巨象の道 ★☆☆
(Elephant Walk)

1954 US
監督:ウイリアム・ディターレ
出演:ピーター・フィンチ、エリザベス・テイラー、ダナ・アンドリュース
左:エリザベス・テイラー、右:ピーター・フィンチ

 エリザベス・テイラーが出演しているとはいえ、現在ではほとんど忘却の彼方に沈んでしまった感のあるこの映画(どうやら最近になって国内でもDVDバージョンが発売されたようだが)を取り上げた理由は、この映画が隠れた名画であるからではない。正直に言えば、現在ではこの作品が巷で話題になることはまずないという事実にはもっともな理由があり、象のスタンピードシーンという見せ場はあるにしても、ストーリー自体は極めて凡庸であるというのが偽らざる事実である。1950年代前半には、カラー映画の利点を引き出す為にエキゾチックなアジアやアフリカを舞台とした映画が数多く製作されていたことは既に述べたが、メインの舞台がセイロン(スリランカ)に設定されているこの作品もそのような時代風潮に便乗して製作された作品であると見なしても差し支えなかろう。確かに、数え切れない程の象が「出演」しているので、エキゾチックという点に関しては文句無しであるが、ストーリーが凡庸であれば、殊にカラー映画が当たり前になる後年になってこの作品が再評価されることがまず有り得ないのは当然だろう。

 それでは何故わざわざこの作品を取り上げたかと言うと、その当時の時代性を反映した「植民地主義の終焉の始まり」を象徴するような内容が極めて興味深く、映画は文化社会史の反映でもあるという本書のテーマを敷衍する為の格好の材料であると見なせるからである。中学、高校の歴史で学んだように、19世紀から20世紀初頭にかけて全盛を迎える西欧列強諸国の帝国主義とその経済面での出現形態である植民地主義は第二次世界大戦後終焉を迎え、アジアやアフリカの諸国が続々と独立するようになる。植民地主義の終焉に関しては、たとえば近くは香港返還のようなイベントを考えてみれば分かるように、現在でも完全に終結したと言い切れるわけではない。しかし植民地主義の終焉の始まりは、第二次世界大戦が終了して一息ついた頃、すなわちこの映画が製作された頃に該当する。たとえばアジア、アフリカ諸国の自立促進を謳ったバンドン会議が開催されたのもこの頃である。また、少なくとも政治上の分割線に関しては、1950年代以降はむしろ南北から東西へと軸そのものが移行していく。そのような植民地主義の総元締めの1つがイギリスであり、その最大のターゲットの1つがこの映画の舞台であるセイロンも含めたインド地域であった。

 タイトルにある「巨象の道」とは、実はそのような英国植民地支配の恩恵を十二分に受けて大富豪になった主人公(ピーター・フィンチ)の住む広大な屋敷のことを指すが、何故そのように呼ばれるかと言うと、この屋敷が建てられている場所は無数の象が水を飲みにいくルートの真只中に位置しているからである。いわば現地の自然な流れをブロックするような位置にわざわざ建てられたこの広大な屋敷は、帝国主義に基づいた植民地支配がどのような性質のものであったかを雄弁に物語っている。この為、怒った象の一団が屋敷を破壊しようと始終突進してくる為、常に警戒を怠ることが出来ないという設定がストーリーの基本にある。これはまるで、イギリスの植民地支配に対する現地民の反乱のようでもあるが、その中でも最大規模のセポイの反乱が結局弾圧されたのとは異なり、この映画では植民地支配の象徴のような広大な屋敷は怒り狂った象達に完膚なきまでに蹂躪される。第二次世界大戦後、相次いで英国領の植民地が独立し、少なくとも形骸としては残っていたイギリスの世界支配の終焉が名実ともに明白になるが、この象のスタンピードシーン、及び屋敷が破壊された結果親子二代に渡って支配し続けてきた地から立ち去ることを主人公達が決意するラストシーンは、大英帝国の世界支配の終焉を見事にそして劇的に物語っていると見なすことが出来る。

 それでは、この映画のスタッフは実際にそのような現実の歴史の流れを直視し、植民地主義の終焉を客観的に描くことを目的としてこの映画を製作したか否かということになると、それはかなり疑わしい。というのも、帝国主義的植民地支配のナレーションに基づいたシーンがこの作品には散見されるからである。たとえば、現地使用人のチーフがいつもこっそりと主人公の厳格な父親の墓の前で懺悔や相談をしている様子が描かれている。現地人に植民地主義の象徴のような人物を崇拝させること、これは文字通り植民地主義の基本戦略の1つでもあり、現地人自身を自分達の戦略に巻込み、イギリス=主人、現地人=奴隷という図式を内面的に植え付ける巧妙なタクティクスがそこには見え隠れしている。また、疫病(plague)の発生が挙げられる。疫病という用語が使用される背景には、実は優劣の基準として機能する権力の行使がこっそりと裏側から持ち込まれていることが多い。たとえば、イギリスのような進んだ国では中世は別としても現代では疫病は発生しないはずだと考えられているのではなかろうか。これはイギリスでは医療が発達しているから疫病が発生しないということを意味するよりは、文化文明の発達したイギリスにおいては、論理的に疫病は発生不能であると見なされなければならないが故に、イギリスで発生する病気は決して疫病とは呼ばれない或いは疫病として分類されないことを意味する。従ってもしそれが実際に発生すれば徹底的に囲い込まれ、あたかも疫病など発生しなかったかのように、或いは最低でも例外事象として扱われる。この映画でも疫病が発生するが、その扱いはあたかもセイロンのような文明の遅れた地域ではいくら風光が明媚であったとしても疫病が発生するのは自然の摂理に従った当然の成り行きであるとでも言いたいが如くぞんざいであり、その背景には疫病が発生するのが当然であるような遅れた国であるセイロンが文化文明の発達したイギリスに支配されることは至極当然であったというステートメントが潜んでいる。いずれにしてもこの作品の製作スタッフにわざわざ植民地支配の終焉を冷徹に描く意図があったとはとても思えないことは確かであるが、結果的にはそのようなテーマが自ずと浮き彫りにされていることもまた確かなところである。すなわち、現在の目から見ればこの映画そのものが1つの歴史の証言であると見なすことが可能であり、それ故このような一般には全く人気のない映画をわざわざ取り上げた次第である。


※当レビューは、「ITエンジニアの目で見た映画文化史」として一旦書籍化された内容により再更新した為、他の多くのレビューとは異なり「だ、である」調で書かれています。


2002/10/26 by 雷小僧
(2008/10/06 revised by Hiroshi Iruma)
ホーム:http://www.asahi-net.or.jp/~hj7h-tkhs/jap_actress.htm
メール::hj7h-tkhs@asahi-net.or.jp