札幌地名行



佐藤和美


 戊辰戦争は明治2年(1869年)5月、箱館戦争の終了とともに終わった。
 8月になると、松浦武四郎の原案をもとに、蝦夷地を北海道と名を改めた。9月には箱館が函館に改められている。それまでは蝦夷地の中心地は箱館だったが、その位置はあまりに西南にかたよりすぎている。北海道の中心となるべき地には石狩平野の札幌が選ばれた。札幌に本府を置くのを決めたのは佐賀藩の島義勇(しまよしたけ)である。島義勇は後に江藤新平とともに佐賀の乱を起こすことになる。(明治7年)

 札幌の南にある藻岩山からは札幌市内が一望できる。「モイワ」Mo-iwaとはアイヌ語で「小さい山」という意味であるが、藻岩山はアイヌ語で「モイワ」と呼ばれたことは一度もない。実は円山がアイヌ語で「モイワ」と呼ばれていたのである。「モイワ」は近くに円山村があったため、円山と呼ばれるようになった。「モイワ」が「円山」と呼ばれるようになったため、余った「モイワ」がとなりの山の名になってしまった。それが藻岩山である。藻岩山自体はアイヌ語で「インカルシペ」Inkar-us-pe(いつも眺める所)と呼ばれていた。その名のとおり眺望のよい所である。
 石北本線の遠軽(えんがる)駅のとなりに瞰望岩(がんぼういわ)という大きな岩があるが、この岩も「インカル」inkar(眺める)する所であった。遠軽の名はこの岩の名(「インカルシ」Inkar-us-i(いつも眺める所))からついたのである。

 それでは藻岩山から札幌のアイヌ語地名をインカルしてみよう。

 藻岩山はインカルシペの名のとおり眺望のいい所である。ビルの林立する札幌の街並が見わたせる。遠くには日本海(石狩湾)も見える。

 札幌の街並の特徴はその整然としたところだろうか。デカルト座標によく似ているように思う。X軸に当たるのが大通り公園、Y軸に当たるのが創成川である。原点に当たるのが大通り公園と創成川の交わる所、創成橋である。そして南北を条(じょう)、東西を丁目(ちょうめ)で呼ぶ。東を東一丁目、東二丁目、…、西を西一丁目、西二丁目、…、北は北一条、北二条、…、南を南一条、南二条、…のように呼ぶ。これを組合わせて、例えば北二条西四丁目のように呼ぶのである。一条・一丁目は約150メートルである。
 なお初期には大通り公園の北側に官庁街が、南側に民家が建てられた。道庁も北海道大学も大通り公園の北側にあるのはその名残である。

 市街の中を川が流れている。豊平川である。豊平川は石狩川の支流の一つで、この川が札幌という地名の語源になった。豊平川の古名が「サツポロ」Sat-poroだったのである。アイヌ語で「サツ」satは「乾く」、「ポロ」poroは「大きい・広い」の意味である。それでは「サツポロ」Sat-poroとはどういう意味になるのだろうか。「サツポロ」とは「乾いていて広い」所のことなのか。実はこれがはっきりしないのである。いくつかの語源説があるが、定説はない。

 豊平川の語源は「トゥイピラ」Tuy-pira(くずれた崖)である。「豊平」という地名が川の名に転用されたのである。ここでは「ピラ」pira(崖)に「平」の字が当てられている。日本語の古語では「ひら」とは急斜面のことであるが、まぎらわしい当字である。

 手稲山の語源は円山と藻岩山の関係に似ている。手稲山はアイヌ語で「タンネウェンシリ」Tanne-wensir(長い断崖)というが、近くにあった「テイネイ」teyne-i(ねれている所)の名で呼ばれるようになった。

 藻岩山の東のすぐわきを豊平川が流れているが、その対岸が真駒内である。真駒内の語源は「マコマナイ」Mak-oma-nay(後にある川)である。

 真駒内のさらに東にあるのが、札幌のもう一つの展望台である羊が丘展望台である。なだらかな丘の上にある展望台で、月寒牧場内にある。月寒は古くは「つきさっぷ」と呼ばれていたが、昭和になってから「つきさむ」と読むように変更された。「つきさっぷ」も語源がはっきりしない。「チキサプ」Ci-kisa-p(我らこするもの=発火器)のことだともいう。

(1997・12・20)




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