武蔵野の草は・・・

(万葉集 東歌 14−3377

                        武蔵野の草は諸向(もろむ)き かもかくも
                                         君がまにまに 吾(あ)は 寄りにしも

武蔵野の草が、あちらへもこちらへも
それぞれになびくように
あなたのお心のままに 私は寄り添いましたのに・・・。

 東京都府中市の大国魂神社けやき通りの一隅にこの歌碑があります。すぐ隣に「歌碑に寄せて」の解説板があり、次のように書かれています。

 『この歌は万葉集巻十四東歌の武蔵国の一首です。武蔵の国は東京、埼玉、神奈川にわたる大国であり、その国府が府中にありました。訓読では次のようになります。

 武蔵野の草(くさ)は諸向(もろむ)き かもかくも
 君がまにまに 吾(あ)は 寄(よ)りにしも

 「草が風に靡(なび)くよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌で、自然と共に生きた女心を歌ったものです。碑文は万葉集古写本中、全巻を完備している西本願寺本に拠りました。

          平成十一年十二月吉日                                               府中市』

 大国魂神社本殿から北(甲州街道方面)に向かうと大鳥居(左側画像)があります。それをくぐると大いちょうの通りに入りますが、旧甲州街道を挟んで向かって左側(進入禁止の表示の左)に碑が建てられています。建てられて間もなくこの歌碑を発見しましたが、その時は、『ついに、この歌にも碑がつくられたか』と大喜びでした。

 しかし、同時に『何故この歌がここに?!』と、いささかお門違いを感じました。この歌は武蔵野の農民の生活歌で、思いを寄せる男に対する女性の感情を素直に歌い上げたものだろう。歌の生まれた場所は

 @武蔵野の原と丘陵の接するところ
 A同じように原と川原の接するところ

 草々が追分けの風にあちことと靡くような広大な原野を前に、丘陵の麓や水場に生活の基盤を置く村が成立していて、そこに住む村人達のよんだ歌だろう、と思い込んでいたからでした。ところが歌碑のある場所はまさに武蔵の国府と総社が関わるところです。

  武蔵国府跡は府中市が現在、発掘を続けていますが、概ね大国魂神社に接する東側で、黒線は発掘の結果明らかにされた国府(国衙)の区画を画する溝とされます。先に紹介した鳥居のある画像は溝の左に書き込んだ鳥居の位置に当たります。

送り歌、餞別の歌?

 府中市がこの位置に歌碑を設けたのは、それだけの仕掛けがあるように思えます。そこで、思いついたのが、国府で行われた送別の酒宴での送り歌、餞別の歌の武蔵野版かなと云うことです。この種の歌に、東歌では14−3457で知られる

 うち日さす 宮のわが背は 倭女(やまとめ)の膝枕(ひざまく)ごとに 吾(あ)を忘らすな(14−3457)
 (国府から都に帰任した貴方は 大和女の膝を枕になさるのでしょうが 私を忘れないで欲しい)

があります。どこの国府か或いは一級下の地方官衙の出来事かは不明ですが、赴任された国府から都に帰任する役人について、思いを歌っています。これを武蔵国府(国衙)から帰任する官人に当てはめれば、こっちの方が似合いだろうと長い間思っていました。

 何となくプロの遊び女(め)の媚態めいたものさえ感じられるところから、大国魂神社の参道前では憚ったのかなとの勘ぐりもしました。

 ところが、2003年5月、播磨に旅する機会があり、その折り、播磨娘子(はりまのおとめ)の話(万葉集巻9ー1777番)を知りました。大混雑の姫路城から抜け出して、播磨国府跡に関係すると考えられる射楯兵主(いたてひょうず)神社(播磨国総社)付近(姫路郵便局)へ行って、それらしきところに立った時、武蔵のあの歌は送り歌だなと合点しました。 

左 姫路郵便局 中央の森が射楯兵主(いたてひょうず)神社(播磨国総社)
 郵便局の敷地内から官衙跡(国衙、郡衙)と考えられる遺跡が発見されている。
右 射楯兵主(いたてひょうず)神社(播磨国総社)の楼門

 播磨娘子(はりまのおとめ)の歌は
 君なくは なぞ身装はむ 櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛も 取らむとも思はず9ー1777)
(貴方が居られないのに、どうして我が身を装いましょう。大切な櫛箱に入った黄楊の櫛を取り出そうと
も思いません)
 です。石川大夫(まえつきみ)の任を遷(うつ)さえて京(みやこ)に上がりし時に播磨娘子(はりまのおとめ)
の贈れる歌とことわり書きのある二首の内の一首です。ことわり書きがなかったら、ごく普通の人が交わ
した歌ともとれます。
 播磨娘子は郡司階級の娘であったかも知れません。「櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛」に石川大夫
との間にあったであろうさまざまな出来事の経過が織り込められているようです。また、武蔵とは違った
文化のたたずまいを感じます。
 この種の歌には、常陸娘子(ひたちのおとめ)の歌もあります。
 庭に立つ麻手(あさて)刈り干し 布さらす 東女(あずまおみな)を忘れたまふな(4ー521)
(庭先の麻を刈り干し、布にして晒す東国の女ですが、お忘れ下さいますな)
 です。藤原宇合(ふじはらのうまかい)が常陸国守を離任して帰京するときによまれたこと、名前こそ明確
ではありませんが、常陸娘子を名乗っています。国守クラスの離任の際、その地域で名のある女性が送り
歌をよむのは一種の儀式であったことがわかります。播磨と常陸、東西に離れ、距離がありますが、送別
の酒宴で、送り歌、餞別の歌をよむのは国府行事のしきたりであったように理解できます。上総国にも同
種の歌がありますが、長くなるので割愛します。
 こうしてみると、府中市の国府跡近くに建てられた歌碑は、国府から遠く離れたところで、武蔵の名の
ない女性が、何時とは知れずに詠んだ歌であったかも知れませんが、茫洋とした原に風がさまざまな方向
に吹き流れ、その度に草の葉をそよがせる武蔵野の姿とともに、国府の酒宴の席で去りゆく人に思いを込
めてうたった情景を浮かび上がらせます。
 府中市の仕掛けは成功したのかも知れません。
時にはとんだ騒動も 

 国府ではとんだ騒動も起こります。何としても面白いのが家持の作品でしょう。家持は天平21年(749)5月、謹
厳な顔をしかめながら、史生(ししょう=記録の仕事に従事する下級役人)の尾張少咋(おわりのおくひ)を諭します。少咋は奈良に妻を置いて、越中国府に単身赴任したこともあってか、遊女「左夫流児(さぶるこ)」にうつつを抜かしているのでした。

 家持の史生(ししょう)尾張小咋(おくひ)を教え諭す歌(天平21年(749)5月15日)

  あおによし奈良にある妹が 高々に 
     待つらむ心 然(しか)にはあらじか  18−4107

  (奈良にいるお前の妻は心待ちに待ちわびている。その心根は本物だろう。それをお前はどうするのか。)

  里人の 見る目恥ずかし 左夫流児(さぶるこ)
     さどはす君が 宮出後姿(みやでしりぶり) 18−4108

  (里人の見る目も恥ずかしいではないか。
   左夫流児に惑わされて 遊び女の家から出勤するお前の後ろ姿は)

  杉本苑子氏はぐっとくだけて
 『まったく、近所の人の手前恥ずかしいったらありゃしない。商売女などに迷って・・・。官服いかめしく、威儀づくろって出仕してゆくけど、後ろ姿を見るとこっけいだわ。遊女屋からご出勤の官吏さまですものね』
 と訳されています。(光文社文庫 私の万葉集 p194) 

  紅(くれない)は うつろうものそ 橡(つるばみ)
     なれにし衣(きぬ)に なほ及(し)かめやも 18−4109

  (美しい紅色は褪せやすいもの 橡染め(つるばみぞめ=黒っぽい)の
   着慣れた着物(=連れ添った妻)に、なんといっても及ぶものではあるまいものを)

 ここまではともかく、やがて、この噂を聞きつけたのか、奈良から血相を変えて少咋(おくひ)の妻が早馬に乗って駆
けつけてきます。

 国府の里は大騒ぎ

 先の妻(さきのめ)、夫君(せのきみ)の喚使(つかひ)を待たずして自ら来(きた)る時に作る歌一首(5月17日)                
  左夫流児が斎(いつ)きし殿に 鈴掛けぬ
     駅馬(はゆま)下れり 里もとどろに 18−4110

 (左夫流児の大事な家に 駅鈴を付けていない(私用のため)
  駅馬が蹄(ひづめ)をとどろかせるように 奈良から下ってきた。里中は大騒ぎになった)

 当時、国道は国家管理で、役人は駅鈴を付けた馬に乗って通行しました。小咋(おくひ)の奥さんは、そんなことは
構っていられず、主人がうつつを抜かし、朝帰りする
左夫流児の家へ、直接駆けつけます。鈴の音の代わりに蹄
(ひづめ)
の音が「どとうのように」響き渡り、国府の里は大騒ぎになったぞ、との歌です。

 家持のユーモアが最高に利く作品でしょう。現代でも通じる出来事ですが、家持が歌うとまた別の味がにじみ出
ます。遙か古代の国府に起きた話なのに、単身赴任、現地妻、浮気・・・何でもありです。

武蔵では?

 さて、都から赴任し、帰任する時には遊び女や現地妻が別れの歌を餞別に送る、また、浮気に気付いた奥さん
は里もとどろに抗議する・・・、今回は省略しましたが、郡司クラスの妻が餞別歌を贈る・・・など、国府の持ってい
る一つの世界が万葉集から伺えます。武蔵では実際にどうだったのでしょう。

 これらの事がわかるように、一刻も早く発掘が進んで全体像を知りたいものです。

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