黒船と丘陵の村(2)
お台場への松丸太切り出し

泰平の眠りをさます上喜撰(蒸気船)
たった四はいで夜も寝られず

嘉永6年(1853)のペリー艦隊は江戸市中を混乱の渦に巻き込みました。
幕府首脳は大名に総登城を命じ、協議しますが
結論はおろか、緊急の対応策さえ満足に出ません。

この間、ペリーは江戸湾内に測量隊を出して
デモンストレーションをかけます。

ここで召し出されたのが
わが、狭山丘陵周辺を治めていた、代官江川太郎左衛門です。

ジョン万次郎の通訳登用、海軍創設、品川沖への砲台(台場)築造・・・
などを提言し、台場築造が採り上げられて、勘定奉行と共にその責任者に任命されます。
そして、にわかに、狭山丘陵の麓の村々に
松丸太の切り出しが命じられました。

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台場築造

 現在も水上公園として、第3、第6の台場が当時の原形を残しています。東京湾内への、外国船の進入に備えて「砲台」を設置しようというものです。 ぺりー艦隊の羽田沖進出(嘉永6=1853年6月)に慌てふためく幕府ですが、それでも、8月には、品川沖に11基と品川漁師町の海岸に1カ所の計12基の台場を築造することを決定しました。

 今でも、下の画像の通り、レインボーブリッジの通過して内陸と密接な内海ですが、当時の絵図をみると、埋め立てが現在ほど行われていないのに、江戸城までそんなに距離がないことがわかります。

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現在残っている台場、左上が「第
6番」、中央が「第3番」
レインボーブリッジを背景に手前
の「鳥の島」越しに「第6番」

 江川太郎左衛門の当初計画は
 @第1線を観音崎と富津洲
 A第2線を横浜本牧と木更津
 B第3線を羽田沖
 C第4線を品川沖
とするものであったといいます。これが、経費の関係から、小規模なものに変更されて、
 最終的に、品川漁師町から深川洲崎まで「連珠」のように並べるように設計がなされました。
 その一部が上の画像の左側で、第6番は当時の姿を残すとされています。

 注 台場図は、手に入りやすいものとしては 松浦 玲著 勝海舟 中公新書 p42に掲載されています。

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第3番は陸続きになって「台場公
園」として、開放されている。
その石組みの状況。関東大震災
で被害を受け復旧された。

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中は堀込みになっていて、ぐるりと囲む石積みが防波堤の役割をしている。
現在は、1辺160メートルの正方形で、面積は約8000uといわれる。
関東大震災で被害を受け修復したため正方形になっているが
建設当時は、五稜か六稜で面積は20,513坪とされる。

画像上部に基礎が並んでいるところが陣屋跡、その上の堤の中程にある丸い箇所が火薬庫か?
井戸の跡らしき物もあったが、当時の水の確保はどのようにしたのか?

突貫工事 

 現在でも、海中にこれだけのものを短期間につくるのは、それこそオオゴトだと思いますが、12基の台場は3区に分けて工事が進められました。
 第1番,第2番,第3番,第6番,第8番,の5基は幕府の大工棟梁平内大隅
 第4番,第5番,第7番,第9番の4基は勘定所御用達岡田治助
 第10番,第11番の2基は勘定所御用達柴又五郎衛門
が落札、請け負うことになりました。(品川漁師町の海岸の1カ所分は誰が請け負ったのか調査中です)
 
 様々に動員をかけて、翌年までに、第1番,第2番,第3番,第5番,第6番と品川漁師町の海岸の1カ所が完成しました。しかし、資金の不足と工事中に日米和親条約が締結されたこともあって、第4番は七部通り、第7番は基礎部分の埋め立てまでで、残りは着手されることなく、中止となったそうです。

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台場の上には、当時の物ではないが、砲台の模型も据えられて、防備の一端をのぞかせる。
靖国神社にある「大筒」が、台場にあった物だと聞いた。

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陣屋の跡か番所か、戦後まで建
物が残っていたが、米軍の兵士
の失火で焼失したという。
なにやら秘密めいた様相で、頑丈
な石造の構築物がある。砲台の
近くなので、弾置き場か?

 築造費用が、約75万両(大砲は別)だったといわれ、その大部分を江戸の町人や商業者、豪農の献金(実際は幕府が命じた上納金か?)に頼ったようです。狭山丘陵周辺では、前に紹介した「所沢村組合」で、861両を献金しています。

 資材は関東方面から、材木、相模、伊豆、安房から、岩石を搬入し、土砂は泉岳寺境内、高輪、品川にあった諸藩邸の高地、品川御殿山を掘り崩してあてました。そのため、東海道の一部は往来禁止の立て札が立てられ、働く人5000人、船2000艘がごったがえし、「品川は数千人蟻集せり」というほどの活況でした。
 この影響が及んだのが、狭山丘陵周辺の村々を動員しての丸太材の切り出しです。

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内部の構造がどのようになっていたのか、わかるものはないが複雑な高低があったり

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池の跡らしき物もある。

曼珠沙華が印象的だった。

松丸太の切り出し

 上に書いた工事の請負人とどのような関係があったのかわかりませんが、狭山丘陵の麓の村々に御普請役から命令が届きました。嘉永7年6月のことです。(前年、つまりペリー来航の年にも、同じような命令があったが、その文書は残されていない。) 念のため御普請役の名前を書いておきます。

 御普請役代 岩上粂右衛門 同 塚田金蔵 同 島崎勇三郎 御普請役 杉浦茂三郎が連署で
『内海御台場御普請用松丸太、中藤村御林より、なおまた、伐り出し相なり候ところ、格別御急の儀につき、人歩引足兼人足など雇い上げることもあろうので、この節は同村役人より通達し次第、さっそく助勢いたし、差し支えないように取り計らえ・・・』

との通知です。宛先は、横田村、三木村(みつぎむら)、砂川村、芋窪村(いもくぼむら)、蔵敷村(ぞうしきむら)、奈良橋村、勝楽寺村、中藤村の村役人でした。
 各村では、6月に、村人が人足に徴用され、中藤村(武蔵村山市)の御林の松を切り出しました。松丸太の切り出しは、前年の9月にも行われて、2年にわたるものでした。(注 通達の中で「なおまた」はこれをさす)(単位人)

  横田村 中藤村 三木村 砂川村 芋窪村 蔵敷村 高木村 奈良
橋村
勝楽
寺村
嘉永6年 60 1067 344 315 206 72 96 89 146
嘉永7年 61 2155 282 442 216 80 82 101 150

121 3222 626 757 422 152 178 190 296


 切り出された丸太は、嘉永6年9月、 2、247本、嘉永7年6月、 1、420本でした。この丸太は、福生の多摩川岸まで荷車で運ばれました。そして、多摩川を筏にして下って、工事の現場まで届けられました。いずれ時間を作って地図に表したいと考えたいますが、江戸と狭山丘陵、多摩川がこんなに関連を持っていたとは驚きでした。
(以上、通達、人数などは「理正日誌」による)

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台場は格好のくつろぎ場、

遊覧船のコースとなった。

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そして、もうそこまで開発が迫って、内海は埋められそうな気配さえある。

台場景気

 景気浮揚策ではありませんが、仕事があれば、人が集まり、経済も回ります。ともかく、台場の工事は短期間に進められただけに、

『その人足、土運びの日夜を分かたぬ往復とかけ声、櫓の音も勇ましく、遠くにこだました・・・』
(港区史 上1097)

とあるように、活況を呈しました。当時の江戸付近は、農産物価格の下落、物価の上昇、失業などで一揆も引き起こしかねない状況でした。また旗本・ご家人も刀・兜の売り食いで凌いだときです。

 具足より利息の高い世の中に、お手当てどころかすねあてもなし
 閑となりしは 芝居 見せ物興行 もの寄せ場 料理茶屋 芸妓 遊郭 遊芸人

と、江戸の住民にとっては暗い雰囲気ばかりです。それが、ここでは全く違った雰囲気です。働き口を求めて、人足となる人が多かったようです。

 こんな冷やかしも謡われました。

 御台場の土かつぎ、先で飯食って二百と五十
      死ぬよか、嬉しぞよ、コイッアまた有難てえ

 米の値段が100文で7合という時に、食事付きで250文はよほどの賃金だったのでしょう。他の岡場所や芝居小屋場が、客入らずで、閑古鳥が鳴き、多くの江戸の人々が不景気を嘆くとき、品川の遊女屋は好景気と伝えられます。

 狭山丘陵の村々の切り出し賃金はいくらだったのでしょう。理正日誌に残された文書は、賃金についても詳細に記載されていますが、諸条件が含まれているようです。単純に引用するのは間違いの基になるといけないので、東大和市発行の「市史資料編7 理正日誌の世界」の解説を紹介します。

『材木の切り出し、根切りや福生河岸までの車力賃として、一人あたり 永二文四分五厘支払われている』

となっています。
 村の人々は、喜んで切り出しをしたのでしょうか、それとも、支配の中で、半ば強制的に厳しい思いをしながら携わったのでしょうか、資料は語りませんが、賃金について、地理的条件、仕事の内容、貨幣の単価の比較など詰めてみたいものです。


 後日談

 武蔵では、川越藩が台場の警備を命じられていますが、皮肉か幸いか、天下あげての騒ぎの中で作られた台場は実戦に使われることはありませんでした。ところが経済の方は大変動で、物価上昇につれて、農業用の肥料も値上がりし、農民は塗炭の苦しみをします。売り惜しみや貯め込んだり、値段のつり上げをしてコソット儲けた商人たちは、それを暴かれて大変でした。

 台場建設経費を献金した者に対しては、嘉永7年2月に、幕府から褒美金(ほうびきん)が割り渡されました。理正日誌には種々記録されていますが、「市史資料編7 理正日誌の世界」の解説によれば、金1両に対し銀1匁8分5厘だったとされています。この背景には、相当におもしろいものがありそうです。

 また、この騒ぎをきっかけに、江戸湾の警備が熊本藩細川越中守に移り、その費用を生み出すため、これまで、代官江川太郎左衛門が治めていた狭山丘陵周辺の村の一部が「細川越中守」の預かり所となりました。
 ペリーの外国船は、静かな村々を騒動に引き込み、とんだ跳ねっ返りを村人達にもたらせたのでした。

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第三台場からは第六台場が目の前に見える。
この台場はいっさい手つかずで、当時のままが残されているといわれる。

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第六台場は五稜の姿を保ちながら、内部もそのままに復元される可能性があるという。
当時の村の人々が関わった、たった一つの記念物になるかも知れない。


静かに横たわるその姿を見るとき
村の人々が切り出した、松丸太はどこに使われたのか何も語らないが
いつまでも残ってくれと切実に願った。


                                                (99.10.10.記)
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