『街の灯』作品紹介 (川本三郎) 『世界映画作品・記録全集』(キネマ旬報一九七五年659号)
森崎東監督のチンピラ青春もの。堺正章松竹初主演作。チョロ松(堺正章)は兄貴分の梅吉(財津一郎)と組んで、アプローチ屋、つまりセックス仲買業をしている。二人は上野近くで、竹子(吉田日出子)がやっているオンボロ飲み屋で暮らしているが、ここにはたくさんの捨て子が一緒に暮らし、竹子が母代わりになっていた。チョロ松はある日、ふとしたことからテレビタレント・ヒロミ(栗田ひろみ)に似た女の子と、ブラジル帰りの老人(笠智衆)と、東京から九州までの膝栗毛をすることになった。大船、四日市、岩国・・・・旅行するうちにチョロ松はヒロミに心ひかれていった。老人の故郷・熊本に着いた。しかし故郷はすっかり変わり果てていた。老人は繁栄しきった祖国に怨みをぶつけるように銀行強盗を敢行したが失敗し、逮捕された。ヒロミは交通事故で死んだ・旅の果てにチョロ松がつかんだものは何だったのか。時代の片隅で不器用に生きるしかないチンピラの悲しみが確実に伝わる。森崎監督の心情あふれる佳作。91分。
『街の灯』略筋 野原藍 <映画書房/森崎東篇より>
セックス仲介というインチキ稼業をやってる梅吉(財津一郎)と弟分のチョロ松(堺正章)は、好色老人栗田会長(森繁久弥)の望みで少女タレント欅ひろみ(栗田ひろみ)に交渉していたところ、彼女にウリ二つの少女を見つけ替え玉に使おうとするが、彼女にはおかしなじいさん(笠智衆)がついていてうまくいかない。チョロ松は次々と電車を乗り継いで二人の後をつけていくうちに、彼らにまきこまれていく。
少女・花子はちょっと頭が弱い風だし、老人は必要があると平然と盗みをしたりするが、誰にも優しい。途中で赤ん坊を拾い、四人の珍道中は延々と続き、とうとうじいさんの故郷である九州にたどりついた。じいさん、実は四十数年前に子供までできた恋人を置き去りにして、ブラジルに行ったまま、消息を断っていたのだ。昔の恋人(鈴木光枝)は当時の恋敵の男(三木のり平)と結婚し、じいさんの実の娘が婿を取って孫も数人いようとは。緑あふるるかつての故郷も、資本の波がかえつつあった。じいさんはまたブラジルに帰る決心をしたが、少女がじいさんから離れたがらない。チョロ松が少女にぞっこんなのを見込んで、それじゃ二人を結婚させ一緒に連れて行こう。金が要るってんで、じいさん二人にナイショであっという間に銀行強盗、ブラジル行きの船だけ教えてドロンしてしまった。大金を入れたバッグを抱えて二人は非常線もうまくくぐって帰京した。ホテルでいよいよ二人が結ばれようとしたとき、少女がベッドから転がり落ち、はずみで失われていた記憶が蘇った。欅ヒロミに戻った少女は帰宅し、チョロ松は誘拐容疑で警察に。入ってみてビックリ。前の房にあのじいさんがいるじゃないか。じいさんは警官に話すふりで、チョロ松に金があればブラジルにいけることを教える。
その日、船が出る桟橋にチョロ松が駆けつけると、手錠をはめたままのじいさんがブラジルに強制送還されようとしていた。が、ヒロミはとうとう来なかった。ションボリと引き返すチョロ松、ふと足を止めた。街頭のテレビがヒロミの顔を映し、今日交通事故死したことを伝えていた。11時までにどうしても港にといってタクシーを飛ばしていたと。奇妙な、けれど楽しかった数日間の道中は夢だったんだろうか。「なんか変だぞ、なんか変だぞ」。「ドッカ変ダゾ」。橋の欄干の上でヒョコタン、ヒョコタン踊りはじめるチョロ松。
初日、封切り館にたったの四人 池田博明
札幌松竹館。堺正章初主演の喜劇映画であった。森崎映画であった。
期待して封切りの初日の午後の回に見に行った私は唖然とした。
客がいないのだ。大都市札幌である。初日である。普通は結構客がいるはずなのだ。
堺正章はテレビで見られるのである。わざわざ映画を見に来る人はいないのだ。
それにしても少ない。少なすぎる。
見ているうちにアベックの二人は帰ってしまい、結局二人だけになってしまったのだ。
もう一人の人は背広を着ていた会社員風の人だった。私は大学生。
そして一週間あと、上映は打ち切られてしまったのだ。あまりの不入りに、映画館も業を煮やしたのだろう。
傑作なのに!
幸いにもこんなにも不入りで、かつ低い評価だった傑作を松竹はビデオ発売しているので、見ることができる。
栗田ひろみや三木のり平、笠智衆の出演映画として記憶されるのかもしれない。
森崎東監督『街の灯』(1974年)の故郷の歌 池田博明
『街の灯』で、堺正章が風景にかぶせて、「故郷の廃家」を歌う。歌詞の大意は「自然は変わらないのに、昔の家は朽ちてしまった」というもので、有明海に向っている五人組にはふさわしい。この歌は、『男はつらいよ・奮闘篇』でも榊原ルミがふるさとへの思いをこめて歌っていた。このときの榊原ルミの役名が花子で、『街の灯』の記憶喪失中の栗田ひろみの名と同じである(森崎さんの『生まれ変わった為五郎』の緑魔子の名前もたしか花子)。
ところで、『街の灯』のブラジル帰りのじいさん(笠智衆)は結局、故郷・有明の里に腰を定めない。昔の恋敵・三木のり平の怒りをもっともとして、身を引くかたちである。(このとき、昔の恋人・鈴木光枝は夕食のつもりで出したおかずを皿から重箱に移している。この心づかいがにくい。後で堺正章がジャーに入れたご飯と共に持って行く)。そして、「パルタモス(出発)じゃ」と再びブラジルへ渡ろうとする。その為に旧式の拳銃に一発の弾をこめて近くの信用金庫から金を奪うのである。
そうなのだ。帰るべき故郷なんて実はどこにもないのである。
じいさんのカバンからは、拳銃や軍人手帳や歯ブラシが出てくる。まるで横井さんのパロディ。横井さんは「ただ今、帰ってまいりました」と言った。じいさんは「帰ってもええじゃろか」と昔の恋人・鈴木光枝にたずねる。横井さんは、横井さん自身の幻想の日本帝国へ帰ってきたのである。また、横井さんは陛下の銃を陛下に返そうと抱いてくる。一方、じいさんは、やはり陛下の銃で強盗をする。横井さんも、陛下に銃を返すのではなく、むしろ銃を陛下に向けるべきだったのではないだろうか。
じいさんの再「出発(パルタモス)」は失敗して、強制送還となる。堺正章と栗田ひろみのパルタモスも成らなかった。森崎東は亡郷のうた、亡国のうたを歌っている。そしてまた、亡郷、亡国の意識に支えられた出発のうたも歌いつづけている。
(池田編『続・現代歌情/唄って、いつかのあの歌』から.1974年9月18日発行)
重層的『街の灯』論 池田博明
まぎれもなく森崎さんの映画で、これまでに森崎さんの映画で一度でも「森崎経験」をした人には嬉しくなってしまう映画である。期待に胸ふくらませて見に行って、最初の数シーンで、「いける!」とゾクゾクしてくるのはいいものだ。「森崎映画ならなんでも」と暴言している僕だって、昨年の『藍より青く』『野良犬』になると、作品を見るよりもむしろ森崎さんの奮闘ぶりが目立ってしまい、暗い気持ちにならざるをえなかったのだ。このまま、頭がどんどん重くなっていって、ぶったおれてしまうんじゃないか、森崎さん!。しかし、それは取り越し苦労だったようだ。森崎チームはちゃんと生き残っていたのだ。森崎チームとは、森崎映画のスタッフとキャスト、それにファンである。

『街の灯』は、東京から九州・有明海までの旅が中心になっているが、この旅にあわせて、これまでの森崎映画を追体験することが出来る。それは二重の喜びだ。
出発点・東京で、主人公チョロ松(堺正章)は、兄(財津一郎)の代理でポン引き稼業、いわば性の下請け稼業で、お座敷ストリップあっせん業の「新宿芸能社」とかたちこそ違え、へその緒は一緒。当人たちは仕掛けて為損じなし「愛情仕掛け人」なんて言っているが、これはむしろ森崎さんの心意気とみるべきだろう。ポン引きは、愛情仕掛け人などと格好いいものではない。その証拠に、調子づいたチョロ松が手練手管を披露すると、田中邦衛は恋人をいたぶられたと怒り、おでん屋の二階を破壊してしまう。これは、『喜劇・女生きてます』の橋本功や『盛り場渡り鳥』の山崎努が家を壊すシーンにつながる。とつ弁ながら真剣に愛情をそそぐ男たち。
壊されたおでん屋では、吉田日出子が身寄りのない子供や捨子の世話をしている。彼らばかりで、ひっそりと、したたかに、生きぬいてきたのだ。『盛り場渡り鳥』のおでん屋で、初子(川崎あかね)は、無償の託児所をやっていたが、今度はずっと世話をしようというのだ。国にあずけず、自分たちで。これも「新宿芸能社」につながる“新家族”。実際は、しんどいことだろうに、楽しそうにやっている。そのバイタリズムがいい。叩くと直るテレビは、『喜劇・男は愛矯』でけとばして点灯したダンプのヘッドライトを連想させる。
CMタレント、ヒロミ(栗田ひろみ)にそっくりな女の子を駅で目撃したことから、兄貴の首をつなぐため、チョロ松の旅が始まるのだが、本来の目的であるポン引きは次第に忘れられていくのである。
笠智衆に拾われたヒロミにそっくりな記憶喪失少女・花子(栗田ひろみ)、大船のコイン・ロッカーから拾った赤ん坊、駆け落ちした女子プロレスラーに捨てられた少女(『盛り場渡り鳥』の少女だ)。これら五人組が、森崎さんの“新家族”だ。
モーテル「貴公子」で美女論、強姦論を展開し、名古屋では女子プロレスのレフェリーを務める堺正章の大熱演を、映画は掛値なしに、そのまま見せてくれる。その「動き」は、『幕末太陽伝』のフランキー堺、『渡り鳥』シリーズの小林旭、『にっぽん無責任時代』の植木等のような、自分から動くときの身のこなしの軽やかさとは違うし、キートンの疾走とも違っている。強い者に投げとばされる「被害者的」なものだが、ふだん堺正章が出演しているテレビの小さな画面からは想像もつかない、圧倒的な熱演である。その「被害者的」動きがエスカレートしたあげくに、栗田ひろみが石油缶で女子プロレスラーの頭をガツーンと一撃する。彼女の加勢に、我々は「やった!」と歓声をあげる。そんな喧騒にひきつづいては、静かな看病のシーンである。『喜劇・女売り出します』の岡本茉莉と植田純か、夏純子と山谷のおカマか。岡本と植田は結びつき、おカマは死んで「浅草様」になってしまうが、さて、この二人はどうなるのか。
四日市の場面では、『喜劇・生まれかわった為五郎』でハナ肇、緑魔子、財津一郎がやけにちっぽけ
に見えた、あの巨大なコンビナートが見える。
彦根・瀬田・岡山・広島・岩国・柳井・壇の浦・関門橋と旅をして、九州へ入る。雨の岩国で、万引のプロフェッショナル・ヒッピーたちの暖かい贈りもの、チョコレートなんかが次々に差し出されるのは、とても楽しいシーンである。善意の人々を描いた昔のアメリカ映画に、きっとこんな暖かいシーンがあったんだと思わされる。そしてまた、心暖まる忘れもの=破れた番傘も登場する。
筑豊、そして有明海は、森崎さんのふるさとでもある。「坑へ下りる男と女は、ほこらの前で手を合わせれば、夫婦になれた」という昔語りがある。生まれたまんまの、飾り気のない、男と女の結びつき。これは、すべての森崎映画にあるテーマだ。『喜劇・女は度胸』での親子どんぶり論。『男はつらいよ・フーテンの寅』の春川ますみ、香山美子と河原崎健三。『喜劇・男は愛僑』のホテルの外での渥美清と寺尾聡の対話。『女生きてます』シリーズの男たち女たち。
「好きなら好きとはっきりいえんのか」。美女論や強姦論のなかの森崎さんらしさとは、「人と人の結びつきは、うわべではない」ということだ。当然のことである。誰しも虚飾をかなぐり捨てて裸になりたいと思っているのである。「原人間」へのあこがれ。原人間がたやすく取り返せるとは思えない。現実には、原人間なんて、むしろ厄介で生きにくくさえあろう。森崎映画の世界でだけ、成り立つ原像なのかもしれない。しかし、永遠にかなわぬ望みであるとしても、憧れだけは持ちつづけたい。
四十七年ぶりに九州の有明の故郷に帰ってきた笠智衆に、三木のり平は、たまっていた言葉をぶつける。音信のないブラジルへお前が行ったきりの四十七年間、恋敵の子を妊んだ娘と結婚し、その子供を育てて、どんな想いで生きてきたか、と。しかし、一方、笠智衆もブラジルでどんな想いで生きてきたか。彼のカバンからは、出発したときのままの日用品しか出てこなかったではないか。おたがいに単純に「わかって」もらわなくてもよいのだ。ただ怒りをぶつけるか、黙って身をひくか、それ以上のことはどちらにも出来ないのである。
老人が銀行強盗で得た金を持って、東京へ戻って来たチョロ松と花子を、待っているのは兄である。いまやその気がないチョロ松を尻目に、兄は好色な社長へ花子をあてがおうとする。花子は本物のCMタレント「ヒロミ」だったということがわかるのだが、殺人的スケジュールに心身ともに疲れていたヒロミは、ずっと花子として、毛のポンチョを着てスニーカーをはき、ジーパン姿で素顔を表していたのだった。
マネージャーに連れ去られる瞬間、留置所のチョロ松をふりかえるヒロミは、あるいは港へ車でかけつけようとして事故にあったというヒロミは、『喜劇・女生きてます』で、道路に飛び出し、手をふったポチ(久万里由香)を思わせる。事故で本物のヒロミが死んだ後でも、テレビでは「みんな、元気で生きていこうねーっ」と、ヒロミが出ている豊国生命のCMをやっているという悲しさ。
結末はハッピー・エンドにならずに、「どっか変だぞ」という欄干の上の踊り(=叫びといってもいいだろう)とともに終わる。しかし、この叫びも、見ている子供たちによって対象化されていることを忘れまい。
また、ラスト近くで描かれている、財津一郎と吉田日出子の結びつきは、一種のハッピー・エンド=ハッピー・スタートなのだ。
(個人誌「幻の天使」未刊より)
読者の映画評 街の灯(松竹:森崎東監督) 池田博明
マッテマシタ、森崎さん! 初日初回に見たかいあった。この喜びをどういえばいいんだろ。
どこからいえばいいんだろ。
めずらしやコマ落としとストップ・モーションで開巻。東京から有明までほとんどロケの『家族』南下版。九州・島原は森崎さんのふるさとヨ。家族はもちろんよせあつまりの家族。自称愛情仕掛人(これが森崎さんの心意気!)堺正章とブラジル国籍のじいさん、拾った娘に拾っ
た赤ン坊、拾った少女(『盛り場渡り鳥』の少女也)。みちみち出会う人と人、おなじみ愛情論・美女論・強姦論。
軽さを増した平明な語り口にのせた珍道中に、これまでの森崎映画のイメージがだぶってく
る。たたいて直るテレビは『男は愛嬌』のトラックのライト。田中邦衛は『女生きてます』の
橋本功。吉田日出子がきりもりする養護所兼おでん屋は『盛り場渡り鳥』風、はたまた新宿芸能社。栗田ひろみが堺正章を看病するのは『女売り出します』の岡本茉莉と植田峻か、夏純子と山谷のおカマか。四日市のコンビナートは『生まれ変わった為五郎』。桜降る有明海は『男は愛嬌』の出だしの桜と『フーテンの寅』の漁村。祠の前で手をあわせれば夫婦になれるのは
『女は度胸』の親子どんぶり、『女売り出します』の寝たか寝ないかの夫婦論とのうらおもて。
マネージャーに連れ去られる瞬間、眼をいっぱいに見開いてふりむく栗田ひろみは『女生きて
ます』の道路にとび出し手をふり、走った久万里由香(ポチ)。船が出てゆく横浜港は『野良犬』か。いろんなイメージ。すばらしいなあ。
女子プロレスのレフェリーといい、ラストの橋の欄干の上での踊り(心がはりさけそうで踊
らずにいられない。これは叫びだ)といい、堺正章は『女生きてます』の吉田日出子のブリッ
ジにもまして、感動的だ。そこに最高の喜劇役者をみることができる。
ヤッテクレマシタ。森崎さん!
(キネマ旬報「読者の映画評」(日本映画)1974年6月下旬号〔634〕)
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