阪神淡路大震災と私 NO.13
1995年3月23日

加西へ

 このころになると遠方への仮設住居や一時受け入れ先に向けての引っ越しが多くなってきた。この日は小学校近くに住んでいたご夫婦を荷物と一緒に加西市の公共施設へ搬送する予定になっていた。市の保養所みたいなところがこの時期,期間を区切って被災者の受け入れを引き受けていた。

 Sさん夫婦は60歳過ぎのお年であった。小学校近くにあった家は全壊してしまい、かろうじて引きずり出した荷物を無事だったご近所の知人宅に預けてあるという。最初にそこによって荷物をトラックに積み込んだ。かなりの量があるのかなと思っていたのだが、荷台に半分にもならない量だ。家具のたぐいなどはいっさい無い。本当に身の回りのものだけだった。聞くとほとんど取り出せなかったらしい。地震後の火災で全焼してしまったという。このあたりの火災は地震が収まってかなりの時間が経過してから起こったらしい。狭い助手席にSさん夫婦を乗せて,六甲山を抜け,中国道へ向かった。

 加西へ向かう車中でSさん夫婦の話を聞いていた。加西の施設はとりあえず一ヶ月程度の滞在しか許されていないらしい。その間に仮設住宅を申し込んで当たれば良いんだけどねえ、とため息混じりに話をされていた。神戸市内に勤務先のあるSさんは神戸から離れた仮設にはいけないと言う。無くなってしまった家は20年前から住んでいたらしいが、今となっては戻るところもない。

 さしたる渋滞もなくて思ったより早く加西に着いた。Sさんたちが入所手続きをしている間に一人で荷物を降ろしていた。別れ際にティッシュペーパーにくるまった物をお礼だから受け取ってくれと言われた。ボランティアですから、受け取らないことにしているんですと何度も断ったがどうしてもと言われ続けて懐に納めた。Sさん夫婦の見送る中、僕は再び六甲へむけて出発した。

 帰りの車中でティッシュペーパーを開くとしわくちゃになった千円札が数枚出てきた。これからのあの人たちにとって大切な物であったはずなのに。

 Sさんからはその後,須磨の仮設住宅に移れたという連絡があった。


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