阪神淡路大震災と私 MO.16
1995年4月23日

チキンジョージ跡地にて

 地元の大阪狭山青年会議所に所属していた僕は、この年、大阪府下の各青年会議所で組織する社団法人日本青年会議所大阪ブロック協議会の地球ネットワーク委員会に出向していた。震災発生当初から各地の青年会議所では様々な支援活動を展開していた。僕の友人も東方からの援助物資の集約基地である西宮市に泊まり込み、物資の管理を手伝っていた。自分自身は当初から主に個人的に動いていた。委員会でも何回か炊き出しに行ったようだったが自分の神戸行きの日程と重なることが多く参加できないでいた。

 委員会では何回か支援活動を行ってきた締めくくりとして三宮でイベントをやるということだった。個人的に行ってきた支援活動が一段落付いたときだったので参加させてもらった。

 会場となったのは神戸では有名なライブハウス「チキンジョージ」の跡地だった。本殿が倒壊した生田神社のすぐ西側にある。震災で全開した建物が取り壊され更地になっていた。(現在は再建されかっての盛況を取り戻している)その場所をお借りして在日の外国人の方々の力を借りて各国の民芸料理を屋台で振る舞い、野外特設ステージでライブを行うというものだった。

 このころには大阪〜三宮間の電車も開通していた。震災後三宮の繁華街に足を踏み入れるのは初めてだった。

 三宮の駅を降りて東門街を歩く。震災から3ヶ月以上経つというのにあちこちで雑居ビルが傾いたままになっている。一部のビルでは外壁だけはがれ落ちスナックの店内がそのまま外から見えている。傾いたビルとビルの間をくぐり抜けるようにして通過しなくてはならない路地もあった。

 屋台の準備中、唐辛子が足らないと言うことで、元町の中華街まで僕が買い出しに出かけることになる。日曜日の午前10時頃で人影もまばらな街を歩いていく。そこここに震災の爪痕が見える。たどり着いた中華街は以前のままの様子で少しほっとした気分になった。

 イベント会場には多くの人が訪れてくれる。最後のライブステージでは東京からボランティアで出演してくれた歌手が熱唱している。訪れた人たちはみんなそれぞれに聞き入り、中には「ありがとう」と握手を求めてくれる老夫婦もいた。屋台の手伝いが一段落付いた頃、表に出て周囲を歩いてみた。学生時代、またつい最近まで神戸に来る度に立ち寄っていた店が跡形もなくなっていたり、閉店のままになったりしていた。

 暗澹たる気分で会場に帰ってくるとフィナーレが始まっていた。舞台の上では「STAND BY ME」を歌手が唄っていた。一緒に準備を進めてきた仲間達が次々に舞台上にあがり肩を組んで合唱が始まった。舞台の上から誰かが僕を呼んでくれた。しかし、僕は舞台上にあがることが出来なかった。客席に座ったままなぜか涙が出てきた。先ほど見てきた街の光景が頭の中に残っていたからだろうか。スタッフ側の心境と言うよりは被災者側の心境に自分の心はより近づいていたのか。

 舞台上では「STAND BY ME」がエンディングを迎えていた。上の方を見上げると朝から降っていた雨が上がり、突き抜けるような青空が広がっていた。 


目次へ戻る 次に進む