8.アクション映画のルーツはイギリス映画?
《007は殺しの番号》
1962 UK
監督:テレンス・ヤング
出演:ショーン・コネリー、ウルスラ・アンドレス、ジョセフ・ワイズマン、バーナード・リー
「007は殺しの番号」(この映画は再公開時には「007/ドクター・ノオ」として上映されており、DVD等でもそちらのタイトルが採用されているようである)は、言うまでもなくかの007ジェームズ・ボンドシリーズの第一作であり、映画ファンで知らない人はまずいないだろう。シリーズの他の作品ではなくこの作品を取り上げたことに大した理由はなく、実はボンドシリーズであればどれでも構わなかったが、第一作ということで敬意を表し取り敢えずこの作品を挙げた。ということを前置きとしてさっそく本題に入るが、ボンドシリーズの特徴は何かと問われた時、何と答えるべきであろうか。それに対し、筆者はアクション映画であると答える。何だ、当たり前田のクラッカーではないかと思われるならば、少し待って頂きたい。何故ならば、このことは見かけ程単純ではないからである。今でこそアクション映画が全盛で、日本に入ってくるアメリカ映画の多くがこのジャンルに属するが、ボンドシリーズの製作が開始された1960年代前半には、現代的な意味におけるアクション映画はまだ成立していなかった。勿論、戦争映画、歴史活劇、西部劇或いはギャング映画のようなアクションシーンがふんだんに挿入されるジャンルは遥か昔から存在していたが、それらは決して現在のアクション映画と同じ意味においてアクション映画と呼べるわけではない。何故ならば、かつてより存在していたそれらのジャンルに属する映画においては、アクションを見せる為にアクションシーンが挿入されているわけではなかったのに対し、現代のアクション映画は、アクションを見せる為にアクションシーンが挿入されているようなものだからである。大袈裟な言い方をするならば、前者ではストーリーを語る為にアクションシーンが挿入されていたのに対し、後者ではアクションシーンを見せる為にストーリーが語られるのである。何しろ1960年近くになっても、本書でも取り上げた「北北西に進路を取れ」のような作品が、ある意味でアクション映画であると見なされていたのである。現代のオーディエンスからすると、よわい既に50代のケーリー・グラントが息を切らせて走り廻るのがアクションであるとは信じがたいものがあるだろう。すなわち1960年代前半には、現代的な意味におけるアクション映画はまだ存在していなかったということである。
そのような時代に登場したのがボンドシリーズであり、何が画期的であったかというと、このシリーズで現代的意味におけるアクション映画が文字通り本格的に花開いたことである。本格的にという但し書きを付けたのは、実はボンドシリーズ第一作の「007は殺しの番号」が製作されるより以前にも、戦争映画ではあるが現代のアクション映画に近い作品が、既に登場していたからである。それは、「ナバロンの要塞」(1961)である。「ナバロンの要塞」はアリステア・マクリーンの冒険小説が原作の映画であり、第二次世界大戦中の地中海が舞台であるとはいえ、どちらかと言えば戦争映画というよりもアクションが主体の映画であった。すなわち戦場が舞台でありながら戦争が描かれているというよりは、ヒーローアクションが描かれていたのである。この「ナバロンの要塞」と同工異曲の映画でアクション度がマキシマイズされた戦争映画として「荒鷲の要塞」(1969)が挙げられるが、後者においてクリント・イーストウッドとリチャード・バートン演ずる主人公達に銃弾が雨霰と浴びせられても彼らにはただの1発も命中しないにも関わらず、敵がバッタバッタとなぎ倒されていく様は、もはや現在のアクション映画と何ら変わるところはない。ボンドシリーズも同様であることは、冗談かと思える程目茶苦茶な最新作「ダイ・アナザー・デイ」(2002)を取り上げるまでもなく、たとえばシリーズ第二作「ロシアより愛をこめて」(1963)のラスト近くのモーターボートチェイスシーンを見れば明らかである。実は面白いことにこれまで挙げてきた映画は全てイギリス産の映画であり、現在ではハリウッドの専売特許であるように思われているアクション映画も、そのルーツは意外や意外イギリス映画にあったということになる。すなわち、アクション映画というジャンルを開拓したのが、これらのイギリス映画であったことになり、それ故ボンドシリーズの特徴がアクション映画であるということが見かけ程単純ではないと言ったわけである。
従って、かくして新境地を切り開いたボンドシリーズには個々の要素を取り上げても斬新な点が多々ある。まずオープニングタイトル前のプレタイトルシーケンスを取り上げてみよう。実は、ボンドシリーズではプレタイトルシーケンスにはメインストーリーとは何の関係もないシーンが配置されていることがしばしばある。わざわざ本来のストーリー展開とは全く関係のないシーンが脈絡なく挿入されていることになるが、ストーリーの一貫性を崩すことにもなりかねないそのような構成がそれ程不思議に思われないのは、もともとボンドシリーズ諸作品の重心がストーリーそのものにあるわけではなく、アクション映画として個々の瞬間的なアクションに置かれているからである。そのことは、ガジェットマスターQの発明した数々の秘密兵器について考察してみればより明瞭になる。とどのつまり、これから都合のよい場面で都合よく使用される兵器が冒頭で紹介されていることになるが、「まるで未来を予見したかのような都合のよい兵器ばかりよく予め用意しておくことが出来たな」などというようなチャチャは誰も入れたりはしない。ストーリーを真面目に考えるのであれば、このQのガジェットはストーリーの関節をはずす結果にしかならないが、普通であればストーリーの信頼性を失わせるはずのQのガジェットの存在も、ボンドシリーズの作品としての信頼性を失墜させることには全くならない。それは何故かと言うと、ボンドシリーズにおいては、ストーリーを語る為にこれらのガジェットが使用されるアクションシーンがあるのではなく、アクションシーンを見せる為の繋ぎとしてストーリーが存在するという了解がオーディエンスの側にもあるからである。
次にボンドガールを取り上げてみよう。ボンドガールとは、ボンドを最初から支援するガールということではなくむしろ最初は悪漢のガールフレンドである場合が多く、いわばボンドの敵方の人間である場合が多々ある。それにも関わらず、いつのまにかボンドと行動を共にしているのである。「ゴールドフィンガー」(1964)のオナー・ブラックマンに至っては、ボンドとムフフという展開になっても、傍らで悪の片棒をかついでいるのである。或いは「007は殺しの番号」のウルスラ・アンドレスのように海中から突然出現したりする。このアンドレスの登場の仕方も当時は実に衝撃的であったようだが、勿論ビキニ姿のアンドレスが衝撃的であったということもあろうが、それ以上に何の脈絡もないところから突然現れて以後ボンドにくっついている彼女の存在が実に唐突で新奇な印象を与えたということもあったのではなかろうか。明らかに、そのような展開はアクション映画だからこそ可能であったのである。最後に悪漢どもを取り上げてみよう。ボンドシリーズの悪漢どもは徹底的にまた滑稽な程に悪漢であり、言ってみればワルのクリーシェのような存在がボンドシリーズの悪の親玉である。けれども、この悪漢どもの明瞭性はストーリー上の明瞭性を意味するわけでは決してなく、むしろ瞬間的な漫画的フィギュアとしての明瞭性に過ぎない。たとえば、これらの悪漢どもには、よく出来たストーリーの主人公やそのライバルに付与される生い立ちや経歴が全く与えられていないのであり、ウルスラ・アンドレスが海中から突然出現したように、ボンドシリーズの悪漢どもも何の理由もなくただそこに悪漢として突如出現する。すなわち、一言で言えばアーケードゲームのボスキャラと全く同じである。アーケードゲームのボスキャラに存在根拠など必要ではないのと同じように、アクションシリーズとしてのボンドシリーズの悪漢どもに存在根拠など必要はないのである。
かくして今でこそアクション映画は花盛りで並のアクション映画など見飽きた映画ファンが多いはずだが、1960年代前半当時にあっては007シリーズのアクションシーンがいかに新鮮に見えたかは想像に難くない。「ロシアより愛をこめて」のモーターボートチェイスシーンでは海上に撒かれた油が一瞬にして燃え上がるが、現在のパイロテクニックで満ち溢れたアクション映画に見慣れたオーディエンスにとってはこのシーンは何でもないシーンにしか見えなかったとしても、当時のオーディエンスには驚異的に見えたことはまず間違いのないところだろう。何故ならば、いかにド派手なビジュアル効果が得られるかに焦点があるようなシーンはそれまでほとんど存在しなかったからである。またそのようなシーンが有効に機能する為には、ストーリー自体よりも瞬間的なアクション性に重きが置かれる必要があり、オーディエンスの側にもそのような構成を受け入れる準備がなければならない。ボンドシリーズはまさにそのようなデマンドをクリエートしたのであり、このシリーズの映画史的価値はその点にある。また、それがハリウッドの手によってではなくイギリス映画によって成就されたのは驚くべきことである。