コンタクト ★☆☆
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1997 US
監督:ロバート・ゼメキス
出演:ジョディ・フォスター、マシュー・マコノヒー、ジェームズ・ウッズ、ジョン・ハート



<一口プロット解説>
宇宙のどこかに必ず何らかの生命体が存在するはずであると信じて宇宙観測をし続ける女性天文学者アロウエイ博士(ジョディ・フォスター)は、ある日惑星ベガの方角から規則的な電波が送られてくることに気が付く。
<雷小僧のコメント>
時々この手の映画が現れるのですね。すなわち、宇宙のどこかからやって来た未知の生命との遭遇を半ば哲学的な観点から描いた映画がです。たとえば「未知との遭遇」(1977)がそうでしたし、最近でも「ミッション・トウ・マーズ」(2000)等がその範疇に入るでしょう。この「コンタクト」という映画もまさにそのタイトルが示すがごとく広大な宇宙のどこかに存在するであろう或は存在しているはずである生命体とのコンタクトがその主題となっています。またこの映画は何やら「カプリコン・1」(1977)のような要素もあって、このストーリー自体がひょっとするとジョン・ハート演ずる大富豪が仕掛けた大掛かりなトリックなのではないのかという疑いが完全には否定されないままENDになります。実は後者の要素は私目にはなかった方がよかったような印象がありましたが、それはこのレビューでこれから述べるこの映画の一番素晴らしい点を若干ぼかす結果になっているような気がする為です。原作はあの天文学者カール・セーガンの書いた小説であるということなのですが、私目は確か「コスモス」というタイトルであったかいくつか彼の著作は読んではいますが、この映画の原作小説に関しては読んではいませんので、この映画がセーガンの原作にどこまで忠実なのかはちょっとよく分かりません。但し、全体的に受ける印象から言えば、かなり原作とは変えられている部分があるのではないかというような印象があります。何故ならば、たとえば宇宙に旅立ったジョディ・フォスター演ずるアロウエイ博士が、惑星ベガで自分の死んだ父親の姿を借りた未知の生命体と遭遇するくだりなどは、これって本当にセーガンの原作にもあるのかいなという気がどうしてもしてしまうからですね。正直言えばこういう提示のされ方というのは、いかにも最近のハリウッド映画的であるような印象があってあまりうまい表現の仕方であるようには少なくとも私目には思えなかったのですが、ただしたとえ提示のされ方には疑問符がついてもこの映画で扱われているテーマには科学の進展ということに関して非常に重要なメッセージが含まれているように思われます。このレビューではこの点に関して説明をしてみたいと思います。
近代科学の1つの考え方として実証主義という考え方があります。この立場に立つと、厳密に実験を通じて証明されない事象は科学の対象とはなり得ないということになります。別な言い方をすると、厳密なデータを通じて証明されない事象はいわば単に主観的な事象に過ぎないのであり、科学とは客観的なるものに関する学問であり主観的な要素は全て排除されねばならないが故、そのような事象は決して科学の対象とは成り得ないということになります。この映画の中でジョディ・フォスター演ずるアロウエイ博士が「神の存在を信ずるか」という質問に対して「データを通じて証明されることだけを信じます」というような主旨のかなり婉曲的な返答をするシーンがありますが、この時の彼女の主張もこの実証主義に基いたものであると言うことが出来ます。さてそれでは、本当に主観的な要素を全て排除して厳密な科学というものを構成することが出来るのでしょうか。そういう疑問が20世紀の初頭頃から発生してきます。まず数学界では、有名なクルト・ゲーデルの不完全性原理というものが現れます。私目は文系出身なのでこのゲーデルの原理を正しく把握しているとは言い切れないのですが、大雑把に言えばある一連の公理からなるシステムを考えた時にそのシステムの公理のみによっては証明され得ないある命題をそのシステム内に定立することが可能である、すなわちある一連の公理からなるシステムの中には、そのシステムの公理自体のみによっては証明出来ないような言明が含まれ得るというような(厳密には多少違うかもしれません)内容であったように思います。これを認識論的に言い換えると、どんなシステムであってもそのシステムで発生する全ての事象を完璧に説明しようとするならば、そのシステム自体が持つ公理によっては証明出来ない何かをアプリオリにどこかで前提としなければならないということを意味します。もしこのアプリオリな前提の存在を証明不能であるものとして否定してしまうと、そのシステム自体の存在根拠自体が崩れ去ってしまうという大きなジレンマがここにはあるわけです。それから物理学の世界ではハイゼンベルグの不確定性原理が現れます。すなわち、ある事象をそれを観測する側の干渉から切り離して観測することは不可能であるというような内容の原理であったように覚えています。このような流れを極端に押し進めると、科学史家のファイヤーアーベント氏がこれまた極端な仕方で述べているように、どんなデータもそのデータを収集する方法や収集する人の意図(たとえ機械によってデータが収集されるとしてもある仕方を通じてデータを収集するようにその機械を設計するのは人間であるわけです)に依存するが故に純粋に客観的では絶対に有り得ない、従って出来るだけ客観的である為にはあらゆる方法が否定されねばならないというようにかなりアナーキーな展開になってくるわけです。
こういう流れを見ていると、実証主義というのは実は根本的或は論理的に成立しないのではないかという疑問が湧いてくるわけです。そうであるならば、科学の根拠を何処におくべきかが問題になってきます。これに対する見事な回答の一つにマイケル・ポランニー(この人の兄だか弟だかは有名な経済学者カール・ポランニーです)という科学者且つ哲学者が書いた書物「Personal Knowledge」を挙げることが出来るように思います。この人の見解も、純粋なデータのみに科学の根拠を置くことは出来ないという立場に基いています。たとえばポランニーの挙げる例として、ある駅の駅長さんがその駅の庭に石をたくさん敷き詰めてその駅の名前を書いたとします。その駅に降り立つ人は石を敷き詰めて書かれたこの駅名を見た時、それが自然に発生したものであるとは決して思わないはずです。ところである日この駅長さんがいなくなって駅が無人と化した後、時を経るに従ってこの石のパターンは風に飛ばされてバラバラになったとします。そうした後にこの駅に降り立つ人がそのバラバラになった石の配列を見た時、その配列が人の手によって配置されたとは決して思わないはずです。この時、何故前者の例では駅名が示された石の配列が人の手によって配置されたものであり、後者ではそうでないと言えるのかが問題になったとします。この問題をたとえば前者の時点(すなわち駅長さんがいる時)での石の配列データと後者の時点(すなわち駅長さんが去った後)での石の配列データを収集比較して、それらのデータのみによって決定することが出来るかというとそれは絶対不可能なのです。何故ならば、たとえばある特定の石の配列が発生する確率という観点から言えば、前者の時点での石の配列が発生する確率も後者の時点での石の配列が発生する確率も全く同一(すなわち何千何億の何千何億乗分の1)であり、純粋なデータのみからたとえば人の手が介在したかどうかということを判別することは不可能であるからです。それでは何故、駅名を示す石の配列が自然に発生したものではないという乗降客の判断及び風に吹かれてランダム(ランダムとここで書くのは既に判断が加わっているということを示すので不適当ではあるのですが)になった石の配列が人の手によって配置されたものではないという判断が正しいと言えるのでしょうか。或はそれとも不可知論者に従ってそもそもそういう判断自体が決して成立しないと言うべきなのでしょうか。もし後者が正しいとしてそういう判断が成立しないというのであれば、それではあらゆる人間の認識には根拠がないという随分と悲観的な結果になってしまいます。ここで純粋なデータのみに根拠を置くことは出来ないとしても徹底的な不可知論に陥る必要はないということを示す為に、ポランニーはそのような判断が成立する根拠として人間が持つパターンを認知する能力及びそのパターン認知を可能にするもろもろの事象に対する人間のコミットメント能力を挙げます。たとえば数学者がある有効な公理系を発見する時、或はアルキメデスの頭の中である科学の法則(何でしたっけ忘れてしまいました)が電光の如く閃いて風呂から飛び出した時、それはあるパターンを認知したということであり、今までフィットしていなかったものが突然フィットした時に感ずる美しさを感得したということなのです(それに関連して、前出「未知との遭遇」でリチャード・ドレイファスが一生懸命自分のイマジネーションにピタリとフィットするある形状を模索していてそれがなかなか発見出来ないでいるのですが、その時の彼のフラストレーション、又それを見出した時の彼の満足感の表出は科学的な発見のそれと全く同じなのではないでしょうか)。それは決して純粋に客観的な生のデータを並べてそこから演繹的に達した結論などでは全くなく、言わば数学的にしろ科学的にしろそういう法則を発見した人のその問題に対する個人的なコミットメントがその法則の発見成立の大きな要素として働いたということであり、このコミットメント及び確信の度合いがその法則の普遍性を保証するとも言うことが出来るわけです。但し勿論ここで言う普遍性とは絶対性という意味における普遍性ではなくて、ユークリッド幾何学が非ユークリッド幾何学に取ってかわられたように、またニュートン物理学がアインシュタインの相対性原理に取ってかわられたように、常に修正される可能性があるということ自体を自身の内に内包するようなそういう普遍性であり(それがなければ科学は単なるドグマと化してしまうわけであり発展の余地などなくなってしまうでしょう)、個人的なコミットメント及び常に修正される可能性があることを受け入れること(修正される可能性があるからこそ特定の体系に対するコミットメントが重要になるわけです)が、科学の発展を推進する為の大きな要素になっているわけです。このポランニーの「Parsonal Knowledge」という書物に日本語版が存在するかどうかよく知りませんし(「暗黙知の次元」という彼の邦訳本はありますが、これも面白い本です)、又何せ「コンタクト」のレビューを書いているのでありこの書物に書かれている内容の全てをここで紹介するわけにもいかないのですが、科学というものが成立する根拠に関して非常に面白い視点が提供されているように思いますので機会があったら是非読んでみて下さい。純粋に実証主義に立つ人の立場から見れば彼の見解はオカルト的にすら見えるのかもしれませんが、いずれにしても個人的なコミットメントというものが科学の進展において重要な役割を果たすという見解は非常に重要であるように思います。
さて随分と話が「コンタクト」から離れてしまいましたが、実はこの「コンタクト」という映画は前段で述べたような科学における個人のコミットメントの重要性がうまく表現されている映画であるように思います。ジョディ・フォスター演ずるアロウエイ博士が、「神の存在を信ずる」かという質問に「データによって証明されることだけを信じる」というような主旨の返答をしたことは前にも述べましたが、実を言えばそういう彼女の返答とは裏腹に彼女の天文学に対する個人的な情熱、コミットメントがこの映画の冒頭から明らかに伝わってきます。彼女のそういう情熱というのは単に正確且つ客観的なデータを収集することに対する情熱なのでは決してなく、まさに彼女の死んだ父親が彼女に述べる「広大な宇宙の中に生命体が人類だけであるとすれば、それは余りにも勿体無い」というようなある種の信念に基いているわけです。また話は少し変りますが、マシュー・マコノヒーに代表されるような神学的な議論が何故こういう映画の中で語られるのか日本人の我々からすると不思議に思えるかもしれませんが、実は神学的な問題というのも個人のコミットメントに関する問題なのであり、たとえば「神は存在する」という言明は実証主義的な真偽に関する言明などでは決してなく、個人のコミットメントに関する言明であるということに注意する必要があると思います(論理学者のフレーゲならば「I believe」を意味する記号|-が付加されるべき言明というように言うかもしれません)。従って、惑星ベガへ行く宇宙船に乗る人物を決定する諮問委員会の中で神の存在を信じるか否かというような、議事の内容とは一見無関係な質問が何故なされるかというと、それはこの個人のコミットメントに関する資格がこの質問によって問われているからであり、それに対するアロウエイ博士の返答はこの意味において完全にずれていたが故にこの時点では落選してしまうと言ってもよいのではないでしょうか。すなわち、たとえ神の存在を否定する結果になるような返答であったとしても、もしそれが自分の科学に対するコミットメントを明白に示すような返答であったとしたならば決して彼女は落選しなかったであろうと言うことです。この個人のコミットメントという要素があってこそ初めて科学の進展というものが有り得るということは前段で述べたようにマイケル・ポランニーが明白に述べていることでもあり、この諮問委員会での質問は彼女がこの時点で考えるようなアンフェアなものでは決してないのです。そして彼女自身この時の自分の返答が如何に不適当なものであったかを、惑星ベガでの経験によって悟るわけです。要するに自分の内に既に持っていながらも今まで意識的には気が付いていなかったこと、すなわち科学に対するコミットメントという要素が自分の今までの科学的な業績を形成してきたのだという単純なる真実に、データによっては証明不可能な惑星ベガでのビューティフルな体験を通して彼女は気が付くわけです。実を言えば提示のされ方には疑問があるとしても(ひょっとしてカール・セーガンがこの映画を見たら草葉の陰で腰を抜かすかもしれませんね)、私目がこの映画を高く評価する理由はここにあって、科学というものが何であるかということに関して実に雄弁に物語られている映画なのではないかと考えています。但し最初の節でも述べたように少し余計な要素が混在しているなという印象があるのも確かであり、またもう少しうまくストーリーが呈示されていればもっと素晴らしい映画になっていたのではないかなというような贅沢を求める感想もなきにしもあらずですね。

2001/03/17 by 雷小僧
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