ショコラ ★★★
(Chocolat)

2000 US
監督:ラッセ・ハルストレーム
出演:ジュリエット・ビノシュ、アルフレッド・モリーナ、ジュディ・デンチ、ジョニー・デップ



<一口プロット解説>
ヨーロッパのとある小さな村に、ジュリエット・ビノシュ演ずるショコラ作りの名人親子が風に乗ってやって来るが、町の有力者達の多くはよそ者の彼女達を敵視する。
<雷小僧のコメント>
以前最新映画一口評のコーナーでこの映画を取上げた時は、必ずしもこの映画に満点の評価を下してはいなかったのですが、しかしながらその後DVDを購入し何度も見直している内に、この映画に対する評価は見れば見る程上がっていきました。現在では(2003/2)この映画は21世紀になってからのベスト映画であると見做す程、素晴らしい作品であると思っています。あと50年もすれば(むむむ!私目はこの世にいないかな?)クラシックと呼ばれるようになる類の映画であると見做しても良いかもしれません。それ程素晴らしい内容の映画であると少なくとも私目は現在では思っており、このような映画が時折現れるので最近の映画も捨てたものではないなと見直したりもしています。
まず第一に素晴らしいのは、この映画の持つ寓話性ですね。いわばこの作品はおとぎ話的なクオリティが極めて高い作品であるということが出来、リアリティという側面に比重が置かれることが多くなった70年代以降、映画が失ってきたものの1つがこの寓話性であると私目は考えているので、その意味でも極めて貴重な作品であると思っています。ところで寓話性とは何かということを述べはじめるとこれまた色々な要素が挙げられると思いますが、ここではその内の1つであるリズムという側面を敢えて強調しておきたいと思います。すなわち、寓話とはある意味で寓話の持つリズムでもあるのです。よく出来た寓話ストーリーは、必ずやそれ独自の流れるようなリズムがあるのが普通であり、もしある特定の寓話が見る者の心に何かを訴えるとすると、それは単に内容面においてのみではなく、その寓話が見る者の心に一種の快楽的なリズムを刻むからでもあると言えるのではないでしょうか。私目が現在の映画に対して感ずることの1つが、内容面はひとまずおいておいたとしてもこの快楽的なリズムの欠如なのです。1つ例を挙げましょう。この「ショコラ」と日本でほぼ同時に公開された映画に「トラフィック」(2000)という映画があり、確か監督賞を含め何部門かオスカーを受賞したのではないかと覚えていますが、「トラフイック」は決定的に現代的な映画であると言うことが出来、流れるようなリズムどころか決定的に分裂的な印象を与える映画なのです。勿論、表面的に言えば3つのストーリーが交錯していてそれぞれのパートに違う色合いのフィルターがかかっているというようなこともありますが、それを差し引いたとしても全体的に力動的なリズムが全く感ぜられない映画なのですね。逆に言えばそれが現代社会をうまく象徴しているのだという言い方も勿論可能であり、それが故に「トラフィック」という映画は、現代社会の問題点を内容面においてのみでなくその形態的なレベルでもうまく表現しているという言い方が出来ることは否定出来ないでしょう。しかしながら、そのような映画を見たいと思っている人はいったいどのくらい存在するのでしょう。私目が見た限りではこの「トラフィック」という映画を理解するには、大変な労力が必要であろうなという印象があったのですが、この2つの映画が公開された当時間違いなく話題は「ショコラ」ではなく「トラフィック」の方にありましたが、本当に現代の観客は「トラフィック」のような映画に惹かれるのかなと随分疑問に思ったことがありました。いずれにしても、この「トラフィック」に代表される(しかもそれが評価される)ように、現代の映画には寓話性が持つ快楽的なリズムが全く欠如しているように私目には思われるのですが、そのような情勢の中においてこの「ショコラ」には間違いなくそれがあるのです。
それではどのような要素が、この映画の独特なリズムを生み出しているのでしょうか。まず第一にナレーションが効果的に挿入されているということが挙げられます。しかしながら、これはむしろ言い方が逆で、既に作品自体に独特なリズムがあるからこそナレーションが効果的に機能するのだと言うべきでしょう。従ってナレーションが効果的であるかどうかはその作品が寓話的なリズムを効果的に有しているかどうかの指標になるとはいえども、ナレーション自体がそれのみで寓話的なリズムを生出すことを保証するということにはならないのではないかと思われます。その点で言えばこの「ショコラ」のナレーションは極めて有効に機能しているように思われ、それがこの映画の持つ寓話的なリズムの存在の証になっていると言うことが出来るように思います。それに対して、「トラフィック」にもしナレーションが挿入されたと想像してみて下さい。それが如何にケッタイなものになるであろうかが容易に想像出来るのではないでしょうか。それでは、一体どういう要素が映画の寓話性及びそこから出来する快楽的なリズムを生んでいるのでしょうか。と自ら問いをたてておいて、残念ながらこれに明確に答えることは現在の私目の能力を遥かに越えているのですが、ただ1つ言えることは、この映画が非常に見事なのはショコラという1つのオブジェクトを極めて有効に利用し、それを中心として物語が展開されている点です。すなわち、ショコラという1つの象徴的中心点があって、その廻りに次々とストーリーが紡ぎ出されていくのです。勿論これから述べるようにこの映画は、社会に関する映画でありそれ故また人間に関する映画なのですが、それが展開されるのがショコラという1つのオブジェクトの廻りにおいてなのですね。ショコラ自体は単なるお菓子であり、それ自体がたとえば善であったり悪であったりということは絶対にないのですが、いわばそのようなそれ自体では価値的にニュートラル或いはこう言ってよければvoidであるような象徴的な中心があって(「ショコラ」のDVDに入っていた解説には、この映画でのショコラは伝統的な社会からははみ出た新しい息吹のようなものを象徴するというような類のことが書かれており、私目は確かにそれはそれで正しいと思うのですが、ショコラ自体にそういう象徴性を付与することが出来るという事実自体、ショコラというオブジェクトの持つニュートラル性を物語っているとも言えるわけです)、そこからその周囲に社会的或いは人間的なストーリーが次々と紡ぎ出されていくわけです。まさにそのような構造があるからこそ、ストレートに或いはよく用いられる用語を用いればリアリズム的な様式で社会や人間を語った作品には存在しないような多層性や寓話性がこの作品にはあるのです。
さて、寓話性という観点をまず最初に取り上げましたが、実は寓話とは単に架空のお話を意味するのみではないのですね。すなわち、寓話とは同時に社会性でもあるのです。大人が子供におとぎ話を聞かせる時、単にそれは面白可笑しい話を子供に聞かせて子供に受けようと思っているだけではないはずです。いわばおとぎ話を通して社会的な価値観を子供に伝授しているという側面もあるわけです。おとぎ話では正直者のきこりは最後に報われるのですが、欲張りのきこりは最後には全てを失うのです。何故ならば、寓話の中ではきこりは単なる個人的な事業主として扱われているわけでは決してなく、社会共同体的な一員であると見做されているからです。同様に、この寓話性の高い「ショコラ」という映画も社会や共同体に関する映画でもあるのです。面白いことにこの「ショコラ」という映画はアメリカ映画であるとは思うのですが、いかにもおとぎ話的にビューティフルな小さなヨーロッパの村が舞台となっており、またスエーデン生まれの監督ラッセ・ハルストレームを筆頭として、出演者の多くがヨーロッパ出身者なのです(主演のジュリエット・ビノシュはフランス、レナ・オリンはスエーデン、ジュディ・デンチはイギリス、アルフレッド・モリーナもイギリス(両親はスペイン人とイタリア人だそうですが、そう言えばサリー・フィールドの主演した「星の流れる果て」(1991)ではイラン人を演じていてそれ程不思議はなかったですね)、それから時折顔を見せる往年の大ミュージカルスター、レスリー・キャロンはフランス出身です)。すなわち作品自体極めてヨーロッパ的色彩が濃厚なのですが、これはある意味で必然的であると言えるように思えます。何故ならば、個人主義が極端に突っ走った感のあるアメリカの色彩が少しでも出てしまうと、社会や共同体というようなテーマはどこか遠くへ霞んでしまうのが必定であるように思われるからです。この「ショコラ」という映画で極めて重要な点の1つが、舞台となるヨーロッパの小さな村が堅牢な伝統的な共同体社会であるという点です。その伝統的な共同体にやってくるのが、着のみ着のままにヨーロッパ中を放浪するジュリエット・ビノシュ演ずるショコラ作りの職人親子(職人というのは定住的イメージがあるのであまり良い言い方ではないですね)であり、ジョニー・デップ演ずるジプシー達なのです。勿論、彼らはこの小共同体にとってはよそ者であり、アルフレッド・モリーナ演ずる町の有力者を筆頭に、町に住む多くの人々が彼らを敵視するわけです。町に住む人間で教会に通わない者は後ろ指を指されるのですが、それはそういう人間に宗教的信仰心がないと見做されるからであると言うよりは、共同体が定める無言の規約に彼らが従っていないと見做されるからなのです。そこへ新風を吹き込むのが、ジュリエット・ビノシュ達であり、従って彼女達が作るショコラは伝統的な社会からははみ出た新しい息吹のようなものを象徴するということにもなるわけですが、この辺りの展開は誰が見ても明らかであると思われますのでここで敢えてそれ以上その点を敷衍することは控えることにします。いずれにしても、かくしてこの映画が社会或いは共同体に関するストーリー(というよりはそれらに関するメタストーリーと言った方がいいかもしれませんが)であることは、誰が見ても明瞭であるのではないかと思われます。このようにして「ショコラ」は明らかに社会に関する映画なのですが、最新映画一口評の中でも書いたのですが、現在製作されているドラマ映画(殊にアメリカ映画)の中でこの映画のように個人や家族という範疇を越えた範囲でドラマが語られることは滅多にないのですね。ところで、ラッセ・ハルストレーム監督の前作「サイダー・ハウス・ルール」(1999)は孤児院と果樹園が舞台となっていましたが、象徴的なのは非共同体的且つ個人主義的な社会にあって見捨てられた孤児達を救済するというような共同体的な機能を果たしている孤児院が山の上に建っているということであり、大昔は共同体的な生活から逃れた人々が山に篭ったことを考えてみると、いわば昔と今を比較すると現代という時代においては世界が逆立ちしているということがよく分かるのではないかと思われます。もしこの「ショコラ」がそのように個人主義が孤人主義にまで暴走して世界が逆立ちしてしまったアメリカのどこかの村を舞台にしていたとするならば、絶対にこの映画のような小共同体的な側面が1つのテーマ或は材料として現れ又取上げられることはなかったであろうと思われます。故にヨーロッパ的色彩が濃厚なのは必然的であると述べたわけです。
さてさて、実を言うとこの映画に関して私目が最も注目している点は、寓話性、社会性という点以外(或いはそれに関連するかもしれませんが)にもあって、それはこの映画を見ていると外部の重要性及び同時に外部の存在はまた内部の存在なくしてはあり得ないという事実がよく分かるという点です。前段で述べたようにこの映画では、伝統のしがらみで停滞してしまった小さな共同体に新たな力動性を付与するのはジュリエット・ビノシュやジョニー・デップ演ずるよそ者達なのですね。いわば外部の人間達なのです。しかしながら安定した伝統を持つ小さな共同体という内部との交換がなければ、外部はそれ自体では単なる根無し草にすぎないのです。ところで、歴史を紐解いてみると外部の存在及び外部と内部のダイナミックな交換関係が如何に歴史の進展において重要であったかが分かるのではないかと思われます。たとえば、残念ながら私目は縮訳版しか読んだことはありませんが「歴史の研究」という大著を書いたアーノルド・J・トインビーの提唱する文明史観などは、文明の創造的発展進化や滅亡というような事象を他の文明(すなわち外部)とのコンタクト等の力動的な関連で説明しているという点において、歴史における外部と内部との力動的相関性の重要性をものの見事に物語っているのではないかと思われます。また現在ようやく読み終えようとしているフェルナン・ブローデルの歴史大著「地中海世界」などでも、16世紀当時の地中海諸国においては戦争等で外部との関係に集中せざるを得なかった時期は内部的にはかえって安定した時期であったが、そういう外部的な事象が全く発生していなかった時期は逆にお家騒動などで内部的には極めて不安定である場合が多かったというようなことが書かれています(これをそのまま21世紀に当て嵌めることは出来ないでしょうが)。そもそも外部とのコンタクトを意味する交易のようなアクティビティが歴史の進展に与えた計り知れない影響を考えて見ると、外部の存在は内部の発展(或いは場合によっては滅亡かもしれませんが)においてなくてはならない存在であったということが出来るのではないかと思われます。またこれは何も人類史だけではなく、科学史などにも等しく当て嵌まることであり、ここでは詳述しませんがトマス・クーンの「科学革命の構造」なども同様な文脈の中で読むことが可能であるように思われます。それから、確かベルジャエフか誰かではなかったかと思いますが、1つの組織の中には異分子も含めないとその組織の創造的な進化発展は有り得ないというような主旨のことが述べられていたように思いますが、要するに内部だけで凝り固まってしまうと、この「ショコラ」の(ビノシュ達がやって来る以前の)小さな村のように全てが沈滞してしまうわけです。しかしながら注意する必要があるのは、外部が全てであるというわけではなく、その前提として内部の存在がなければそもそも創造的に進化する母体となるべき基盤そのものが存在しなくなるわけであり、この「ショコラ」で言えばジュリエット・ビノシュやジョニー・デップと同程度或いはそれ以上に、アルフレッド・モリーナやキャリー・アン・モス達が代表する共同体の内部に住まう者達も重要な意味を担っているわけです。この映画で見逃してならないのはまさにこの点であり、ショコラは単に新奇な何ものかを象徴しているというだけではなく、外部と内部の交換というダイナミックな営みがそこには含意されているのだということを読取る必要があるのではないかと思われます。余談ながら、それにしてもインターネットの発達によって地球が全て情報的には1つの巨大な内部になってしまったならば、世界はいったいどういうことになってしまうのかなという疑問がムクムク湧いてきますね。また、世界的なアメリカナイゼーション或いはパックスアメリカーナのような状況が今後更に進んだ場合、世界は一体どうなってしまうのかという疑問がこれまたムクムク湧いてきます。外部がなくなった内部ばかりの世界、そこには一体何があるのでしょうか。
というわけで、この「ショコラ」は近年稀に見る傑作ではないかと私目は考えています。今まで述べてきたことは別としても、兎に角舞台となるヨーロッパの小さな村のおとぎ話のような風景は実にビューティフルでありまたわざとらしくはなく自然なのですね。音楽もまたなかなかストーリーや舞台にフィットしているのが素晴らしく、最新映画一口評でこの映画に関して述べたことと若干矛盾するかもしれませんが(まああのコーナーはたった1回見ただけで書いているのであり、何につけても第一印象とそれ以後が異なるなどということは日常茶飯事なのでお許し下さいませませ)、この映画に関しては文句のつけどころはほとんど見当たりません。絶対的なお薦め作品です。ただ、フライドチキンにチョコレートをぶっかけて恍惚とした表情で皆食べているのですが、そんな気色の悪いものが食べられのでしょうかとふと疑問に思ってしまいました。尚、少し触れましたがかつてミュージカルの女王の一人であったレスリー・キャロンが顔を見せているのが1950年代や1960年代の映画のファンにはお楽しみですね(それとも年老いた姿は見たくはないかな?)。

2003/02/15 by 雷小僧
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