田端文士村

 

堀辰雄下宿3回目

 東覚寺の近くに、堀辰雄が下宿したことがある(田端327番地)。
 堀辰雄は、田端では、3回下宿を変わっているが、ここは、田端に居住した最後の時期に当たる。芥川に心酔した堀は、芥川の死後、帝国大学の卒業論文「芥川龍之介」を執筆したが、そのために、この付近に下宿したといわれる(昭和2−3年頃)。
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堀辰雄略年譜

 明治37年麹町に生まれる。辰雄は嫡子であった。明治39年、本妻が上京することになり、母志気は辰雄を連れて堀家を去って、向島に移った。明治41年、母は、彫金師の上条松吉と再婚。

 大正6年、東京府立第三中学校(現両国高校)に入学。大正10年、第一高等学校入学。寄宿舎に入る。神西清を知る。

 大正12年(1923)5月、19才、東京府立第三中学校の校長 広瀬 雄の紹介で、広瀬の隣に住む室生犀星に合う。母志気の強い働きかけという。8月、犀星を頼って軽井沢に行く。9月関東大震災で、母を失う。

 大正12年10月関東大震災により、室生犀星が金沢に引き上げるとき、芥川龍之介に紹介される。

 大正13年4月、向島に家を新築、養父と住む。7月金沢に犀星を訪ねる。帰途、軽井沢に龍之介を訪ねる。

 大正14年4月、東京帝国大学文学部国文科入学、6月、軽井沢に部屋を借り、室生、芥川を追う。芥川と一緒にいることが多く、片山広子母娘と会う。芥川と広子(ペンネーム 松村みね子)、娘の総子と辰雄の関係が「聖家族」に凝縮する。

 大正14年(或いは13年)、田端142番地「大盛館」(1回目)に下宿、同じ年、上八幡神社前の「紅葉館」(2回目)に移る。9月には向島に養父と住む。

 最初、室生犀星に私淑したが、やがて、芥川により強く惹かれるようになったらしい。

原朔太郎下宿

 室生犀星と切っても切り離せないのが、萩原朔太郎である。道順から朔太郎の下宿していたところの紹介がが先になるが、東覚寺通りから堀辰雄の3回目下宿跡を過ぎて、谷田川通りへ出る道がある。

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 東覚寺通りから堀辰雄の3回目下宿跡
を過ぎて、谷田川通りへ出る道

写真の左手に萩原朔太郎の
下宿(田端311番地)があったらしい。

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同じ場所を谷田川通りから見る
右側に朔太郎の下宿

 朔太郎は大正14年4月、大井町からここへ転居してきた。室生犀星の強い誘いに乗ったらしい。

 NHK朝の連続ドラマで、主人公の萌が「竹の詩」に思いを託して、繰り返し詩の一部が出てくるので、いっぺんに朔太郎フアンが増えていると言うが、「月に吠える」を出版したのは大正7年だったから、それから7年後、貧困のどん底で、家族を連れてこの地に来たことになる。
 芥川は、朔太郎が田端に来たことが嬉しくて、佐藤春夫に『この頃田端に萩原朔太郎来たり、田端大いに詩的なり』と手紙を送っている。(新潮日本文学アルバム萩原朔太郎 P66)
 ここでは、純情小曲集を発表し、作中の「郷土望景詩」に芥川が感激して、起き抜けに朔太郎の部屋に飛び込んできた話が伝わる。

 朔太郎は、大正14年11月には、鎌倉へ引っ越している。慣れない東京住まいのため、妻の稲子の健康が悪化したためという。従って、ここには7ヶ月ほどの滞在であった。この間、一番年長の朔太郎、次ぎの犀星、一番年下の龍之介の三人が、それこそ持ち味を出し切って、熱い交流をしたことであったろう。

 谷田川通りに出たので、そのまま中里の方に進むと、田端駅裏口にあった「田端不動」がまつられている。

tabatafudou2.jpg (5572 バイト)  谷田川通りに移った田端不動 この道筋に、画家小杉未醒が住み、画家グループの交流が行われた。その中心的な場所であった「ポプラ倶楽部」は、すぐ裏側にあたる。
 一時、室生犀星も住んで、萩原朔太郎と頻繁に行き来した。田川水泡も住んだ。

 田端不動尊を過ぎて左手に、明治33年、田端に居住した小杉未醒(放庵)の家があった。最初は下宿であったが、明治40年155番地に、家を新築して、昭和20年まで住んだ。
 現地を探したが、あまりにも変わりすぎて、この辺であろうとの見当である。というのも、谷田川通りは、元、谷田川が流れていたところを暗渠にして道路にしたもので、この周辺一帯は低湿地であった。地形や景観の変化の激しいところで、一見の探訪者には、手に負いかねた。

小杉未醒(放庵)(田端163番地から155番地)

 画家。藍染川を前に、画学生の下宿があり、明治33年、21才の時、栃木県(日光)から転入した。明治37年、国木田独歩の「戦時画報」の従軍画家となったが、反戦色の画で貫き通した。独歩もそれを認め、明治39年には、独歩が仲人をして「相良愛」と結婚した。その費用は独歩が稿料で支払ったという。

 明治40年、田端155番地に家を新築した。大正に入って、横山大観の「日本美術院」再興に関わった。大正7年6月22日、芥川と知り合い、以後濃密な交流が続いた。 「日本美術院」での活動は性に合わず、新しい道を模索し、大正11年、「春陽会」を発足させた。

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室生犀星下宿(田端163番地 1回目)

saisei2.jpg (4334 バイト)  犀星は大正5年、田端に転居してきた。小杉未醒(放庵)と同じ、田端163番地にあった「沢田宅」である。親友吉田三郎の住む大盛館に近い所ということで住んだのではあるまいか。

 相変わらず、貧窮極まりないときで、27才。6月に、朔太郎と「感情」(詩誌)を創刊し、意気軒昂であった。

 室生犀星が上京したのは、明治43年、21才の時であった。13才で金沢地方裁判所の給仕になり、明治42年、白秋の「邪宗門」を知り、「叙情小曲集」の幾つかを詠んだ。10月、福井の三国新聞に就職したが、意見が合わず12月には退社。翌、明治43年2月、金沢の「石川新聞」に入社したが、これまた気風が合わず、3ヶ月で退社した。そして、文学を志しての風呂敷包み一つの上京であった。同郷の友人、田辺孝次、吉田三郎、幸崎伊次郎が新橋に出迎えた。最初は、本郷団子坂に寄寓し、借金の工面に奔走する生活が続いた。この間、本郷、小石川を転々とするが、吉田三郎の援助は手厚く、「電車賃」と称して「生活費」を吉田が下宿のおばさんに借金して工面するほどであった。

 大正の初めには、白秋、牧水、朔太郎との交流が開始され、金沢と東京との往復が続いた。そして、大正5年、ここに転居して来て、田端時代が始まる。

 大正6年(1917)12月、日夏耿之介の「転身の頌の会」で、芥川龍之介と出会う。以後、芥川との何につけても尊敬と反発の交流が開始される。

 【みかん箱の本箱
 大正7年、「愛の詩集」を出版した。7月に谷崎潤一郎と佐藤春夫が連れ立ってここを訪れているが、その時、室生犀星はみかん箱を重ねて本箱にしていたという。

 大正8年、田端571番地(西台通りとJR線路の間 第2回目)に転居した。大正10年、現滝野川1中の近く(第3回目)に越すが、ここでようやく生活は安定したようだ。

 谷田川通りを少し戻って、東覚寺通りに出る間に、「大盛館」という下宿があった。

吉田三郎下宿(大盛館)

taiseikann2.jpg (4576 バイト)  明治の頃の地図の上で「大盛館」のあった辺り。ここに、吉田三郎が下宿していた。吉田は彫刻家で、明治22年金沢に生まれている。代々建築業の家。欄間の彫りができるようにと、東京美術学校木彫科に入学したという。北村西望と同級生。
 明治40年、ここに(田端142番地「大盛館」)下宿した。金沢工業学校時代に教わった板谷波山を慕っての田端転居で、以後、一生を過ごしている。

 吉田は、波山が金沢工業学校の彫刻科の教師であったころの生徒であった。また、広瀬 雄(芥川の師)、中野重治、窪川鶴次郎などは皆、金沢の出身者である。こうした田端グループの形成が面白い。

 特に、同郷の室生犀星が、風呂敷包み一つで、金沢から上京した時、新橋まで出迎えたのが吉田で、その後、何かと面倒をみ、犀星が本郷に住んだときには、生活費まで工面したという。もし、吉田がいなかったら、田端と室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄の関係は別のものになっていたかも知れない。

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 東覚寺通りへ戻って、注意していないと行き過ぎてしまうような、現、田端3丁目19番地の小径を入ると、ポプラ坂である。写真左の鉄筋コンクリートの建物の横を入る。写真右はその正面に立ったところ。

ポプラ坂

popurazaka2.jpg (4890 バイト)  画家の仲間達が自分たちの手で、交流の場=クラブをつくった。それがこの道に接するところにあって、テニスコートやクラブハウスを設けた。そこにポプラの木が植えられていたので、坂も「ポプラ坂」と呼ばれたと言う。

 ポプラ坂は、現在も細い。当時は「美しいうす緑色の敷石が二列になって坂の中央にしかれていた。『・・・せまくて(驢馬の)同人たちは肩をならべては降りられなかったであろう・・・』と近藤富枝(田端文士村 中公文庫P220)はいう。
 

窪川鶴次郎下宿 「驢馬」を編集

 
写真の中央右側に窪川鶴次郎と宮本喜久雄の下宿があった。6畳の間を2人で借りたという。ここに、中野重治、平木二六、西沢隆二(ぬやまひろし)、堀辰雄など、皆20才前半の若者が加わって、同人雑誌「驢馬」の編集が行われた。詩を中心としたが、俳句には、芥川、久保田万太郎、室生犀星、萩原朔太郎、佐藤惣之介、下島勲など「まさに田端人総出演の図」(近藤富枝 田端文士村 中公文庫P222)であった。

 坂の中腹で、外からの出入りに自由が利き、同人はここで、雑誌「驢馬」を編集した。大正14年のことである。資金は犀星が出し、下島勲が題字を書いた。同人はこの坂を上り、板谷波山の横を通って、犀星の家へ通った。いずれも、犀星の弟子であった。
 刊行記念パーティが、坂からまっすぐ下がってぶつかる、不忍通りの「クラブ紅緑」で行われた。そこに働いていたのが田島稲子だった。彼女はそれが縁で、作品を寄稿することになり、作家佐多稲子として出発した。稲子を射止めたのが窪川鶴次郎だった。

 窪川鶴次郎の下宿をさらに坂をあがると、板谷波山の窯と住宅があった。

板谷波山旧居

 陶芸家。田端文士村の元祖と言える。明治5年、茨城県下館に生まれ、明治27年東京美術学校彫刻科卒業。明治29年、金沢工業学校彫刻科主任。明治36年、31才、陶芸で自立を決意して上京。11月3日、田端512番地にバラックを建てた。

 窯を築く費用がなく、内職で稼いではレンガを買い足して、完成までに、1年3ヶ月かかったという。生活の足しに、花見用の徳利と猪口を「烏山」で売ったりした。

 昭和4年帝国美術院会員、昭和28年、文化勲章受章。作品は出光美術館所蔵。

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 波山のもとに、香取秀真、吉田三郎が来て、彫刻・彫金グループがまとまった。小杉未醒を初めとする画家グループ、芥川、室生、堀、萩原朔太郎などの一連の文士グループ、がともに交流して、彫刻・彫金、画家、文士による芸術家村の独特の空気が生まれた。道筋は変わっているだろうが、写真手前は下り坂になっていて、芥川や香取が住んでいた方が見える。確かに、波山が夫婦喧嘩をして、家を飛び出す風景が香取の家から見えた事が実感できる。

 さて、これらのグループの交流を促進し、下支えの重要な役割を果たしたのが、鹿島龍蔵であった。(鹿島建設重役 芸術村の実質的パトロン。「道閑会」を主催) 深い関心と素養に裏打ちされた身銭を切っての文化支援である。
 波山の家と道をはさんで前にポプラ倶楽部があった。今は田端保育園になっている。

ポプラ倶楽部跡

popurakurabu2.jpg (4404 バイト)  田端に先住した画家達は、当然、文士とは違った行動をする。陽気な議論、飲めや歌えの中での交流である。 そうした仲間が、自分たちでつくったのが、このクラブである。明治41年頃、小杉未醒が中心になって、太平洋画会(山本鼎、森田恒友など)の面々が集まったという。
 テニスコートも自分たちでローラを引き、小さなクラブハウスを建てた。ポプラが植えられていたので、この名が付いた。
 文士の卵がアルバイトをしたり、関東大震災の時は避難所になった。

 ポプラ倶楽部の北側に、新設されつつある広い道路がある。大正の頃は、この道路は細い道で、芥川龍之介の住むところにも続いていたことが地図でわかる。多分、その道を、犀星も龍之介も歩いて、訪問し合ったのだろう。ここだけ広い道路の斜め前は、滝野川第一小学校で、そこから左に目を向け、最初の路地を入ったところが広瀬 雄、室生犀星の旧居である。

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ポプラ坂を上がりきって、滝野川第一小学校の左に目をやると
道が二つに分かれて、斜めの方にはいると室生犀星や広瀬 雄旧居がある。

広瀬 雄旧居

hirosetaku2.jpg (4589 バイト)  明治7年生まれ。金沢の出身。芥川の府立三中時代に学級主任として芥川の才能を発見した。芥川には英語を教え、作文を見、原書の文学書を貸したりして、目を開いた。
 共に旅行に出かけ、芥川の信頼が厚かった。後に校長になった。小石川に住んでいたが、芥川が斡旋して田端に住んだ。芥川の田端移住と近い時期と言われる。

 やがて隣家に、室生犀星が引っ越してきて、隣り合わせとなり、犀星との交流も深く、堀辰雄を犀星に最初に紹介した。

室生犀星旧居(田端523番地3回目と6回目)

 犀星の転居好きは有名であるが、大正10年、田端571番地から転居してきた。生活が安定し始めた頃である。敷地50坪ほどで、8畳、6畳、納戸(3畳)玄関で、家賃50円という。庭いじりが好きで、暮笛庵(6畳の離れ)を建てた。犀星はこの家をことのほか好んだらしい。特に、庭と暮笛庵が気に入っていたようだ。文学作品が急増するのもこの時期である。

 隣が同郷の広瀬 雄の家である。広瀬を通じて、堀 辰雄の母から辰雄の文学上の指導を依頼される。
 大正12年の関東大震災まで過ごしたが、混乱時に一時、金沢に帰った。 

 面白いのは、金沢に帰るとき、芥川に、堀辰雄の指導を依頼し、芥川と堀との出会いをつくったことと、留守宅を、芥川の仲介で、菊池寛に貸したことである。
 菊池寛は、当時、駒込に住んでいたが、大家さんが震災で戻ってくることを理由に、立ち退きを迫られていて、芥川が見かねてここ斡旋した。菊池は、震災で焼けた「文芸春秋」の再刊に駆け回ったが、手狭なため、2ヶ月で雑司ヶ谷に移った。後には、酒井真人が住んだ。

 (後に、菊池寛は芥川の弔辞を読むほど、芥川と親交を結んだし、昭和10年には、友の名を付けて、新進作家の登竜門ともいえる「芥川賞」を設けている)

 室生犀星は、帰京して、庭や暮笛庵がある旧宅に戻りたかったが、酒井が住んでいるので、この間、田端613番地に転入(4回目)、608番地に転居(5回目)等をして、大正14年4月、気に入っていたもとの田端523番地に戻った。

 大正14年は、萩原朔太郎が田端311番地に転居してきた年であり、スランプの犀星(36)と登り調子の朔太郎(39)、皮肉な龍之介(33)の三者三様の友情が展開するときであった。

 だが、11月には、朔太郎は夫人稲子の病気療養のため鎌倉へ移り、1年後には馬込へ転居した。芥川の死にショックを受けた犀星は、軽井沢、金沢と点々として移り、昭和3年7月、「田端を引き払うこととせり」として、無二の親友である、朔太郎のいるところえと、朔太郎の妻に借家の斡旋を頼み、11月、馬込へ転居した。こうして、三者の田端時代は過ぎ、新しい世界へと転換した。

 田端523番地の犀星の家から戻って右折してまっすぐ進むと、上田端八幡神社に出る。

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上田端八幡神社

 祭神は誉田別命、創建年代未詳。
伝承は下田端八幡神社と同じ。

上八幡の坂

堀辰雄が室生犀星のもとに通った道
左が上八幡神社

堀辰雄下宿跡 紅葉館(2回目)

momijikann2.jpg (4087 バイト)  大正14年、堀辰雄は、上八幡神社前の「紅葉館」に、下宿した。3月に第一高等学校を卒業、4月、東京帝国大学文学部国文学科入学の年である。いわば、堀辰雄文学の誕生した年、その土壌ができた年に当たる。
 田端に住む、室生犀星や萩原朔太郎と頻繁に交流し、中野重治、平木二六、窪川鶴次郎などと知り合い、同人雑誌「驢馬」の編集に関わる。
 この年、7月から9月まで、軽井沢に滞在し、室生、芥川と交流。「聖家族」のデッサンができたらしい。この間に、「紅葉館」に下宿したのであろう。いずれにせよ、堀フアンにとっては記念すべき場である。

 上田端八幡神社の隣が大龍寺である。

大龍寺

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 和光山興源院大龍寺。真言律宗。本尊大日如来。
安置仏に不動明王があって、かっての寺の本尊だったという説もある。
門の左手に「正岡子規の墓」の標識がある。

 大師堂は「鯖大師」といわれて有名だったという。慶長年中創立された不動院浄仙寺が荒廃していたのを、天明年間になって湯島霊雲寺光海の高足光顕が中興して大龍寺と改称した。(新修北区史)

 瀧井孝作「無限抱擁」では、赤札仁王とあわせて、松子の母親が松子の病気回復を願ってお百度参りをしている。 ここには、正岡子規や板谷波山の墓がある。

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  板谷波山の墓       正岡子規の墓(中央)
夫婦墓になっている     右 母の墓 左端 墓誌

 【正岡子規の墓誌】

 正岡子規の墓誌は名高い。
 『正岡常規マタノ名ハ処之助マタノ名ハ升マタノ名ハ子規マタノ名ハ獺祭書屋主人マタノ名ハ竹ノ里人。伊予松山ニ生レ東京根岸ニ住ス。父隼太松山藩御馬廻加番タリ。卒ス。母大原氏ニ養ハル。日本新聞社員タリ。明治三十□年□月□日没ス享年三十□。月給四十円。』

 とある。明治31年7月、子規が知人にあてた手紙の中に書いたもの。
 獺祭書屋主人
(だったいしょおくあるじ)=書物を散らかして足の踏み場もないさまを表したもの。
 竹ノ里人は雅号、根岸が竹の根岸と呼ばれていたことによる。ここだけ、竹に覆われていて、微笑ましい。

 なお、子規と田端との関係は、香取秀真が根岸の子規庵を訪ねたのを機会に、毎月短歌会(根岸短歌会)を開いたことに見られる。

 八幡坂をJR田端駅方面に戻ると、跡形もないが、室生犀星が関東大震災後、他人に貸した田端523番地の家が空くまで住んでいた所に出る。

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室生犀星は田端523番地の家が気に入っていたが、関東大震災後
他人に貸したため、暫く近くに仮住まいした。

  写真の中央の道は、西台通りにつながり、そこには鹿島龍蔵の屋敷があった。
今は商店街になっている。

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写真中央右側奥に鹿島龍蔵の屋敷があった。

 田端文士村の開祖ともいえる、芥川龍之介は、豊島区巣鴨5丁目の慈眼寺に眠っている。
 
 慈眼寺

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 日蓮宗。もと深川本村町にあった。明治45年移転してきた。写真の左側に墓地があり、芥川龍之介、谷崎潤一郎(分骨墓)、斉藤鶴磯などの墓がある。いずれも標識が整備されていて、直ぐわかる。
 芥川龍之介の養父の里が深川で、芥川は幼児期を深川大川縁で過ごしている。
 両国高校(大川の水)、両国小学校(杜子春)に文学碑がある。

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芥川龍之介の墓
生前自分が設計し、座布団をかたどったと言われる。
文字はデスマスクを描いた小穴隆一画伯による。

 以上拙いご案内をしました。
1999年6月7日(日)東大和市図書館友の会の皆さんを、現地にご案内した時の資料に、写真を加え一部書き足しました。

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