1996/12/05 & 12/06
増田俊光

(増田俊光氏のウェッブ・ページから抜粋:デザイン変更)


森崎東監督の思い出・その1


  映画の専門学校も2年目に入り(最終学年)、我々は、希望のコース(演出や撮影や脚本等々)を選び、ゼミ形式の班に振り分けられました。
 私が選んだのは演出コース。その演出コースには、浦山桐郎ゼミ、岡本喜八ゼミ、森崎東ゼミ(森崎ゼミは、森崎監督が忙しかったため井上和男監督が補佐についた)が出来ました。
 私は、三人の監督の中で、その作風が一番好きだった森崎ゼミを選んだのでした。(浦山監督は怖かったから敬遠した(笑))

 そのゼミでは、週に一度(二度だったかな)、それらの監督の授業がありました。私は井上監督からゼミ長を任命され、森崎監督との連絡役をさせられました。で、森崎監督に会い、授業内容の確認を行ったところ、彼は言いました。

 「授業内容? あ、それは、マスダ君が決めて。ね。」
 
 毎回の授業内容を私が決める? 私にとっては、嬉しかった反面、そのような重大のことが出来るんだろうかとビビリましたです。

 で、私が企画した授業内容は、こんなものでした。

 ●近くの名画座で上映している黒澤明の「野良犬」と森崎東のそのリメイク版「野良犬」の2本立てを森崎監督と一緒に見に行こう!
 ●森崎東の「喜劇・女生きてます」の脚本をさかなに、みんなでそのラストシーンを勝手にカット割りして遊ぼう!
 ●森崎東が今やっている五月みどり主演の昼メロの現場をみんなで見に行こう!

 「喜劇・女生きてます」のカット割り遊びの時、森崎監督は、こんな撮影エピソードを話してくれました。ラストシーン、刑務所から出てくる橋本功を安田道代が出迎え、二人がさり気なく手を繋ぎ、刑務所をあとにする、といったものですが、森崎監督はそれをドンブリ(ワンカットの事ね)で撮ることを主張したそうです。
 で、結果、刑務所の門に向かって長いレールをひき、そしてそのレールと直角に刑務所の壁と平行にもう一本長いレールをひいたそうです。
 画面は、ロングの刑務所の門から二人の出合いを捉えながら対象物に迫っていく移動。そして二人が歩き出すと、それを捉えながら横移動撮影。そしてそれは、控えめに握り合った手と手のアップによっていく、といったものでした。
 え? 直角にひかれたレールのつなぎ目? その時は円形レールがなく、みんなで静かにキャメラを三脚ごと持ち上げ、横移動用の移動車に移しかえたんだとさ。撮影風景を想像しただけでも笑っちゃうね。

 そんなこんなで、私は、映画学校を卒業したのでした。


森崎東監督の思い出・その2



 私がピンク映画を撮っていた時代、ある日、家に松竹のプロデューサーと名乗る人から電話がかかってきました。「俺にホンペン映画の以来?」などと一瞬思ったのですが、勿論そんなことではありません。森崎東監督が今度ピンク映画を題材にした映画を撮ることになり、ついては、マスダに電話が欲しいとの伝言を伝えてき
たのでした。
 「だったら直接電話してこい!」などと思いながら(直接には絶対言えないけれど(笑))、森崎監督の家に早速電話をしました。

 数日後、朝から森崎監督の家にお邪魔すると、いきなり「ロケーション」と表紙に書かれた第一稿の生原稿を渡され、「読んで感想を言え」。氏の字は、基本的にはうまいのですけど、手紙や原稿に書く文字は、それこそ殴り書きで、その解読さえ難しいのです。ちなみに監督の「黒木太郎の愛と冒険」のタイトルの文字は、彼の手によるものであります。
 それはさておき、そのプロットは、ピンク映画の撮影隊が様々なアクシデントに見舞われながらも、最初の台本とは大幅に違いながらもどうにか完成にこぎ着け、配給会社からもお褒めの言葉を頂きハッピーエンド、といったものでした。
 ピンク映画で生計を立てていた私は、「いくらたかがピンク映画でも、撮影前の台本と大幅に違えた作品を作れば、配給会社だって黙っていませんよ」と、とりあえずの感想を言いました。その後、あれやこれやとラストシーンについて二人で話し合い、私自身のアイデアも随分出しました。
 実際、完成された「ロケーション」のラストは、私のアイデアが結構反映されたと思っています。

 (閑話休題)
 そうこうしているうち、昼飯になり、森崎監督の奥さんの手料理を頂いているとき、私はふと部屋の片隅にあった一冊の本を見つけました。当時芳賀書店が年毎に出していた日本映画の写真集「シネアルバム・日本映画・1984」という本です。私は嬉々としてそれを取り上げ、あるページを開き氏に見せました。そこには、10人の映画評論家が、それぞれ一本づつ、自分の気に入った映画を語る、といったものが載っていて、「もどり川」(神代辰巳)「天城越え」(三村晴彦)「みゆき」(井筒和幸)「ションベン・ライダー」(相米慎二)「竜二」(川島徹)「十階のモスキート」(崔洋一)「実録・ザ・素子」(向井寛)「戦場のメリークリスマス」(大島渚)「ダブルベッド」(藤田敏八)、そして私のピンク映画「OL・濡れて墜ちる」が載っていたのです。(増田俊光自選の代表作・参照)
 森崎監督は、それを読み、更にその本をパラパラめくっていました。そして突然、彼は叫んだのです。
 「俺の「時代屋の女房」が載ってない!」

 午後は、300万円でいかに映画を撮りあげるか、スタッフ編成は、などなどピンク映画の実状を根ほり葉ほり聞かれ、私の極貧生活の内容まで話は進んでいきました。
 そして、今も映画学校時代からと同じのアパートに住んでいることを話すと、森崎監督はふと思いだしたように訪ねました。
 「マスダは、確か、ちょっと変わったアパートに住んでいると、昔、言ってたよなあ」
 そうなのです。私のアパートの作りは、ちょっと変わっていました。それも森崎監督好みの便所が…(笑)。便所が隣り合わせの二部屋での共有。部屋と部屋の間にあり、出入口が、それぞれの部屋についているのです。ですから、鍵をかけ忘れると、便所を通って隣の部屋に行けちゃう、といった構造。森崎監督は、私にその見取り図を書かせ、更に言いました。
 「見てみたい!」

 数日後、森崎組の制作主任と美術担当が私のアパートを訪ねてきて、写真を何枚も何枚も撮っていきました。

 出来上がった「ロケーション」の主人公、西田敏行の住むアパートはまさに便所で隣の部屋と行き来が出来るそれ。そしてその部屋の壁には、私の部屋の壁に貼ってあった「OL・濡れて墜ちる」のポスターと同じ様な構図の大楠道代のピンク映画のポスターが…。

 ちなみにクレジットには私の名前は載っていません。そして、その報酬は、森崎監督の家に訪ねたとき、サントリーオールド1本、森崎組の人が私のアパートに訪ねてきたときに、菓子折ひとつ、というものでした。