阪神淡路大震災と私 NO.04
1995年1月23日

神戸へ

 西宮市役所に勤務する友人から電話があったのが2日前。避難所となっている図書館での苦労が絶えないようだ。風呂でも入りにくるように勧め、昨夜やってきた。疲れからか早めに床についた友人を残し未明に出発。乗用車の中は水や食料、医薬品、ガスコンロなどで運転席以外は満杯だ。これらの物をそろえるのに3、4件の店を回らねばならなかった。特にブルーシートやガスボンベなどが店頭から消えているのだ。車には手書きで書いた「緊急物資運搬中」の紙をはっつけた。

 阪神高速の入り口では、料金を取らずに通してくれた。もっともすぐに一般道におりねばならなかったが。国道43号線は途中で通行止めとなり北上、国道2号線を西へ西へと向かう。しばらくはふだんと変わらない風景だったが芦屋市に入る頃から暗闇を通して崩れ落ちた家屋が目に入ってくる。住吉川を渡ったところでいきなり車が大きくバウンドした。橋に段差ができていたのだ。途中から気が付いたのだが、街灯も信号も消えていて全くの暗闇で交差点がよくわからない。というかそれまで交差点があることもわからずにとばしていたのだ。あわてて車のスピードを落とす。

 灘区に入ったのが午前3時頃、河内長野から3時間くらいだった。思ったよりも早く来れた。まず自分の住んでいた阪急六甲駅南側のアパートを見に行く。近くの六甲小学校の角を曲がり街区に入ったとき目に飛び込んできたのは焼けこげた家だった。車を止めて外にでる。自分の住んでいたアパートのある区画は燃えていなかったがそれと幅4メートルほどの道一つ隔てた西側の一帯がかなり類焼しているようだ。きな臭いにおいがまだあたりに漂う。道路の上を白い大きな物が蛇のようにうねっている。よく見ると消防のホースだった。思わずよろめいたからだに背後から何かが当たった。電線だった。電線が切れて地上近くまでぶら下がっていたのだ。何ともなかったところを見ると、まだ通電していないらしい。路地に入って、自分の住んでいた文化住宅の前に立つ。1階の奥の方が壊れ2階部分が傾いた状態になっている。1階の表札を見ると僕が住んでいたときと同じおばあちゃんの名前がかかっている。この状態から無事逃げ出せたんだろうか。

 母校の神戸大学の近くの当時のバイト先の家の近くまでいく。この道を登っていったところだったはずと車を降りると道がない!西側の家が崩れて道路を完全にふさいでいた。別のルートをたどる。無事に立っているようだ。再び車に乗りマスターの家の近くの公園に行く。車で夜明かしをしていると言っていた場所だ。公園に沿って多くの車が並んでいた。あるところだけ車の止まっていない場所があったのでそこに車をつけ仮眠しようとシートを倒した。目に入って来たのは傾いた電柱だった。なるほどここにみんな車を止めないわけだ。あわてて移動して電柱の傾きと逆方向の位置に車を止め、仮眠する。

 8時半になりマスターのマンションを訪ねた。疲れた顔をした彼としばらく部屋で話をして外を案内してもらう。向かいの木造住宅は跡形もなく崩れ落ちていた。彼が瓦礫をかき分け入っていったがそこに住む人は梁の下敷きになりすでに息絶えていたらしい。それでも、とにかく無我夢中で4、5人の人を助け出したという。依頼されていた医薬品など手渡して、また来ること約束し、ほかの知人宅を回る。

 お昼頃に母校の大学の研究室を訪れた。僕は学生時代、工学部の建築学科に所属していた。僕の指導教官は神戸市と共に町作りのお手伝いをしてきた。震災直後から一部のマスコミでは神戸の町作りに対する批判的な意見も聞かれたが先生方はその当時から一生懸命にやっていた。また、構造の授業の時は耐震構造なども学んだ。あのとき先生方は、メキシコ地震の被害例を紹介しながら僕たちに耐震構造の基礎を講義してくれていた。その実例をこの町で目の当たりにするなんて。震災で僕の受けたショックは自分が曲がりなりにもこういう環境で教育を受けていたからだと思う。

 研究室には誰もいるまいと思ったのだが、偶然当時の指導教官の先生と出くわした。書架が折り重なって倒れている研究室から本の山を乗り越えて先生のノートパソコンを探し出したあと、持参していた魔法瓶のコーヒーとロールパンで話し込んでいた。昼食にと弁当を持ってきていたのだがさっきのマスターの家に置いてきていた。とても自分だけ米の飯を食う気になれなかったのだ。

 研究室をあとにし、本山の学生時代の友人宅を訪ねる。電話が開通してからもずっと出なくて不安に感じていた。彼のマンションはかろうじて立ってはいたが、あちこちにひびが入っていた。部屋の前までいくと、大阪の社宅に避難した旨の張り紙がしてあった。どうやら一家全員無事だったようだ。

 4時頃帰路に就く。帰りは車が停滞していて5、6時間かかったろうか。一日中上空を旋回するヘリコプターの爆音と、緊急車両のならすサイレンを聞いていた。まさにここは戦場の趣だった。我が家にたどり着いてからも頭の中で爆音とサイレンが鳴り響いていた。


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