1979年6月・北海道旅行メモ


佐藤和美


 私は数年前から国鉄全線乗ってやろうと思い、それを実行してきた。未乗車区間は全国で600kmほど残っている。今回の北海道旅行は北海道の未乗車区間300kmほどを乗るというのが目的の半分で、あとの半分が観光である。

 6月4日14時48分、上野発特急「みちのく」でいざ出発。青森まで9時間かかる。青森に着いて連絡船に乗り換えると、日付が変わって5日になっていた。函館まで4時間、その間ぐっすり眠る。初めての北海道旅行では、函館に着く前にぞくぞくするような感じをうけた。上野から16時間で函館である。やっと北海道に着くという感動があった。初めての北海道旅行は絶対青函連絡船に乗るべきだと思う。

函館で急行に乗り換え、長万部をめざす。長万部で乗り換え、瀬棚線を乗る。山の中は同じような景色なのであまり好きでない。瀬棚では折り返すのに3時間あるので、駅の回りを歩き回る。近くの海岸に三本杉岩というのがある。そこで写真をとる。

函館へ戻り、江差線の乗っていない部分を乗るため、江差をめざす。函館を出発する時は学生でいっぱいだったが、2、3駅を過ぎる内にどんどん降りていった。松前線との分岐点の木古内ではがらがらだ。江差のすこし手前で海が見えた。夕日が海に反射してとても美しい。江差で折り返し、函館から夜行に乗る。

 6日。苫小牧で降りる。4時40分でちょっときつい。夕張行に乗り、すぐねむる。追分をすぎても、うつらうつらしている。紅葉山で乗り換え、登川へ向かう。石勝線の工事中なのが見える。国鉄は工事中の線の凍結を始めたからこの線もどうなることか。登川駅の横を小川が流れている。のんびりしたものだ。小さな駅舎がぽつんと立っている。学生がぼちぼち集まってきて出発。夕張行なので紅葉山で乗り換えなくてすむ。紅葉山を過ぎると、線路わきにいくつかのボタ山らしいものが見えてきた。炭鉱の近代化はむずかしいらしい。近代化したはずの夕張でも事故がおこっている。雑草がはえ、雨水が流れた跡が残っているボタ山が、夕張の将来を暗示しているように思えた。夕張で折り返し、札幌へ向かう。

札幌の地下鉄に乗る。東西線の車輌には旧道庁や時計台などの絵が描いてあり、カラフルだ。東京では「お年寄・身障者の優先席」があるが、札幌地下鉄では「お年寄・身障者の専優席」だ。南北線は真駒内の3、4駅手前で地上に出て、シェルターの中を走る。札幌地下鉄はタイヤで走る。そのためレールがなく、タイヤの分くらい溝になっていて、そこを走る。案内軌条と言うのがあって、これで車体の安定を保つ。地下鉄を乗った後、大通公園をぶらつき、テレビ塔に登る。豊平川よりだいぶ先のほうに川と平行して水道管みたいなのが見える。それが先ほど乗った地下鉄南北線である。去年登った藻岩山も見える。こいう高い所に登っていつも思うのは、関東平野の広さである。東京タワーに登ったって、山なんて見えやしない。次に時計台へ行った。2、3年前からこの中へ入れるようになった。時計台や札幌農学校の資料がおいてあった。

 夜行に乗って帯広へ向かう。夜行はこんでいた。この日ちょうど札幌で野球の道大会があったので、高校生が多く乗っていた。帯広の高校生で、一点差で負けたらしい。

 7日。帯広はアイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)を音訳したものである。ひどい音訳のしかただ。ここで士幌線に乗り換え、十勝三股をめざす。この線の列車は終点まで行かず、二つ手前の糠平で止まってしまう。その先はなんとバス代行である。それも期限が決まっていないので、このバスに乗るしかない。北大の山岳部がいたので、バスはこんでいた。十勝三股についてバスを降りる時、運転手に帰りの発車はX時X分ですと言われたのにはまいった。こっちの目的をみすかされてるようだ。十勝三股のフォームに立つ。よくまあこんな所まで来たという気持ちになる。駅舎は窓や入り口を板で打ちつけてある。線路には赤サビがでている。

 帯広へもどり、釧路行の急行に乗り、白糠で降りる。ここから白糠線がのびている。白糠を出ると、それからの駅はすべて無人駅だ。こういう線もめずらしい。終点の北進は野原の真ん中という駅だった。それから白糠へもどった。

 8日。根室標津で降りると、霧雨だった。今まで路線つぶしをやっていた時はいい天気だったのに、たまに見物しようとするとこれだ。それでもめげず、トドワラをめざす。「霧の摩周湖」というが、トドワラも「霧のトドワラ」があうように思う。立ち枯れの木々には晴天よりも、霧のほうがふんいきがでている。自然のきびしさみたいなものを感じた。霧雨の中を歩いたので、服がびしょぬれになった。

 その日はラウスで泊まった。翌日はウトロ行きの知床半島一周の船に乗ろうと思っていたので、翌日の天気が心配だった。

 9日。朝起きると晴だった。ああ、よかったとおもって、乗船場へ行った。ところが、どっこいである。ラウスはいい天気なのだが、ウトロでは波がざんぶりこだということで、船が欠航になってしまった。しかたなく根室標津までもどり、美幌へ向かった。

 10日。北見相生では、バスを一時間ほど待つ予定だった。ところが30分ほどバス停で待っていると、トラックが通りかかり、乗せてくれるというので乗せてもらった。

阿寒湖では遊覧船に乗った。今にも雨が降りそうな天気で、雄阿寒岳の上のほうは霧で見えない。

阿寒湖畔発の美幌行のバスに乗った。

 双湖台はペンケトー(川上の湖)とパンケトー(川下の湖)の二つの湖が見える。この頃には天気がよくなっていて、原生林の中に二つの湖が見えた。雄阿寒岳の噴火でもとは一つの湖だったのが、阿寒湖・ペンケトー・パンケトーの三つの湖にわかれたのだという。

 原生林の中をバスは弟子屈へと向かう。弟子屈から摩周湖へ。いつも見物の時は天気が悪いのに、「霧の摩周湖」にかぎって天気がいい。しかし晴れていてもどこかかすみのかかったような摩周湖の景色はすばらしかった。

硫黄山のまわりの木々は枯れていた。そばによると、硫黄のにおいで息ぐるしいほどだ。硫黄でゆでた、ゆでたまごを売っていた。前の座席にいたおばさんにそのゆでたまごをもらった。おいしかった。

砂湯は屈斜路湖の湖畔にある。屈斜路湖は湖畔とか湖底で湯がわいているが、これもその内の一つである。このため屈斜路湖は冬でも凍らず、白鳥が来るのだという。

摩周湖もよかったが、美幌峠からの屈斜路湖の景色もすばらしかった。残念な事が一つ。それはクッシーを見れなかった事。

この日は美幌に泊まった。

 11日。網走で観光バスに乗る。きのう二人づれでいた女の子のうちの一人がいた。金町から来たという事である。

天都山は霧の中だった。晴れた日にはオホーツク海や大雪山がみえるというのがうそのようだ。

 網走刑務所の表札は三度盗まれた事があるそうだ。たいしたやつがいるもんだ。いつもは閉まっているという門が開いていて、中が見えた。そこで金町の女の子に写真をとってもらう。受刑者を写真にとらないでください、という看板があった。

能取岬も霧の中だった。平坦な海岸線が続くというオホーツク沿岸にあって、めずらしく断崖になっているのだという。灯台の霧笛の音がやけに大きく響いている。真冬にはこの岬で流氷をながめるのだという。

オホーツク水族館にはウルフ・フィッシュというこわい顔をした魚がいた。

モヨロ貝塚はオホーツク文化の代表的な遺跡だ。北海道の竪穴住居は一年の半分が雪の下にあるので、保存状態がいいという事である。

観光バスを降りて、博物館へ行った。アイヌやその他の北方民族であるオロッコ・ギリヤークなどの民族品がおいてあった。

午後からはまだ乗っていない名寄本線の中湧別−湧別間をめざした。この間は一日に二往復しかない。網走から湧別行に乗る。2時間半で中湧別につく。湧別までは8分である。

これで北海道で残るのは、日本一の赤字線美幸線だけだ。

 12日。この日は層雲峡へ行ったが、天気は全然だめ。

 13日。美深で乗り換え、いよいよ北海道最後の美幸線だ。

美幸線は日本一の赤字線といわれているが、これには数字のマジックがある。収支係数(いくらの支出で、100円の収入があるか)では美幸線がNo1だが、赤字金額そのものではなんと東海道本線がNo1なのだ。

 終点の一つ手前が辺渓(べんけ)で、終点の仁宇布(にうぷ)まで15kmもある。このあたりはアイヌ語で「ペンケ・ニウプ」(川上の森林)と呼ばれていた。「ペンケ」はペンケトーの「ペンケ」と同じで「川上の」という意味である。このように一つのことばをおぼえておくと、次にでてきた時おもしろい。

美深から乗った客は私ともう一人。その一人も辺渓で降りた。終点まで私一人。仁宇布まで線路のわきをニウプ川が流れている。仁宇布で降りて入場券を買う。スタンプが押してある指定席券ぶくろに入れてくれた。北海道制覇ばんざい。残るは全国で300kmほどだ。

車掌さんが来て、すこし話をした。やってる事を見ればどういう人間かわかる。それで来たのだろう。

札幌へもどり、ぶらつく。北大植物園を見る。そして今回の旅行はこれまで。家路につく。

(1979・7・11)


(注)


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