生類憐みと村の悲劇
(宝永5年〜享保2年=1708〜1717)

世の中、踏んだり蹴ったりってことが
話題になりますが、これはまた、ひどい話です。

五代将軍綱吉の頃
「犬公方」「生類憐みの令」
で名を馳せた裏側で、農民はとんだトバッチリを受けました。

特に、次の六代将軍家宣との代替わりの時に
狭山丘陵の村々が
この上なしの迷惑を被った出来事の記録です。


「生類憐みの令」

 「生類憐の令」というまとまった法律があるわけではなく、将軍御成りの道筋に犬猫が出歩いてもお構いなしの定め(貞享2年7月=1685)や馬の筋をのばすことの禁止(貞享2年9月)、将軍の台所での鳥獣魚介類の禁止(貞享2年11月)などの一連の措置をさします。

 綱吉が出した最初の頃の政策は、天和2年(1682)「忠孝奨励の高札」(忠孝札)を立てて、孝子を表彰する制度の設置であったり、 行き倒れや捨て子の救済、馬えの過剰積載の禁止などでした。これからすれば、なぜ「犬公方」かと疑いたくなります。

 でも、嗣子「徳松」を亡くしてから(天和3年=1683)は違ってきました。綱吉は自分の戌年(いぬどし)生まれを理由に、犬を愛護することによって、前世の罪科を滅し、また、世継ぎを得ようとしたのでしょうか、「御犬毛付帳」を設けて登録し、犬を殺傷した無宿人を死罪としたりするようになりました。こうなると、もう頂けません。

 さらに輪をかけたのが、この意を受けて、取り巻き政治が進んだことでしょう。大名は飼い犬を輿に乗せて往来し、農民はその都度平伏する羽目になりました。犬が喧嘩して怪我をすれば、町内に養生・治療を義務づけました。町内にしてみれば、後の責めと費用が大変です。そのため、喧嘩の犬は水を引っかけて引き分けるように、「犬分け水」を四つ角におき、「犬」の紋の羽織を着た番人を付けるようになりました。コッケイですし、狂いです。

 それでも、狭山丘陵の村々には、一つ、良いことがありました。生類憐れみの政策から、住民が長年苦しんできた「鷹場」の廃止です。
 野と林の混在する武蔵野は、野鳥やウサギなどの小動物の棲み分ける格好の鷹場でした。そこで、寛永18年(1641)狭山丘陵の村々は、鷹狩りの場として尾張徳川家の「御鷹場」に指定されました。多摩・入間・新座の3郡186ヶ村がその区域です。

 これらの村々はたいてい幕府の直轄地か家康の家臣の領地でしたから、代官か地頭による支配を受けていました。この上に、鷹場の指定を受けることによって、鷹場の管理と鷹狩りに関しては尾張徳川家の支配を受けるという、二重の支配に属することになりました。

 気苦労ばかりでなく、日常の管理や鷹狩りの時の接待など経済的にも負担があり、人足にもかりだされたし、何よりも、苦しめられたのは鳥獣の繁殖のため、区域内の狩りの厳禁です。そのため、イノシシなどが繁殖して、畑を荒らされるなど被害も多かったようです。落とし穴や竹槍を使うのにも許可が必要で、そのための願い文書が頻繁に出されています。

 この「鷹場」が、元禄6年(1693)、生類憐憫令で禁止になったのですから、50年にもわたる桎梏から解き放されて、農民は大喜びのはずです。ところがとんでもないことが起こりました。

四谷・大久保、中野の「御犬小屋」普請

 最初は江戸市中の犬の増加と収容の問題です。元禄7年(1694)になると、主のない犬がどんどん増え、野良犬となるものが多くなりました。
 『伝通院門前町の者共申し上げ候』として、「御犬様ことのほか多く・・・不断かみ合い、昼夜ともにほえかかり候」「自然怪我もあってはいかがと考え、御慈悲にて御移し下されたく・・・」と上野の住民の悲鳴が聞こえます。

 そして、ついに公設の「御犬小屋」が四谷・大久保に作られ、あっという間に不足して、引き続いて中野に作られました。
 中野の「御囲=御犬小屋」は東京百年史によれば
 『・・・16万坪の地に25坪ずつの犬小屋が290棟、7坪半ずつの日除場が295棟、餌飼所141棟半、子御犬養育所459ヶ所その他で、銀2314貫余と米5、500余石の工費をついやした。
市中の各地から大八車で運び込まれた犬は、元禄8年(1695)10月現在42、108匹に達していた。犬は1匹1日に白米3合、味噌50匁、干いわし1合が与えられ、多いときには82,000匹にも及んだから、1日の費用は銀16貫余、1年に金98,000両を必要とした。・・・

 同年四谷大木戸の外につくられた犬小屋には、市中の狂暴犬を収容した。そのほか武州喜多見村にも犬小屋をつくり、中野村の農民には1年金2分の養育料を与えて飼育させ、その費用は寛永3年(1706)より同5年まで35,000余両となった。これらの費用をだすため、江戸の町々には小間1間に金3分あてわりあてたほか、1町ごとに黒米5斗6升づつ取り立てたという。・・・』(東京百年史 1 p715)

 とされ、人間より遙かに優遇されていたかも知れません。
  中野の「御犬小屋」は現在の中野2丁目〜4丁目にありました。東京百年史掲載の元禄15年(1702)の絵図によれば、JR中央線中野駅を挟んで南北に5つの囲いがあったことがわかります。この時には総坪数は25万坪で、北側には「御犬埋場」(6,480坪)があることが記入されています。(東京百年史 1 p716)

 現清瀬市の上清戸村では、「御犬小屋」の周囲を囲む矢来のため、植竹6、110本を拠出しています。代金として9両3分と銀3匁5分が幕府より支払われました。(清瀬市史p338)
  世田谷、川越、青梅、八王子からも『昼夜の境なく竹木を付込事、蝿の如く、蟻の如し』の有様だったと伝えられます。(田中丘隅 民間省要 所沢市史研究第3号p138)

追記
  狭山丘陵南側の中藤村(現武蔵村山市)では、元禄13年(1700)犬の飼育に使った藁
(わら)や菰(こも)の負担として「中野御用わらこも納代」114文8分 を納入しているようです。また、下保谷村(現保谷市)でも、宝永3年(1706)に37文5分を納入しているといわれます。(大石学編 多摩と江戸 P114 桜井明男 生類憐みの令と多摩)(狭山丘陵南側の中藤村以下、2000年3月27日追加)

山口領の村には犬が預けられた

 さて、野良犬は増えるばかりです。四谷や中野の大きな収容所も、たちまち放棄された犬であふれました。その結果でしょうか、今度は、江戸郊外の村々に、その犬を養育する命令が出されました。狭山丘陵の山口領の村々にも命令が来ました。狭山丘陵南側ではわかっていませんが、狭山丘陵北側の北野村の状況が「北野村 宝永5年(1708)8月 御犬預高人別帳」に残されているので知ることができます。(近藤家文書)

 御犬預高人別帳には北野村の名主3名とそこに属する百姓の名および預かった犬の数が一覧となっていて

 名主 三郎兵衛分 農民75名 預かった犬 316匹
 名主 庄左衛門分 農民44名            174匹
 名主 七右衛門分 農民44名                       161匹

 と、合計163名が651匹を預かったことが記されています。
 内訳を見ると、最高は6匹(7人)、最低は1匹(4人)で、4匹を預かった百姓が圧倒的に多く91名(56%)、次が5匹(31名)です。

 これらの犬の養育には相当の経費が必要と考えられますが、北野村の内容はわかりません。荏原郡上野毛村の例では、元禄16年(1703)に、犬1匹に対し、年間、金2分が与えられていたとされ、これは上野毛村の奉公人の給料に等しかったといわれます。(所沢市史研究第3号、大館右喜氏 生類憐愍政策の展開 p141)

追記
 上に、「
狭山丘陵南側ではわかっていませんが、」と書きましたが、その後、狭山丘陵の南側でも犬を預かっていることを知りました。中藤村(現武蔵村山市)の出来事です。犬の数はわかりませんが、
『百姓31人が連名で中藤村の名主に宛てて犬の預かり証文を提出しています(乙幡泉家文書)』
『その当時中藤村では、犬を預かる体制として「犬名主」を立て、その下に「犬年寄」を4名ほど置き、彼らが村で犬を預かっている農民を統括するという形をとっていたようです。なお、犬の養育金は年3分でした。・・・』

 また、犬を預かるにあたって、村では請書を提出したようです。その中には
『一 犬を自分たちに預けてくれれば、犬の養育金ももらえ、村の潤いにもなり、村として何の障りもない。
  一 犬が死亡したら、預かり主が死亡した時刻などをすぐに飛脚で報告する。
 一 犬が行方不明になったら、・・・10日間は捜す。それでも見つからなかったときは、預かり主が書面で報告する。・・・代わりの犬を預かることになった後で、前の犬が見つかったときはすぐに報告する。・・・』
というような内容が記されていると、紹介されています。

 これからすると、犬を預かるのは「村の潤い」になることが期待され、養育金が魅力だったことも想定されます。そして、中藤村では犬の養育金をめぐって争いが起きています。
『元禄15年(1702)に、中藤村の農民たちは、具体的な理由は不明ですが、名主市郎右衛門を相手取って、養育金の取り扱いをめぐる訴訟を起こします。この論争はかなりもつれたようで、なかなか決着しませんでした。このため、幕府は中藤村に預けておいた犬と、そのための養育金の返還を求めたのです。
 これに慌てたのは中藤村の農民たちで、中には自分たちはこの訴訟には関係なく、ただ首謀者のせいで巻き添えをくっただけだと,何とか犬と養育金の返還を避けようとする農民もあらわれるほどでした。・・・
 ちなみに、中藤村から取り上げた犬は、北野村(所沢市)に預け替えをすることになっています。・・・』 
(『』内は、「大石学編 多摩と江戸 P117〜118 桜井明男 生類憐みの令と多摩」による)

 この犬が、先に紹介した、北野村の犬につながるとすれば、狭山丘陵の麓の村には丘陵の南北にわたって、中野犬小屋の犬が預けられたようです。なお、東大和市には、場所の確定が出来ませんが、犬の捨て場があったとの話も残されています。周辺の様子が更に明らかになることが待ち望まれます。
 (上に、「狭山丘陵南側・・・」以下は、2000年3月27日追加)



踏んだり蹴ったり

 さて、寝耳に水の問題が起こりました。宝永6年(1709)1月10日、将軍綱吉の死です。後を継いだ6代将軍家宣は早くも1月20日、生類憐れみ政策を転換しました。そして、4月、北野村の百姓に「御犬御用金」を返還するようにとの命令が来ました。

 一匹あたり銀20匁ずつを返納せよとの通知です。前年には、村人163名が651匹を預かっていますから、これはとんだ災難になったはずです。まず、600匹を超す犬の処分が問題になったでしょうし、さらに、養育料は当然使い果たしていたでしょうから、金策が息の根を止めるくらい重荷になったはずです。

 犬をどのように処分したのかはわかりません。返納については当時のことですから、それこそ、腑が煮えかえることだったでしょうが、否が応もなく、4月17日に、「公儀御法度」の遵守を誓って、「急度御返納つかまつるべく候」(近藤家文書 所沢市史近世資料1 p253)として返納の証文を入れています。
 
 北野村は地元から北野の天神様と親しまれている「北野天神」のある村です。脇を通るたびに、ここへ集まって切ない協議を重ねたのだろうかと気が重くなります。

 案の定、農民にはすぐ返納できませんでした。北野村に残された文書を追うと、涙が滲むように年賦で、時には5両、時には1両、涙も出そうな例として2分を返した返済証文が残されています。返済は元文年間(1730年代)まで続いたとされます。(所沢市史研究第3号、大館右喜氏 生類憐愍政策の展開 p144)

 さらに悲劇は、山口領の村々では、下北野村、町谷村、上勝楽寺村、下勝楽寺村、上藤沢村の農民5人が「御犬御用」の世話役をつとめるように中野御囲役人から命令されたようです。そして、諸賄金を村方で協議して、1匹あたり2匁4分ずつを預かっていました。

 この世話役がどんな役割を果たしたのかわかりませんが、ここにも返納の命令が来ました。5人は金子(きんす)が調えられないので1匹につき8分の返済をするとの証文を村あてに提出しました。(宝永6=1709年6月22日 近藤家文書 所沢市史近世資料1 p253)

 しかし、返済にはほとほと苦労したらしく、宝永8年(1711)6月になって、上勝楽寺村、下勝楽寺村、上藤沢村の
3人は「身上半つぶれ」になって返済を済ませたが、下北野村、町谷村の2人は金策ができなかったようです。このため、上勝楽寺村、下勝楽寺村、上藤沢村の3人が、残金については、下北野村、町谷村の2人が返納するように取り計らってほしいと奉行所に願い出ています。(勝楽寺村 池田家文書 所沢市史近世資料1 p480)

 気の毒に、町谷村の次兵衛は病気で死亡し、下北野村の三郎兵衛はどうしても返済できないため、正徳5年(1715)10月村から追放されて、「村中はいうまでもなく近郷5里四方で見かけた場合は打ち殺してもよい」との追放証文が名主、組頭、惣百姓の連署で出されました。

 そして、下北野村の三郎兵衛の持っていた田畑は地頭所に取り上げられました。取り上げられた土地は享保4年(1718)5月北野村へ譲り渡され、返納金の一部に当てられました。不足分は犬を預かった農民から取り立てたようです。(以上は北野村 北田家文書 所沢市史近世資料1 p214)

 ようよう返済の目途が立った享保2年(1717年)、なんと、鷹狩りが復活し、狭山丘陵周辺の村々は再び御鷹場になりました。 踏んだり蹴ったりとはこういうことでしょうか。

                                         99.11.24.記

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