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 作成者・池田博明


    「佐々木昭一郎の世界」に参加して

     早瀬 祐子     1981年

  池田宛ての私信より ミニコミ誌『GAKKO』第18号(1981年9月29日発行)

 先日、6月27、28日に、NHK放送博物館にて『佐々木昭一郎の世界』というテーマで、ドラマ『さすらい』(27日)、『四季・ユートピアノ』(28日)が上映された。
 『四季・ユートピアノ』の上映会の後、佐々木さんの話や、出演した人たちの話を聞くことができた。中尾幸世さん、宇都宮信一さん、大川義行さんがみえていたのである。彼等の話を覚えている限り書いてみようと思う。

 佐々木さんが、まず「若い人たちのために・・・」と話されたのは、自分を客観的に見ること、自分に溺れぬことが大切だということだ。
 外国の履歴書の例を出して、「私」と考えるところを「彼」と置き換えて考えようと語っていた。これは上映会の時のパンフレットにも書かれていた。

 ドラマを創り始めると、ドラマの中の人たちのことばかりを考えるようになり、だから出会いの瞬間に「この人なら、役を演じ切れる!」とわかるそうだ。この出会いについては、「霊感」「運命」という言葉を使っていた。
 「私が選ぶ役者は、必ず、心の広い内面の奥深い人だ。ドラマの中で、自分がねじまげられ、ゆがめられて映っても、それを許せる心を持っている人たちだ。また、私のドラマは人間の内面を映し出すから、どうしても内面的に深い人を選んでしまう」と語った。

 「役者に対しては肉体的に酷なことをしている」
 例えばA子が「赤いサラファン・・・」と歌うシーンは零下の厳しい寒さの中での撮影だった。A子の祖父・祖母の役になった人に「いくらなんでも」と叱られたが、結局は決行した等。
 また、「役者が、表面的に演技をするのではなく、彼(彼女)の中で新しく人間を創り出すことを要求するので、精神定にも酷だろう。しかし、役について、いつも考えてもらうということはしていない。そんなことをしたら気が狂ってしまうから」

 佐々木さんは、人の心の内まではいり込むことはしないと言っておられた。中尾さんは、イラストレーターだけれど、どんな絵を描くのか、見もしないし、聞きもしないそうだ。中尾さんについて知らない部分は、想像して理解するとのことだった。

 一シーンを撮るとき、演じる人に「この場面では、どんな気持になって、こうだから、そのような行動をするのですよ」などと、登場人物の感情の動きを説明はしないそうである。ただ、「こうやって下さい」とジェスチャーを示すだけ。例えば宇都宮さんには「食事の時に、急にスプーンを落として下さい」とか、「ピアノをひく前に指の準備運動をして下さい」と言って撮影をするが、この二つの場面をつなげてみると、宮さんの手がしびれて悩んでいるのだと分かるのだ。

 美しく撮るよりも「自然さ」を大事にしたいと佐々木さんは言った。宮さんが風邪をひいたA子に「苦いけどよく効くから」とアロエを飲ませる場面など、中尾さんは本当に風邪をひいており、宇都宮さんは本気で看病していたのだ。そして、知らぬ間に撮影されていたのだと、宇都宮さんが語った。また、A子が、はじめて宮さんの家を訪れたとき、「あの(ピアノ)下に寝たいな」とつぶやく場面も、「本当にそう願っていったのです」と中尾さんが言った。画面に光線が入って。きれいではないが、そのときの自然の雰囲気が重要なのだと佐々木さんは言っておられた。

 見に来た人たちからの質問で、「中尾さん、宇都宮さん、大川さんは、ドラマの中の人物と何の変りもないように見えるのですが・・・・」というのがあった。
 中尾さんは、「A子は私の一部です。私もA子のような人間になれたらいいなと思います」と答えた。ヨガや禅によって、A子というものを浄化し、昇華して、自分の一部として生み出したのだと言っていた。
 佐々木さんが、この事、A子を創り出すのに、中尾さんが長年やってきたヨガや禅が役立っていたことを知ったのは、ドラマが外国で賞をもらったずっと後のことだったそうである。
 
 最後のシーン、A子が雪の中でリンゴの木によりかかっている、についての質問があった。「ドラマの最後に、A子の顔が大写しになる場面がある。この時の中尾さんの顔が、まるで能面のようで、瞳の中に宇宙さえも含まれているかのようだ。どうやったら、あのような撮り方ができるのだろう。何故、中尾さんはカメラを全然、意識しないのだろう?」、また、「このシーンでは、A子が涙を流す。あれはどうしてですか?」等である。
 中尾さんは「この場面は撮影の最後の日でした。一面の雪の中、ただ真っ白い。そんな中にいて、一年間やって来たことを思い出していました。そして、私が一年間、みんなと一緒に映画を作ってきたことは、一体何だったのだろう、と考えていたら、自然に涙が出てきたのです」と話してくれた。撮影のとき、佐々木さんは、中尾さんに「この木に寄りかかって、カメラの方を向いて下さい」と言うだけで、「ここではA子が涙を流す」などと説明はしなかったそうである。しかし、中尾さんが絶対に涙を流してくれることはわかっていたと語った。中尾さんが、雪の中で何を考え、涙を流したのかを、はじめて知ったと、佐々木さんは言った。

 宇都宮さんは、八十何歳という高齢だが、今もピアノの調律をしているそうである。ドラマの中と同じように、ベレー帽をかぶっていた。ドラマを見た知り合いの人が、宇都宮さんが本当に調律をやめてしまったのかと電話をかけてきたと笑い話をしてくれた。
 「宮さんはあの船に乗った後、どうなるのですか」という問に、「音というものは消えてゆきます。A子のおにいさんや、おとうさん、おかあさんが、ひとつの音となって消えていったように、私も消えてゆく音になったのです」と答えた。

 「鳩時計の針が4を指し、ピアノ工場の柱時計が4を指した。4という数字について、四季の4と関連づけたのですか?」という質問があった。
 佐々木さんは、「意識はしなかった。映像には、自分の演出以上の事柄、潜在的なことまであらわれる。だから、私の潜在意識の中に4という数字があったのかもしれない」と答えられた。ピアノ工場での撮影の最後の日、「もう帰るよ」という時に、あまりになごり惜しくて、その柱時計を撮ったのだと言っていた。

 佐々木さん「私の作品を“詩的”という言葉で表す人がいますが、詩というのは言(ことば)の寺でしょう。死んだ言葉ということですから・・・・・」
 
 中尾さん「音を聞いていると映像が見えてくるのです。時々、ピアノが色のつまった箱に見えるのです」

 大川さん「佐々木さんは、ぼくたちを上から見おろしていました」
 中尾さん「佐々木さんは、こわかったです」

 佐々木さん「今のドラマは、ほとんどすじがあり、これこれこうですよと説明してある。これは怖いことです」
 「ドラマは一過性のもの、映像は死ぬもの、音も。人=音。消え去る音、過ぎ去ってゆく人」
 「現代のニュースのように、あからさまな映像は好きではない。それ自体を映さなくても他の方法であらわせる。『四季』の中にも戦争反対の考えを入れたつもりだ。
 
 日本での反響が少ないため、外国での評価をもとに国内放送する方向で進むつもりであるとのこと。しかし、二日間の上映会で述べ四百人以上の人が見に来たのには驚いていたようである。早大の学生さん(佐々木さんのドラマの研究サークル)に、「見に来るのは、あなたたちくらいなものでしょう」と言っていたそうである。

 この他に撮影の際の技術的な事柄、社会問題等について話して下さったが、記憶が定かではないので、書きません。
 というわけで、閉館の時刻まで、佐々木さん、中尾さん、大川さん、宇都宮さんの話を聞くことができた。
 楽しく、有意義な時間であった。
 
 (早瀬祐子さんは池田の勤務していた高校の卒業生。当時は大学農学部の学生。「ミセス」の記事を書き移して送ってきてくれた。・・・・池田記)


          「さすらい」演出者のことば    佐々木昭一郎

     NHKの番組を見る会「佐々木昭一郎の世界 PART 1」パンフッレットより

 私は主人公を探していた。
 撮影期日寸前のある春の日、私は演出助手の和田智允と撮影の葛城哲郎の三人で横浜へ行った。外人墓地の前を通って、山手教会の前へ出ると、ヒロシがいた。彼は他人のオートバイをいたずらしていた。彼はオートバイにまたがって、無言でエンジンをふかしていた。少年たちがむらがって、彼を見ていた。これが主人公と私の出会いだった。
 彼は、私の期待にこたえて、走る、かつぐ、と全力投球の演技をしてくれた。ことに、氷屋で働くシーンは私としても圧巻だと思う。
 他に、栗田ひろみ、笠井紀美子、友川かずき、この3名もはじめて実生活者としてドラマに登場している。実生活者とドラマを綴るのは私の20年来の作法となっている。最近作の(川)も同じである。
 「はみだし劇場」の外波山文明とも、この時はじめて出会った。
 放送直後、ある文学者が私に手紙をくれた。「若者の巡礼を活写」というその時もらった手紙の一行を今でも思い出す。私の作品から一種の宗教的ひびきを感じとっての手紙だったと思う。私は常に「生の円環」というイマージュの図式を作品の背後に沈積させるからそのような私信を受け取ったのだと思っている。またあるフランスの詩人から、「さすらいの東洋的発想は輪廻転生にあると考えるが、これはヨーロッパ人たちの中に歴史的にある人間の喪失感に通じている」と言われた。私は宗教家ではなく、また、神もいないのに神を造るということは人類を裏切ることであるから、神は造らない。
 小さい踏み切りを撮った時は、32度の真夏だった。私はこの踏み切りを探すのに3か月かかった。踏み切りは、実はすぐ近くにあったのに。三沢でロケした時、ハウスは草ぼうぼうだった。自衛隊と米軍の入れ替え時期にちょうど出くわしたが、私はそこで軍隊やジェット機をあえて描かなかった。私は、青い草を撮った。そして音を聴いた。
 「さすらい」を創った時、私は34歳だった。その2年前に、私は「おはよう、ぼくの海」と「マザー」を創っていた。「マザー」は、当時はイタリア賞に次いで世界的な権威があったモンテカルロ国際テレビ祭ドラマ部門で最優秀作品賞を受賞した。プロデューサーは遠藤利男だった。遠藤利男はかつてのラジオのディレクターだった。
 遠藤利男と私は、「生きている人間の意識の時間のモンタージュ」を「マザー」と「さすらい」で完成したと思う。これは世界ではじめての作風だと思う。
 ラジオ時代の彼と私は、お互いに面識はあってもいちどもいっしょに仕事をしたことはない。「普遍性」への私のsプローチは、世界のどの作家も日々、心している目と同じだ。それについて記すことは、ソバ屋のタレの味覚の製造法になってしまうから、そこまで私は語る必要はない。
 しかし、これからものを創ろうとする人たちのために一言だけ、水先案内人をすることだけはできる。それはヨーロッパでの履歴書の書き方である。“私は”という人称を、“彼は”“彼女は”と転移させて書くやり方である。これは表現の基本であるからだ。
 私の作品の主人公の全ては、“彼は”“彼女は”で一貫している。生の私はない。
 「さすらい」は、1972年の芸術祭大賞を受賞した。その他、撮影賞(葛城哲郎と妹尾新)、個人賞(私と織田晃之祐が受けた)等等がある。
 去年の秋、「さすらい」は西ドイツ国営テレビを通じて、ドイツ語圏に放送され、高視聴率を取ったということを、ミュンヘン在住の国営テレビ国際番組代表のディヴィッド・モーリー氏から知らされた。私の局の海外業務部のディレクター横田恒氏も驚いていた。私も驚いた。



          「四季・ユートピアノ」 作者のことば   佐々木昭一郎


     NHKの番組を見る会「佐々木昭一郎の世界 PART 1」パンフッレットより


 「四季・ユートピアノ」という題は、ある日、突然浮んだものです。1977年の冬、私は何か強い力によって動かされ、冬の東京の街を歩いて東京湾まで行った。朝になっていた。深夜の道路のひびく私の足音を聴いているうちに、「夢の島少女」(1974年)を創った時、それを見たあるレコード店の女店員さんが、私にバッハの「主よ、人の望みの歓びよ」のレコードを送ってくれたことを想い出していた。それから、藤田真男さんという豊橋市の学生さんと、札幌の池田博明さんという北大学生が作ったミニコミ誌を思い出し、大川義行さんが発刊した「フォーク・アート」というミニコミ新聞を思い出していた。藤田さんと池田さんは「夢の島少女」を見て感動し、そしてミニコミ誌を作った人たちだった。私は、作品でこたえなければならない。
 東京湾へ行ったのは1月の真冬だった。音がよくひびいていたのを覚えている。それからしばらくして、私は中尾幸世(榮子)にばったり会った。「夢の島少女」の主演者の中尾幸世さんは、多摩美大に入ったばかりだった。
 私は近況をたずねた。「音楽を聴いていると画像が浮ぶのです。キース・ジャレットのピアノをよくきいています」ということだった。私は、これだ!と思った。そして、近くのピアノ店の菊地さんについて、ピアノ調律を勉強していると、彼女は言った。私は、これだ!と思った。菊地さんの店にピアノを見に行った。「中尾さんは、もう3ケ月もしたら、1級のピアノ調律技術を覚えてしまう」と菊地さんは言っていた。中尾さんは、ピアノのふたをとって調律していると、ピアノがパレットに見えたりすると言っていた。私はしばしば彼女の音を聴いていた。音を整えたあと、音を確かめるために彼女は自己流の和音を奏でた。それは私が小さい時、遠くの家から聞えて来るピアノのひびきに似ていた。私はたずねた。「何という曲?」。中尾さんは、バッハの「主よ、人の望みの歓びよ」と答えた。「四季・ユートピアノ」という題名はこの時に考えついた。それから私は数冊の台本を書いて、1年後に企画が採択された。これが、この作品の出会いのはじまりだった。私は企画、作、演出者の三役なので、私の中に「3人」の人間がいた。「3人」はそれぞれ言葉を交わすことがなかった。だから私は、効果マンの織田さんに、台本の1行を読んで、きいてもらった。プロデューサーの小林〔猛〕さんにも同じことをした。彼に「川の流れはバイオリンの音」を制作した勅使河原さんは当時、札幌にいたが、彼にも台本を送って自分を確かめた。そういう1年間だった。そして中尾さんに何冊もの台本を読んでもらった。彼女は、榮子という人物を創り出すために、いろいろな工夫をしてくれた。彼女が8年間も行なっているヨーガが役づくりの大きな要素になっていたようだが、そのことを知ったのはロケがはじまったずっと後だった。
 「四季・ユートピアノ」は、1980年の1月12日に放送され、これまで3回電波にのっている。そして、いくつかの賞を与えられた。去年の5月に、放送批評懇談会の方々が選出されるギャラクシー賞がはじめての受賞だった。この時は、とても嬉しかった。何より、中尾さんはじめ、北海道の馬、サーカスの象や多くの人々にこたえられて嬉しかった。受賞式には、私と織田さんと小林さんしか出席できず、私はスピーチで、馬のこと、象のことをしゃべって心でみんなにお礼した。この時のスピーチは今でも忘れられない。お茶の水の、山の上ホテルのホールだった。それから「四季」は毎年9月、イタリアの各都市で開かれるイタリア賞国際コンクールドラマ部門に参加が決った。イタリア賞にはたった2つの大賞がある。「最も斬新な作品に対して」与えられる大賞のRAI賞を受賞した。と知らされたのは、私が次作のシナハンで、イタリアから飛行機で帰った夜だった。私は受賞式に出席できなかった。会場のガルダ市のすぐ近く、クレモナにいながら、会場に行くのも気おくれしていた。なにしろ、帰国して2週間後にはロケに出発しなければならなかったからだ。そして“川”を撮って帰国すると、国際エミー賞の40本の作品の中から、ベストスリーに入選したことも知った。受賞式には、中尾さんに出席してもらった。イタリア賞でもエミー賞でも、中尾さんの演技がまったく新しいと受賞理由の一つになっていたから、本当に嬉しかった。それから「四季」は、一生に一度しかもらえない放送文化基金賞を受け、今年の3月、中尾さんにテレビ大賞新人賞が贈られた。私は何よりも嬉しかった。それから、カメラマンの吉田秀夫さんがこの4月、撮影賞を受け、音を代表して織田晃之祐さんが、また受けた。
 英語の題名は、「A DREAM IN A DIFFRENT KEY」。
 BBCのプロデューサー、ディレクターで、詩人であり小説家であり、役者でもあるイアン・ド・スタイン氏が、このタイトルを付けてくれた。イアンさんは当時、オランダに住んでいた。彼は日本人の青年・橋本つよしさんと2人で、何日もかけてこの題名を考え、私あてに何編もの手紙をくれた。すばらしい題名だと思っている。
 「四季」は、放送直後にフランス国営テレビ・アンタンドゥが、ゴールデンアワーでオンエアすると決めてくれた。以上が断片的な「四季」の回想です。
 私はそれから“川”を作った。スタートする時から、“川”の企画だけは、自信があった。「四季」を創ったことで、なにか強い普遍的表現の力を、心体で知ったからだ。
 (川)と(楽器)と(人間の出会い)、この3つのテーマを結びつけるのに私は、十年ぐらい考えていた。そして、どこの川に立っても、3つの主題を展開させる力を養っていた。
 ラジオの作品を創ってから、20年たった。
 音を手にして、本当によかったと思っている。これがなかったら、いろいろな人々に出会うこともなかった。
 作品は、いつも他人を媒介にしなければ創れない。
 私は台本を書くが、書き了えたと同時に、台本は死んでいる。なぜなら、1人の人間jの中に生きた意識は、音と同じく消える。私は台本を生きかえらすためには、台本の中の形をこえなければならない。台本の表現を生きている出演者に押しつけて、形を引き出すだけでは、演技とは言えない。また、形から入る職業である人々の形をこわすことは不可能である。私はこうして、作品を創っている。演技論を書いたら、1000ページあっても足りないぐらいだ。
 海外版制作・横田恒、訳出・イアンド・スタインズ。
 



           私の好きなレコード    佐々木昭一郎

               「ミセス」1981年3月号より

 私が少年の頃、私の家には、古いピアノが一台あった。母のピアノだった。私は、そのピアノを弾きたかった。母は、男の子の私にピアノを弾かせるのを嫌っていた。
 ある冬の夜、突然、上空が真っ赤になった。米軍の照明弾だった。直後にあられのような焼夷弾が、私たちを襲った。私たちは防空壕に避難した。防空壕の人いきれの中で、私は母を見失った。弟も妹も見失った。防空壕の穴から木造の私の家がみるみる紙のように燃え上がり、あっという間にくずれ落ちるのを私は見ていた。私は。くずれ落ちた家の中にピアノが燃えているのを見た。火は鍵盤の上を走り、ピアノはみるみる鉄骨がむき出しになり、続けて私は、ピアノ線が火にはじけ、断ち切られる音を聴いた。ピアノが泣いているような音だった。最後のピアノ線が音を立てて切れたその音は、今でもはっきり私の腹の中に鳴っている。私の家にあった箱型チクオンキも燃えた。ピアノを弾かせてもらえない代り、私は一人でよくチクオンキを聴いた。私の父がフランスから持ち帰って来た古いSP盤を積み重ねて、私はカルーソーの唄、バッハの曲、パッヘルベル、ビゼーなど、あきるほど聴いた。父は毎日の記者で海外特派員だった。SP盤の数々の中でレコードの溝がすり切れるほど聴いた一枚があった。それは、マーラーのシンフォニー第四番だった。特に私は第一楽章の第二主題と第四楽章のソプラノのメロディーを暗誦できるほどくり返し聴いていた。
 ある日、母はすべてのSP盤を捨てた。私はたずねた。母は答えた。敵国の音楽だからと。そして、私の家の中から、父の読んでいた外国の書物すべてが消え、父もいなくなった。
 私は昨年テレビ番組のための世界二大コンクール、イタリア賞と、エミー賞を受賞した自作のドラマ「四季・ユートピアノ」(100分、中尾幸世主演)のテーマに、マーラー第四番を用いた。受賞後、オーストラリア放送協会の人から、まるでマーラーに作曲を依頼した如くの作品だった、おめでとうと電報を頂いた。私が七歳の時に聴いた第四番はブルーノ・ワルター指揮だった以外、どこのSPかも思い出せない。私はアバド指揮、ウィーンフィルの一枚を今のところ最も気に入ってている。この曲はG長調だが、私は、ソプラノのメロディーを自己流にアレンジして、A長調として、ヒロインの榮子(中尾幸世)に唄ってもらった。なぜなら「四季」はピアノ調律士の物語で、ピアノ調律の基準音はA(ラ)の音。万国共通に赤ちゃんのうぶ声はAの音程。Aは音の誕生。私は次作(リヴァーズ)“世界の川は音楽”(1)「ドナウ川はヴァイオイリンの音」(八十分)のヒロインもA子の唄にしようと考えている。第四番は、私の中で海へ出て再び還る“川”の如くに鳴り続けている。



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