八十日間世界一周 ★☆☆
(Around the World in 80 Days)

1956 US
監督:マイケル・アンダーソン
出演:デビッド・ニブン、カンティンフラス、ロバート・ニュートン、シャーリー・マクレーン


<一口プロット解説>
デビッド・ニブン演ずるフィリアス・フォッグは、リフォーム・クラブの仲間と世界を80日間で一周出来るかという賭けをし地球一周旅行を実際に敢行する。
<入間洋のコメント>
 かつて「兼高かおる世界の旅」というテレビ番組において、ビクター・ヤングの手になる「八十日間世界一周」の有名なテーマ曲が流されていて、いかにも旅をするという雰囲気が伝わってきたものであったが、世界一周とはいつの時代になっても人々のロマンの1つであり続けるのだろう。そのようなロマンを豪華絢爛な一大絵巻として描き、エキゾチックな国々があたかも紙芝居でもあるかのように次から次へと走馬燈のように現れ、それによってオーディエンスを魅了するのがこの「八十日間世界一周」という映画である。実はこの点がこの映画のセールスポイントでもあると同時に欠陥でもある。欠陥でもあるという理由は、この作品にはその構成上どうしても種々雑多なイベントの羅列であるような印象を与えざるを得ない側面があるからである。すなわち、この映画は内容的な側面をある程度犠牲にしてまでもエンターテインメント性をマキシマイズさせたタイプの映画の典型であり、何十人もの有名スターのカメオ出演にその傾向の一端が見て取れる。有名スターのカメオ出演とは、それがたとえわずかな時間の出演であったとしても映画全体の印象を大きく弛緩的な方向に変えてしまうのが普通である。何故ならば、有名スターのカメオ出演とはそのスターが有名であるからちょっとだけ顔を見せるのであり、一種の自己満足的な宣伝という要素が強く、当の映画の本質的な部分とはほとんど関係がない場合が多いからである。たとえば散漫な印象を与えることが致命的な結果をもたらしかねないシリアスなドラマ映画やサスペンス映画などでは、有名スターがチラリと一瞬だけ顔を出すというようなことがほとんどないのはこの故であるように思われる。「八十日間世界一周」ではそれが一人だけではなく何十人にも及ぶのであり、裏を返せばこの映画はそのような有名スターのカメオ出演に次から次へと気を取られてもさして支障がないような映画であり、この作品の本質は何はともあれオーディエンスに華やかなショーマンシップに基づいた最高のエンターテインメントを提供することであったということが理解出来よう。我が家にいながらにして世界一周旅行の豪華な気分を味わう、これがこの映画のメインコンセプトであり、そうであるからこそあたかも豪華客船の中で演じられる豪華ショーのように、有名スターのカメオ出演というエンターテイニングなアトラクションが、次から次へとオーディエンスの眼前で繰り広げられるのである。一言で言えばこの作品は、一時的に我が家を世界一周豪華客船の旅というバーチャルワールドに変える映画であり、実はこのことは後述するように「八十日間世界一周」という冒険小説が持っていた特質とも極めて良くマッチしているようにも思われる。

 話は変わるが、実は最近ジュール・ヴェルヌの原作をフランス語の勉強を兼ねて原文で読み直したのでそこで気が付いたことをいくつか挙げる。まず、主人公のフィリアス・フォッグについてであるが、原作ではあまり感情を外に出さない典型的にイギリス紳士的なキャラクターとして描かれている。映画ではデビッド・ニブンがこの役を演じているが、ニブンは確かにいかにもイギリス的であるとは言え、原作における寡黙な紳士というイメージとは程遠い。この点に関しては、次のような解釈が可能ではないかと考えられる。すなわち、原作を書いたジュール・ヴェルヌはフランス人であり、「八十日間世界一周」という作品には、主人公のフィリアス・フォッグ及びリフォーム・クラブの他のメンバーを通じてやや隣国イギリスを風刺しているような側面があるのではないかということである。これに対し映画バージョンは勿論英米のスタッフ/キャストを主軸に製作されており、そのような風刺的側面を敢えて強調してもあまり意味がなかったはずである。確かに映画中でも、冒頭のシーンでこそフィリアス・フォッグに関して、彼の召使を務めるならば風呂の深さやトーストの温度が少しでも違っていてはならないなどという性格付けがなされ、直後のシーンでは実際に彼が召使のパスパルトー(カンティンフラス)に綿密なタイムテーブルを渡すようなシーンがあるが、ストーリーの進行につれてこのような性格付けは全くどこかに消し飛んでしまう。この事実からは、あたかも少なくとも冒頭においてのみは、取り敢えず原作に敬意を払って置こうとしたかのような印象すら受ける。

 また、原作と映画で大きく異なるのが、後者では1つのハイライトともなる気球でのアルプス(ピレネー?)越えのシーン及びそれに続くスペインでの闘牛シーン(私見になるが他の部分は快調なテンポでストーリーが進行するのに比べこの闘牛シーンは長すぎる印象がある)は原作には全く存在せず、原作では主人公のフィリアス・フォッグ一行はイギリスを出発するといきなりスエズに現れる。このことは大したことではないように思われるかもしれないが、私見ではこの事実は非常に大きな意味があるように考えている。というのは、原作が書かれた時代がどのような時代であったかが、この事実によって浮き彫りになるからである。ジュール・ヴェルヌが「八十日間世界一周」を書いた19世紀後半とは、西側列強諸国が植民地主義を標榜し経済的にも文化的にも世界各地で搾取を繰り返していた時代であり、フランスもその例外ではなかった。そのような時代の中で書かれたこの冒険小説も、いくらヴェルヌが進取的な人物であったとしても多かれ少なかれ時代の特質を反映せざるを得なかったはずであり、この冒険小説の視点にもかなり西洋中心的色合いが含まれていてもそれ程不思議なことではない。たとえば映画では東洋的な顔立ちのシャーリー・マクレーンが演じているインドの王女を原住民から救い出しイギリスに連れ帰るエピソードなどはその典型例であり、西洋=文化的、非西洋=非文化的という西洋中心思考的色合いをここに見分けることはたやすい。その点を考慮すると何故原作ではアルプス越えやスペインでの闘牛シーンが存在しないかが明瞭になる。すなわち、ヴェルヌにとっては、ヨーロッパ内部は自らの主観的な範疇に属する領域であるが故に世界一周がテーマである作品の中で描かれるべき、すなわち利用(exploit)されるべき客観的な対象として存在してはいなかったということである。冒頭で「八十日間世界一周」という作品は一時的に我が家を世界一周豪華客船の旅というバーチャルワールドに変える作品であると述べたが、原作に関して言えばそのことは植民地主義的な視点から世界を輪切りにすることでもあったことになる。

 そのように考えてみると、主人公フィリアス・フォッグの行動も興味深く、映画ではやや異なるところもあるとはいえ、少なくとも原作においては、彼は世界一周をしながらほとんど常に汽車や客船の中でホイストをしているだけであり、世界各地の住民と接触する役はほとんど全て召し使いのパスパルトーが担当している。もともとジュール・ヴェルヌの冒険小説には、たとえば最近の映画で言えば「ハリー・ポッター」シリーズや「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズとは異なり、自ら行動することを通じてのメインキャラクターの成長という視点が全く存在しないという特徴があるが、この作品もその例外ではなく主人公とも言うべきフィリアス・フォッグは、物理的には世界一周をしながら頭の中で展開する世界に関しては実は自分の住む祖国イギリスから一歩も外に出てはいない。すなわち、主人公のフィリアス・フォッグとは、実はアームチェアに座ってこの映画を見ている我々とほとんど変わらない位置を占めているのではないかということである。これが、「八十日間世界一周」という映画が「八十日間世界一周」という冒険小説の持っていた特質とも極めて良くマッチしているように思われると述べた理由である。

※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。

2005/01/08 by 雷小僧
(2008/10/15 revised by Hiroshi Iruma)
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