弥生時代
(稲作の時代)

魏志倭人伝の世界(吉野ヶ里)、358本の銅剣を発見(荒神谷)
“出雲”で 銅鐸 39個(加茂岩倉)、宮廷・物見台・・・
次々に新しい発見が続き
女王卑弥呼、邪馬台国探しがブーム。 
 
稲作、銅・鉄、面長人
環壕集落、首を切られた弥生戦士

それぞれのルーツや戦争の起源が
話題に上がります。

みんな「弥生時代」の出来事です。

 その「やよい」の出所は 
文京区・本郷・弥生町 
狭山丘陵とは、直線で、わずか30キロ

ところが、狭山丘陵の麓では、ごく一部を除き、ほとんど動きがわかりません。
一体、どうしたのでしょう??

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さてさて、困った、狭山丘陵周辺には遺跡が少ない

 たいていの歴史の教科書では、縄文時代の次には、弥生時代、その次には古墳時代、そして、奈良・平安時代と続くようになっています。年表もそうです。 
 米つくりが始まり、青銅や鉄器をつくる技術を持った人々が、集落をつくって定住を始めた。それらが継続して、やがて、古墳時代、歴史時代を形成する。とされます。

 ところが、狭山丘陵の周辺では、縄文時代の終わり頃から、奈良・平安時代までの間、人が住んだ気配が薄くなります。確かに、幾つかの遺跡が見受けられます。ところが、例えば、九州や、近畿など西日本のように、地域全体が、“画期”とも表現されるような、はっきりと区切りをつけて新しい時代に入ったとするものが、見受けられません。

 どうやら、空白期がありそうです。現在までに発見されている貴重な遺跡は、むしろ、その空白の時間と時期がずれていることを、率直に語るようです。

 現在のところ、狭山丘陵の周辺で、弥生時代の遺跡と考えられるのは、次の通りです。

  吉祥山遺跡(武蔵村山市)
  後ヶ谷戸遺跡(武蔵村山市)
  狭山遺跡B(瑞穂町 溝状遺構 集落の水路か?)
  日向遺跡(所沢市 三ヶ島 住居址13軒)
  宮前遺跡(所沢市 北野 方形周溝墓3基)
  馬先遺跡(所沢市 北野 住居址5軒)
     台遺跡(所沢市 堀之内 住居址2軒 古墳時代に連なる)
  東の上遺跡(あずまのうえ)(所沢市 久米 住居址13軒)
  下宿内山遺跡(したじゅくうちやま)、野塩前遺跡、下里本邑(しもざとほんむら)遺跡(清瀬市)
  
(所沢市の遺跡の住居址の数は、所沢市史 原始・古代史料によります。発刊後、さらに調査が続き、遺跡数が増加しているため、現在の数とは違う場合があります。)

 武蔵村山市、瑞穂町、所沢市、清瀬市などに遺跡が見られますが、周辺の東村山市、東大和市、入間市などでは、候補地を予測をしていますが、現実に、発掘までには至っていないようです。


丘陵の麓の遺跡は紀元前後のもの

 一般的に、弥生時代は、紀元前3世紀から、紀元後3〜4世紀にかけての、600年位の間を指します。そして、おおまかに3つに分けて、前期、中期、後期とします。

 前期 紀元前3〜前2世紀
 中期 紀元前1〜後1世紀
 後期 紀元後2〜後3世紀

 この分類によるとして、狭山丘陵周辺の遺跡は、発見された土器から判断して、この中の中期から後期に位置づけられています。

 九州や近畿では、卑弥呼に象徴されるように、すでに大きな村ができて、リーダがいて、近隣や外国との交流をし、一方で、利害の反する部族とは戦をしていた頃、狭山丘陵周辺では、小さな川のふちに、3−4軒から10数軒の家ができるといった状況です。

 弥生文化は、最初、朝鮮半島を経由して、北九州に入った。そこから次第に拡がって、関東地方へ流入した。その時期は「中期」の頃だ。といわれています。
 わが狭山丘陵周辺は、さらに遅れ、大河川下流域や低地に大集落ができた後に、その一部が、枝分かれした小河川を遡って、丘陵周辺にたどりついたという印象さえします。遺跡が小規模であることと、稲作の水田の立地からの判断です。

 もちろん、埼玉県北部の美里町や岡部町で、前期に属する土器が発見されているようですし、中期になって、長野県や群馬県に発見されるのと同じ傾向の土器(櫛描文(くしがきもん)土器)が発掘されているので、当然、違ったルートも考えられます。

ここが面白い     

 それにしても、なぜ、狭山丘陵周辺には、当時の遺跡が少ないのでしょう。米作りにぴったりの場所がなかった。いや、縄文の文化の方が強かった。などと説明されます。でも、水田がだめなら、陸稲があるではないか、あれだけ栄えた縄文人の末裔はどこへ行ったのか・・・等とかえって疑問が加わります。

 答えを出すのは、簡単には行きそうもありませんが、じっくり考えると、これはまた、突拍子もなく面白そうです。
 だって、稲のルーツ、雑穀の利用の時期、畑作の環境と自然条件、朝鮮半島と日本の関係、北九州や近畿地方と関東、東海地方との関係、土器や習俗の流れ、東北地方の弥生と縄文、古墳の発生の問題など、どれも、いま考古学会や歴史学会でもっぱら議論されていることが、みんなつながってくるじゃありませんか。

 ですから、逆に、ハデハデでないだけに、逆も真なりで、少ない遺跡を追っていると、違った面白さがありそうです。これからの全体が見えてきそうです。さっそく、弥生の実態探しに出かけましょう。
その前に、弥生文化というものの、伝播について、ちょっと整理をしておきたいと思います。


弥生文化の伝播

 1万年にわたる、長い縄文時代の最後に、稲作りの技術と、それに伴う、従来とは違った生活様式を持つ人々が、日本にやって来た。やがて、定着して、日本の各地に広まった。紀元前300年ぐらい。そのルートは、朝鮮半島を経て、北九州へたどりつく道だった。

 その前から、すでに、縄文文化の中に、稲作に転化する要因が育っていた。そこへ外来の弥生文化が来て、両方が一緒になった。

 もともと、海を渡ってきた文化だけに、陸路だけでなく、舟による伝播のルートもあった。だから、東北地方には、少数であったかも知れないが、船で日本海側から、予想を上回る速さで伝播した。


 南関東へは、ゆっくりやってきた

 狭山丘陵の位置する、南関東への伝播には、いろいろ考えがありますが、ある討論を紹介します。

下条信行
 『瀬戸内の例でいいますと、おそらくリレー方式といいますか、バトンタッチするような形で少しずつゆっくり伝わっていったのではないかと考えられます。一気呵成に、猛スピードで伝わっていったわけではありません。』

広瀬和雄
 『水田稲作とその文化は、北部九州から伊勢湾沿岸まで急速に伝播したと、今までいわれてきましたが、実態はけっしてそうではなく、弥生文化的なものは、西から東へ少しずつ変化しながらリレー式に伝播していったというわけですね。』

藤田憲司
 『稲作情報が、少しずつゆっくり、間接的であれ、縄紋の集落に入ってきた・・・。その稲作情報によって沖積地への移動を促されたのではないか・・・』
 (角川選書 弥生文化の成立 討論 P205〜210)

 ということで、南関東地方には、従前の縄文文化が根強かったこともあってか、200年ほど経って定着した。

  という説が今のところ、支持者が多いようです。

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 1999年8月7日、朝日新聞夕刊は、こんな見出しで 

 『日本人は在来系の縄文タイプと、渡来系の弥生タイプに分かれるといわれるが、縄文系の男性は精子の数が少なく、無精子症になる確立も高いことが、厚生省の研究班の調査でわかった。・・・縄文系の男性は環境ホルモンに弱く、子孫を残す能力が弥生系のタイプの男性より劣っている可能性が出てきた。』 
と伝えています。

 縄文と弥生が現代に引きずっている問題を、笑い話としては済ませない事柄と受け止めました。


一体、弥生時代とは

 実態探しの前に、もう一つ、原則的なことの整理が必要のようです。一体、弥生時代とはどんな時代だったのか? ということです。ごくごく普通に考えれば、

 稲作の始まり→灌漑と統率→リーダーと農民の分化、他部族との戦争
 銅や鉄の金属器の利用
 新しい土器(弥生土器)や多種類の木器の利用
 機織り
 定着による集落の形成 環壕集落 
 新しい葬送の方法 再葬墓 方形周溝墓 祭祀 巫女
 
などがあげられます。

 米作りという技術革新をして、薄焼きの土器や青銅器・鉄器、さまざまな木製の道具を使って、柱でしっかり支えられた屋根つきの家に住んだ。かまどや甑(こしき)で調理をした。食物を生産する場所、定着する集落を構成した。

 水田に欠かせない灌漑や、生育期間の食糧確保、分配などから、リーダーが現れ、家族をまとめたような部族的な構成ができた。集落の周囲を、防御施設で囲ったり、溝を掘ったりして、または、高いところに守りの設備を施した集落をつくるなど、独特の村づくりをすすめた。
 土地争い、水争いなど他部族との抗争・戦争があり、首のない幼児や骨まで槍の突き刺さった戦士を葬った墓が見つかっている。

 部族の長や村長(長老)、貝で作った腕輪や首飾りなど飾りを沢山身につけた女性(巫女)と思われる存在があって、死者を一回埋めた後で、再度、骨を葬り直したり(再葬墓)、まわりに溝を掘って、真ん中に葬る(方形周溝墓)など、新しい葬送の方法が見られる。

 こんな風に、整理しておきます。これらが、狭山丘陵周辺では、どのような姿であったのかの、宝探しです。


区部に大集落、多摩地方には?

 いよいよ本題です。弥生時代後期にはいると、区部に大集落ができてきます。多摩川下流域の沖積地では、大田区の「久ケ原遺跡・山王遺跡」、世田谷区の「動ヶ谷戸遺跡・下山遺跡」、その他、中野区の「新井三丁目遺跡」、北区の「飛鳥山遺跡・御殿前遺跡・八幡原遺跡」、板橋区の「成増一丁目遺跡・四葉遺跡」・・・などです。

 多摩地区では、青梅市、日野市、八王子市、町田市などで見られますが、狭山丘陵周辺では、先に紹介したものが中心になります。

 そこで、これらの遺跡を地図に置いて、その連なりを見ると、こんなルートが浮かんできます。「青梅市史」が手際よくまとめていますので、それを紹介します。

@荒川、多摩川ルート

『・・・宮ノ台式土器をもった人々は、積極的に分布圏の拡大を図った。その経路は東京湾岸を北に進み荒川流域を溯って川越市域からさらに坂戸市域に達している。その痕跡は荒川の南に並行して武蔵野台地の北縁を流れる新河岸川流域や、小畔川流域などの小河川に沿って点々と小規模な遺跡となって分布している。その一つが、・・・朝霞市・台の城山遺跡や川越市・霞ケ関遺跡などである。

 (青梅市の)馬場遺跡はまさにこの分布域の西端にあたり、水田に適した地域を求めて荒川流域を溯った人人によって作られた集落と考えてよいであろう。』

 『弥生時代後期でも中頃から後半にかけて、遺跡は急増し、とくに中期末葉から後期初頭に根を下ろした地域では大きな集落へと発展していった。たとえば、多摩川下流域では大田区・久ケ原遺跡、山王遺跡、世田谷区・堂ケ谷戸遺跡といった大規模な遺跡が形成されてくるが、ここで注目すべき点は、後の古墳時代に一大勢力を生む基礎が築かれたということである。

 同じように比較的古い段階から人々が居をかまえた荒川に面した台地部や、その支流の下流域でも、板橋区・四葉地区遺跡群、練馬区・外郭環状道路練馬地区遺跡群、朝霞市・台の城山遺跡、泉水山遺跡、川越市・霞ケ関遺跡などにみられるように集落は大きく拡大している。

 同時に、各支流の上流部でも遺跡の密度は確実に増してゆく傾向がみられる、近隣では狭山丘陵周辺の所沢市・東の上遺跡、武蔵村山市・吉祥山遺跡、清瀬市・下里本邑遺跡などで、いずれも荒川の支流である柳瀬川や黒目川の上流部に営まれた集落である。

 八王子盆地にもこのころから集落が形成されはじめ、浅川の支流を中心に山王林遺跡、宇津木向原遺跡、鞍骨山(くらぼねやま)遺跡、神谷原(かみやはら)遺跡といった著名な遺跡が知られるようになる。』

A中部山岳ルート 
 『一方で、同じ時期に中部山岳ルートをたどった結果、北関東や佐久地方で発達した土器が秩父市・藪(やぶ)遺跡(埼玉考古学会『埼玉県土器集成4』。一九七六)や町田市・椙山(すぎやま)神社北遺跡(椙山神社北遺跡調査会『椙山神社北遺跡』・一九八一)でも見つかっており、多摩地方の西端がこのルートの影響をも受けていたことも明らかになっている。』
 (以上、青梅市史 上 P146〜167)


多摩地方が文化の回廊的役割?

 さらに、ほっとするような表現で、国立市史はこの現象をこんな風に記します。

『・・・これらの土器は、東海地方の水神平系の土器であり、関東地方に波及した初期弥生文化が、東海地方からの影響を受けた証拠として意義を有するものである。

 一方、岳の上遺跡や前田耕地遺跡の土器には、北関東の影響を強く表出しているとの意見もあり、本地域の弥生文化成立期における流入経路の複雑さを示している。弥生中期の再葬墓が関東山地の東麗に多くみられることや、東海系・北関東系土器が混在する様相から、この地域が文化の回廊的役割を担ったという指摘もある。』 
 (国立市史 上巻 P656)

 二つの市史も述べるように、弥生の人は、関東山地からの道筋と合わせて、川とその沖積池に関係を深くもっています。そこで、この条件を、狭山丘陵付近に限定して当てはめてみると、多摩川からの直接の支流は少なくて、荒川系の支流が多くあります。

 ここに、鍵がありそうです。当面、狭山丘陵に達する、これらの大きい川の上流に重点を置いて探してみたいと思います。点々と連なる遺跡の状況から、下流域=区部の米作りが、一定の水準まで来たとき、徐々に武蔵野台地の小河川沿いに、村を開いて来たことがうかがえます。

 また、小河川の沖積地では、稲作は限度があり、加えて、自然の湧水を利用する谷戸の稲作では、小規模な単位でしか、生活できなかったようで、結果として、規模が小さな村になったような気がします。


狭山丘陵周辺の弥生時代遺跡位置図

kyuuryuzu2.jpg (16352 バイト) 狭山丘陵周辺で、現在発見されている弥生時代の代表的な遺跡の位置を図に落としてみます。全部のせると、ごちゃくちゃになってしまうので4つに絞ってみました。わかりにくくて恐縮ですが

 1 「吉祥山遺跡」 2 「後ヶ谷戸遺跡」
   東京都武蔵村山市所在

 3 「日向遺跡」   4 「椿峰遺跡」
   埼玉県所沢市所在

となります。

 どの遺跡も、何らかの河川の上流に位置しています。
 1 「吉祥山遺跡」は空堀川の水源地です。
 2 「後ヶ谷戸遺跡」は図には入れられませんでしたが残堀川の支流が入っています。 
 3 「日向遺跡」は砂川堀  
 4 「椿峰遺跡」は東川に関連を持っています。 

 2の「後ヶ谷戸遺跡」を除いて、全てが荒川に流れ込んでいます。2の「後ヶ谷戸遺跡」は残堀川ですので、多摩川になります。気の早い話ですが、今後、情報が揃うと荒川系と多摩川系の交流の問題が話題になるかも知れません。


一体、どのような社会だったのか

 丘陵南側では、まだ住居址は発掘されていません。ただ、武蔵村山市にある、2の「後ヶ谷戸遺跡」が、縄文時代から江戸時代に至る遺物を出土していて、特に、弥生時代から平安時代にかけての遺物は土器と共に木を加工したもの、水路と思われるものがでていますので、今後、総合的な調査がされると、一挙に生活の様子が明らかになりそうです。

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後ヶ谷戸は画像のように広大な谷戸で、ここを通る度に
いかにも古代人の好みと生活の場に合いそうな感じをもっていましたが
今後が一層楽しみになりました。

 それらの内容は、平成11(1999)年3月31日発表された、武蔵村山市文化財資料集18 後ヶ谷戸遺跡 によって知ることが出来ます。そこでは

 『周辺の丘陵尾根上か、後ヶ谷戸の谷の中の微高地に弥生時代後期から古墳時代前期にかけての集落遺跡が存在する可能性は高いといえる』 (同 p4)

 としています。

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武蔵村山市を代表する遺跡の平面位置図ですが、「後ヶ谷戸」は左側一番上の谷戸で
既に紹介した「吉祥山遺跡」が右下二番目の大きな谷戸に面して右側にあります。
狭山丘陵の弥生時代は、このくらいの大きな谷戸でないと、成立しなかったのかも知れません。

(後ヶ谷戸公園の案内板の一部を撮影)

 武蔵村山市の後ヶ谷戸遺跡へは、旧青梅街道「宿」信号を丘陵に向かって入ります。東京方面からは右折になります。総合体育館、総合運動公園の建設に際して発掘されたもので、「総合運動公園」と聞くと、すぐわかります。

 現在のところ、丘陵南側では、具体的に社会の仕組みや、生活の内容を明らかにする遺跡の調査は行われていませんが、丘陵北側の埼玉県所沢市で、特徴ある遺跡が発掘されていて、狭山丘陵の弥生時代を考える上で、特上のヒントを与えてくれます。先に挙げたそれぞれの遺跡から抽出してみます。

 どんな家に住んでいたか?

 台遺跡の例では、長辺4.50メートル 短辺3.50メートル 
             長辺6.03メートル 短辺4.50メートル

で、中央北寄りに炉があります。柱穴は4本と7本のものがあります。いずれも、後期のもので、隅丸長方型といわれるものが多いようです。これらの家を分析すると、何人家族で、どんな生活をしていたのか、何代ぐらい続いたのかなどの姿が浮かんできます。
 

 お墓がセット

 「宮前遺跡」からは、当時のお墓である「方形周溝墓」が3基、発掘されています。1辺が9メートル内外の大きさです。「方形周溝墓」は、これまでの土葬や再葬と違うばかりでなく、指導者あるいは権力の存在をうかがわせるもので、古墳時代への関連を考えさせる墓制です。

 それが、発見されていることは、狭山丘陵周辺の当時のムラのあり方やその後の推移を考えるのに打ってつけで、この遺跡はとても大きい意義を持っています。

 縄文時代の道具も使っていた

 さらに、狭山丘陵周辺で弥生時代に何が行われていたかを率直に語る遺跡が、「日向遺跡」です。狭山丘陵のすぐ北側で、現在、「所沢緑ヶ丘高校」がたっているところです。「東川」と「砂川堀」の水源にあたり、起伏がある丘陵の上と斜面にあります。住居の跡は、緩い東北斜面を利用して、15軒発見されています。

 その配置から狭い谷間を利用して、稲作をしていたことがわかります。

 家は、地面を堀こんで、「炉=いろり」を作り、地上に屋根をかける竪穴住居に変わりはありませんが、その1軒から、使いみちの分かれた土器が発見されています。台付甕型土器、甕型土器、壺型土器、高坏型土器といわれるもので、何やら、食べ物の種類の多さと嗜好まで感じます。また、調理・保存が住居内でされていたことがわかり、小さな家族生活が行われていたことも想像できます。

 特に興味を惹くのが、この遺跡から、打製の石包丁、石鍬(いしぐわ)が一緒に出ていることです。縄文時代に使われていたものとそんなに変わらないようです。当然、銅や鉄の道具はあったはずですが、石器が併用されているところに、この地域の特性を見ます。

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日向遺跡で発掘された土器と石器を紹介する所沢市教育委員会発行パンフレット
 「ぼくらの先祖達はー日向遺跡編ー」 p18−19
このパンフレットは、小学生にも理解されやすいようにかかれている。
日向遺跡の近くにある所沢市埋蔵文化財センター(北野2749−1 TEL042−947−0012)には
各時代を通して、この地で発掘された貴重な遺物が展示されている。

  なお、日向遺跡は、旧石器時代から古墳時代まで通しての複合遺跡です。特に、弥生時代から古墳時代(24軒発掘)にかけて、住居址が増え、定着性を強めています。途中、縄文時代の晩期に一度、途絶えているのかも知れませんが、人間にとって住みよい場所だったのでしょう。ところが、その後がどうなったのか、調査前の写真を見ると、畑になっていたようです。改めて考えさせられる問題です。

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所沢緑ヶ丘高校の校庭からみた所沢市内方面
この遺跡の背面は丘陵で、全面は見渡す限りの台地です。
古代人の気宇が羨ましくなります。

 ムラがまるごとわかった

bokuranosennzo.jpg (5299 バイト) 日向遺跡から2キロほど東に、「椿峰遺跡群」があります。椿峰小学校の付近です。旧石器から鎌倉時代まで通しての遺跡です。ここには、残念ながら、今回のテーマである、弥生時代の遺跡が抜けていますが、古墳時代の住居跡が33軒発見されています。

 その配置と、新旧を比較してみると、5世紀から7世紀にかけてのムラの状況が想像できます。簡単に、5世紀から7世紀といっていますが、200年です。
 その間に、33軒がどのように生活したのかが問題ですが、所沢市教育委員会発行パンフレット「ぼくらの先祖達は 2 ー椿峰遺跡群編ー」 p28−29では、発掘された住居址のカマドの位置の違いから、居住した時期、位置を区分し、ムラの移動を指摘しています。また、大きな家、特別の土器(須恵器)から「ムラの指導者」の存在を考えています。


狭山丘陵周辺の弥生時代全体の姿が欲しい

 このように、狭山丘陵北側で、弥生時代の姿がだんだんはっきりしてきています。北側では、これまでの遺跡は、全て、柳瀬川と東川の上流で、各遺跡とも小さな河川に囲まれるか、沿っています。その時期は、いずれも後期後半と判断されています。

 南側ではどうだったのでしょう。南側にも、空堀川、前川、宅部川(やけべがわ)など、沢山条件の揃ったところがあります。早く、知りたいものです。東村山市では、縄文後期の大がかりの遺跡が発見されています。これらの、つながりも知りたいものです。

水田がだめなら、なぜ、陸稲が栽培されなかったのでしょう?

 縄文時代の末には、雑穀として、オオムギ、ヒエ、アワ、キビ、時には、焼き畑による陸稲などを栽培していたことが知られています。台地の上でも、陸稲は栽培できたはずです。ゆっくりと、バトンタッチをしながら、弥生の生活が九州、東海と伝わって武蔵に来たとすれば、その間に、武蔵の縄文人は、米と共に、雑穀の情報をも得たはずですし、生活の知恵として、条件を改善する何らかの行動をしたと思います。

 どうにかして、その動きをつかみたいものです。案外、新規の発見が眠っているかも知れません。

東大和市の弥生時代

 あれほど、狭山丘陵や麓のそここで、活発に生活を展開した縄文の人々は、どこへ行ったのか、縄文時代晩期から弥生時代にかけて、その生活の跡は、ぱったり、途絶えてしまいます。
 不思議なくらいに、土器のかけらも、1〜2を除いて、現在のところ東大和市では発見されていません。

 武蔵村山市や所沢市の、既に発見されている遺跡の条件を、東大和市に当てはめると、芋窪や奈良橋、狭山のそれぞれによく似たところがあります。これらを丹念に調べて行けば、今後新しい発見も期待できそうです。


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