ジブラルタル号の出帆 ★★☆
(Rocket Gibraltar)

1988 US
監督:ダニエル・ペトリ
出演:バート・ランカスター、スージー・エイミス、パトリシア・クラークソン、ケビン・スペイシー



<一口プロット解説>
バート・ランカスターの家に、彼の誕生日を祝いに自分の息子たち孫たちが一堂に会するが、致命的な病気にかかっていたランカスターは誕生日に死んでしまう。
<雷小僧のコメント>
私目の所有しているこの映画のVHSテープのカバーには、ファミリー・コレクションというような銘記がされており何となく子供向けの映画なのかなという雰囲気がありますが、子供が見ても勿論構わないのですが、実は大人も見るべき映画であると私目は思います。その理由は、この映画が世代の問題を扱っているからです。その辺をこれから説明したいと思います。
ストーリーは、今年70何歳かの誕生日を迎えるバート・ランカスターの家に彼の息子/娘達及び孫達が遊びにやって来るのですが、世の常でランカスターは息子の世代よりも孫の世代との方とより身近になります。その時、ランカスターは孫達にバイキングの葬式(船に遺体を乗せて火矢を射て火葬にするというもの)の話をするのですが、孫達はランカスターの誕生日のプレゼントにと浜で見つけたボートをバイキングの船に似せて改造しはじめます。ところが、ランカスターは実は重い病気にかかっており、誕生日に死んでしまうのです。そこで、孫達はランカスターが望んでいたバイキングの葬式を子供達だけでとり行うというような筋書きです。
ここで重要なことは、この家族共同体にとってはランカスターが望んでいるバイキングの葬式というのは異端的な考え方であるということです。その証拠にケビン・スペイシー、ビル・プルマンらの息子世代は、家族のものは誰であれ死んだら家族の共同墓地に埋められるべきだと考えているという点があげられます。この点に関して言えば、ランカスターはこのバイキングの葬式について息子世代には語ったことは絶対にないはずです。何故なら、親子の関係というのは常に共同体的なコノテーションを含んだ関係であり、共同体の維持にとって危険な意味を孕んだ言説は注意深く避けられる必要があるからです。ところが、祖父/祖母と孫の関係においては、こういう共同体的な抑制力は緩くなり、逆に親子関係に対して相補的に働くことすらあるのです。別のところでレビューした「黄昏」(1981)という映画の中で、娘ジェーン・フォンダは自分とうまくいっていない頑固な父ヘンリー・フォンダと孫世代に属するビリーという子供がうまくやっているのを見て、何でそんなに簡単にうまく折り合っていけるのかと疑問を投げかけるのですが、これは至極当然のことなのです。つまり、親子はある意味において絶対に単純な友人関係であることは出来ないのです。何故なら、親子とは単に生物学的な関係を表しているだけではなく、共同体的な意味合いが複雑に絡んだものだからです。もし友人になったとしたら、それは最早親子とは呼べないと言ってもいいでしょう。この辺は、ジル・ドウルーズか誰かが近親相姦は不可能だと言ったのとちょっと似てますね。つまりその地平を越えたら元の意味がなくなるという線を越えないと親子は友人になれない(こう書くとまるで親子が友人になれるということが含意されているように聞こえますが、その地平を越えると元の意味がなくなるわけで越えた途端親子という関係の意味がなくなってしまうから結局なれないと言うことです)ということです。かくして、ランカスターは結果を知ってかしらずか孫達にバイキングの葬式の話をし、孫達はそれを実行するのです。何度も繰返しますが、ランカスターは息子の世代には絶対にこの話はしなかったでしょうし、もし何らかの形で息子達がランカスターがそれを望んでいると知ったとしても実行したりは絶対にしなかったはずです。それは単にバイキングの葬式が子供じみているように思われる(私目はそうは思いませんが)からだけではなく、共同体の範囲ではそれが許されないものだからでもあります。
随分とややこしいことを書いてしまいましたが、そいいう点は別としてもこの映画は、この種のストーリーにありがちなお涙頂戴式戦術に訴えるということがなく、詩的とも言えるイメージで描かれており、私目は非常に気に入っております。最後につけ加えておくと、実際のバイキングの葬式はランカスターの話している通りなのですが、確か従者の生け贄を伴うはずであったと思います。まあ、さすがにそれはファミリー映画には相応しくないでしょうね。

1999/04/10 by 雷小僧
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp