阪神淡路大震災と私 NO.14
1995年3月29日

撤収

 震災から2ヶ月半がたった。ボランティアの多くを占めていた学生たちが学校に戻る時期でもあった。何回となく通い続けてきた六甲小学校3階の理科準備室(ボランティア詰め所)も3月一杯を持って閉鎖されることになったという。この教室の本来の住人はここの子どもたちだ。彼らが再びいい環境で勉強を続けていけるようにできるだけ早く教室を空けて行かねばならない事情もあったのだろう。

 卒業式では避難者の方々がまだ数多くテントを張っている運動場で行われたという。避難者の方々も子供たちの一生の思い出に残る卒業式のために場所を移動してくれたらしい。自分がはじめてこの小学校に来た時から比べると避難者の方々の数は若干減ってきたようにも思う。しかし子どもたちが授業で使える教室は全体のまだごく一部だった。

 ボランティア詰め所でみんなと挨拶を交わす。明日はボランティアのお別れパーティーが小学校であるらしい。企画はみんな避難者の方々で作られた自治会が担当していて当日のお楽しみと言うことで内容は知らせてくれないらしい。僕も是非参加したかったが明日は仕事で来れない。2ヶ月間続いた六甲小学校詣でも今日で最後だ。

 考えて見れば自分は今までボランティアなんか意識的にしたことなんて一度もなかった。この小学校へ通っているときもボランティアをしているという気持ちはなかった。ただ周りの人からボランティアに行っているの?と聞かれればそうですよ、という方が手間が省けるのでそう言ってきた。自分を動かした衝動は何であったんだろう。自分がかってこの街に長く住み、愛着を持っていたのがまず大きな原因だろうと思う。工学部の掲示板でこの小学校のボランティア募集の張り紙を見なければ知人たちの見舞いが一段落した後は通常の生活に戻っていたかもしれない。

 あのときは日本中の誰もが何か自分にできることは?と問うていたのだろう。自分はたまたま縁有ってこの小学校に通うようになっただけかもしれない。動かれずにはおれない気持ちが自分の中にあったのは自分自身でも大きな発見だった。

 夜も更けてから小学校を後にした。校内ではまだまだ多くの避難者の方たちが居る。困難な状況は全然変わっていない。なのに自分はここを去ろうとしている。たき火の光が見える小学校の運動場を、明かりのともる教室を見ながら後ろ髪引かれる思いで大阪へ帰った。


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