フォーリング・ダウン ★★☆
(Falling Down)

1993 US
監督:ジョエル・シュマッヒャー
出演:マイケル・ダグラス、ロバート・デュバル、バーバラ・ハーシー、チューズデイ・ウエルド



<一口プロット解説>
夏の暑い日に交通渋滞に巻き込まれたマイケル・ダグラスは、いらいらが臨界点を越えハイウエイに自分の車を置き去りにして、自分の進路を阻む人々を排除しながら別居した元妻の家に住む自分の娘に会おうとする。
<雷小僧のコメント>
いやはや何とも奇妙な映画なのですが、ある意味において現代の病んだ様相が実にうまくというか皮肉って描写されているなという印象があります。まず交通渋滞の中でいらついたマイケル・ダグラスがぶち切れて車をハイウエイに置きっぱなしにして歩いていく冒頭のシーンからその倦怠的な不快感に圧倒されます。この冒頭のダグラスのいらいらが徐々に募っていくところの描写が実に素晴らしい。暑い真夏の真っ昼間に交通渋滞に捕われるという極限的(極限的とはちょっとオーバーなのですがレビューなので大袈裟に書いています)な状況の下で、たとえばハエだとか隣の車の窓に飾ってあるニタニタ笑う人形などの普段見慣れた光景がだんだんとネガティブな意味を持って立ち現れてきて、あたかも自分を悪意を持って包囲し圧迫するような存在に変容してくる様子が実にリアルに描写されているのですね。恐らく誰にでもこういう経験はあるのではないかと思います。私目の場合で言えば汚い話ですが、たとえば満員電車の中で突然催してきてそれがしばらく停車しない急行だったりすると、絶望感に捕らわれて目の前が真っ暗になって、たとえば吊革広告の何でもない写真の中の人物達やオブジェ達が急に脅迫的なものに見えてきたりします。かつて精神分析学者のハロルド・サールズという人の書いた「ノンヒューマン環境論」という書物を読んだことがありますが、ある種の神経症の症状の一つに、外界の無機的な環境が有機的な性質を帯びて立ち表れてくるものがあるように書かれていたと思いましたが、ある種の限界的な状況の下では、一般人でもそういう神経症的な状況に追い込まれるのではないかと思います。またストレスの多い現代においては、そういう不快な現象が発生する機会も非常に多いのではないでしょうか。この映画の冒頭のシーンでは、それが非常にうまく捉えられているように思います。
さて前置きはこれくらいにして本論に入りますが、この映画を見ていて私目の最も興味を誘ったポイントとして、暴力というものに対する取扱い方が70年代以前に比べて随分と変わってきているな(とは言え後で述べるように70年代以前にもサム・ペキンパーのような例外は確かにいましたが)ということがよく分かるという点が挙げられます。何が変わっているかというと、以前はたとえばギャング映画のようなものは除いたとして、主人公が暴力を振るうことが映画の大半を占めているような映画の中では、その主人公が暴力を振るうことに対して何らかの大儀名分が与えられているのが普通であったのに対し、この映画では全くそれが与えられていないし、又必要ともされていないように思われる点に関してです。たとえば70年代にチャールズ・ブロンソンが自分の妻や娘を暴行し死に至らしめた悪漢ども(というかその犯人そのものではなく似たようなチンピラ達)を一人で次々に殺していくという「狼よさらば」シリーズというのがありました。又、ジョー・ドン・ベイカーが野球のバットを持って悪漢達をなぎ倒していくという「ウオーキング・トール」シリーズというのがありました。どちらも目茶苦茶に殺伐とした映画なのですが、一応主人公のブロンソンやベイカーには、たとえば自警だとか復讐だとかいうような大儀名分が与えられていて、観客のシンパシーがこれらの主人公達に及ぶように配慮されていました。けれども、この「フォーリング・ダウン」のすごいところは、主人公であるにもかかわらず、マイケル・ダグラスに対しては観客のシンパシーが1%でも及ぶことがないように描写されている点です。要するに彼はただ不快な状況の中でぶち切れただけで暴力を辺りに発散させているわけです。彼が暴力を振るうことに関して、何らの大儀も名分も主義も主張も存在しないわけであり、そのことはプラスの方向にもマイナスの方向にも真なのですね。プラスの方向というのはたとえば「狼よさらば」のブロンソン的な自警だとか復讐だとかいう意味においてであり、マイナスの方向とは悪の賛美であるとかナチズムのような排他的民族主義だとかいうような意味においてです。たとえば、ネオナチのフレデリック・フォレストが最初はダグラスを自分の仲間だと思うのですが、すぐに判明するようにそれは全くの誤りなのですね。何故ならダグラスは何々主義というような何らかのベーシックなアイデアに基いて行動しているわけでは全くなく(たとえ彼が表現の自由だとかデモクラシーだとかそういうことを口走っていたとしてもです)、彼の暴力はそのようなところには由来しないからです。またダグラスに襲われた韓国人の商店主が、彼がコーラの代金を払って出て行ったことに対して、奴はnuts(気違い)だというのですが、まさに何が善であり何が悪であるかという一般的な認識範疇とは関係のないところにダグラスのモーティブというかモーティブのなさがあるのがよく分かります。
さてこのような暴力の描写の仕方というのは、一般的には実体的な内容を持つものとして考えられているたとえばモラルであるとか自然法であるとかいうような実体的な概念に根拠を置く暴力的なものとそうでないものというようなある認識的な布置が捨象され、象徴的な意味では暴力も他の一切のものと交換が可能であるような等価物であると見做されるような見地に近付かない限りは可能ではないはずであり、これが高じていくと暴力を一種のファッションのようなものに見立てる見方が登場してくるわけです。そのいい例がオリバー・ストーンの「ナチュラル・ボーン・キラーズ」(1994)であると思います。この「ナチュラル・ボーン・キラーズ」は途轍もなく暴力的なバイオレンスムービーであるように思われているかもしれませんが、私目はある意味でそれは少し違うのではないかと考えます。ある意味でと言ったのは、「狼よさらば」以前の時代的な意味で暴力というものを解釈すればこの映画は途轍もなく暴力的なのですが、実はそういう捉え方とは無縁なところでの描写が意図されているのではないかなという気がするということです。ボードリヤール的な言い方をすれば、構造的な差異関係を通じて他のあらゆる記号と等価的な交換をすることが可能となるような一つの実体のない浮遊的な記号として暴力というものが見做され得るような、そういう配置関係の中で暴力というものが描写されているのではないかということです。要するにファッションです。ファッションに実体的なものがほとんど含まれていないのと同様な意味において、暴力にも実体的なものがこの映画の中では全く含まれていないわけです。たとえばサム・ペキンパーが暴力描写に関して先駆的であると言われるのも、彼がこういう配置関係を通して暴力を描写していたからであり、「ワイルド・バンチ」(1969)を暴力の美学であるとか言って賞賛するとするならば、そういう構図を理解した上ででないと極めて危険なことになるわけですね。それと同様に「ナチュラル・ボーン・キラーズ」からストレートにメッセージを読み取ってしまうと極めて危険なことになるわけです。確かアメリカでは、この映画を真似した無差別殺人が実際に発生したのではなかったでしょうか。
さて話が「フォーリング・ダウン」から大きく逸れてしまいましたが、前々段で述べたように暴力に対するそのような見方がこの映画にも色濃く反映されていることには間違いがないのですが、けれども、この映画はサム・ペキンパーやオリバー・ストーンの映画と違って、そういう見方を映画全体に徹底させるということはしなかったようです。というのは、アンシンパセティック(非共感的)なマイケル・ダグラスとは非常に対照的なシンパセティック(共感的)でヒューマニスティックな捜査官ロバート・デュバルを登場させるからです。何やらこの人物が今まさに引退してアリゾナの砂漠へ隠居しようとしているのは、現代におけるシンパシーやヒューマニスティックな側面の衰退が象徴されているようで実に意味深く思えてくるのですが、この映画が徹底的に殺伐としたものになるのをギリギリのラインで(これもオーバーな言い方ですね)食い止めているように思えます。いずれにしても、この映画を見ていると、そのようなモラルであるとか善悪の判別とかいったような伝統的なメジャー(測定単位)が根こぎにされた現代的な様相が、ある意味でブラックコメディとも受け取れるようなマイケル・ダグラスの目茶苦茶な行動から透けて見ることが出来るように思えます。でも内緒なのですが、マイケル・ダグラスが、ハンバーガーショップで、自分が注文したハンバーガーが、何故メニューにある写真とは違ってこんなに薄いのだとぶち切れるシーンにはスッとしました。
それから最後に付け加えておきますと、60年代の映画ファンにはなつかしいチューズデイ・ウエルドがロバート・デュバルの少々情緒不安定な奥さん役で出演しています。この人はこういう役をやらせると実にいいのですね。ただ、ちょっと太られたようで、顔は若干昔とは違うように思えましたが、やはりこの人の声としゃべり方は今だに健在のようですね。

2000/08/20 by 雷小僧
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