The Shooting Party ★☆☆

1984 UK
監督:アラン・ブリッジス
出演:ジェームズ・メイスン、エドワード・フォックス、ドロシー・テュティン、ジョン・ギールグッド

左:ジェームズ・メイスン、右:ジョン・ギールグッド

「The Shooting Party」というタイトル通り、20世紀初頭、貴族達が集まってひたすらキジ撃ち(実際撃っているのはキジではないのですが、他に言い方を知らないのでキジ撃ちと言っておきます)をする映画です。ビデオのパッケージには、新しい時代の到来とともに没落していく貴族の様子が描かれているというような主旨のことが書かれていますが、私目が見る限りにおいてはストーリーラインそのものから時代の変遷と貴族の没落というようなメッセージを直接読み取るのはかなり困難であるような気がします。しかしながら扱っている題材であるキジ撃ちそのものがまさに時代の変遷を物語っているとも取ることが出来るのですね。何故ならばたとえばキツネ狩りなどでもそうなのですが、何故貴族達はあのような現代の我々の目から見れば実に無意味な遊びに打ち興ずるかと言うと、まさにそれらの遊びを通して貴族社会の様式そのものの再生産が行われているからなのです。いわばフォルムとしての再生産であり、貴族が貴族である為のアイデンティティをキツネ狩りやキジ撃ちを通して再確認しているわけです。ところが20世紀初頭ともなると、世間一般は最早貴族−非貴族というような分割線に沿って社会構造が分化されるような時代ではなくなってくるのです。そうではなくて、これより遥か以前の時代から徐々に影響力を持ちはじめた様式である、生産の概念を基盤とするブルジョア−非ブルジョアという分割線が社会構造を分化規定するようなあり方がまさにここに至って全盛期を迎えんとしていたわけです。ここで気を付ける必要があるのは、このような社会変化によって貴族−ブルジョワという対立様式が発生してくるのでは決してないのです。そうではなくて、貴族であるかどうかは社会構造が確立する基盤としては最早全く無意味無関係(日本語の無関係という語よりも英語のirrelavantという単語がピタリとあてはまります)になりつつあったということを意味し、このことは貴族の立場からすれば貴族−ブルジョワという対立様式の発生などよりも余程決定的なダメージになるわけです。何故ならばこのことは勝敗は既に彼らの手の内には全くないことを意味するからです。この映画が描くキジ撃ちが示すものとは、新興勢力たるブルジョワ階級がよって立つ原理である「生産性」とは全く相容れないものであり、貴族としての自らのアイデンティティを確認する為に、また新たなる新興勢力たるブルジョワ階級に何とか対峙する為に、ひたすら生産性の原理とは全く無縁な行為であるキジ撃ち(彼らは撃ったキジを食用に供するわけではきっとないでしょう。何故ならばもしそうしてしまうとキジ撃ちも一つの生産行為として見なされ得るからです)やキツネ狩りに走るわけです。歴史家ノーベルト・エリアスによれば絶対王政が確立したのは貴族階級と新興のブルジョワ階級の調停者としての位置を王が占めるようになったからであるということですが、20世紀初頭ともなると調停者としての王自身が歴史から姿を消しつつあったわけであり、それは同時に調停者を失った貴族自身の没落をも意味しているわけです。この映画でジェームズ・メイスンやエドワード・フォックス達が意地とも思える程に執拗にキジ撃ちに打ち興ずるのは、新興ブルジョワ階級がよって立つ原理「生産性」をシンボリックに否定する行為であるキジ撃ちを繰り返すことを通して、自らのアイデンティティを執拗に再確認し、当時の貴族達が占めていた極めて危うい位置から何が何でもすべり落ちないようにしようとしているかのようにも見えるわけです。かくして、この作品はエンターテインメント的観点から言えば目茶苦茶面白いとはとても言えない映画なのですが、歴史的な転換期の有り様を実にシンボリックにうまく捉らえた作品であると言えるように思います。


2002/08/31 by 雷小僧
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