石森章太郎の代筆

佐藤和美

 有名な話であるが、「鉄腕アトム・電光人間」は石森章太郎が手つだっている。「手つだいたのむ」の電報で呼び出された石森章太郎は、カンヅメ先の旅館で待った。だが、待っていても、原稿は少しずつしか来なかった。石森章太郎は当時高校生で期末試験があったため、できている分の手塚治虫の下書きの原稿を持って帰郷した。そして「期末試験をうけながら、その原稿にペンいれをした。背景だけではものたらず、人物までいれて、返送した。」(石ノ森章太郎「石ノ森章太郎の青春」小学館文庫)

 これには後日談がある。石森章太郎は次のように書いている。
「よく月、発売された「鉄腕アトム」”電光人間の巻”は、背景はそのままだったが、人物はかなりの部分、描きなおされていた。
 はりきりすぎの好意が、かえって手塚先生のよけいな手間というあだになってしまったと、悔やんだ。
 その後、二度と手つだいの依頼がなかったところをみると、あれでよほどこりられたのだろう。」(「石ノ森章太郎の青春」)

 石森章太郎は手塚治虫からは二度とマンガの手つだいを頼まれることはなかったのである。

(編集者から「ぼくの孫悟空」の代筆を頼まれたことはあった。石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄(藤本弘・安孫子素雄)の4人で代筆したのだが、その後、手塚治虫本人の原稿が完成したため、4人の描いた原稿は雑誌には載らなかった。この原稿は今では「ある日の手塚治虫」に収録されていて、見ることができる。)

 後の話である。
 トキワ荘メンバーのうち、石森章太郎、赤塚不二夫、藤子不二雄(藤本弘・安孫子素雄)、つのだじろう、鈴木伸一の6名でスタジオ・ゼロという会社をつくった。
 このスタジオ・ゼロに虫プロから舞い込んだ仕事というのが「鉄腕アトム・ミドロが沼」のアニメ制作である。

 これについて、石森章太郎は次のように書いている。
「藤本が描いた。安孫子が描いた。角田が描いた。赤塚が描いた。ボクが描いた。
 ……鈴木アトムが出来た。藤本アトムが出来た。安孫子アトムが出来た。角田アトムが出来た。赤塚アトムが出来た。石森アトムが出来た……。
 ……二度と”注文”が来なかった。
 後でなおすのが大変だった、と聞く。まァ当然の結果と言えるだろう。」(石ノ森章太郎「トキワ荘の青春」講談社文庫)

 アニメでも二度と手つだいを頼まれることはなかったのである。

(1999・08・10)


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