森崎東 エッセイ集 (再掲)

製作  池田博明  2008年11月24日

    
     森崎東   「日本ゲリラ時代」評(読書新聞)について
            松田政男へ
           (映画芸術1968年10月号)

 松田政男という映画評論家によると「日本ゲリラ時代」は“ハレンチな空景の中に日本ゲリラの状況を創出するどころか、大島の「帰って来たヨッパライ」の猿まねであり、ゲバラを戯画化して、日本、朝鮮、中国の人民を侮蔑しつくした”映画だそうだ。本当にそうならそんなシナリオを雑誌に載せてはならぬ、載せることにシナリオ作者の俺がまず反対すべきだろう。載せることに気はすすまないまでも、別に反対もしなかった以上、「俺はそうは思わない」ということを一言せねばならぬ。第一に俺は映画人などが、日本ゲリラの状況を創出できるとはコンリンザイ思わないし、状況はすでにトコトン近くまで来ていると思う。来るべき拡大戦争が、極東第一の生産力を持つ黄色人種の国日本を引き金に発射される以上、俺たち口説の徒はバカのひとつ憶えのように「戦争は起る」といいつづけ、それが暴動化した時、人々と共に金太の後に続けばいいと思う。
 間違っても「平和勢力は戦争を防ぎうる」と言ったり、映画人ごときが暴動の状況を創出できるなどと思ってはならぬ、決定的状況は常に居丈高な魂のこもらぬ激語をはきちらすハゲバラ達「前衛」によって創出されるのではなく、金太達人民によって創出されるのだ。「前衛など何度なくなろうと、労働者階級のある限り革命はある(レーニン)」どころか、「優秀な前衛」である党員に対する非党員の暴動という革命さえいま中国で進行中なのだ。居丈高な魂のこもらぬ激語をはきちらしてダレソレはダレソレの猿まねだ。ダレソレとダレソレの連帯はわからない。ダレソレ達三人組は今サボっているなどいいつづけることでのし上がるインテリはいつの世でもいるものだが、願わくばそういう手合ぬきでやろたいものだ。そういう手合はイザという時に邪魔などころか、人民の魂を絞殺しかねないぞということを俺はいいたかったのだ。
 第二に大島の猿まねであるというケチのつけ方はケチすぎて余りゾっとしない。大島の「帰って来たヨッパライ」を残念ながら見逃しているし、写真を見る前にはシナリオもストーリーも見ない俺に猿まねのしようがない以上、猿まねとみた松田の目の方が猿的であったとしか考えられない。こういう光輝ある少数派に組するとみせて、実は、権威主義そのものという大学ではいつの世にもいるものだが、それにしてもうす汚い根情がまる見えで、気持が悪くなる。
 第三に俺は決して松田のいうようにゲバラを戯画化し、日本朝鮮中国の人民を侮蔑しつくそうとはしていない。逆にゲバラを詐称する偽物を戯画化し、日本朝鮮中国の人民を侮蔑してくしてきた奴を腹の底から侮蔑し、来たるべき時におそらく決定的に侮蔑するであろう奴をあらかじめ侮蔑しておこうとしただけだ。それを勘違いしてゲバラを戯画化し人民を侮蔑したとみる奴はそう見る奴の目がどうかしてると考える他はない。ひょっとすると、松田は己れを戯画化され己れを侮蔑されたと思ったのではないか、そうならそうで話はわかる。

     森崎東   私の次回作 「喜劇・男は愛嬌」 
     (キネマ旬報1970年6月下旬526号)

 魯迅の小説に「賢人と馬鹿と奴隷」というのがあります。
 奴隷が賢人に私の家は豚小屋同然で陽も当たらず、私の主人は私を人間扱いしてくれませんとこぼし、 賢人は奴隷に、そのうち良いことがあるからと慰めます。
 奴隷は今度は馬鹿に向かって同じことをこぼすと、馬鹿はいきなり奴隷を殴りつけ、そんな陽当りの悪い家なら、 俺が壊して窓を開けてやると家をゆすぶり、壊し出します。
 おどろいた奴隷たちは集まって馬鹿をひっとらえ、主人に突き出すと、主人は良くやったと奴隷をほめてやり、 御蔭でじっと待っていたら良いことがありましたと賢人に奴隷がお礼を言ったという短篇があります。・・・・・・
 「なるほどね、・・・・・」賢人も、お蔭で愉快だと言わんばかりに、そう答えました・・・・と、 その短篇の最後に魯迅は書いています。
 このクソ面白くもない世の中で、少しは愉快に暮らしているのは常に主人と、そして賢人であり、 馬鹿と奴隷は常に不愉快な目に逢います。しかもお互いに不愉快を押しつけあうのです。・・・・ 「なるほどね・・・・」お蔭で愉快だといわんばかりに馬鹿がそう答えました・・・・という結末の物語を私は作りたいのです。 そういう馬鹿が勝利する物語を。私は聞きたい、もし現実にそんな物語が無ければ、映画の中でもいい、そういう馬鹿が、快哉を叫ぶのを、見たいのであります。
 賢人よりも馬鹿に肩入れしたがる私の性癖を私は吾ながらコッケイに思います。 それは私が賢人より馬鹿に近いという歴然たる証拠だからです。
 智識を増す者は憤激を増すといいます。しかし、馬鹿もまた憤激するし、 その憤激は賢人のそれよりも純粋にして実害を伴うという一点において、からくも私は映画を作りつづけています。 そのような馬鹿は人民にとって必要な存在であると信ずるからです。
 したがって次回作、おそらく若しあるならば次々回作もまた、このような馬鹿が主人公である筈であります。

    森崎 東 私の次回作  わが国おんな三割安
   (キネマ旬報1971年3月下旬545号)
      
 トイレの中で客とオマンコしてるところを見つかってクビになった料亭の女中が、大学受験におっこって自殺しようとしている少年を助けようと寒空の下でアオカンをしてケイサツにフンづかまるという藤原審爾氏作「わが国おんな三剖安」なる次回作を準備中ですが、何となく、フン切りがつかず、トイレの中でうなだれたりしていまず。主たる忠考場であるべきトイレでの脱プン感が最近快適でないのも原因の一ッですが、それというのも最近帝国ボテルの大広問をブチ抜いて、全国の建設業者数百を招ぎ、喜劇芸能人数十人 をはべらぜた某新興企業の数干万円大貨会に出帖した人からこんな話を聞いたからです。
 この企業の突然の大躍進のヒミツは、古新聞と工場廃品をまぜ合わせてナントカボードなる下壁建材を発明したからであって、最近全国津々浦々で例のチリ鈍交喚車が一斉に「毎度おさわがせてすみません」と喚ぎ出したのもそのセイで、しかもその工場廃品というのが例の水俣チッソのヘドロだというのです。この話を聞いて以来、チリ紙交換のザラ紙でケツを拭きながら、私は何となくユーウツで、トイレの中でオマンコした少女についての思考がオロソカになるのをどうすることも出来ないのであります。
 私はまた辰近、同じ水俣地方での昔話を、尊敬する上野英信氏の文で知った。
 それはもう絶えて久しい漁村での風習だが、遭難した仮死の漁師を救けるのに、全く見も知らぬ漁婦たちが集って、焼酎をあおり、その火照った逞しい肌で、次々に死魚のよぅに冷えた漁夫の肌をあたため、幽明に去ろうとする魂を引止めるというのである。
 単に、強い焚火よりも火照った人肌が蘇生術として適切であるという経験だけでなく、消えてゆく男の魂をこの世に引止めるのは女の力だけであるという悶えのような切ない信仰が、この哀切なまでに美しい知恵を生み出したのであろう。水俣病の老漁夫は、唇をわななかせながら上野英信氏にこう言ったという。「死んであの世へ、ゆらゆらと魂の帰ってゆく道ば、会社のやつどんがうっつぶしてしもうた…」
 こごえ切った漂流漁夫をかき抱く女たち母たち、の熱い連帯の喜びと悲しみを自分のものとすること、その熱い速帯を信ずる以外に、今、私に信じられるものはない。そう上野英信氏は言い切っている。
 トイレの中でオマンコした少女の悲しみ、寒空の下でアオカンした少女の連帯の冷さ、切なさ、温かさ、を自分のものとする以外に、水俣のドロドロと深い係わりをもつチリ紙で尻を拭くユーウツを消すすべは、今のところ私にもないのである。

    「ここは地獄ばい、
    地獄の底までつきあうや」      (水俣めぐり賽の河原和讃第一番)


      喜劇たぁ何だ?    森崎東
   (シナリオ  1971年5月号『喜劇・女は男のふるさとヨ』創作ノートより)

 一坪半しかない新宿の飲み屋で、渡辺祐介が言った。
 「近頃不愉快なもの、マキシを着た若い男と、関係なにのにゲラゲラ笑う学生」
 さる雄弁なる作家先生が、演説の途中絶句して立往生したのも、学生たちの笑いの集中攻撃に遭った時だった。
 彼が自殺するほど頭に来たのは、ひょっとするとこの時ではなかったかと、私はひそかに思っている。
 かく言う私にしたところが、よせばいいのについ出席したシナリオ作協のゼミナールで、全くおかしくないのにゲラゲラ笑い続ける二人連の若い奴を、いきなりブン殴りたくなるほど頭に来たことがある。
 若者にとって、笑いとは何か?
 それはどうやら有象無象の権威に対する敵意の表現であるらしい。
 若者だけでなく、人間にとって、笑いとは本質的に敵意の表現なのではないか、という疑いを私は持ちはじめている。
 現に、歯をムキ出して笑うという行動は、そのまま歯をムキ出して威カクする、という敵対行動である、という動物学者の説もあるくらいだ。
 と、するならば、だ。
 民衆にとって、喜劇とは一体何だろうか?
 作家先生たちほど、充分に幸福ではない民衆は、勿論、「何ものか」の自分たちに対する敵意を感知している。だが、彼らは、その敵意に対する敵意を表現する術をもたない。
 本を読む学生たちは、作家先生を笑う、という術を知ることで、自分の中の権威主義から解放される(勿論それもまた、ケチくさいひとつの権威主義なのだ)が、本を読まない民衆は己の中に解放されることなく、ふくれ上がりつづける敵意を、ダンプをブッ飛ばし、誰かに対して「死んで貰います」と言う自分を幻想することで、ようやく解放される。
 だが、民衆の中に、おどろおどろしくふくれ上る敵意を、めくるめく幻想の中で、虚しく解放し去っていいのだろうか。
 無智でコッケイな登場人物に。優越の喜びを感じることで、虚しく解放し去っていいのだろうか。
 オレにとって、笑いとは何か?
 己れの中に、無限にふくれ上りつづける敵意を、みつめ乍ら、私はこの問への答えに飢えつづける。
 だが、その答えが、バクゼンと乍らも存在することも亦、私は確実に予感できる。それは恐らく、「連帯」という一語であろう。
 連帯、それは人が人を愛することである。

     森崎 東  義理人情について
            『喜劇・女売り出します』創作ノート
     (シナリオ 1972年3月号  『喜劇・女売り出します』)
 
 一口に義理人情というが、義理と人情はもともと対立するものであって、前者は体制の倫理、後者は自然発生的な人民の連帯感覚であるというのが、伊丹万作の弟子にして掛札昌裕の師灘千造の説であります。
 おそらく義理と人情を同一範チュウに引くるめてしまったのは近代主義なるものであって、人民たちは昔から義理によって疎外される連帯の回復を常に求めつづけたのであろうと、私も思います。だが、近代主義にとって、義理と人情の対立は、無視し得る差でしかなかった。物理学をはじめとする近代学問は、おそらく、このエントロピーを排除し無視し続けることで学の権威を謳歌して来たのでしょうが、人民はといえば、それははじめからエントロピーそのものでしかなかった。
 前田陽一が「芸術としての映画でなく、芸能としての映画を!」といい、田坂啓が「映画でなく、今こそ活動写真を!」という、その言葉は、無視されることを拒否するエントロピーの反逆であると私には思われます。
 私もまた、あらゆる権威によって無視されつづけて来た無数のエントロピーたちを、三尺高い舞台の上に勢ぞろいさせ、拍手を送り、投げ銭を投げてやりたいのです。そして、出来ることなら「日本一!」と声の一つも掛けてやりたいのであります。
 全宇宙のエントロピーよ、団結せよ!

    森崎 東 「{わが国おんな三割安」脚色note
          生ムと生マレルの間
   (シナリオ 1972年7月号  『女生きてます・盛り場渡り鳥』)

 「ヨイシナリオハ組ミ立テラレタヨウニハ見エナイ。ソレハ、イキナリポッカリ生マレテキタヨウニ見エル」(伊丹万作カタカナ随筆)

 伊丹万作氏は、イキナリポッカリ生マレタヨウニ見エルための生ミノツラサについて語ったのであって、イキナリポッカリ、シナリオが生レルと言ったのではないと思います。
 だが、イキナリポッカリ生れるシナリオもある。或る巨匠はシナリオを書く時、まず布団を敷く(若しくは敷かせる)。布団に入ってシーン・イチと言う。すると、助監督だかな何かが、紙に丸だか四角だかを書いて、1と書く。巨匠が続けて、×子の家、×子いきなり欠伸をする、とか何とか言う・・・・助監督だか何かが、同じことを書く・・・・ワイプして何時間後か、巨匠は言う、ラスト・シーン、×子の家、×子、今日もまた欠伸をする、エンドマーク。助監督だか何かが、同じことを書いた紙の一番しまいに丸を書いて完とか終とか書く。
 つまり、ポッカリ生レタのです。出来上がったシナリオがヨイシナリオかどうかは別として、出来ることなら、私もそういう具合にシナリオを生みたい。だが、巨匠と私では、コンピューターの出来も違えば、入れるファイルの数も違うのだから、それは不可能です。そこで、シナリオを書くたびに必ずコンピュータがヒートして故障する。訳の分からぬ歌を歌い出したり、コノコンピューターデハ、ゼッタイニヨイシナリオハデキナイなどと無気味なシャガレ声で言ったりする。
 既に伊丹万作氏は言っています。イイシナリオヲ生ミ出スモノハ、結局才能ダケダ。コノコトヲアマリ深ク知リスギルト凡才は仕事ヲスルノガイヤニナル。ソコデ我々ハ人造才能スナワチ努力デモ結構マニアウトイウ迷信ノ信者トナラナクテハナラナイ。
 だが生憎コンピューターには既にメイシンガツーヨースルノハ限ラレタ才能ダケデアルが一札入っている。
 そんな迷信を信じて努力しすぎると、このコンピューターは忽ち壊れてバラバラになることをコピューター自身が知っているのです。そういう時、私が苦し紛れに使う手はこの、出来の悪いコンピューターに「コノハナシハヒトクチデユウト、ドウイウハナシカ?」というプログラムを命ずることでした。この呪文で結構間に合う筈なので今回もそれを試みたのです。
 だが、コンピューターは例のシャgレ声で言いました。・・・・コノハナシハ、ヒトクチデモセンマンクチデモイエナイ、ハナシニナラヌ
 恐らく、その答えが出たところで、私たちはシーン1から書き直すべきだったのかも、常識はずれの登場人物たちのうち、せめて二人位は退場して貰ったほうがよかったのかも、一口で言えるテーマの単純性という呪文が通用する門に入り直すべきだったのかもしれません。私は、苦し紛れに中島貞夫風に総括することにしました。「俺タチハコノ人物タチヲエランデシマッタノダ、モー出直シハキカナイ」
 案の定、コンピューターは月足らずの未熟児を生んでしまいました。若し伊丹万作氏が生きていたら、私は質問したいのです。「イキナリポッカリ生レタヨウニ見エナクテモ、ヨイシナリオハアリマセンカ?」掛札昌裕と田坂啓が替って答えてくれました。
 「一口で言える話なんて、もう駄目です、コレハコレデヨイノダ」。
 私は今、両君の心優しい慰めの言を、半分信じ、半分信じていません。
 ひょっとすると、この作品は、一口で言うと「生んだものと、生まれたものとは無関係である」というテーマなのかも知れませんから・・・・。

    泥濘から   森崎東、掛札昌裕、中島信昭、梶浦政男
       (シナリオ 1973年10月号『野良犬』)

 黒沢監督の「野良犬」は昭和二十四年の作品、正に当時の社会が生み出した時代の産物であり、日本映画史上に永く残るべき名作である。
 それから四分の半世紀を過ぎた今、「野良犬」を再映画化することは正直言って気が重い。
 折角の名作を泥土に投げ打つことは堪えがたい。
 只、私たちを支えたのは、かつての時代が「野良犬」を産んだ如く、吾らの時代もまた「野良犬」を産める筈だという想いだけである。
 このシナリオの不完全さも時代の刻印と言いくるめる気はない。だが、私たちは混乱にひきずられることでしか作品を創れない。そのことは正に時代の刻印であると、私たちは想うのです。

(日本映画監督協会/森崎東) 2004年9月10日

   私のデビュ―した頃「人間万事ニワトリはハダシ」   森崎 東

 私が監督になった1969年は、いわゆる反体制勢力退潮の兆しの見え始めた70年安保を翌年にひかえた「東大時計台陥落」の年であり、映画界でも数年前から層をなして台頭していたいわゆる「ヌーベル・バーグ」が前途多難な逆風を予想される時代だった。
 その時代を遡ること9年、わたしはヌーベル・バーグの旗手・大島渚監督の親友・森川英太朗の監督デビュー作品「武士道無残」にチーフ助監督でつき、企画から封切りまでのドラマチックな局面を体験した。森川自身のオリジナル・シナリオによって「松竹時代劇ヌーベルバーグ第一弾」として企画された「武士道無残」は、武士道の美名のもと、主君への殉死を命じられた若者に、生きることを望む兄嫁が、自ら肌をゆるして「反逆の性」を突出させるという時代劇のタブーに真っ向から挑んだ戦闘的作品だった。
 今にして思えば問題はこの戦闘的松竹ヌーベルバーグ売り出しに会社が突然2の足を踏み始めたことにある。森川も私も信頼していた敏腕のプロデューサーが突然脚本の直しを主張しはじめ、当然の事として原作者・森川と真っ向から対立した。製作進行はすべてストップした。脚本直しに同意して監督の製作意図が大幅に変わらない限り、クランクインは限りなく遠ざかると言う絶望的状況となった。その打開の為、脚本直しの名人と称されていたプロデューサーは自身で筆をとって本直しを始めた。それは製作中止を避けるための善意の、そして実効ある最後の手段だった。
 直しのため缶詰めになった二人きりの宿の一室で、森川が私にいった。
 「直しの意図は判る。だが直し通りに俺は撮れない。撮ればそれは俺の作品ではない」
 「その通りをプロデューサーに言おう」と言う私の意見を森川は実行した。
 今にして思えば、その時すでに森川は松竹退社を心中覚悟していたように見えた。だが、覚悟を決めていた製作中止命令は何故か遂に出ず、オリジナル脚本のままで「武士道無残」はクランクインした。
 脚本大直しの余裕は当時の封切事情では物理的になかったか、若しくは担当プロデューサーの進言によるものか、ワンマン社長の鶴の一声か? 今となってはチーフ助監督の私の製作した予告編から「突出する時代の新しき波!」等々のヌーベルバーグ礼賛の字幕が完膚なきまでにカットされた一事を、憾みと共に報告する以外にない。
 その後、森川は一本も映画を撮ることなく、松竹を退社、創造社、電通を退いたあと母校慶応大学で講義していたが、先年病をえて世を辞した。生前、私は元気な彼の電話を受けた。「森崎、悦んでくれ、『武士道無残』が松竹百年史百本に選ばれた!」
 私はこの時の森川の声を死ぬまで忘れないだろう。
 森川英太朗は価値ある一作を世に残し、私は細々と撮り続けて、この十一月に二十四作目を公開する。題名は森川と共に京都撮影所時代、何かといえば自己激励の警句として多用した「ニワトリはハダシだ!」である。
(2004.9.10)

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