積丹地名行


−余市から神威岬へ−


佐藤和美


 積丹(しゃこたん)半島はソーラン節発祥の地である。このあたりの海は豊かな海であり、この地に集まったヤン衆の労働歌の一つがソーラン節である。
 夏になるとこのあたりは天候がよく、海も静かで、アイヌの人々も夏の間はこの海に集まり漁をして生活した。
 アイヌは農耕を行っていず、狩猟採取により食糧を得ていた。季節ごとに食糧の得やすい所で生活した。冬は山で狩猟を行い、その部落は「マタコタン」Mata-kotan(冬の部落)と呼ばれ、夏は海で漁撈(ぎょろう)を行い、その部落は「サクコタン」Sak-kotan(夏の部落)と呼ばれた。
 「積丹」という地名は、積丹川の川口にあった部落名による。この部落は夏になるとアイヌが漁撈に集まったため、「サクコタン」と呼ばれた。この「サクコタン」が「シャコタン」となり、広く用いられて、積丹川、積丹岳、積丹半島などと和人によって名づけられていったのである。
 さてそれでは積丹半島のつけねにある余市から、この地名行を始めることにしよう。

 余市の語源は「イヨチ」Iyoci<I-ot-i(それの多い所)である。「イ」と「ヨ」の順番が逆になって「ヨイチ」となった。この場合の「イ」(それ)とは、蛇のことである。
 アイヌでは熊や蛇などの恐ろしい神を直接呼ぶのをはばかって、単に「イ」(それ)とだけ言ってすますことが多い。イヨマンテも直訳するとIyomante<I-omante(それを行かせる)で、この場合の「イ」(それ)は熊である。なおイヨマンテを「熊祭」と訳すのはまちがいで、「熊送り」とするのが良い
 余市以外で「イ」(それ)を使っている地名としては、他に由仁(ゆに)「ユニ」I-un-i(それ(蛇)のいる所)がある。

 北海道の太平洋、オホーツク海沿岸は砂浜が多いが、日本海沿岸はその反対で岩礁や断崖絶壁が多い。これには次のようなアイヌの伝説が伝わっている。
 天地を創造したコタンカラカムイが、最後の海岸線の整理を日本海沿岸を女の神に、太平洋・オホ−ツク海沿岸を男の神に命令した。二人の神は仕事にとりかかったが、女の神は知り合いと会ったので、仕事のことをわすれ永い間話こんでしまった。男の神の仕事が終わりに近づいた頃に、女の神は気がついて、大急ぎで仕事をかたづけた。どうにか男の神と同じ頃に仕事を終えたが、そのため日本海沿岸は粗削りで断崖絶壁が多いのである。

 余市から神威(かむい)岬へ向かってしばらく海岸にそって行くと、いろいろな岩が見えてくる。アイヌの伝説が思い出される。岩にはろうそく岩やセタカムイ岩がある。セタカムイ「セタカムイ」Seta-kamuy(犬の神)という意味で、この岩は遠吠えしている犬の姿をしているという。アイヌの伝説では、アイヌの文化神オキクルミが飼っていた犬を置いて異国に去ったので、犬がオキクルミをしたって遠吠えしながら岩になったという。

 古平(ふるびら)にはいくつかの語源説がある。「フルピラ」Hur-pira(丘の崖)、「フレピラ」Hure-pira(赤い崖)などである。
 美国(びくに)にもいくつかの語源説がある。「ピウニ」Pi-un-i(小石のある所)、「ポクニ」Pok-un-i(下にある所)などである。
古平にしろ、美国にしろ、はっきりした語源がわからないのにはそれだけの理由がある。積丹半島はソ−ラン節発祥の地である。それはこの地に和人が入ったのが早い時期だったということでもある。積丹場所・美国場所が出来たのは慶長年間(1596年−1615年)のことであるという。そのためアイヌ語の原型が早くに失われ、語源がわからなくなっているのである。

 積丹半島には二つの有名な岬がある。積丹岬と神威岬である。
積丹岬はアイヌ語では「シリパ」Sir-pa(山の頭)という。これはアニミズムによる命名で、「シリパ」は「岬」の意味に使われる。「シリパ」をもうすこしくわしく訳すと「海中につき出ている山の頭」である。
積丹岬の近くに島武意(しまむい)海岸がある。島武意は「シュマモイ」Suma-moy(石の入江)で、その名のとおり石のごろごろしている入江である。
積丹岬から神威岬へ向って進もう。

 入舸(いりか)は「入舟」のむずかしい漢字を使ったもので、日本語地名である。
野塚(のつか)は「ノツカ」Not-ka(岬の上)である。
 余別(よべつ)の語源もはっきりしない。「レポナイ」Rep-o-nay(三つある川)、「ヨペツ」Yo-pet<I-o-pet(それが多くいる川)などの語源説がある。

 神威岬の「カムイ」とは「カムイ」Kamuy(神)で、この神は「荒ぶる神」で本来は「魔」と訳すべきものである。旭川の神居古潭などと同じく、交通の難所だった所である。

 北海道には各地に義経伝説が伝わっているが、神威岬にも義経伝説がある。
 日高の平取(びらとり)の酋長のもとに滞在していた義経は、酋長の娘チャレンカと恋仲になったが、義経はチャレンカに告げずに出発してしまった。チャレンカは神威岬で義経一行に追いついたが、すでに舟にのり岸をはなれた後だった。悲しみのあまり発狂したチャレンカは「和人(シャモ)の舟が女をのせてここを通れば、転覆させる。」とのろいの言葉を残して海に身を投じ岩になった。それが神威岬の突端にある神威岩であるという。
この伝説はもとからあったアイヌ伝説を義経伝説につくりかえたものであるらしい。江戸時代、松前藩は神威岬以北への和人婦女子の通行を禁止していたが、そのこともこの伝説に影響している。
 神威岬の義経伝説はアイヌ伝説をもとにしてつくられたのだが、他の北海道各地の義経伝説は同じようにアイヌ伝説をつくりかえたものと新たに創作されたものとがある。創作の例としてはこういうのがある。「ペレケイ」Perke-i(やぶれた所)という地名に弁慶と当て字をして、そこからこの地名は弁慶が来たことがあるので名付けられたのだ、と創作するのである。
 北海道の義経伝説は和人のアイヌ対策上広められていったというのが本当の所であろう。古くは天孫族が出雲族に国ゆずりをせまるのに、自分達の先祖であるイザナギ・イザナミが日本列島を生んだとした。そして江戸時代には何百年か昔の義経をもちだした。さらに近代に入って軍部は大陸侵略にさいしてジンギスカンは義経であるとする説さえ使おうとしたのである。

 ソ−ラン節と並ぶ北海道のもう一つの民謡に江差追分がある。

 松前江差の
 津花の浜でヤンサノエ−
 好いた同士の
 泣き別れ
 連れて行く気は
 山々なれぞネ−
 女通さぬ
 場所がある

 忍路(おしょろ) 高島
 及びもないが
 せめて歌棄(うたすつ)
 磯谷(いそや)まで

 蝦夷地海路の
 御神威様はネー
 なぜに女の
 足とめる

 この歌の「御神威様」とは神威岬のことである。この歌は義経伝説や神威岬以北への和人婦女子通行禁止を背景にして、作詞されたのだった。

(1987・5・10)




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