ワーキング・ガール ★★★
(Working Girl)

1988 US
監督:マイク・ニコルズ
出演:メラニー・グリフィス、ハリソン・フォード、シガニー・ウイーバー、ジョーン・キューザック

左:メラニー・グリフィス、右:ハリソン・フォード

以前旧バージョンの当サイトにおいて、この映画のレビューを書いて掲載していたことがありますが、何回かそれに関するコメントをメールで頂いたことがあります。その時のレビューに書いてあったのは、女性の社会的地位に関してでしたが、しかしながらその後何度かこの映画を見ていて気が付いたことは、この映画の大きなポイントはそれとは別のところにあるということです。それについては後述するとして、まず前者に関してもう一度コメントしておきます。この映画ではキャリアウーマンがフォーカスの対象となっているわけですがメラニー・グリフィス演ずる主人公もシガニー・ウイーバー演ずるそのライバルも女性です。その意味で言えば、この映画が与える印象は、アメリカ社会においてと日本社会においてでは恐らく異なるであろうなということが予想出来ます。何故ならば、21世紀になった現在においても、日本では女性が社会的に高い地位を占めるケースは稀であるのに対し、アメリカなどでは、たとえば私目の所属するIT業界においても女性のCEOなどというケースもかなりあります。勿論、「ワーキング・ガール」は映画なので誇張があるのは当然なのですが、しかしながら本質的な意味においてはアメリカではこの作品のストーリーは日本における場合に比べればより現実的な色合いが濃いのではないかと考えられます。

余分なことになるかもしれませんが、日本で何故女性が社会的に高い地位を占めるのが困難であるかというと、日本の社会構造自体が余りにもツリー構造的な位階級的形態に縛られているが故ではないかと考えられます。勿論江戸時代の士農工商的なカースト制度が外面的に厳然と残っているわけではありませんが、本質的なところでは現在になってもまだそのような考え方に根強く支配されているのではないかと考えられます。ツリー構造的な構造下においては、異質なものの受入れが非常に困難になるのですね。というのも、このような構造下で頭角を現すには、ツリーの下の方から徐々に上の方に這い上がっていかなければならないわけですが、ツリーの上の方のパワーは下の方のパワーに比べれば遥かに強大であるというのがこの構造の特質であり(だからこそ組織全体が安定化するわけであり、極端な例を挙げれば創造性よりも任務遂行が遥かに重視される軍隊等では、組織の安定が再重要視されるが故にツリー構造が必然になるわけです)、順番を飛ばして下から上に到達することが極めて困難になるからです。その結果、自らの地位が向上する機会というのは、上の方から順番にリタイアしていくことにより、自分の属するノードが相対的に上がっていくというような極めて限定されたものでしかなくなり、社会全体がどうしても年功序列的なものになってしまうことになります。このような社会においては、変化を受け入れることが極めて困難になり、異分子が高い地位を占めることも滅多になくなってしまうわけです。何故ならば、高い地位に達するには長い時間が必要であり、異分子は異分子であるが故にその長い時間の間に遅かれ早かれ排除される傾向にあるからです。また現行のステータスクオから少しでも逸脱するようなアイデアを持っていればそのことは立ち所に異分子というレッテルを貼られ排除の対象となってしまうことを意味するが故に迎合的な雰囲気が助成されることになり、要するにゴマ摺り社会になってしまうわけです。ましてや女性には別の社会的役割が割振られているわけであり、日本の現行のシステム下においては、この「ワーキング・ガール」のようなストーリーは、ほとんど非現実的な夢物語にしか見えないかもしれません。まあ私目はアメリカに住んだことはないので本当のところは良く分かりませんが、このような映画が存在することから考えてみても、この点に関する見方はアメリカではかなり違うのでしょうね。

というわけで、女性の社会的地位というお話はこの程度にしておくことにして、冒頭で述べたそれ以外のポイントとは何かということに移りたいと思います。この映画はニューヨークという大都会が舞台になっていますが、以前からいくつかのレビューで述べているように、70年代を過ぎると未来の象徴としての都会に対する信頼が急速に薄れてきて、都会は単に批判の対象にしかならなくなってしまい、映画においてもその傾向が色濃く出現します。この「ワーキング・ガール」という映画は80年代も末の映画であり、そのような傾向が当然のようになった時点において作成された映画であるということになります。しかしこの映画に描かれている内容は、そのような傾向とは全く逆であり、ある意味で都会での成功に対する賛歌でもあると言えるでしょう。その意味において、この映画は非常にタイミングの良い映画であったと言えるのではないでしょうか。都会或いは都会でのサクセスストーリーがシニカルな目で見られるようになって以来、久方ぶりに出現した都会の未来に対する希望、憧憬を感じさせることが出来る映画であると言えるでしょう。またこの映画ではメラニー・グリフィス演ずる主人公が考えたアイデアが、最後にはフィリップ・ボスコ演ずる大会社の社長に認められるところになるわけですが、斬新なアイデアを出せば必ずやどこかで認めて貰えるであろうというような、前段で述べたようなツリー構造でがんじがらめに縛られた日本のような社会では望み薄な、そのような創造性に対する進取的でポジティブな見方が、素直にこの映画では表現されているとも言えます。そのような未来や創造性に対する希望や期待感は、オスカーを受賞した主題歌「Let the River Run」からも実に見事に伝わってきます。確かにストーリー自体は、言わばシンデレラ的なものであるかもしれませんが、この映画が表現しようとしている希望や期待感は、たとえば今の日本にはほとんど存在しないものであると言えるのではないでしょうか。またこのような希望や期待感が存在しなければこれからの社会を推進していく力動感も失われしまうのであり、その結果余計に希望や期待感が持てなくなってしまうという悪循環から逃れられなくなってしまったというのが今日この頃の日本であると言えるかもしれません。21世紀を越えて疲弊しきった今日においてこそ、この映画の有するパワーを「そんな都合のいい話が現実にあるわけがないではないか」というようなシニカルな目で捉えるのではなく、もう一度素直に受け入れてみることが必要なのではないでしょうか。

最後に出演者に関してですが、主演のメラニー・グリフィスはこの映画では非常に良いですね。正直言うとメラニー・グリフィスという女優さんは、殊にどうもしゃべり方が素人っぽいような気がして、他の映画ではいまいち好きにはなれないのですが、この映画では彼女のそのような素人っぽさが逆にプラスになっているように思われます。すなわち、新鮮さが感ぜられるということです。サポート役のハリソン・フォードも、そのようなメラニー・グリフィスの持つ効果を消さない程度にあまり突出しないように出演していて好感が持てます。ケビン・スペイシーやアレック・ボールドウインというようなその後頭角を現してくる俳優さん達も出演していますが、この映画に関して言えばまだまだですね。


2003/12/20 by 雷小僧
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