武蔵路の変遷

道路も、生まれたり滅びたりするんですね。
この道路がつくられてから、埋まるまでの間の変化をたどってみます。

つくり始め

 この道路をつくり始めたのは、7世紀の第3四半期(650〜675年代)と考えられています。
丁度この道路の延長先に位置している
埼玉県所沢市に「東の上遺跡」と呼ばれる遺跡があって
そこに埋まっていた土器の年代から、そのように判断されています。

 なぜ、「東山道武蔵路」なんて名前が付いているのでしょう? 
話は7世紀にさかのぼります。 

畿内の都を中心に、地方につながる大きな7本の道路がつくられました。
西海道とか東海道とか山陰道などです。
この道路は、道であると同時に、地方の行政区域の基準となる役割も果たしました。

  例えば、東海道が通っている地域に接続する国々は「東海道相模国」のように表します。
現在の都道府県・市町村のように行政の所属区分を表す役割です。

 その一つに「東山道」がありました。
「畿内」から、東へと海辺を走る「東海道」にたいして、「東への山の道」であったことから
こう呼ばれたのでしょうか。畿内から群馬県を通って東北に達していました。
この道筋に武蔵国は属していました。
つまり、「東山道武蔵国」だったわけです。

  今から考えると、東海道の方がよっぽど近く、方角違いのようですが
当時の東海道のルートや府中市に「国府」が置かれた歴史的背景などから、東山道に属していました。

 「七道」は「官道」です。政府からの役人や軍隊が通る道です。
当然に武蔵国の「国府」に連結する「官道」が必要です。
そこで、東山道が通っていた群馬県の大田、足利市あたりから
わざわざ東京の府中市まで南下する道路をつくりました。
それが、「武蔵路」です。

 しかし、大土木工事です。誰が仕切ったのでしょう? 
この時代には、丁度、国分寺の建立が行われ、また、
中国や朝鮮半島からの渡来人が武蔵に入植した頃で、 
その技術が使われたと指摘する学者もいます。


武蔵の国の東海道への転属

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国分寺から国府方面
(白っぽく曲線を描くのは、古代の道が中世の道へと踏み跡が変化する状況を示す)

国の威信をかけ、多くの苦難の末につくられたはずの道ですが
社会の実態につれ用途も変わって来ます。

 これまで東海道の本道は神奈川県の三崎から千葉の安房まで、海越しで渡っていました。
それが、東京湾沿いに道が完備され東海道の道筋が変化してきました。

こうなると位置的にも、武蔵国は東海道に属する方が現実的です。
さらに、実際には、防人(さきもり)が国府(府中)から足柄路を越えたように
東海道の一部を利用しての交通が盛んでした。

  そこで、起こったのが武蔵国の東海道への所属替えの問題です。
ついに、宝亀二年(771)に武蔵国は東山道から東海道に所属替えになりました。

  こうなると、「武蔵路」は正規の「官道」ではなくなり、公には、使われなくなりました。
  道の用途が変わったのです。
生活の道、日常の道になりました。

もう12メートルの幅は必要ありません。
  国分寺市内の発掘で、この道路は4期に分けて変遷している状況が明らかになりました。
  幅が狭まったり、位置を少し変えたりしています。

 最後の、鎌倉時代につながる頃には、幅が7.5メートル前後まで狭まり
  真っ直ぐをやめて、集落や施設に向かって曲がっていくことがわかりました。
写真はその分岐を示します。

 ここで、12メートルの道幅で、どこまでも真っ直ぐを貫いた
  古代の道路の姿は消え、中世の道となります。
  発掘の結果は11世紀までは細々と使われたであろうと説明しています。

鎌倉街道へ
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(国分寺市内の旧鎌倉街道)

  問題は、後の鎌倉街道とどのように関連したかです。 
 国分寺市内では、武蔵路に沿う格好で、鎌倉街道が走っています。
  これらの問題はこれから解明されようとしています。

一筋の道