阪神淡路大震災と私 NO.15
1995年4月

PAR5再開

 阪急神戸線の六甲駅。学生の頃何度と無く周辺を歩いたところである。それほど大きな開発もされておらず、街全体がヒューマンスケールなところだ。この駅から北に5分ほど坂道を上り六甲山へのバスが走る道沿いに左へ入った商業ビルの一階に「PAR5」と書かれたスナックの看板が掛かっている。ここのマスターの本職は灘畑原市場のお寿司屋さんだ。僕が学生の頃、まだこの店がここよりやや北のビルの中に入っていて名前も「ぱあぷりん」という人を食ったみたいな名前であった頃に、アルバイトとしてカウンターの中に入っていたのだった。もう15年ぐらい前の話だ。

 この店のアルバイトはほとんど周辺の大学生だった。卒業しても毎年12月30日になると就職して全国に散らばった連中がここに集い再会を祝うのだった。僕たちはそれをOB会と称していた。震災直前の12月30日にも狭い店内に30名以上の仲間たちが集い昔話をしながらわいわいと騒いでいたのだ。

 震災後、しばらく店を閉めていたマスターだったが、本家の寿司屋の方は全壊状態で立て直すまでしばらく再開のめどがつかないと言う。そんな中とりあえず体を動かさないとということで2月末頃からスナックで昼の定食だけの営業を開始していた。引っ越し作業が終わった僕はよくここで昼飯を食ったものだ。

 そんな中、いよいよ店が再開することになった。店の中はボトルが半分ほど割れ、ボトル棚のガラスの棚板が破損していたくらいで建物も内部もさほど大きなダメージは受けていなかった。僕は割れた棚板を取引先のガラス屋に作ってもらったのを手みやげにPAR5営業再開の日に六甲を訪れた。

 再開の事をまだまだ知っている客が少ないのか、あるいはとてもそんな余裕がないのか店は閑散とした状態だった。それでも何人かの常連客が顔を出し再会を喜び合っている。その中で色々な話を僕は聞いていた。

 店のすぐ近くで歯科医院を営んでいる先生は周辺の避難所を回って治療活動を続けているという。JR六甲道駅近くで開業している別の歯科医院の先生は全壊した診療所のある地区が再開発地域に指定され、医院をすぐに再建できない。仕方ないので三田市の方へ移転しそこで新規に開業したいらしいのだが地元の歯科医師会が新規の開業を抑制しておりなかなか事が進まないと言う。

 もうひとり、中央区で会社を経営する社長(後で話を聞くと、神戸青年会議所のOBだった)が知人を見舞いに長田区へ出向いた際に見聞したことは僕の頭にこびりついて離れなかった。

 彼は一面焼け野原となったあたりを歩いていた。見ると焼け跡で小学校4、5年生ぐらいの男の子が無心に土を掘り返していた。焼け跡と言ってもまだまだ高温状態だ。男の子の手はその熱のためやけどで皮がぼろぼろにむけるくらいに痛んでいる。そんな中でもその子は一心に土を掘り返している。

 彼はその男の子に近づき声を掛けた。

 「僕,どないしたんや?」

 「お父ちゃんとお母ちゃん、探してるねん。」

 彼は事態を把握し、思わず男の子を抱きしめていた。今まで子供なんか嫌いで自分の子でもそんな事したことがないんや、という彼が,その子をずっと抱きしめていたという。

 しばらくして、近所の避難所にいるボランティアの若者がやってきた。避難所から姿の見えなくなった男の子を捜してやってきたらしい。若者が言うには、その子の両親は震災直後発生した火災のため倒壊した自宅に挟まれたまま焼死してしまった、その一家で男の子だけが助かったのだという。あまりの高熱で焼かれたため、まだ骨も見つかっていないらしい。その男の子は、自分を置いて逝ってしまった両親の形見になる物は無いかと焼けただれた土を掘り起こしていたのだった。


目次へ戻る 次に進む