第5回「渋谷の地下の本屋さん」(1996.1.1)



 人から聞いた話である。−−渋谷の東急東横店の辺りを歩いていたら、見知らぬ老婦人に声をかけられた。地下鉄銀座線の乗り場はどこかと聞かれたので、階段を上ったところだよと教えてあげたら、老婦人は怒りだした“田舎者だと思って馬鹿にするな。地下鉄が上にあるわけがないじゃろう!”
 まあ確かに、考えてみると渋谷ってのは変な駅である。地下鉄と書いてある銀座線に乗るには階段を上らなきゃならなくて、別に地下鉄とは書いてない新玉川線に乗るには階段を下りなきゃならないのだ。知らない人が怒りだしちゃうのも無理はないかもしれない。
 それから、これは僕だけのことかもしれないけれど、地下に本屋さんがあるってのも何だか不思議な気がする。渋谷にはしぶちかなる地下街があるんだから、本屋さんがあってもおかしかない。そりゃそうなんだけど、関東の田舎で本屋通いの少年時代を過ごした僕としては、地下に本屋さんがあるってのは大福にイチゴが入っているようなものなのである。美味しいからいいんだけど、何だか妙な感覚が残ってしまうのだ。
 とはいえ、僕は渋谷の地下の本屋さんをよく利用している。新玉川線を下りて外に出ようとする時や、逆にこれから電車に乗ろうって時など、ついつい用もないのに改札のそばの本屋さんに立ち寄ってしまう。
 だいだい僕は、図書館とか本屋とかで意味もなく本を眺めるのが好きなのだ。電車に乗る前に本を買って乗ってる間に読みふける、なんてのはすごく好きなパターンである。ついつい熱中して下りる駅を通りすぎちゃったりなんかしてね。
 ちなみに、自分の本が売られているのを初めて見たのも、この渋谷の地下でのことであった。発売日のちょっと後、背表紙に僕の名前が印刷された本は、さりげなく本棚の中に並んでいた。
 何だか意外なような照れくさいような、不思議な感慨を抱いたのを覚えている。僕は小さい頃からそんな光景を夢見ていたわけだけど、それほど大きな感動ってのはなかった。もうちょっと喜んでもいいんじゃないかなんて、自分で思ったりしたもんである。
 それより嬉しかったのは、何日か後に同じ本棚を眺めたら、その本が売れて無くなっていたことだ。−−一体どんな人が買っていったのかなあなんて思うのは、作家の喜びってもんなのかもしれない。

  • 一覧に戻る

    竹内真 Mail: HI3M-TKUC@asahi-net.or.jp