ステーションに至り直ちに乗車して渋谷に到る』

現在の日本女子大学の前を通って、目白駅に出て渋谷へ向かいました。
いそいそと女子大学の前を歩いた姿が浮かびます。

渋谷駅は現在の位置とは違って、下図の通り、「渋谷停車場」として南にありました。

渋谷停車場を降りて道玄坂へ出たかも知れませんが、日記に
『里路の屈曲多きを辿ること やゝ暫らく 青桐の籬に沿ふて西に上り詩堂に入る。』
とありますので、図の大和田横丁を登って行ったのだと考えます。
図では理解できるのですが、現地に行ってみると迷います。下に現在の概略図をのせました。

JR渋谷駅西口に降ります。目の前の歩道橋で首都高速・246号線を渡ります。
図では西口の書き込みの辺りです。

歩道橋はいくつかの方向に分かれますが、道路横断を選びます。
歩道橋から鉄道高架の方を見ると、ビルと鉄道高架の交差になっているところがあり
そこが路地になっています。

線路沿いに恵比寿方向に向かい、 最初か次の路地を右に曲がります。
市街地開発により当時の路は現在の路と重なりませんので、厳密には辿れません。
現在の概略図の鉄道線路に沿ったところです。

今回は最初の路地と次の路地を右に曲がってみました。

両方とも、坂の上に出ますから、そのまま下ります。

渋谷駅西口横を通る高架下に出ます。
高架の向こう側のビルの間に見えるのが路で、ここから少し当時の路に重なっているようです。

246号線を渡って、上記の路をマークシティの方向に進みます。

正面に高いビルが見える横町を左折します。
ここまでが、啄木が『屈曲多きを辿ること やゝ暫らく・・・』の路で
左に曲がるのが『西に上り詩堂に入る。』と記したところと思われます。

直進すると上り坂になります。

曲がりくねった急坂を登ると

ビルの谷間に出ます。この左画像左側ビル とその奥の右画像道路とビルが中渋谷382番地
鉄幹と晶子が住み、新詩社があったところと思われます。鉄幹は

 『このたび移りし渋谷の新居は高き土地の木立多く、この日頃 朝毎に 二合三合の落粟拾はれ候に、京の北
山に栖(すみ)し幼な時代も追憶(しの)ばれ 後の蕎麦畑より宮益(みやます)の坂ゆく人、青山の家並(やなみ)など望まれて、里居と云うよりは山居の心地致し候。』 と書いています。

 詳細は「鉄幹・晶子結婚、新詩社隆盛」明治34年9月〜明治37年5月 (東京府豊多摩郡渋谷村 中渋谷382番地)をご覧下さい。(この箇所は、道玄坂からの案内をしてきましたが、2004.12.18.書き直しました)

 啄木は、胸も踊るばかりに、息せき切って、ここへ来たと思います。日記は

 『先づ晶子女子の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、八畳の一室 秋清うして庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつゝあり。

 談は昨日の小集より起りて漸く興に入り、感趣湧くが如し。かく対する時われは決して氏の世に容れられざる理なきを思へり。・・・』

 としています。余程、感激が強かったのでしょう、鉄幹を氏とし、与謝野家を「詩堂」、わが居所を「草堂」として、謙虚さが伝わります。

 鉄幹はこの時のことを、次のように書いています。
 『・・・東京へ来て私達の渋谷の宅を訪ねてくれた。其時の初対面の印象は、卒直て快活で、上品で、敏慧で、明るい所のある気質と共に、豊麗な額、莞爾として光る優しい眼、少し気を負うて揚げた左の肩、全体に楓爽とした風采の少年であつた。妻は今日でも「森鵬外先生と啄木さんの額の広く秀麗であることが其人の明敏を象徴してゐる」と云つて讃めるのである。・・・』(改造社刊「石川啄木全集」月報1)

 当時の渋谷は、なだらかな丘に畑や牧場があり、水田のほとりの小川には水車がまわり、NHKのあたりは武蔵野の林が連なっていたようです。啄木が「里路の屈曲多きを辿ることやゝ暫らく」と書いたように道玄坂も里路であったようです。この路を帰る啄木の胸には今後の活動の炎がたぎっていました。

 『四時また汽車にてかへる。弦月美しく夕の空に高う輝き 秋声幽にして天外雲空し。草堂に入れる頃は月色朧ろに目白の森地をてらして、我と自らしらぬ活動のちから胸にみちたる心地せり。』

 帰途は道玄坂に案内されたかも知れません。
現在、そこは別種の活気の坩堝です。

次へ

東京の市川啄木目次へ