江戸名所図会・陣街道

 武蔵野は千変万化です。その中でも、江戸時代に大きく姿を変えたようです。現在はその時代のものさへ見られなくなりました。天保5(1834)年に発刊された「江戸名所図会」に、今の府中市分倍河原付近のものがあり、比較して武蔵野を考えるのも一興かと思い、ご紹介します。

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 左は江戸名所図会から、府中市の分倍河原付近を描く部分を引用しました(新訂 江戸名所図会巻之三 筑摩書房版 P415)。真ん中に曲がって走るのが「陣街道」です。今から約150年前頃の姿です。
 右はやや同じ場所で、現在の「陣街道」です。 

  さらに、 面白いことがあります。江戸名所図会の中央の曲線を描く「陣街道」の手前に小高くなっているところが あります。原本には 「天王森」と付記されています。ここに、素晴らしい鎌倉時代の「板碑」があります。


抱板碑(だきいたび)

 それも、成長したケヤキの木に抱え込まれるように残されています。鎌倉街道に面しているだけに印象的です。左側が現在の姿でです。

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右側は昭和10年(1935)頃の同じ場所の写真です(府中市発刊 むかしの府中 P61)。
最初、板碑はケヤキの若木の傍らに祀られたのでしょう。
元応元年(1319)建立とされています。
700年近く
造立当時とあまり変わらずに、街道の日々を見守ってきたはずです。

ところが、その後の60年の間に、もはや最初の雰囲気を留めないほど変わり
現在は、文化財として、その意義を主張しています。
にこれが歴史の凝縮でしょうか。

 
なお、江戸名所図会には、「分倍河原陣街道 首塚 胴塚」  の書き入れがあります。
付近には多くの「塚」の名が残されています。
この一帯が中世の戦乱に明け暮れたことを伝えます。
中世、武蔵野は戦場でした。

     江戸名所図会の初版は
    天保5年(1834)年 日本橋 須原屋茂兵衛と浅草 須原屋伊八が板元となって刊行されました。
俯瞰描写が多く取り入れられているので、当時の姿を偲ぶのに参考になります。
ハンディな文庫本になって、気軽さが一層増しました。


    一筋の道