国木田独歩や徳富蘆花があまりにも美しく「武蔵野の雑木林」を紹介するものですから
武蔵野って=畑+雑木林
と思ってしまいます。ところが、どっこいです。
「畑」も「雑木林」も江戸時代にできたものだそうです。
では、その前は何だったんだ?
草原だった、いや違う
深い森林に覆われていた・・・。
議論が対立しています。
武蔵野に人間が住み始めた頃、つまり氷河期の頃の様子を探ってみます。
赤土の中
参考までに、東京都に最も早く住んだ人は、稲城市の多摩丘陵の中、約5万年前といわれます(多摩ニュータウン
NO.471-B遺跡)。その後3万年、2万数千年と続きますが、すべて、赤土の中から発見されます。
旧石器時代(1万数千年前の頃)の遺跡を掘るのを手伝った時のことです。身の丈の倍は掘っても、まだ赤土。「こりゃ何だ」と汗を拭いていて
「待てよ、この赤土、確か富士山や箱根、遠くは熊本の姶良山の噴火の時の灰が積もったはず」
その時、武蔵野はどんな姿をしていたのか、林だったのか草地だったのか?
根っこのかけらひとつ出ないではないか、そんなところに人が住めたのか?
さあ、疑問に取り付かれて発掘どころではなくなりました。
この疑問はずっと解けませんでした。早くから中野区の江古田で、植物化石が発見されて、川の流域の姿は、寒冷地の植相であることが伝えられていましたが、武蔵野の原のど真ん中はどのようであったのか、はっきりしませんでした。ところが、ここ10年ほどの間に、だいぶ明らかになってきました。それは赤土でも、立川ロームと呼ばれる赤土の中から発見される植物の花粉分析の結果です。
中野区 江古田針葉樹化石層
何と言っても第一に紹介しなくてなならないのが、中野区の江古田から発見された植物化石でしょう。「江古田針葉樹化石層」「江古田寒系植物化石層」といわれるものです。
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こうして、JPEGに落としてしまうと、輪郭がはっきりしませんが、発見された植物化石の一部です。上がイラモミ、下がカラマツです。
どのように埋まっているのか、地層とともに、中野区歴史民俗資料館に展示されています。 |
江古田植物化石層の発見場所付近 新青梅街道江古田大橋
1936年水道管埋設工事の時
早稲田大学直良信夫博士が発見 |
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植生が違っても、現在も鬱蒼と繁る
北江古田
遺跡付近 |
この遺跡は武蔵野の氷河期の姿を確実に伝えます。少々長いですが、東京百年史から引用してみます。
『立川ロームの堆積している時期の終わりころに武蔵野台地に茂っていた樹林が洪水で倒され、谷底に流れ込んで堆積したものであるが、アオモリドドマツ、カラマツ、オオシラビソ、イラモミ、チョウセンマツ、コメツガ、ブナノキなど、今では日光の戦場ヶ原あたりに生えている亜高山帯の植物が主になっている。このことから当時の武蔵野の気温が寒冷で、おそらく、平均気温が今より七度くらい低かったと推定されている。』
としています。1936(昭和11)年の発見です。その後も調査が続けられ、最近、近くの「松が丘遺跡」で標準的な土層が検出されました。それは、標本となって中野区歴史民俗資料館に展示されています。ここの展示は簡潔ですがとてもわかりやすく、楽しくなります。特に、視覚に訴える方法に優れ、当時の森の様子や、弥生時代の風景が立体的でナットクです。
これまでは、江古田化石層からの植物が低湿地泥炭層の植生の定説のようになっていました。最近、はさらに調査の方法が進み、考古学者だけでなく、地理学者、自然科学者などが加わって、低湿地だけでなく、遺跡のどこでも、化石になって残っている花粉の分析、検討によって新しい姿がわかってきました。
国分寺市の花粉分析
国分寺「市史」は立川ローム層の花粉分析の結果にもとづいて、こう書いています。
『約27,000年以前
気候は湿潤温暖で、マツ属、スギ属の針葉樹を主とし、ハンノキ属、コナラ属、ケヤキ属、ヨモギ属、キク亜科などが伴い、羊歯類の胞子も多い。それらから推定される景観は、草原に近い状態であった。
約27,000年から14,000年以前
ハシバミ属の樹木、ヨモギ属の草が非常によく生育していたらしい。マツ属、スギ属、ケヤキ属、コナラ属などの落葉広葉樹は少なくなり、コナラ属、シラカンバ属などの樹木が、草地に点在する状態を想像してよい。この植生帯の終わる頃には、多少、低温傾向が緩んだらしい。
約14,000年以降11,000年以前
マツ属、スギ属などの針葉樹とコナラ属の広葉樹が疎林をなし、ハシバミ属の純林も部分的にみられたようである。また、ハンノキ属、ヤナギ属も多い。景観としては草地優勢であり、羊歯属の胞子も多量に認められている。・・・この終わり頃には、森林が形成されたらしく、・・・。』
つまり武蔵野の植生は草原と針葉樹と落葉広葉樹の混生だとしています。
東久留米市と練馬区の花粉分析
もう一つ、東久留米市の多聞寺前遺跡調査会による「多聞寺前遺跡」の調査報告書があります。この中に、「多聞寺前遺跡」と練馬区の「尾崎遺跡」の花粉分析をした(当時広島大学総合科学部)安田喜憲氏の調査結果と考察が報告されています。それによれば、武蔵野の植生は次のように変化したとされます。
ナラ林の時代―→五葉マツ林の時代―→ハンノキ林の時代
ナラ林の時代は 多聞寺前遺跡の時代 (約21,000年前頃)
五葉マツ林の時代は 尾崎遺跡の花粉帯Tの時代(約13,700年前頃)
ハンノキ林の時代は 尾崎遺跡の花粉帯Uの時代(約12,000年前以降)
(放射性炭素(C14)年代)
とします。
そして、
「多聞寺前遺跡の時代は、遺跡の谷底にはスゲ類を中心とする湿原が広がり、その周辺にはハンノキ林やニレ属の林があり、沢すじにはスギもわずかながら混在した。背後の台地上にはミズナラを主体とするとみられるナラ林があり、カエデ属・シナノキ属・クマシデ属それにブナ属などが混生していた。また五葉マツ・トウヒ属・モミ属の混生もみられた。・・・人類の居住舞台の中心地はナラ林であったとみてよいだろう。このナラ林の時代は最終氷期の中では比較的温暖で湿潤な亜間氷期に比定される可能性が大きい。」
「ところが尾崎遺跡の花粉帯Tの時代になると、五葉マツが高い出現率を示し、・・・ブナ属はわずか数個体検出されただけであった。気候はあきらかに多聞寺前遺跡の時代に比して寒冷・乾燥化が顕著になり大陸的になった。」
「一方、尾崎遺跡の花粉帯Uの時代に入ると五葉マツ亜属・トウヒ属・モミ属それにニレ属・シナノキ属・カエデ属どは減少し、かわってハンノキ属が急増している。・・・気候は明らかに前時代に比して温暖・湿潤化している。この時代は縄文時代草創期の遺物包含層に対比される。」
と気候の変化と文化の変遷を対比させて述べています。
注意が必要
三つの見解を紹介しました。ただ、注意しなくてはいけないことは、川に近い低湿地の泥炭層と乾燥した台地上では植生が違うことです。
国分寺市史は「ローム層の花粉分析による結果では、氷河期の終わり頃から後氷期にかけての武蔵野台地は草原優勢のうちに終始したのに対し、泥炭層の分析では、亜寒帯針葉樹林と冷温帯広葉樹林とによって覆われていた結果がでていることである。・・・相異なる結果の照合、解釈には、なおデータの蓄積を必要とするであろう」とし、
安田氏は「大型遺体や微化石の保存が悪いため、人類をとりまく自然環境の復元には多くの困難がある」としています。
多聞寺前遺跡から発見されたトウヒ属の花粉です。
この他、カラマツ属、五葉マツ亜属、ツガ属、スギ属
ブナ属、スイカズラ属、シナノキ属、グミ属、コナラ亜属
などがあります。
多聞寺前遺跡U 図版2から引用 |
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本当のことがはっきりするのは、まだまだ、これからのようです。写真を入れたかったのですがボリュウムが増え割愛しました。文書ばかりで、お疲れさまでした。
引用文献
東京百年史 第一巻 P53
東京都 昭和54年7月31日 ぎょうせい
国分寺市史 上巻 P15-19
国分寺市市史編さん委員会 昭和61年3月31日 国分寺市
多聞寺前遺跡U P671-689 戸沢充則、鶴丸俊明編集 1983年 多聞寺前遺跡調査会
遺跡の所在地
中野区「江古田遺跡」
江古田1丁目 妙正寺川流域 案内標識は東橋(あずまばし)にあり。
東久留米市「多聞寺前遺跡」 東京都東久留米市南沢1−15 黒目川の支流
練馬区「尾崎遺跡」 東京都練馬区春日町5−11−12 石神井川の中流域
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