ハドソン河のモスコー ★☆☆
(Moscow on the Hudson)

1984 US
監督:ポール・マザースキー
出演:ロビン・ウイリアムス、マリア・コンチタ・アロンソ



<一口プロット解説>
ロシアのサーカス団に所属するロビン・ウイリアムスは、友人が訪問先のアメリカで亡命しようとするのを引き止めるが、自分の方が亡命してしまう。
<雷小僧のコメント>
国際的なテロのターゲットになったアメリカという国には色々な側面があるわけですが、アメリカ政府が過去に行ってきた国際政治の是非はひとまずおくとして、アメリカという国において最も重要な要素の1つはやはりアメリカとは多民族国家であるという事実です。アメリカの国旗である星条旗がいったい何を意味しているのか。つらつらと考えてみるに、確かに星条旗の星1つ1つはアメリカ各州を表しているわけですが、もう少し拡大解釈すれば多様な構成分子の集合的総体がアメリカ合衆国なのだよという示唆が行われているようにも思えます。すなわちアメリカ合衆国(united states)は、アメリカ合種国(united races)でもあるわけですね。この「ハドソン河のモスコー」を見ていると、まさにこの事実すなわちアメリカという国は多民族国家であるという事実が明白に伝わってくるのです。まあもともとネイティブインディアンを除けばアメリカは移民によって成立した国であり、到着の時期が異なるとは言えども基本的には言ってみればアメリカ人は皆よそ者であるわけです。このような事実があるからこそ、アメリカには他の国にはないような展望があると同時に他の国にはないような問題を抱えているわけです。
たとえばこの映画の中で、レストランに居合わせていた見知らぬ客達全員が合衆国憲法を唱えたり、今日が独立記念日であることを思い出しただけで今迄大喧嘩していた野郎どもが仲直りしたりするようなシーンがありますが、これらのシーンにはアメリカの長所短所がうまく反映されているのではないかと思われます。長所というのは、彼らのアメリカという国に対する希望、すなわち何か新しいことが出来るのではないかという希望、伝統に固まって身動きの出来なくなったようなたとえばXXのような国では出来ない何かが可能なのではないかという希望が持てるということであり、そういう展望が持てるからこそ合衆国憲法であるとか独立記念日であるというような何かアメリカをシンボリックに表現するものが提示されると些細な相違を忘れて大意に従うことが出来るわけです。これに対したとえば日本であれば日本国憲法を唱えても些細なことで喧嘩をしていた野郎どもが喧嘩をやめたりするはずもなく、第一日本国憲法を唱えられるやつなどほとんどいないのではないでしょうか。また短所というのは、そういう希望を持って世界中から人々が集って成立したのがアメリカであり、合衆国憲法であるとか独立記念日であるというような統一的なシンボルがないと簡単に社会がバラバラになってしまうという点です。2001年9月11日のテロ事件以来、今までは敵視し合っていたニューヨークに住む白人と黒人が結束を固めるようになったというような記事をニューヨークタイムズ紙か何かで読みましたが、いわば何か外的なイベントや圧力が発生しないと結束が出来ないという弱点を多民族であるが故に有しているのがアメリカという国であるということがこのことでもよく分かります。これに対し事実上単一民族国家である日本においては、何らかの外的な圧力がないと社会がバラバラになってしまうというようなことはほとんど考えられないのですね。先程、日本国憲法を唱えられるやつなどほとんどいないのではないかと書いたのですが、これは何も日本人が怠慢であるということを意味しているわけではなく、単にそういう必要性がないだけなのですね。すなわち、いちいち何か外的なシンボルの助けを借りて自分が日本人だということを再確認する必要がないわけです。ところが、アメリカという国には独立記念日とか憲法とかいうような自分が白人であるとか黒人なのではなくアメリカ人であるということを再確認する示標がなければどうしても自分達のオリジンとなる文化生活様式認識様式を越えられずいたるところで人種間でのトラブルを引き起こしてしまうわけです。
インターネットアクセスが最早テレビを見るのと同じくらいの日常茶飯事になった今日この頃、まさに情報面では世界が1つになりつつあり、いわば世界全体がビッグアメリカになりつつあると言えます。誤解のないように付加しておきますと、ビッグアメリカと言っても何もアメリカ政府のグローバリゼーション的な政策のことを言っているわけではなく、事の必然的な側面において(アメリカの中においてと同様)世界中の異なる多くの国家民族が互いにいやが上にもインタラクトし合わざるを得ない状況になりつつあるということを意味しています。そういう面においても現在アメリカが直面しているような問題が今後世界レベルで発生してくるであろうことも又間違いのないことであるように思われます。要するに民族の違いという多様性を認めながらいかにして世界的なコミュニケーションの統一を図っていくかという問題は、今後避けては通れない問題になってくるのではないかということです。
さてここで話が360度変わってしまうのですが、アメリカには当然日系人もいるわけでこの「ハドソン河のモスコー」にもどうやら日本人と思しき人物が4人出てくるのですが(皆ほとんど一瞬しか登場しませんが)、これがいかにも欧米人が見た日本人の典型であるように思われますのでここに挙げてみたいと思います。一人目は、首にカメラをぶら下げてデパートの中でしきりに写真を取りまくっている客です。二人目は、タクシーの運転手で、最初はどこか別のアジアの国の人であるように思われるのですが、いきなり「外人いつもうるさいね。」とか何とかわけのわからないことを日本語でしゃべり始めます。三人目は、アメリカ国籍を取得してそのセレモニーでキャピキャピと他の参加者に比べても必要以上にオーバーリアクティングしているお姉ちゃんです(そんなに日本人でなくなったのが嬉しいのかなと思わせてくれます)。最後は、デパートの店員(マリア・コンチタ・アロンソ)がロビン・ウイリアムズの相手をするのに忙しくてなかなか返事をしてくれないので、声の出る自動販売機のように機械的に全く同じ注文を繰り返す中年のおばさんです。私目は、欧米人の日本人に対するこういうイメージが全く根拠がないと言うつもりは毛頭ありませんが(何せ火のないところに煙はたたない)、こういうシーンは逆に欧米人の物の見方をリフレクトしているものであると考えてもよいと思っています。何度かあちこちのレビューで紹介しているのですがエドワード・サイードという人が書いた「オリエンタリズム」という書物がありますが、この本によればオリエンタリズムという西洋人の東洋に対する見方は、現実の東洋を表しているというよりは、西洋人自身のエキゾチックなものに対する憧憬とか反発が複雑に入り交じり投射された架空の構成物であるということだそうですが、少なくとも日本人に関してはこの映画もそれと似たような傾向があるのではないでしょうか。日本人の私目としては、この点がちょっと気になりますね。
最後に1つ難を言わせてもらいますと、この映画は始めの30分間くらいは、ロシア語で会話が行われるのですが、どうも字幕を読むのは面倒くさいですね。この辺の考え方には千差万別あっても当然なのですが、私目はどちらかと言うと外国が舞台になっている時にわざわざその国の言葉を使用しなくてもいいのではないかと思っています。下手をすると中途半端になることもよくあって、たとえば第二次大戦物などでドイツ兵たちが「danke」などというような単純なドイツ語はドイツ語なのにそれ以外は英語で喋っているなどという考えてみれば随分奇妙なシーンをよく見かけます。まあその国の言葉を使用した方がリアルではあるのかもしれませんが、映画とは必ずしもリアルさの追求とイコールであるわけではないので、中途半端に終るくらいなら全て英語で喋るようにした方が余程いいのにと思うことがしばしばあります。この「ハドソン河のモスコー」では整合性はとれているので(ロシアに居る時は、英語を練習しているシーン以外では英語を喋っていない)中途半端であるとは言えないのですが、やはり少し見るのがつらいですね。余談ですが「エスピオナージ」(1973)というエンニオ・モリコーネの音楽が素晴らしいフランス映画がありましたが、前半はフランス語メインで後半は英語メインになります。こうなると、フランス語は全く分からないということを割引いて考えたとしても映画の展開そのものが何やら前半と後半でまったく違うような気がして随分と戸惑った覚えがあります。というわけで少し御託を並べてしまいましたが、マザースキー監督らしくマテリアルのハンドリング自体は非常に堅実であるように思います。

2001/10/13 by 雷小僧
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