平成11年度全国理科教育大会・第70回日本理化学協会総会・茨城大会
研究協議会 第5分科会     1999年8月5日
探究の過程を重視した生物の指導
意見提示要旨 


要旨集に掲載されたもの

         講義形式の授業は無くなる      

               神奈川県立山北高等学校 池田博明

 本校の3年時の選択『生物U』(選択者14名,週5単位)では毎時間,実験・実習を行っている。
 といっても『生物U』の「課題研究」のような生徒の自主性を支援する実験・実習ではない。必ずしも探求学習(investigation)にはなっておらず,単なる観察(observation)や検査(test)だったり,実験(experiment)や技能訓練(skill)だったりするが,単なる講義で終わることなく,実際の生物にできるだけ触れながら,生物教育を進めていくことがねらいである。→ 毎時間生物実験実習のページ参照
 仮説の設定はできるだけ行っており,数回の実験を経験した後には,生徒から「今日の実験の仮説は何か?」と質問が出るようになるほどである。
 このような学習が可能な背景には本校の次のような事情がある。
 1)2年次に『生物TB』を履修しており,基礎的な知識はあることを前提にして,授業を進めることができる。
 2)進路上『生物』が必要な生徒,または『生物』に興味のある生徒が選択しているので,意識が高く,実験実習に対する取り組みがよい。
 3)選択人数が少ないので,準備が容易である。
 4)進学者であっても,推薦受験者が多いため,一般受験の『生物』に対応するための難解な受験問題演習をする必要がない
 上記の点は,若干展開を工夫すれば課題集中校や進学校でも当てはまると思われる。
 むしろ,このような多様な実験・実習を展開し,生徒に観察から探求学習まで多くの実習経験を積ませることが,今後の生物教育にとってもっとも重要なことであると,私は考えている。将来的には単なる講義形式の生物の授業は無くなる,いや意義が無いため無くすべきであると,私は考えている。
 それは以下のような事情からである。
 1)児童の自然体験が激減しており,生物に触れる原体験の少ない生徒が増えている。
 2)インターネットなどの電子情報の充実は時間の問題であり,専門的な情報が誰でも入手可能になる。特にデジタル放送は家庭のテレビを学習マシーンに変えることになり,在宅学習が可能環境が整う
 3)既にCD−ROMでも良い学習支援教材が出ており,教科書以上の自主学習が可能である。
 以上のような事情を考えて,今後は知識の基礎的な枠組みを教えることと,実験・実習こそが生物教育の中心になるべきである。


参考資料  「講義形式の授業は無くなる」について
        3年 生物U 選択生徒の意見(一学期末)

     ●実験中心授業の利点
  自分で実際に行うので,方法などがきちんと理解できる。
  生物に触れることによって興味が出るし,楽しい。
  生き物や動くものが面白い。
  百聞は一見に如かず。
  実際に見ると感動が倍になるから良い。
  友人と教え合いながら出きるので頭に残る。
  少人数なので,すぐに質問ができて良かった。
  少人数なので自分でできるし,反省がしっかりできる。
     ●実験中心授業の欠点または留意点
 必ずしも既習のことを覚えていない。
  なぜこの実験をするのかが理解できないと面倒だと思い始める。
  説明の授業が必要である。そうしないとなぜその実習をするのかが理解できない。
  時間が少ないと,実習の理解が不十分なので,まったく講義をなくすことには無理がある。
     ●CD−ROMなどの教材について
  面白そうなのでやってみたい。
  器材が必要である。 
  デジタル機器は苦手である。
  学校は友人を作る.または友人とふれあう場所でもある。


▼同提示意見(事後に報告したもの。上記に一部加筆)
 この事後の報告文は研究冊子に掲載されると聞いていたが、審査があるそうで、冊子にはオミットされていた。冊子に収録された論文は研究会の方で発表された実験の工夫をしたものが多く、研究協議会での意見は質疑応答が記録されていたが、肝心のこの事後の提示文は掲載されていなかった。


       講義形式の授業は無くなる 

                      神奈川県立山北高校  池田博明

 本校の3年時の選択『生物U』(選択者14名,週5単位)では毎時間,実験・実習を行っている。 といっても『生物U』の「課題研究」のような生徒の自主性を支援する実験・実習ではない。
 必ずしも探求学習(investigation.仮説を設定 し,実験による検証を経て,結果を考察する学習) にはなっておらず,単なる観察(observation.例えばボルボックスを検鏡する)や検査(test.例えばタンパク質の定色反応)だったり,実験 (experiment.なんらかの課題を解決するもの)や技能訓練(skill)だったりするが,講義で終わること なく,実際の生物にできるだけ触れながら,生物教育を進めていくことがねらいである。
 とはいえ,実験毎に仮説の設定はできるだけ行っ ており,考察のしかたも訓練している。仮説は生徒にとって自然で無理のない仮説を設定するように努めている。例えば原形質流動の実験では「光によっ て流動は活発になる」,原形質復帰の実験では「原形質分離した細胞を水に浸けると復帰する」等である。数回の実験を経験した後には,生徒から「今日の実験の仮説は何か?」と質問が出るようになるほどであった。今のところ仮説を生徒に設定させる予定はない。
 1学期を終えた時点で43テーマの実験を実施した。生徒に人気投票をさせたところ,第1位は「ウ ミホタルの発光」,第2位は「味覚の閾値を探る」であった。総じて生徒に評価の高い実験は2年時に実施した実験のやり直しのもの(ちなみに,2年時に は12テーマ程度の実験を実施している)・動く生物を用いたもの・自分の体に関連したもの・工作や手作業を伴うものという特徴があった。これらの実験の内容は私のホームページにその都度掲載して公 開している。URLは下記の通りである。
http://homepage3.nifty.com/~hispider/allskill.htm
 本校でこのような実験中心授業が可能な背景には次のような事情がある。
 1)生徒はすでに2年次に『生物TB』を履修しており,基礎的な知識はあることを前提にして,授業を進めることができる。
 2)進路上『生物』が必要な生徒,または『生物』 に興味のある生徒が選択しているので,意識が高く,実験実習に対する取り組みがよい。
 3)選択人数が少ないので,準備が容易である。
 4)進学者であっても,推薦受験者が多いため,一般受験の『生物』に対応するための難解な受験問題演習をする必要がない。
 ただし,上記の点は若干展開を工夫すれば,課題集中校や進学校でも当てはまると思っている。
 むしろ多様な実験・実習を展開し,生徒に観察から探求学習まで多くの実習経験を積ませることが, 今後の生物教育にとってもっとも重要なことである と,私は考えている。
 1学期を終えた段階で,生徒に実験中心授業の是非を問うたところ,実際に自分の手で生物を見る・実験を行うこと,小人数で理解が進むことなど,肯定的な声がほとんどであった。ただし,目的が理解できないまま,実験に入ってしまった場合には,意義を理解せずに終わってしまった例もあった。生徒はまず知的に理解し,じゅうぶんに納得することを 欲していた。
 引き続き2学期・3学期も材料の準備や試薬の調整から実験計画まで,事前に時間をかけて多様な実験を展開したいと考えている。
 なぜ授業の中心に実験を据えているかというと,将来的には単なる講義形式の生物の授業は無くなる,いや意義が無いため無くすべきであると,私は判断しているからである。それは以下のような事情からである。
 1)児童の自然体験が激減しており,生物に触れる原体験の少ない生徒が増えている(文部省の生涯学習審議会の答申でも指摘され,道徳観や倫理観も薄くなり,由々しき事態であると認識されている)。このような状況では学校で生き物にふれることの重要性は増すばかりであろう。
 2)インターネットなどの電子情報の充実は時間の問題であり,専門的な情報が誰でも入手可能になる。特に数年後に実施が予定されているデジタル放送は,家庭のテレビを学習マシーンに変えることになり,在宅学習が可能な環境が整う。
 3)現状でもCD−ROMで良い学習支援教材が出ており(例えば『生命の起源』や百科事典など), 教科書以上の自主学習が可能である。
 つまり,学校の意義は再検討されなければならなくなる事態が目前に迫っている。
 学校は何を教えるべき場所になるのだろうか。おそらく雑多な情報を整理するために,知識の基礎的な枠組みを教えることがいま以上に重要になるだろう。そして,生物教育においては,実物に触れる機会(実験・実習)こそが授業の中心になるべ きであろう。それを通して合理的な思考過程を学ぶことが,理科教育のもっとも重要な課題となるであ ろう。
 そのための準備は,今から始めるべきである。「誰でもどこでも出来る生物実験」を合言葉にホームページを利用して,知恵を結集したいと思う。できるだけシンプル・プラン(準備や仮説や方法がシンプ ルで効果の高い実験)を立てること,投げ込み実験や演示実験を工夫することを提言したい。


参考資料
フィリップ・K・ディック 『火星のタイム・スリップ』(小尾芙佐訳.早川SF文庫90−91頁)より

  この機械(ティーチング・マシーン)は,指示テープに従って,ドタバタ芝居を演ずるのだが,その演技は,観衆の反応に従い,各段階で任意な修正が加えられる。つまり閉鎖システムではない。子供の反応を,指示テープと比較照合し,分類し,しかるのちに反応する。しかし独自な見解はとりえない。なぜならば,ティーチング・マシーンは限られた範疇しか識別しないからだ。とはいえ,それは,いかにも生あるもののような幻影を人々にあたえるのである。これはまさに技術の勝利だった。
 ティーチング・マシーンが人間の教師に勝る点は,大勢の生徒を個別的に指導しうる能力だ。講義をするというよりはむしろ個人指導をするのである。千人の生徒を扱いながらしかも彼らを決してとりちがえることはない。反応は個々の生徒に応じて変化し,生徒個々に対して微妙な相違をもつ存在となる。機械的といえばそうだが−しかしほとんど無限に近いほどの多様性だ。ティーチング・マシーンは,ジャック・ボーレンが認識している事実を見事に立証している。いわゆる"人工物"というものには驚くべき奥行きがあるという事実を。
 しかし,ジャック自身はティーチング・マシーンに抵抗を感じている。スクールが果すように仕向けられている仕事が,彼の気質とあいいれないからだ。スクールは,知識をあたえたり,躾をしたりするためにあるのではなく,鋳型にはめこむためにある,しかもきわめて限られた数の鋳型に。                                


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