阪神淡路大震災と私 NO.06
1995年2月2日

六甲小学校へ

 最初の神戸訪問から一週間がたった木曜日、マスターのところに物資を届けたあと母校の大学へ行った。何気なく工学部の掲示板を見ると「六甲小学校にてボランティア募集中!」の張り紙がしてあった。この小学校は僕の学生時代の下宿先のすぐ近くにあった小学校だ。それまでボランティアなんて全然縁の無かった僕だったがとにかく行ってみようと小学校を訪れる。

 3階の理科教室がボランティアの詰め所になっていた。簡単に受け付け(氏名と連絡先をノートに書いただけ)を終えると校庭に出て、布団乾燥の仕訳作業を手伝う。一緒に作業していたおばさんと話をする。彼女も東灘区で被災したらしいが「ここに避難している人に比べたら私なんて被害を受けたうちに入らないわ」なんて笑ってた。背中に「神戸大学」のロゴを入れたジャージを着た学生の2人連れもいた。僕は現役当時、陸上競技部に所属していたので「君ら神大の体育会?」と聞くと何と陸上競技部部員であるという。後輩たちだった。神戸大学陸上競技部では、主務の現役部員が震災の犠牲となっていた。彼らにそのことを聞くと当日部員みんなで彼の下宿まで行ったらしい。

 昼からは「声掛け隊」に配属される。3、4日前にここに来たというどこか(宗派忘れてしまいました)の仏教協会の青年部の人と一緒に避難場所となっている教室や体育館を巡回して話をしていく。休憩後一人である教室の前を通っていたら入り口に張り出されている避難者の氏名に見覚えのあるのがあった。学生時代のアパートの大家さんだった。教室内にはいるとご夫婦で避難されていた。何にもなかったが家から持ってきていてミカンを一袋手渡ししばらく話をする。

 夕刻が近づくと1階で食事の配給が始まっていた。班ごとに代表の人に手渡すシステムだ。小学校にはいろいろなボランティア団体や僕のように個人で飛び込みできたボランティアがいたがすでに組織化されていてそれぞれの役割を分担して活動をしていた。このころの個人ボランティアのまとめ役は関西学院大学の男の子だった。彼も震災後飛び込みでここに来たらしいが、いつの間にやらリーダー役になっていたらしい。たしか4年生だったと思うがずいぶんと年が離れているのにしっかりしているのを見て感心してしまった。 夕刻のミーティングを終え来週また来ることを約束して帰路に着いた。


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