神田陽司さんインタビュー その2


◎吉田戦車について 陽司「話は飛んじゃいますけど、吉田戦車なんてその相対化を見事にやってますよね」 竹内「……というと、どんな作品で?」 陽司「例えばね、最近で一番近かったのは──昔わりとシビアなもん描いてんですけ   ど──『若い山賊』って話があってね、野球選手になりたかった高校球児がいつ   の間にか山賊になってんですよ」 竹内「……はあ」 陽司「違うだろって。普通は野球選手になりたかったけど結局会社員になったってい   う話で、なんで山賊なんだってのがある。そこでもう相対化されちゃってる。    で、もう一人のライバルは警官になってるんですよ。で、警官と山賊が会うわ   けですよ。それは読んでて笑えるシチュエーションでしょ。なんで山賊になって   んだって。    もう片っぽ警官は何かぬいぐるみ着て警官になってて。何だこりゃって笑わせ   るんだけど、セリフそのものはね、『なんで君は山賊になったんだ! 野球選手   になるんじゃなかったのか!』って凄く泣けるんです。で、これを普通に会社員   になってって話だと、どっかで引いちゃって泣けないんです。まあそんなもんだ   よ現実はなんて思うのが、いらない情報を削ぎ落としちゃって抽出したところで   山賊と警官ってやられるから、元の物語の持ってる力が純粋にくるんです。    だから吉田戦車ってのはそういう意味では日本語使いとしても天才だし、物語   り使いとしても希有な才能を持ってて。例えばハワイに行けなくて悔しいってこ   とを普通に言ったら暗いだけの話、それをカワウソ君っていうよく分かんない奴   が『ハワイ……』って言うから笑える」 竹内「ああ、ありましたねー」(タケウチは学生時代に吉田戦車の4コマで心理学の   レポートを書いたことがあるのだ) 陽司「ちょっと古いですけどね。──多分ねえ、落語にしろ講談にしろ新作で先を進   もうとしてる人間は、あれを読んでないにしても自覚はあると思いますよ。その   へんの相対化とかアンチロマンとか。そういうものを踏まえてないと客席も反応   しないと分かるからです」 竹内「僕あの、新作というか講談自体を初めて生で聴いたのが末広亭の深夜寄席で、   北陽さんのレモン搾りの話なんですけど。あれも考えてみりゃそうですよね。カ   ワウソ君に当たるのがレモン搾りで、その中の物語ってのはもっと純化されたも   ので」 陽司「いやあ、北兄ぃはねえ、すごくいいところでいい影響を受けてきましたが、し   ばらくは……しばらくはっていうと自信たっぷりですが、かなり時間かけないと   抜くにも抜けないようなとこ走ってますからねえ」 竹内「あ、あの方は兄さんにあたるんですね」 陽司「そうです。──下だったら逆に悔しいだろうけど、兄弟子だから何とか頑張っ   て追いつこうって」 竹内「なるほどねー」 陽司「ただ、もっと相対化のレベルっていうか、もっとベタでもいいっていう──私、   本人の思考がわりとベタだから、大爆笑に終わる話じゃなくて泣いて終わる話の   方が好きなとこがありますからね。そのへんが新作の落語家の方とは少しスタン   スを異にするかもしれない。それがまあ、売りになればいいなあとは思ってるん   ですけど」 竹内「落語の場合は笑いが究極の目的としてあったりするから、そのへんが微妙にス   タンスとして違うんですね」 陽司「でもよくできた新作落語は泣けますからね。これが悔しい。こっちは相対化の   ためには笑いは無視できないけど、向こうは泣かすとかそういうことは無視して   もいいのに泣かしちゃうっていうね」 竹内「例えばどんな落語があります?」 陽司「うーん、具体的に上げるとあれなんですけど、私はねえ、落語王って方がやっ   てる……何て題だったかな。出してもらえないやつはすぐ忘れちゃうんだよな。   (笑)(注・「落語ジャンクション」)。    喬太郎兄さんだったと思うんですけど、みんな大爆笑でやらせるのに、あの兄   さんの新作で物凄い静かなラインから入って大爆笑さして、泣かせはしないんだ   けど凄い緊張感持って語られちゃったんですよ。それまではね、静かなとこって   いうか緊張感から入るってのは講談のものだと思ってたんで、落語って全然それ   より先行っちゃってるから、これ落語と講談は違うんだなんてあぐらかいてたら   永遠に追いつけないなと思いましたね。    たまたまその喬太郎兄さんが演ってた噺を書いたのが、清水宏っていう劇研に   一緒に入った奴だったんですけど。もちろん私は劇研はOBとさえいえないくら   い短くしかいなかったんですけど、ほーらみろやっぱりだみたいな。ほーらほら   ほらきたきたきたみたいなものがあるから。    私もずっと一人でやってきたから、もう少し広くブレーンというか協力を求め   て世界を広げないと、一人で因数分解を編み出した人の話が呉智英の本にありま   すけど、どんなに良いものをつくってもあれに近いものになっちゃう危険がある   なって。そういう反省を含めて今ちょっと新作を休んでるんですけどね」 竹内「一人で因数分解ってのも、あれもなんか不思議な話ですよね。解の公式を一生   かかって編み出した農民学者でしたっけ?」 陽司「まあちょっと眉唾な話ですけど、そういうことってあると思うんですよ。なん   かそのアカデミズムっていうか情報のあるところにアクセスしなきゃいけないと。   そういう意味では、下手にインターネットやってるから情報にアクセスしたつも   りでいるけど、実はインターネットの情報って量は多いけど大したものはないで   すからね。……って、インターネットで喋る私もどうかと思いますけど」 竹内「でもそれは僕も実際思いますよ。どうでもいいものが実に多いって。砂浜にダ   イアモンドが何粒か、なんていいますけど」 陽司「ところが例えばノストラダムスの講談をこないだやった時に、本当にしっかり   したサイトはあるんですよ。ところが、どうやってそのサイトを見つけたかって   いうと、本によってだったんですね。そう考えるとね、インターネットによって   る状況ってのはある意味危ういなと。戯れてるだけっていうようになっちゃうぞ   っていうのはありますね。だって、インターネットでノストラダムスを引いたら   下らないものばっかりですよ」 竹内「僕はそういう意味じゃ、インターネットを自分のフットワークの場というか、   自分の基礎体力作り、足腰を鍛えるための場という風にとらえていて。このイン   タビューなんかもその一環だったりするんですけど」 陽司「そうですね。だから寄席みたいな、道場的なところで、修行の場みたいなとこ   ろで利用するのはいい使い方だと思いますね。ただライブの場合はそれができな   いから困っちゃうんですけどね。だから、原稿を公開してるってのはそれですよ   ね。少ないですけどたまに感想もあって、例えば事実が違うとか、誤字が多いっ   てのは直してない私が悪いですけど、例えば『講談インターネット』でも、ライ   ブで指摘されたところを指摘されたりするんですよ。結局浅野内匠頭の動機が分   からないとか、インターネットで直してなかったりすらから。ああ結局感じると   ころは同じなんだってのはありますからね」 ◎講談の文体について 竹内「僕は陽司さんのページで公開されてる新作講談を読んで、やっぱり文体に凄く   惹かれたんですね」 陽司「それはありますよね」 竹内「何なんだろ、講談文体というのに凄く惹かれるというか、僕が小説で求めよう   としてたものを突き詰めてったら講談に行き着くというか、そういう感覚って非   常に強くてですね。──なんか、僕の話になっちゃいますけど」 陽司「どうぞどうぞ」 竹内「小説と物語の違いって何なんだろうっていうのを自分なりに定義しようとして   考えたのが、描写と内省なんですよ。心理描写なり情景描写なりを意図的に突っ   込んでやるのが小説であって、内省ってものも突っ込んでいくのが小説だと。    だけど現代じゃ、時代のスピード感と微妙にずれてきてるというか、描写と内   省にとらわれたせいで非常にまだるっこしいメディアになってしまってるってい   う一面もあって。で、描写と内省をすっぽらかしてできないかと思った時の文体   が、結果的に講談的になってる気がしたんですよ。    で、それに関してじゃあ講談の文体を考えたいって思った時にちょうど陽司さ   んのホームページのリストをインターネットで発見したんですね。非常にリズミ   カルで簡潔で、それでいて泣かせるっていうポイントは押さえてて」 陽司「それは『ASAHIパソコン』のインタビューでも喋りましたけど、情報量の   問題と、本質を捕まえる問題、文章で読むとわかっても高座にかけると全く違う   ものになっちゃうんですよ。多分ねえ、ものによっては文章で読むとくどいんで   すよ。名詞を3回くらい続けて言ったりとか。というのはやっぱり、後で覚えと   いてもらわないと困る情報もあったりするわけです。例えば伏線になってる人物   の名前とかね。それを読み返せないでしょ、講談の場合は。そういうこともある   んで読み物としての完成度を考えてないのが、逆に普通の書き物とは違ってきて   んでょうね」 竹内「読み物として読んでも非常に気持ちがいいんですよね。語りの声が聞こえてく   るようで」 陽司「文体に関してはすごく深い話があって、二葉亭四迷だと思うんですけど、彼が   ロシア語で小説を書いてそれを日本語に翻訳してオリジナルの小説を書くってこ   とをやってると思うんですよ。『浮雲』とか。これはなんでかというと、明治で   すから江戸文体というか、講談に近いのかもしれないけど、内面のない文体で書   いちゃうと、軽妙洒脱というか、リズムに流れて内面描写ができない。だからそ   ういう方法をとったみたいな話を、漫画『坊ちゃんとその時代』で読んだんです   けど、そういうことあると思うんですよ。    わりと講談の文体ってね、近代小説の文体とは、二葉亭四迷の時から分かれち   ゃってる部分があるから、逆に形式に流れるというか、書いてると勝手に書けち   ゃうようなところはあるわけですよ。つまり、ここで主人公は何を思ったかじゃ   ないと。ここはやっぱり啖呵を切る、そういう流れはある。    私も最初に書いたものっていうのは、幼稚園とか小学校は別にして小説で、ん   でシナリオ書いて講談書いてるわけでしょ。そうやって考えてくると、小説って   自由すぎてきついところがある」 竹内「ああ、それはありますよね」       ◎講談の形式について      ここでテープの片面が終わり、裏面に。会話も少し飛んでしまっていて、小説を   書く時の自由度の高さということから、話題は陽司さんの書いた現代詩のことに。    陽司「──4行詩みたいな、数だけしか日本語じゃ合わせられませんみたいな、そん   なので書いてみたんです。或いは2行詩とかね。自分で勝手に作って書いて、い   ざ普通の現代詩を書こうとうすと結構とっかかりが難しいから、いろいろやりま   したね。字数を10文字ずつで入れるとか、漢字と平仮名を交互にするとか、極   端にいくと写植を逆に貼るとかね。    そんなこともやって形式を自分で作ってたわけですよ、詩のレベルでは。詩っ   て比較的短いのにこんなんだから、小説を自由に書けって言われたら、とてもじ   ゃないけど発想をまとめる形っていうのが。特に私、小説を数読んでるわけじゃ   ないんで、誰かの文体っていうのが流れてくるわけじゃないから。多分、今書け   って言われても困るんじゃないかなと。    ところが講談だと、まず最初は語り起こしで、一種の流れがあるわけですよ。   まず引き付けなきゃいけない、だから演劇的に最初に興味を持たせなきゃいけな   い。しかも時間が絶対限られてるから原稿用紙にするとだいたい30枚は越えら   れないっていう、長さの形式が決まってるわけですよ。小説だったら短編だけど、   描写とかができないから本当の短い感じのお話しかできないと。もう形が決めら   れないから逆に、例えばこれを講談にしろって言われたら、完成度さえ考えなけ   ればすうって行けちゃうかもしれない、喋れちゃうかもしれない。だから形があ   るところにものを入れてるから、逆に何でも入れられるっていうことはあるかも   しれない。入れられるもので形は悩まない。    だから『危険な講談2』なんかは形も全然違うものなんですけど、多分物語に   しようとすると、まず説明して説き起こして、クライマックスを作る。だから形   としてはそんなに面白くないはずなんです。そうなると題材とか着想で考えない   といけない。だから逆に余計なこと考えないで面白いものを書けっていう至上命   題をやれるみたいな」 竹内「形が伝統的に出来上がっている強みなのかもしれませんね」 陽司「これを口に出さなきゃいけないっていうのがあるから、こういうことはできな   いああいうことはできないっていう枷がかかってて、それをすり抜けてるうちに   できてしまうみたいなとこがあるんで。だから今回の『ノストラダムス』は逆に   大変だったんですよ。これは一発物だから、再演もしないつもりだから自由にや   ろうと思ったら余計に苦労しちゃってね。長さも、ナウシカの時で30枚だった   のが、いわゆる400字詰で30枚越えないっていうのがかなり越えたんです。   で、最後の一週間それを切る作業をして、まだましになった。あれ長いままだっ   たら絶対もっと悪かった気がしてね。長さが決まってるっていうのは既に、小説   とかとはちょっと違うと思うんですよ」 竹内「いやでも、短編小説の制約とかはやっぱりありますよ。編集者が面倒がってる   だけかもしんないけど、新人だから短編しか載せねえぞみたいなこともよく言わ   れますし。逆にこれ(陽司さんの新作講談)を30枚の短編小説として持ち込ん   だら案外新鮮で通ったりするんじゃないかと思うんですけど」 陽司「だからねえ、段階的には、本にするかどうかは別としてね、少しリライトして   小説にするか講談集にするかっていうのは考えてんですけどね。──少なくとも   今はだって、著作権問題とかに発展する話がたくさんありますから」 竹内「いや−、本になったら読みますよ。僕初めてこれ(陽司さんのホ−ムペ−ジで   公開されている新作リスト)を見た時に、こういうことをやってる人がいるなら   こういう新作講談の本があるんじゃないかと思って図書館で調べましたもん。読   みたくて」 陽司「これだけジャンルっていうか素材が多岐にわたってるのは私だけだと思います。   それは間違いないと思うんですけど。ただね、講談だから許されてるとこがある   と思うんですよ。つまり文章にしないから、事実関係がかなりねじ紛ってるとこ   ろがある、というか、ねじまげないといけないんですよ。    例えばビル・ゲイツとIBM会長の会話なんてのは、事実関係も含めてかなり   創作が入ってるんです。ただ、そんな話はないだろうと言われたらあったと言え   る程度なんですけど、例えばどこの資料にも載ってないものとか別の資料をまと   めたものとか。ただ、全く別の小説からとってくるようなことはしないで、ビル   ・ゲイツならビル・ゲイツ内部で何とか充足させるっていうようなことがあるん   で、逆に自由に面白くでてると思うんです。    で、もう一つ講談の強みっていうのは、基本的に実話っていうスタイルがとれ   るわけです。まあ石松とか伊勢屋多吉は違いますけど、『ハラダマサヒコ』にし   たって『チャップリン』にしたって、実際にあったぞっていう説得力が持てる部   分があるんで、事実だぞって言っていながらかなり自由な着想で書けるっていう   その意味では、形はあるけど中は結構どうにでも書けるみたいな。つまり、こう   やってアップしちゃうとまずいけど、喋っちゃったら一回きりでねまあ責任も問   われないだろうみたいな。だって、本当に小説でお金を取ろうと思ったら、例の   ナウシカなんて絶対に訴訟されますからね。あすこのプロデューサー怖いですか   ら(笑)」 竹内「小説版の『フォレスト・ガンプ』みたいに、フィクションなんだけど実在の人   物で遊んじゃうみたいなのはダメなんですかね?」 陽司「う−ん、『フォレスト・ガンプ』までいっちゃえばフィクションなことが分か   ってるけど、ビル・ゲイツの一代記みたいなことでやると、やっぱり事実として   読んだり、極端にいうと本に出ると資料として引用されたりするわけでしょ。そ   の点講談の場合は、事実なんか踏まえてたら面白くないんですよ。やっぱりここ   は盛り上げる場所だっていうのがあるから。    多分ね、そういう意味では映画の脚本なんかに近いでしょうね。映画はドキュ   メンタリ−でもない限りは事実関係ふまえるよりは面白くすればいいわけですか   ら。まあだからその意味では、今我々が一番親しんでいる映画・テレビドラマ・   漫画の世界と近いんでしょうね。下手に事実関係云々で訴訟問題とか考えないで、   面白けりゃいいって発想で書いてもいい、いやそうすることが義務だっていう点   で面白いものが書けるんじゃないですかね」 竹内「でもやっぱ、活字メディアで生きる者としては、こういうものが活字メディア   に切り込んでったら面白いことになるだろうなあと思うんですよ」 ◎漫画・ゲ−ム・アニメと講談 陽司「あの−、漫画が今は強いじゃないですか。それを考えると、漫画が活字にとっ   てかわれるかっていうと、まだ未整理なんですけど、理屈的にね、いやいや切り   込めないぞっていうね。    いつも思い出すんですけど、村上龍が、一番映像的でないメディアは映画であ   るっていうことを言ってて。っていうのは、映像を出されちゃったらそれ以上に   想像のしようがないでしょ。その時例えばみんなでスタ−ウォーズのエピソ−ド   1を見てあの物語に呼応した段階で、私なんかだったら勝手にエピソ−ド2や3   を作って楽しむと思うんですけど、それなしで──見てないから言えないけど、   そんなに面白くもない物語を反復する社会ってのはあんまり豊かな社会じゃない   かなという感じがして。    逆に、その時に例えば、じゃあ俺がそのジェダイになってとか、そんなこと考   えて想像する余地が映画・漫画・アニメ文化にあるかどうかってのは、まだ私と   しては言えないけど、難しいとこだと思うんです。つまり、手前味噌ですけど、   戦前の子供達が講談本とか読んで、宮本武蔵や猿飛佐助だったら、多分自分が武   蔵だ佐助っていう感じがあったかと思うんですけど、映像にしてそれが分かるか   どうか。──その意味ではね、ゲ−ム。あれが凄かったと思いますよ。特に初期   のゲ−ムってテキスト中心じゃないですか。『ポ−トピア殺人事件』を知ってる   人はいないか……」 竹内「いや、知ってますよ。僕も解いたし」 陽司「あれでもそうですけど、まだテキスト中心で絵は単純なもので、だから結構新   鮮だったんですよ。でねえ、FFシリ−ズが嫌いだから言うわけじゃないですけ   ど、じゃあファイナルファンタジ−8までこられて、ドラクエIの時とどっちが   どうか。これはクリエイタ−に言わせたら、あれは単にメモリが足らなかったと   かいう話になるけど、結構重要なところがあると思いますよ。    あのね、単にあれはインタラクティブを楽しんでるんじゃなくて、久々に出て   きた講談とは言いませんけど、余地のある物語を楽しんでた部分があると。それ   がFF8になり9になり10になって完全にインタラクティブな映画になってしま   った時に、ドラクエIの頃のあのビビットさが保てるか。それは単にゲ−ムのレ   トロ指向だけじゃなくてあると思うんですよね」 竹内「そう比べるとなると、ドラクエとFFの違いってのもあると思いますよ。FF   は、言葉に関しては素人がやってるなっていうのを非常に感じますし」 陽司「私は、4だったかな。『行くっきゃないね』って台詞を聞いた瞬間に、FFシ   リ−ズは一切やらなくてもいいと思ったことがありましたよ。映像は凄く良かっ   たのに。雪の中をばかばか歩いて行って。その点ほら、堀井さん(ドラクエシリ   −ズ生みの親)なんか完全に物語の人でしょ。漫画の原作書いてて」 竹内「コピ−ライティングの才能が凄いと思うんですよ。宝箱の処理に関して、何か   で読んでああなるほどと思ったんですけど、『宝箱を開けた!』『中はからっぽ   だった!』みたいな台詞、そういうドラクエ文体って確かに遊んでて引き込まれ   るものがあって。で、それって考えてみると講談の文体にも近いですよね」 陽司「あのね、それでいうと、鍵の文体ですね」 竹内「カギ?」 陽司「鍵を見つけた時の『なんと! ……○○は鍵を見つけた!』みたいに『なんと』   とか『!』をつける、あれは堀井さんだったのか中村さん(ドラクエシリ−ズの   メインプログラマ−)だったのか、まあどっちかだけど、やっぱりあの文体、   ゲ−ムにあった驚きの文体を作れた才能があったからでしょうね。その意味では   ね、必ずしもこれからアニメやゲ−ムが中心になって、例えば講談が滅ぶってい   う考えはないわけです。    ただ、ただね、寄席が無くなってジャンルとして滅ぶ危険はあるわけですよ。   ただ、代わりに何かが出てくるわけで、それはきっとゼロからだから、それだっ   たら講談残した方がいいんじゃないかと。だからその、宣伝するつもりは……ち   ょっとあるんですけど、10月にプレイステ−ションで出る『ラ−メン橋』って   いうゲ−ムは、講談がゲ−ムにどれだけ切り込めるか全然切り込めないのか、結   構面白いとこですよ」 竹内「ラ−メンのゲ−ムなんですか?」 陽司「ラ−メン屋が主人公なんです。簡単にいえばゲ−ムでやる寅さんだと思えばい   いんですよ。好きな女を追って九州行ったりとか、そんな話もありますから」 竹内「ゲ−ムメディアはこれから、もっと言葉の問題を考えてかなきゃいけませんよ   ね。リズムとか音声もひっくるめて」 陽司「だから、例の『タ−ンAガンダム』の『ウィル・ゲイムと申し上げます』にし   たってねえ、脚本家レベルが……。ゲ−ムデザイナ−でプログラムやってる人が   シナリオも絵もかく時代はもう終わったわけですから、少なくともシナリオを専   門にする人間が出てくるレベルで、まああれはアニメですけど、あんなもん書か   れてたんじゃあねえ。いやあ講談師として頑張り甲斐があるというか」 竹内「切り込む余地があるというか」 陽司「というかね、楽しみがないでしょ、あんなシナリオばかりが、ダメなものがな   っちゃうというのは」 竹内「僕はそれで実は、富野さん(ガンダムの生みの親)の小説版『ガンダム』自体   が非常に腹立たしかった記憶があって。ちゃんとアニメで見たことないから本で   読んどくかと思ったら、もう言葉がボロボロなんですよ。書いてるうちに言葉の   係り受けがめちゃくちゃになってるような、ろくに校正もしてねえじゃねえかみ   たいな感じで許せなかったという」 陽司「あのねえ、遠藤さんの書いたサブスト−リ−ものはわりと良かったんですよ。   これはアニメ−ジュの付録だったんですけど」       ◎物語の論理    陽司「だから言葉の問題っていうのは結局、永遠に続くと思うんですね。例えば、テ   −プレコ−ダ−並にコンピュ−タ−が発達しちゃって、こうやって普通に会話す   るのもメ−ルでやるような世の中がきたら別ですけど、それはただ文明の進歩じ   ゃなくて、一つ文明としての衰退だと思いません?」 竹内「退化ですよね」 陽司「つまり何が問題かっていうと、自分が直接的に支配できないものっていうか、   市場原理になっちゃうじゃないですか。未だに私は、たとえ古臭くなっても立ち   上げたいと思ってるのが、ミヒャエル・エンデが、結局市場システムが全ての精   神や文化を規定してるから何とかしなきゃいけないってことを言ってたんですよ。   例えばコンピュ−タ−でコミュニケ−ションできるようになったとしても、それ   を作り出したり供給してるシステムは常に市場システムじゃないですか。これに   支配されたまんまで文化というか生活が豊かになるっていうのはね、別にマルク   ス主義じゃないですけど、ありえないような気がしてね。    つまり、やっぱ人間って自由なところを楽しむもんだから、例えばコンピュ−   タ−を使って遊ぶってことだって自由の一種だけど、でも今後コンピュ−タ−が   なんでここにあるかっていったら働いて金稼いでるから、みたいなことに支配さ   れたまんまでね、本気で面白いかっていったら私は面白くないと思うんですよ。    んでそんなこと言ったら、講談だって金困ってんだろうと言われたらその通り   なんですけど、私はねえ、高座でやりたくて講談やったんじゃないっていうのが   どっかにあるんですよ。もちろんさっき言った『はだしのゲン』というのがある   んですけど、本当のきっかけはやっぱお喋りで、喋るのが好きで。    例えばねえ、田舎に帰ると、東京で失恋した話とかを友達に愚痴を聞かせてた   んです。そうすっと、久しぶりに会うのに愚痴聞かされたら友達ってたまらない   もんでしょ。ところが彼はそれを喜んでくれるわけです。お前の話を聞いてると   面白い、落ち込んだり馬鹿なことしたりするのが面白いって。で、こっちは、愚   痴るのって結構気が晴れるから楽しいわけじゃないですか。だったらもっと楽し   ませようと思ってオ−バ−に言ったりとか、講談師考える前からそういう物語り   的なことをやってて。    つまりね、高座で鍛えると、日常的な会話が面白くなる、というか物語りの力   が付くだろうと。で、人間どんなことしたって、もの書いたりキ−ボ−ド叩いた   りって時間よりも会話する時間の方が簡単だし長いはずだから、高座で鍛えたん   で日常的に人と会話すんのが楽しくなったらいいだろうっていう発想はどっかに   あるんですよ。こういう発想っていうのは他のジャンルではできないっていうか、   さっき言ったような道具が介在する文化ではできないと思うんですよ。もっと直   接的なものになって方向が逆でしょ? つまりコンピュ−タ−は使えるようにな   って、日常生活をコンピュ−タ−抜きで充実させるっていう方向にはいかないじ   ゃないですか。    まあその意味では文化一般もそういうもんだろうとは思うんですけどね。だか   ら極端なこと言えば小説にしたって、本を見せ合うんじゃなくて読んだものでコ   ミュニケ−ション取ったりっていう媒介になるわけで。なんかね、道具が介在し   たり、映像っていうのはこの場で絵を描いてみせることはできなくて、言葉や文   字レベル、もっといえばお話の部分のレベルが衰退することはないだろうと。ま   だちょっとね、完全な理論化はできないんですけども。    だから、講談は世界を救うって、今までホ−ムペ−ジに出してましたけど、基   本的にはこの発想なんですね。もう30年前に生まれてたら講談ゲリラみたいな   こと考えてたでしょうしね。フォークゲリラみたいな発想ってそこだったと思い   ますよ。ギタ−一本で世の中変えるみたいな発想でしょ? ギタ−がなくてもこ   っちは張り扇だけでいいっていうね。だから逆に言うとインタ−ネットの中で文   章、小説を流通させたり、それを売るっていう意味じゃなくてもね、いろんなサ   ブカルチャ−の話ができるっていう意味では、すごく可能性は広がってると思う   んですよね。インタ−ネットだから言うわけじゃないですけど。    ところが、その時に何を利用するか、どういうものを本質として選んでいくか   っていう、要するに情報は多ければいいっていう発想を変えられる思考パタ−ン   っていうか論理はないわけです。私はその一つに物語の論理っていうものがある   なあと思うんですよね。    それは何かっていうと、自分の体験とか感情とか、自分の動機の根本になるも   のは情報量じゃなくて、体験の深さとか、因果関係とか、因果関係を繋いでいる   関係とか、極端に言やあ道徳教育ですよね。子供の時から見てきたアニメとかゲ   −ム、読んだ漫画や小説によるものでしょ。その中から抽出されて自分なりの思   考パタ−ンができてくる。それは市場原理でもなければ、変な情報量が多いって   いう発想でもないし、それは多分、科学でも社会学でも解析できない、まさに物   語的なものだと思うんです」       ◎豊かさと縦書き文化    竹内「そういう意味で物語ってのを考えると、富士通かどっかが開発してるらしいん   ですけど、育てゲ−ムとか育成シミュレ−ションとかの延長で、インタ−フェ−   ス自体を育成していこうっていう流れがあるらしいんですよ。ゲ−ムではなくて。    要するに、パソコン使ったりインタ−ネットしたりする時に、自分の相手をし   てくれるキャラクタ−がいて、そいつとの対話によって情報を取捨選択させたり、   そのやり方によってキャラクタ−やシステムそのものが変化してったりってのが   あるらしくて、それこそ今の言い方でいうところの物語ですよね。コンピュ−タ   −と人間の間を物語で繋ごうという動きがあるらしくて」 陽司「結局ね、発想というか思考としてはね、そんなのもありだし聞いてみると楽し   そうだなって思うんですけど、やっぱりそれを動かしてる原理自体が……」 竹内「ああ、なるほど(笑)」 陽司「ミヒャエル・エンデほどには言わないにしても、市場原理なわけでしょ? 結   局その情報を作るために幾らの開発費がかかって、コストがどうのこうのってこ   とになっちゃうじゃないすか。何かねえ、それが100年といわず50年続けば   普通の情報になっちゃうかと思うんですけど、それってものすごく、ミヒャエル   ・エンデが言ったような、虚無が襲ってくるみたいな、ナウシカに出てくるよう   な虚無の世界とか、何か嫌なもんを感じるんですよ、私は」 竹内「じゃあもっと、生理感覚に近いものとしての物語ってことですね」 陽司「う−ん、というかねえ……やっぱり道具が介在するのが嫌っていうのがあるん   でしょうけど、何故かっていうとね、結局それは他人の考えた形式に合わせるっ   ていうことじゃないですか。だからさっきまで言ってた講談の形式とどう矛盾し   てどう違うのかっていうと難しいんですけど、なんか人のアイデアで自分の発想   すらもっていうのはね、絶対、多様性が豊かさだっていう考えでいくと、豊かな   方向には行かないような気がして。    例えば私が思ってるのはね、HTML言語って未だに縦書きがないでしょ。縦   書きっていうのは生理的にも凄く日本人には重要な部分にあって。ナレ−ション   の原稿って未だに縦書きなんですよ。何故かっていうと目が横についてるから、   余計に手間がかかるんで集中量が増すんです。生理的な問題で、私は自分の原稿   の発表もできれば縦書きにしようと思ってるんですが、どのブラウザでも縦書き   に見えるソフトがなくてあれなんですけど。    例えばそういうものが、もうHTMLが世界言語だとはいっても発想として出   てこない。今のインタ−ネット文化がこのまま進めば、多分縦書きは滅びちゃう   でしょう。そういうのが、代わりにインタ−ネットが発達したから豊かになった   っていっても、その豊かさは時間かければ別に出てくるものだと思うけど、イン   タ−ネットがなければ縦書きは滅びなかったっていうことを100年後に考えた   誰がいるとするとね、総体としては情報量は増すけど豊かさは減るっていう発想   に──自分がライブの芸人だから思ってるのかもしれないけど──そういう気が   するんです。だからまさに道具だから、これを使って豊かさを生み出すことは可   能だと思うけれども、放っておけば豊かさを失わせる方向にしか行かないような   気がするんですよ。ちょっと悲観的なことを言いますけど」 竹内「縦書きっていう概念は非常に象徴的で納得のいく例ですよね、日本人には」 陽司「他のことでもきっとそうなんですよ。自分がインタ−ネットやって、こういう   機会があったり仕事もきたりって、これは実際豊かになってる部分ってあると思   うんですけど、その代わりに失われた部分っていうのは絶対ある気がして。    例えば、パソコンがあると自分でチラシができる。いくらでもきれいにできる。   画像ソフトいれてきれ−いなチラシができる。だけどこれがもし、パソコンが無   かった場合どうするか。誰かに頼まなきゃいけない。そうするとお金が無いから   頼まないといけない、そうすると人間関係も濃密になるし。だから可能性が削ら   れたぶんだけ、余剰なところで、余分なところで、なんかその……無駄といえば   無駄なんですけど、でも豊かになるものがあるはずなんですよ」 竹内「無駄こそが豊かさだっていうのがありましすよね」 陽司「ところがやっぱり、市場原理になんでこだわるかっていったら、市場市場って   いうのは資本主義の云々、マルクス主義のじゃなくて、市場概念。それはやっぱ   り無駄を省く方にしかいかないわけでしょ。コストで無駄をわざと出そうなんて   いう発想はありえないわけですよ、少なくとも今のレベルでは。あの−、大きな   ものが介在して出てくる情報量の増大と、無駄が豊かさだっていう発想とは絶対   違う。何か異議を唱えたいし、それが全然時代に逆行してたとしても、ライブで   伝統芸をやってる人間はこれを言い続けるのが義務だっていう気がするんでね。   自分自身もそれは信じられるから、これはできればいい続けたい。例えば50年   生きて、完全に縦書きがなくなって、もう日本語もなくなって、ライブの芸もな   くなっても、まだ言い続けてそのままっていうのが、一応生きかたかなみたいな   のもあるわけですよ」      
      ……ってなわけで、講談に始まって文化やメディアにいたるまで語っていただいた インタビュ−は実に刺激的であった。さすがの芸人さんで、滔々と喋っていく陽司さ んの口調に引き込まれまくって聞いていたものである。  このインタビュ−を行なった時には新作はしばらく休むなんて言ってた陽司さんだ が、その後司馬遼太郎の『竜馬がゆく』にはまって竜馬ものの新作を高座にかけたと いう噂も聞いた。──今の時代、講談という語りの文化から得るものはとても大きい と思いますので、皆さんも陽司さんの高座やホ−ム ペ−ジをチェックしてみて下さい。 


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