「火の鳥・未来編」と「若きウェルテルの悩み」

佐藤和美

 「火の鳥・未来編」ではゲーテの「若きウェルテルの悩み」が二個所引用されている。手塚治虫の引用している訳は秦豊治という人の訳である。
わたしは どれほどまでに
わたしの頭上を飛ぶツルの翼をかりて
あのはかりしれぬ海のかなたの岸
へゆくことを願ったろう
無限の泡立つさかづきから
あふれる人生のよろこびを
得ることを 熱望したろう!
ただ一瞬でも
わが胸のかぎられた力のなかに
あらゆるものを
自己によってつくりだす
まことの幸福の一しずくでも
あじわおうと願ったろう…
春の風よ!
なぜおまえは私を
よびさますのだ
おまえはこびながらいう
空の露にうるおすと!
けれどもわたしの枯れ
しぼむときはもう近い
わたしの木の葉を打ち落とす
風もまじかに吹くだろう
美しいわたしの姿を
見おぼえた
旅人はあすやってきて
野のあちこちを見まわして
わたしの姿をさがすだろう
けれども……ああ
わたしはもう旅人の目には
はいるまい……
 この二個所を新潮文庫の高橋義孝訳から探してみよう。

 まず一個所目であるが、1771年8月18日の手紙からである。(新潮文庫P77)
ああ、そのころは頭上を飛んで行く鶴の翼ではかり知れぬ大洋の岸辺へどんなにか飛んで行きたかったろう。そうして無限なる者の泡立つ杯からたぎりこぼれる生命の歓喜を飲み、たといわが胸は狭く力は乏しくとも、万象を自己のうちに自己によってつくり出すものの至福を、せめて、一滴なりと味わいたいとあこがれたのだ。
 次に二個所目である。最後に近いところ、ウェルテルが自分の訳した「オシアン」をロッテに読んで聞かせるところがあるが、その「オシアン」の一節である。(新潮文庫P177)
春風よ。われを呼び起こししは何ゆえぞ。媚びて語るや、『われは天の雫もてうるおす者』と。されどわが凋落の時は近く、わが葉を振い落すあらしは迫れり。さすらい人は明日きたるべし。わが美しかりし姿を見しさすらい人はきたるべし、きたりてわれを野面(のづら)に求めさすらうべし。されどわれを見いださざるべし

(2000・07・23)


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