池田博明制作・「日曜日にはTVを消せ」関連サイト 2009年8月19日  藤田真男 ビデオ映画評



 藤田 真男が1992年から2001年に書いたビデオ映画短評  


 藤田 真男が書いた映画短評「ここ掘れ!ワンワン」
   

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 藤田 真男が1992年から2004年に書いた 
 ビデオ映画短評
   (編集・池田博明)  

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TOM’S MEDIA CLIP  (洋画)



    夢見る力としての前向きな現実否定
    泥棒喜劇の傑作『ブレイキング・イン』  藤田 真男   (1992年2月号)

 新作ではないけれど、すばらしいビデオが低価格で再発売されたので、まずそれを紹介したい。
『ブレイキング・イン』SPO/94分/1989年アメリカ作品/
15800円/レンタルあり-脚本のジョン・セイルズは、
監督作『希望の街』で1991年東京国際映画祭
グランプリを受賞

 『やかまし村の子どもたち』と、その続編『やかまし村の春・夏・秋・冬』というスウェーデン映画だ。原作・脚本は『長くつ下のピッピ』シリーズで知られる児童文学者リンドグレーン女史。監督は『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のラッセ・ハルストレム。
 二十年ほど前、日本で『長くつ下のピッピ』をアニメ化する企画があった。結局その企画は没になったが、やたらに元気な女の子ピッピのキャラクターを生かして、その日本版ともいえる『パンダコパンダ』という短編アニメが作られた。脚本とデザインを手掛けたのは、かの宮崎駿。そして。このパンダと少女の交流を発展させたのが、宮崎駿監督『となりのトトロ』だったともいえる。
 つまり、『トトロ』と『やかまし村』は、血を分けた兄弟のような映画なのだ。だから『トトロ』に描かれた世界の豊かさに共感した人なら、きっと『やかまし村』も好きになるはずだ。たった三軒の農家が並ぶやかまし村。ほこりだらけの農道や野原を裸足で駆け廻る子供たち。心の底からわきあがる笑顔。これこそ、何ものにもかえ難い真の豊かさだろう。
 このような未公開の埋もれた傑作が、低価格で再発売されるケースは、きわめて稀だ。発売元のアスミックはエライ! 字幕版、吹替え版とも一本三千八百円。家宝として残せるビデオだから、これは絶対に安い。
 思わず紙数を食ってしまった。今月の新作は『ブレイキング・イン』という泥棒喜劇です。
 いわくいい難い楽しさ、おかしさに満ちあふれた傑作だ。監督が『ローカル・ヒーロー』のビル・フォーサイス。フォーサイスといえば、その感じがわかってもらえるはず。といっても、この監督は日本ではとても不遇な扱いを受けているので、知ってる人は少ないか。
 フォーサイスはスコットランド人だ。スコットランド人気質がどういうものか、僕はよく知らないが、フォーサイスのヘンなユーモアはイングランド人よりもアイルランド人に近いように思う。アイルランド人のユーモアをデッドパン(死んだナベ)という。なぜ死んだナベなのかも知らないが、いかにもそんな感じだ。フォーサイズの映画には、死んだナベという形容がふさわしい。浮世ばなれした奇人ばかりが登場する。
 『ブレイキング・イン』の主人公(バート・レイノルズ)は、初老の金庫破りの名人。泥棒のくせに物欲を否定し、盗んだ金は競馬でパッと使い、ボロ家に住む。彼は盗みに入った家で、妙な青年に出くわす。青年は他人の家に忍び込み、他人の手紙を読んだりするのが趣味だという。奇人である。二人はコンビを組んで泥棒嫁業に精を出す。などとストーリーを書いても、おかしくもなんともないから困る。
 フォーサイスの描く奇人変人たちは、ただノーテンキなのではない。彼らは、このつまらない現実を否定するために、浮世ばなれした生き方を選んだのだ。彼らの現実否定の力は、実は夢見る力なのだ。彼らは夢を現実にしようとはしない。現実を夢に変えようとするのだ。その違いがわからない人には、こんなビデオを見るより、ドリームジャンボ宝くじでも買うことをおススメする。



    パニョルと小津に通底する落語的精神
    を再確認させる『プロヴァンス物語』        藤田真男  (1992年6月号)

 昨年公開された作品のうち、未見の作品も多いが、今のところ僕のベストワンは『プロヴァンス物語』シリーズ二部作『マルセルの夏』と『マルセルのお城』の二本である。批評家からはほとんど評価されなかった(小規模な公開ながら興業では健闘した)が、こんなに楽しくて感動的な映画を見たのは久しぶりだ。
『マルセルのお城』アミューズ/98分/1990年仏作品/
15000円/6月18日発売/レンタルあり
-第一部『マルセルの夏』は発売中
DVDあり

 フランスの国民的劇作家にして映画監督、製作者でもあったマルセル・パニョル(1895〜1974年)の回想録『少年時代の思い出』(評論社刊)を、フランス喜劇の名匠イヴ・ロベールが映画化、と言っても今やパニョルもロベールも知らない日本人の方が多いはず。なんだ、エライ作家の退屈な伝記映画か、などと早合点して敬遠されては困る。
 かくいう僕もパニョルの映画は一本も見たことがなく『マルセルのお城』のラストで初めてその断片を見た。なんせパニョルの全作が日本未公開なのだ。だが、パニョルの戯曲や喜劇論は戦後日本の喜劇人にとっても教科書となっていたらしく、ポール牧はいまも“パニョル先生”と呼んで崇拝しているそうだ。あるいは、パニョルの代表作のひとつ『マリウス』を映画化した山田洋次監督は、その自作『愛の讃歌』(1967年)について、こう語っている。
 「『ファニー』『マリウス』というのは前々からやりたいと思っていた。(中略)要するに落語的な世界ですからね。日本の新劇がやると、とても深刻になって、ちっともおもしろくないみたいな・・・」
 そうか、なるほど。フランス落語の世界が、日本ではなぜか深刻なゲージュツにされてしまっていたのか。この辺の事情は、小津安二郎監督の映画がフランスでゲージュツにされちゃったのとそっくりだ。そのトンチンカンな評価をまた逆輸入して、日本人も小津を深刻なゲージュツ家として見るようになってしまったわけだ。
 小津映画は基本的に落語であり、喜劇である。事実、小津映画は山田洋次の『男はつらいよ』のような大ヒットを続けていた。なかには深刻な小津映画もあるが、それらは単なる失敗作に過ぎない。
 おかしなことに、それらの深刻な失敗作のほうが高く評価されるようになった。例えば『東京物語』は、小津映画としては珍しく、フツウのストーリーがある。だから、外国人にもわかりやすい。一方、『お茶漬けの味』『お早う』『秋日和』などは、題名にもストーリーにもほとんど意味はなく、日常茶飯事の描写と日常会話のおもしろさと人情の機微だけで成り立っている。つまり落語的な世界だ。
 紙数が残り少ないので、いきなり結論に飛びます。
 パニョルの志を継いだイヴ・ロベール監督は『マルセルの夏』『マルセルのお城』で、ついに“フランスの小津安二郎”になった。
 この二部作はフツウの伝記映画なんかではない。ストーリーもほとんどない。少年マルセルが家族や村人とすごした楽しいバカンスの思い出、天国の日々のような日常が、南仏のまばゆいばかりの光のなかに描かれている。まぶしくて、切なくて、最後には画面そのものが涙でにじんだようにぼやけて回想の幕が閉じられる。
 ロベール監督の日本公開作はこの二本のほかに爆笑田園喜劇『わんぱく戦争』『わんぱく旋風』『ぐうたらバンザイ!』の三本が、またパニョル原作の映画化は『愛の讃歌』と『愛と宿命の泉』(クロード・ペリ監督)の二本がビデオ発売されている。どれも必見!



    卓越した演出力で、カフカ的な不条理
    をリアルに描き切った傑作『殺人課』       藤田真男      (1992年8月)

 『殺人課』の監督・脚本を手がけたデビッド・マメットは、サム・シェパードと並んで現代米演劇界を代表する大物劇作家だそうだ。映画脚本家としても活躍中で、これまでに『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『評決』『アンタッチャブル』『俺たちは天使じゃない』の脚色を手がけている。クサイ役者を量産してハリウッドに送り込んでいる汚染源、すなわち米演劇界の大物で、し
『殺人課』アスキー映画/103分/1991年アメリカ作品/
15800円/発売中
中古ビデオあり
かもこんなくだらない映画の脚本ばかり書いているなんて、ろくな奴じゃあるまい、と危うく思いこむところだった。
 幸いにも僕は、マメット監督・オリジナル脚本の未公開作『スリル・オブ・ゲーム』と『週末はマフィアと!』をビデオで先に見て、その演出・脚本のうまさに舌を巻いていた。そして監督第三作にして日本初公開作の『殺人課』を見て、この人は天才だと思った。演出のうまさでは、現在の米映画界で一、二を争うだろう。
 演出のうまさとは何か。
 例えばブライアン・デ・パルマ監督『アンタッチャブル』のヘタクソな演出を見ればいい。あの階段でのスローモーション銃撃戦シーンの緊迫感のなさ!
 本人はハラハラさせようとしたつもりだが、見る者をイライラさせてしまう演出。マメットなら、あんな間の抜けた演出は決してしない。
 マメットの第一作『スリル〜』では、コンマン(信用サギ師)と女性心理学者のだまし合いが、軽妙かつスリリングに描かれる。第二作『週末〜』は、靴職人の老人がマフィアのドンに間違えられてマフィアの会議に出席するハメになるという、勘違いヒュ-マン・コメディ。どちらも流れるように淀みない演出で、とにかくうまいとしかいいようがない。
 これまでの作品歴から考えて、マメットもデ・パルマやロバート・デ・ニーロと同じイタリア系かと思っていたが、どうも違うようだ。顔写真を見るとユダヤ系みたいだ。ユダヤ系イタリア移民の子孫かもしれない。つまり、ただのイタリア人とはデキが違う。
 『殺人課』の主人公刑事には、ゴールドという、あまりにもユダヤ的な名前が付けられている。だが彼にはユダヤ人としての意識は薄く、ユダヤの言葉も知らない。ユダヤ移民の老婆が殺され、麻薬犯を追っていたゴールド刑事は上司の命令で渋々、この事件に関わる。社会派サスペンスかと思っていると、ストーリーは見る者の予想を次々とくつがえしていく。主人公は捜し求めようとしていたアイデンティティを見失い、ついには“お前は何者だ”という答えのない問いだけが残される。
 ラスト前、暗闇の中で撃たれるゴールドの姿はカフカの『審判』の主人公を思わせる。カフカもユダヤ人だった。カフカ的とか不条理とかいう言葉は、ある意味で便利なので、僕自身もいろんな映画の形容に使ってきたが、『殺人課』ほどカフカ的な映画は見たことがない。マメット監督はカフカ的な不条理を、非現実的な描写を一切用いずに描き切った。ストーリーも演出も徹底的にリアルで恐ろしいほどだ。わざわざ英国のカメラマンを起用した暗く重厚な画面も、ドキュメンタリー映画のようにリアルでスリリング。不条理はこのリアルな現実の中にある。これこそカフカの世界だ。
 主演はマメット作品の常連ジョー・マンテーニャ。演劇クサくない、デ・ニーロにはとてもマネできない演技だ。音楽も常連のアラリック・ジャンズ。近頃珍しく、映画音楽らしい映画音楽だ。



       ワイエスの絵が動いている! 郷愁と
       不安呼び覚ます黙示録的なお伽話       藤田真男    (1992年10月)

 黄金色に輝く小麦畑が地平線まで続く。麦の穂が風に波打ち、青空を白い雲が流れる。ペンキのはげ落ちた板張りの家や納屋が、ふりそそぐ陽光の下に点々とうずくまる、美しくも荒涼とした風景。
 『柔らかい殻』のビデオを見始めてから見終わるまで、僕は“アンドリュー・ワイエスの絵が動いている!”という驚きにもとらわれ続けていた。
『柔らかい殻』アスミック/95分/1990年イギリス作品/
15800円/9月25日(LDは10月21日)発売/
レンタルあり-ロカルノ映画祭銀豹賞受賞、
バーミンガム映画祭最優秀英国映画賞、
ストックホルム国際映画祭国際批評家賞など、
すでに数々の賞にも輝いている傑作
DVD発売

 『おもいでの夏』(1971年)の人気のない砂浜や『スーパーマン』(1978年)の故郷の小麦畑のシーンにも、ワイエスの絵に通じる“アメリカの原風景”が見てとれたが、それらは“アメリカの青春時代”への郷愁として描かれていた。それはそれで切ないほど美しいものだが、『柔らかい殻』に描かれた風景からは、郷愁だけではなく名づけようのない不安も同時に感じられる。そしてそれこそがまさにワイエスの世界なのだ。
 ワイエスは、バブル景気と投資としての絵画ブームによって、ここ十年ほどの間に日本でも大変有名になったアメリカの現代画家である。絵画通信教育の雑誌広告にも、彼の絵が使われている。埼玉県の山奥には、ワイエスのコレクションを自慢する私設美術館もある。館長はソープランドの経営者から自民党の国会議員になった田舎成金だ。これが日本の絵画ブームである。西武セゾン・グループの出版社からは、豪華なワイエスの画集が四冊も出ている。西武の軽薄な成金アート趣味と、ソープランドのオヤジの趣味は、根が同じらしい。困ったものだ。次いでに紹介すれば、ワイエスの絵と現地ロケをまじえた『ヘルガ』というビデオとLDも出ている。
 話を戻す。『柔らかい殻』でデビューした画家出身の新鋭フィリップ・リドリー監督は、同じく画家出身(というより画家くずれ)のデビッド・リンチやピーター・グリーナウェイらと比較して論じられているらしい。本人は、リンチやグリーナウェイからの影響を否定している。当然だ。あんな画家くずれと一緒にされては迷惑だろう。『柔らかい殻』に直接の影響を与えているのは、ワイエスの絵とチャールズ・ロートン監督の映画『狩人の夜』だと思われる。この映画については以前、本欄で紹介した。神学的、政治的な寓意がこめられた『狩人の夜』に対し、『柔らかい殻』には人類の死という寓意がこめられているようだ。黙示録的なお伽話といってもいい。
 少年がいたずらをしてカエルを殺す開巻の小さな死から始まり、少年の父の自殺、友人たちの怪死、ひからびた胎児の死体(少年は天使だと思う)、無数の死を目撃して戦場から帰った兄の原爆症(少年はそれを女吸血鬼のしわざだと思う)へと死のイメージが連鎖し、ラストには全人類の死を暗示するレクイエムが流れる。開巻の真昼の太陽が徐々に傾き、地平線に没し、世界が闇と死に包まれるまでの、その光と色の変化を計算しつくした演出、撮影の絶妙さにはただ息をのむばかり。どのカットも額縁に入れて飾っておきたいほど美しく、その風景=太陽=生命の輝きは、忍び寄る死の影によって一層きわだって見える。リンチやグリーナウェイとちがい、描写はワイエスの絵そのままに具象的であり、ハッタリとコケオドシだけのアート作品ではない。
 なお、リドリー監督はイギリス人。映画の舞台は1950年代のアメリカだが、カナダで撮影されたイギリス映画である。



      SF映画の面白さを左右するのは、
      特撮よりも「想像力と志」なのだ     藤田真男   (1992年12月)

 『グランド・ツアー』は、山形テレビが出資したアメリカ映画で、脚本家出身のデビッド・N・トゥーイの監督デビュー作だ。タイムトラベルものSFとしては本当に久々の快作なのだが、これから見る人のためにストーリーは伏せておきたい。原作はローレンス・オドンネル&C・L・ムーア夫妻の短編『収穫期』(1946年)である。日本ではたぶん未刊だから(僕も読んだことはない)、これは書いてもいいだろう。
『グランド・ツアー』パック・イン・ビデオ/99分/1991年アメリカ作品/
14800円/発売中/レンタルあり

 舞台は現代のアメリカの田舎町。数年前に事故で妻を亡くした主人公が、小学生の娘とともに小さなホテルの開業準備に追われている。そこに、どことなく怪しげな観光ツアーの一行が宿泊する。その続きはビデオを見ていただきたい。SF映画といっても、特撮シーンはほとんど皆無。タイムマシンも出てこない。タイムトラベルものとしては、最も金をかけずに最も成功した映画だろう。SF映画のおもしろさを左右するのは、やはり想像力と志なのだ、ということを再認識させてくれる映画でもある。
 私見だが、アメリカのSF映画はスピルバーグ絶頂期の最高傑作『未知との遭遇』(オリジナル版/1977年)あたりを境に、急速に想像力と志を失っていった。タイムトラベルものでは『スーパーマン』のクリストファー・リーブが主演したロマンチックなファンタジー映画『ある日どこかで』(1980年)が、最後の傑作だったように思う。この映画は、ジャック・フィニイの小説『ふりだしに戻る』(1970年)にヒントを得ている。フィニイは過去の世界を憧れをもって描写するだけでなく“証拠写真”まで使って、その失われた過去をドアの向こう側に今も実在する“もうひとつの現実”として提示しようとした。想像力と志、つまり夢みる力さえあれば、ドアはいつでも開くことができる。例えば『未知との遭遇』の主人公が、マザーシップの扉を開いたように。ついでにいえば『未知との遭遇・特別編』(1980年)で、マザーシップの内部まで見せてしまった時、スピルバーグも夢みる力を失った。“もうひとつの現実”は“現実の一部分”へと矮小化されてしまったのだ。
 フィニイと同じように『マイナス・ゼロ』(1970年)の広瀬正も、ドアの向こう側の世界を夢想し続けたSF作家だった。彼の小説は、少年時代の自分自身に捧げられていた。いや、正確には「捧げる」ではなく「送る」と書かれている。広瀬正は少年時代の自分自身の手に、この本を届けたいと夢みたのだ。この小説は司馬遼太郎に絶賛され、大ベストセラーにもなった。当時は、SFマニアでも何でもないフツウの大人たちが、こういう本を読んでいたのだ。今から思えば夢のような話だ。
 二年ほど前に『リプレイ』というアメリカのSF小説が日本でも評判になった。自分の人生を再生(リプレイ)しながら転生を繰り返す男女を描いた、一種のタイムトラベルものだ。ヒロインの人物設定の一部は『未知との遭遇』の製作者ジュリア・フィリップスをモデルにしてあるらしく、あわよくばスピルバーグに映画化してもらい、ひと山当てたい、という作者の貧しい商魂が見え隠れする。ここにはもはや、想像力や志のカケラすらない。
 こんな時代に逆行するように、SFマインドをよみがえらせた映画、それが『グランド・ツアー』だ。この映画のラストの感動は、失われた時への扉が夢みる力によって再び開かれた、まさにその瞬間に出会えた感動にほかならない。


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       アメリカの国民的アニメ 『ザ・シンプソンズ』
       にみる、本当の健全さとは?         藤田真男  (1993年4月)

 冬休みに『アルフ』の再放送を毎日見ていた。アルフというヘンなエイリアンと人間の一家の交流を描いたホーム・コメディで、よく似た設定の映画『ハリーとヘンダスン一家』よりおもしろい。アルフ役の所ジョージの吹き替えがドンピシャで、こんな楽しい番組を教育テレビでやっていいのだろうか? 実にもったいない話だ。『蝿の王』という映画で、無人島に漂着した少年たちが「今ごろは『アルフ』をやっている時間かなア「と残念がる場面があった。アメリカではそれぐらいの人気番組だったのだが、『蝿の王』を見て少年たちの嘆きに共感できる日本人は何人いただろうか?
 前にも書いたけど、日本は鎖国時代に逆行しつつある。ホントに“国際化”“情報化”しているのなら、そんなお題目を唱える必要はない。ま、日本がどうなろうと構わないが、『アルフ』のような楽しい番組があるのなら、やはり見てみたいし、人にもすすめたい。
『ザ・シンプソンズ』フォックスビデオ/1990年アメリカ作品/
第一期四巻は3月26日発売、第二期四巻は4月23日発売/
各巻2話収録45分/各7800円/レンタルあり

 で、今月のおすすめビデオは、アメリカで大ヒット中のテレビ・アニメ『ザ・シンプソンズ』だ。すでに衛星放送WOWOWで放送されたりしているが、見た人は多くないと思う。「どうせアメリカのガキ向けのアニメだろう」と見る前からバカにしてる人がいたら、それは大きな間違い。『ザ・シンプソンズ』は「ニューズウィーク」や「タイム」の表紙を飾り、エミー賞を受賞し、キャラクター・グッズの売り上げが十億ドルを突破した国民的アニメだ。といってもアメリカ版『サザエさん』ではない。シンプソン一家は中流の下クラス。オヤジは原子力発電所で働くブルーカラー。つまり肉体労働者。息子はヒネた小学生。親子そろってIQが低く、絶対に出世はできないが、今日もノンキに生きている。中流家庭でも中の中クラスのホワイト・カラーなら、例えば『ホーム・アローン』の一家がそうだろう。貧しくはないが、初めての海外旅行で大騒ぎをしたりする。とはいえ、あの一家の住む家は日本なら豪邸だ。同じ中流ホワイトカラーでも、日米の格差はかくも大きい。一方、シンプソン一家は、不況のせいでボーナスが出なくなり、クリスマス・プレゼントも買えず、オヤジがバイトをした金を元手にギャンブルで一発当てようなどと、はかない夢を描いたりする。『ザ・シンプソンズ』は、アメリカの伝統的なホーム・コメディの再現ともいえるが、決して古くさくはない。かといって新しくもない。世の中には右といえば左、左といえば右、ということが“新しさ”だと錯覚している人もいるが、新しいか古いかなどモンダイではないのだ。右といえば真ん中、左といっても真ん中、こーゆー態度こそ好ましい。その意味では『ザ・シンプソンズ』は『サザエさん』よりも『となりのやまだ君』に近い。いしいひさいちの、治にいて乱を忘れず、乱にいても治を忘れない、あの健全なバランス感覚だ。
 このアニメの製作者は『愛と追憶の日々』(アカデミー賞独占)『ブロードキャスト・ニュース』のジェームズ・L・ブルックス監督。『ブロードキャスト・ニュース』は伝統的なアメリカ映画の名作を思わせる、近ごろ珍しい映画だったが、アカデミー賞では七部門にノミネートされながら一部門も受賞しなかった。それが逆にこの映画の健全さをを証明している。『羊たちの沈黙』のようなキワモノを“新しさ”と錯覚する不健全さとは対照的な、ブルックス監督の健全な精神は『ザ・シンプソンズ』にも流れている。


       
        直球だけで勝負する骨太な演出力。
        ヤング&オルモスこそ真の映画人だ     藤田真男  (1993年6月)

 ロバート・M・ヤングというアメリカの映画監督と、エドワード・J・オルモスという俳優がいる。オルモスのほうは日本映画『白昼の死角』『復活の日』や『ブレードランナー』に出たころから知っていた。当時、ズート・スーツ(応援団の学ランみたいなスーツ)を着たオルモスの写真をプリントしたTシャツが、アメリカでよく売れていると聞き、彼はヒスパニック(スペイン=メキシコ系)のツッパリ少年たちのアイドルなのだろうと思った。ズート・スーツは第二次大戦中、ヒスパニック青年の間で流行。彼らと白人水兵との乱闘事件はズート・スーツ暴動と呼ばれ、スピルバーグの傑作喜劇『1941』にも描かれている。この暴動は昨年のロス暴動のような人種暴動であり、ズート・スーツはヒスパニックの誇りとして復活したのだろう。だからオルモスは今なら『マルコムX』の黒人スター監督、スパイク・リーみたいなものか。と思っていたが、オルモスはリーのような俗物ではなく、大変マジメな人だった。
『アメリカン・ミー』CICビクター/126分/1992年アメリカ作品/
14800円/6月4日発売/レンタルあり-未公開映画によく出ている
日系俳優ケリー・ヒロユキ・タガワらが共演

 一昨年、オルモス準主演の『生きるために』という映画が公開され、ビデオも出た。前述のヤング監督の日本デビュー作であり、脳天をハンマーでぶん殴られたような衝撃を受ける大力作だ。ナチスの強制収容所で生き抜いたユダヤ人ボクサーの自伝の映画化で、アウシュビッツ収容所跡に大オープンセットを組んで撮影された。原題を『精神の勝利』という。これはレニー・リーフェンシュタール監督のナチス宣伝映画『意志の勝利』に対する反語である。
 リーフェンシュタールはベルリン五輪の記録映画『民族の祭典』で映画史に名を残しているが、彼女はただフィルムを編集しただけで、監督としては二流だった。ナチスに雇われた、女優あがりの歩く広告塔にすぎない。おまけに戦犯としても二流だったから現在まで生きながらえ、「あれは私の映画だ。ナチスとも無関係だ」などと嘘八百を並べている。が、最近、彼女をゲージュツ家として再評価する連中がいる。無知とは恐ろしい。そんな輩が多いから『生きるために』に注目した評論家は皆無。映画雑誌のベストテンでも得票ゼロ。情けない。
 これはすごい新人監督だと思って調べてみたら、ヤングはすでに七十歳近い大ベテランだった。
 彼とオルモスは十年来のコンビだが、『生きるために』を除いてすべて未公開。信じられない、情けない。
 と思っていたら昨年、『生きるために』に続くヤングとオルモスの未公開新作『ドリーム・ゲーム』がビデオで登場。落ち目のスカウトが天才投手を大リーグにデビューさせる物語だが、野球映画にあるがちな、取ってつけたドラマも一発大逆転もなく、それでいて心地よい感動が残る。直球だけで勝負するヤングの演出力は本物だ。野球をビジネスとしてしか考えない首脳陣に対するオルモスの「それでも野球人か」というセリフには、真の映画人としてのヤングの自信と気骨が感じられる。
 二人の未公開最新作『アメリカン・ミー』も、まもなくビデオ発売。今回はヤングが製作に回り、オルモスが監督・主演。ズート・スーツ暴動の年に生まれ、生涯のほとんどを少年院と刑務所ですごしたヒスパニック・ギャングの物語だ。ギャングなんかになるな、とヒスパニックの少年たちに教えるための映画だが、オルモスにはスパイク・リーのような野心はなく、その愚直さに好感が持てる。演出は師匠に及ばないが、ヤングの後継として期待したい。なお二人の旧作『法王の旅』もビデオが出ており、これも傑作らしい。



 
        ハリウッドがバカンスを描いたら、
        風変わりな傑作コメディになった        藤田真男   (1993年8月)

  蝉がいた  夏中うたい暮らした
  秋がきた  こまったこまった
   (教訓)
  それでよかった・・・・  「ラ・フォンテーヌ寓話集」

 ラ・フォンテーヌは三百年前に死んだフランスの詩人・モラリストである。モラリストとは、人間を観察し、生活に即した生き方を示した人々のことだそうだ。
『緊・急・事・態』CICビクター・ビデオ/83分/1992年アメリカ作品/
14830円/発売中/レンタルあり

 以前この欄で紹介したイヴ・ロベール監督の傑作『マルセルの夏』の冒頭で、教室の小学生たちがラ・フォンテーヌの何かを読んでいた。教科書に載るような人だったらしい。それも三百年前に死んだ人の文章を、百年前の小学生が読んでいるのだ。フランス人が自国の文化を誇るのも無理はない。なんせ、ぼくが小学生のときの教科書には、イソップのアリとキリギリスの話なんかが載ってたもんね。えらい違いだ。
 『マルセルの夏』のように、ひと夏のバカンスを描いたフランス映画は実に多い。例えば『小さな約束』(ビデオ廃盤)は『マルセルの夏』と同じく、文明開化期を背景に、田園でバカンスをすごす一家の姿を描いた傑作だ。古き良き時代の終わりとともにやがて死を迎えるであろう祖母が、主人公の少年に向かってこう語りかける。
 「天国なんて存在しない。地上に天国を創り出すのよ」
 これがフランス人にとってのバカンス=人生の意味である。
 日本にだって、こんなすばらしいことわざ(?)がある。
 「寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働く」
 しかし、これじゃ貧しさが先に立ってしまう。働いても豊かになるわけじゃないから、寝てたほうがましには違いないが、地上の天国はあまりにも遠い。
 などとボヤいているうちに紙数も残り少なくなった。急いで今月の新作ビデオを紹介しよう。
 前述のロベール監督と組んで何本かの大ヒット・コメディの脚本を書き(そのうち一本はトム・ハンクス主演『赤い靴をはいた男の子』としてハリウッドで再映画化された)、最近では自作のコメディ『3人の逃亡者』を自らハリウッドで再映画化しているフランシス・ヴェペール監督。彼のハリウッド進出第二作で、日本未公開の『緊・急・事・態』である。
 主演は青春コメディの傑作『フェリスはある朝突然に』や『ドン・サバティーニ』のマシュー・ブロデリック。米演劇界最大の劇作家で『おかしな二人』『グッバイガール』などの映画脚本も書いているニール・サイモンに育てられた若手スターだ。共演が『フェリスはある朝突然に』の校長先生や『ビートルジュース』のヤッピーや『アマデウス』の音痴の皇帝を演じたジェフリー・ジョーンズ。こんなスタッフ・キャストをそろえるなんて、ハリウッドにも目の肥えたプロデューサーがまだいるようだ。
 何億ドルもの大金を動かすエリート証券マンが、故郷の田舎町に帰ってきてトンチンカンな事件に巻き込まれる。いわゆるスクリューボール・コメディだ。スクリューボールとは「常軌を逸した」「奇人変人」という意味。ぐうたらでチャランポランでも、人生を楽しく生きている奇人変人たちが次々と登場する。そして散々な目にあった主人公も、結局はこの町になじんでしまう。
 これほどノンビリしたコメディはハリウッドでは珍しい。映画評論家気どりの生意気なガキをバカにするシーンなんかも楽しい。ただ惜しいことに、アメリカの田舎町ではフランスの田園のような地上の天国に見えないところが、この映画の唯一の難点。ま、これはないものねだりか。



        現代の魔女狩り「マッカーシズム」の
        恐怖を、正攻法で描き切る『虚偽』    藤田真男  (1993年10月)

 『虚偽』は1950年代のアメリカを恐怖と混乱に陥れた赤狩りを描いた実録テレビドラマであり、原題を『市民(シチズン)・コーン』という。映画史上ベストワンといわれるオースン・ウェルズ監督・主演の名作『市民ケーン』(1941)をもじったような、この大胆不敵な題名に恥じない力作だ。
『虚偽』ワーナー/112分/1992年アメリカ作品/
9800円/10月8日発売/レンタルあり
-主演はジェームズ・ウッズ。
監督はポール・ニューマン主演『暴力脱獄』
などの脚本を書いたフランク・ピアソン

 赤狩りとは簡単にいうと現代の魔女狩りである。理不尽な異端審問や拷問や密告で、あることないことデッチ上げ、誰かれかまわず(老若男女を問わず)魔女に仕立てあげてしまったのが、中世ヨーロッパの魔女狩り。アカ(共産主義者)に対する異端審問がアメリカの赤狩りだ。そのやり方は、みなもと太郎先生の『風雲児たち』に描かれている蛮社の獄=蘭学者狩りを、さらに大規模、無秩序、ヒステリックにしたようなものだった。アメリカに比べると同時期の日本の赤狩りは、わりと正常な(?)思想弾圧だったように思えるほどだ。もっとも、ナチズムやスターリニズムに比べればアメリカの赤狩りも規模は小さいが、この三つの恐怖政治は三位一体だったともいえる。
 アメリカの赤狩りは米ソが連合国としてドイツと戦っていた第二次大戦中には棚上げされていたが、戦後になってまずハリウッドが標的にされた。多くの映画人がアカとして告発され、映画人同士の反目や裏切りが、その後のハリウッドに深い傷跡を残した。告発されたりブラックリストに載せられた映画人の多くがユダヤ系だったから、赤狩りにはユダヤ人狩りという面もあった。赤狩り後のハリウッドの居心地の悪さを象徴する映画が『十戒』(1957)や『バン・ハー』(1959)などのキリスト教史劇である。『十戒』の監督セシル・B・デミルと主演俳優チャールトン・ヘストンは、ハリウッドを代表する反共主義者、反ユダヤ主義者だが、『十戒』のヘストンは、なんとユダヤの預言者モーゼを演じたのだ。そしてユダヤ人の悪役スター、エドワード・G・ロビンソンがモーゼに背く邪教のリーダーを演じさせられた。この邪教はもちろんアカを表している。『ベン・ハー』のヘストンは、異教徒のローマ人に迫害されるユダヤの豪族を演じた。そして監督には、赤狩りに反対したユダヤ人でハリウッドの良心ともいえる巨匠、ウィリアム・ワイラーに白羽の矢が立てられた。こうした複雑かつ巧妙な政治的トリックによって、ハリウッドの危機を乗り切ろうとしたわけだ。
 『虚偽』では、ハリウッドに続くワシントンでの赤狩り=マッカーシズムが描かれる。その張本人マッカーシー上院議員の右腕として働いた弁護士ロイ・コーンが主人公だ。彼らはヒトラーとゲッペルスのようなコンビだった。コーンはリベラルの父を持つマザコン息子で、ホモのユダヤ人だった。その彼がエイズによる幻覚で苦しみ、彼が死に追いやった人々の幽霊に囲まれながら死んでいくまでの物語だ。キング牧師、作家ハメット、マッカーシーの部下だったロバート・ケネディ(のちの大統領J・F・ケネディの弟)、アメリカ政府を陰で支配したFBI長官J・E・フーパー(副長官とホモの夫婦として暮らしていた)らが次々と実名で登場し、こんなドラマ作ってもええんかいな? と心配になるほどの迫力だ。存命中の人物や遺族もいるのに「この作品は明確な事実をドラマ化したものであり・・・」と字幕まで出す自信には感服。だらしない字幕を付けないと何も作れない日本の政治ドラマの志の低さよ。


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 TOM’S MEDIA CLIP   日本映画  (邦画)
 
     人と水との深いかかわりを見つめた、
     “もう一つの『風の谷のナウシカ』”      藤田真男  (1993年2月)

 六年も前に製作され、一般の劇場ではほとんど上映されなかった、しかも三時間近くある非商業的なドキュメンタリー映画がビデオ化されることなど、まずあり得ないだろうと思っていた。ところが、その大作ドキュメンタリー『柳川掘割物語』のビデオが、ついに発売された。今年二月にはLDまで出るのだ。「製作・宮崎駿」という金看板によって、心ある宮崎アニメ・ファンが買ってくれることを期待してのLD発売だろうが、とにかく快挙である。
『柳川掘割物語』バンダイビジュアル/162分/
1987年作品/15000円/発売中/レンタルあり
DVDあり

 『柳川掘割物語』の監督・高畑勲と製作者・宮崎駿は、二十年以上もコンビを組み、数々の傑作アニメを手がけている。1984年に宮崎が監督、高畑が初プロデュースした『風の谷のナウシカ』が大ヒットし、思わぬ大金が転がり込んだ。その金で自主制作されたのが『柳川掘割物語』なのだ。
 一度、自然を破壊してしまった人間が、自然を再生させ、自然と共存していくことは可能か、という『風の谷のナウシカ』の問いかけは、ややもすると非現実的な異世界の美談のように受け取られはしないだろうか。高畑には、そんな不安があったのだろう。『風の谷のナウシカ』のテーマを現実に照らし合わせ、より具体的かつ科学的に検証しようとした映画が『柳川掘割物語』である。
 有明海岸沿岸、福岡県柳川市の水郷を舞台にしたアニメ映画を作ろうと考えていたスタッフは、柳川市で八年前から進められていた掘割の浄化運動の話を聞き、ドキュメンタリー映画の製作を決めた。その八年前、柳川の掘割は見るも無惨なドブ川と化していた。市ではドブにフタをしてコンクリートの暗渠(下水道)にする計画を立てた。が、一人の市職員の勇気と情熱によって工事計画は中止され、浄化運動が始まった。そして住民の協力を得て柳川の掘割は、北原白秋の時代とまではいかないものの、高度経済成長期以前の美しさを取り戻すことができた。
 話だけ聞くと、これも“美談”のように思われるかもしれないが、決してそれだけではないことを、高畑監督は映画のなかで説き明かしていく。NHKの母・加賀美幸子アナの名ナレーション、『太陽の王子・ホルスの大冒険』『火垂るの墓』でも高畑監督とコンビを組んでいる間宮芳生の名曲のおかげもあって、この映画には説教じみたところや押しつけがましいところは、みじんも感じられない。その平易にして緻密な演出ぶりには、『アルプスの少女ハイジ』『赤毛のアン』などの生活アニメでつちかった高畑監督の手腕が見事に発揮され、画面からは自然と人間のぬくもりが伝わってくる。
 この映画には掘割の浄化運動だけでなく、太古からの水と人とのかかわりの歴史も、アニメによる図解をまじえながら描かれている。川や掘割は、単なる用水路や排水路ではない。それは人々の知恵と自然の力の結晶であり、驚くほど科学的合理的に作られている、ということを、僕もこの映画を見て初めて知った。その複雑微妙なシステムのなかで、人は自然と共存してきた。そのシステムがあったからこそ、かつて日本中の小川や掘割にホタルやメダカが棲んでいられたのだが、いまやメダカでさえ絶滅寸前だという。
 高畑監督の次作『火垂の墓』のラスト。終戦直後に餓死した兄妹の幽霊が、無言で現代の高層ビル群を見つめている。無数の窓に輝く灯が、ホタルのように見える。その灯が消えてしまえば巨大な墓石と化すであろうビル群は、戦後日本の虚しい繁栄の象徴でもある。奇跡的に過去から蘇った柳川の掘割も、あの兄妹の幽霊と同じ目で現代を見つめているのだ。



      押井守の迷宮にようこそ   藤田真男  (2001年7月-8月 No.26号)
 
気分はファンタスティック映画祭 Part1

SF映画への招待(2)
アヴァロン    2001年7月25日発売
たしか『幽霊塔』という小説だったかと思うのですが、
財産を隠す迷宮を構築し、しかしながら、自らその迷宮にはまり
骸骨になった富豪の物語がありました。
さて、今や世界の巨匠・押井監督がデジタル技術によって、
実写を素材にアニメを創る「第三の映画」の登場です。
描かれているのは監督のキーワードのひとつ・・・「迷宮」。

    エクスカリバー

 アヴァロンって、なんだっけ? どこかで聞いたな。
 と、ひからびた脳ミソのシワをまさぐりながら画面を見ていると、男女混声合唱による荘重な主題曲が流れ始めた。そうだ、ジョン・ブアマン監督がアーサー王伝説を映画化した傑作『エクスカリバー』だ。復活したアーサー王が馬で森を駆け抜けると枯れ木に次々と花が咲いて灰色の死の世界に生命が甦る神話的なシーン。そのバックに流れるのはオルフ作『おお、運命の女神よ』(世俗の賛歌『カルミナ・ブラーナ』より)という曲で、この曲はTVのCMやバラエティ番組などでも乱用されているので、誰もが一度は耳にしているはずだ(本誌前号p196にDVDオーディオの『カルミナ・ブラーナ』も紹介されている)。
 その名曲『おお、運命の女神よ』と押井守監督の新作映画『アヴァロン』の主題曲がよく似ているのだが、それは偶然ではない。アヴァロンとはアーサー王の遺体が運ばれていった伝説の島の名であり、その由来は『アヴァロン』の劇中でも語られる。ちなみにエクスカリバーとは王者の証となる宝剣であり、アーサー王の死とともに湖の妖精の手に戻る。そういえば押井監督のTVアニメ『うる星やつら』で名脇役メガネ(押井監督が自らをパロディ化した理屈っぽい映画狂)か誰かが剣を手にして、突然「エクスカリバーっ!」と叫ぶギャグもあったな、と思い出した。とはいえ『アヴァロン』は『エクスカリバー』を焼き直した近未来SFではないし、押井監督自身は『ウィザードリィ』というパソコンゲームにインスパイアされたようなことを言っている。このゲームのほうが『エクスカリバー』の焼き直しなのかもしれないが、『アヴァロン』はゲームの映画化でもないし、そこに描かれたゲームは一種の方便にすぎない。

    未来惑星ザルドス

 この映画のアヴァロンとは多くのゲーム・プレイヤーを熱中させている仮想現実での戦闘ゲームの名称だ。生きながら死んでいるような<未帰還者>になる危険性もある非合法ゲームだが、その戦闘シーンにポーランド軍の全面協力(映画は全編ポーランド・ロケ、スタッフ・キャストもポーランド人)による旧ソ連製大型攻撃ヘリや戦車や対空自走砲や架空の兵器などが次々と登場し、仮想現実の中でヒロインの分身がそれらを撃破していくという展開。さすがに押井監督のテクニックは非凡であり、例えば砲身を左右に振りながら戦車が街路を進むときの獣の群れのような動きなど、ハリウッドの大作に比べればはるかに低予算の映画でこんな画面を作れる一種の器用さは、やはり緻密な計算を要するアニメーション作りで鍛えたものだろう。
 デジタル加工された暗いモノトーンの(貴重なホンモノの肉や野菜だけは明るい色彩をおびている)世界に住む『アヴァロン』のヒロインは、押井監督の長編アニメ『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』の草薙素子をモデルとしている。ゲームを勝ち抜いた彼女が<未帰還者>となったかつての仲間を追って幻の領域アヴァロンに足を踏み入れ(ドアを開くと画面は『オズの魔法使い』のようにカラーになる)、我々の住む現実の世界そのものに似て生きながら死んでいるようなその世界でアヴァロンの鍵を握る幻の少女と対峙する・・・という物語展開は、これもジョン・ブアマン監督『未来惑星ザルドス』に似ている。
 ザルドスはすべての人間と事象を操る人形使いと称して観客と主人公に謎をかけるスフィンクスのような狂言回しである。そして禁断の理想郷ボルテックスに侵入した主人公はザルドスの謎(ZARDOZはWIZARD OF OZのアナグラム)を解き、不死の人々が住む偽りの理想郷ボルテックスを崩壊へと導き、人々に死をもたらし、世界を再創造する。
 ブアマン監督の初期の犯罪映画の傑作『殺しの分け前 ポイントブランク』の殺し屋は死の間際に見た夢の中で復讐を果たし、再び死の世界へと帰っていった。『未来惑星ザルドス』の主人公やアーサー王も死の世界へと旅立った。彼らはいずれも彼岸と此岸を往来できる、プリミティブで力強い神話的な英雄だった。

    みんな迷子

 だが、押井守の主人公たちは、神話的な英雄ではない。かつて、クリス・マルケル監督が死の間際の夢を描いた実験的な短編SF映画『ラ・ジュテ』(のちに凡作『12モンキーズ』としてリメイク)を繰り返し見て啓示的な体験を得た押井守は、アンドレイ・タルコフスキー監督の映画『惑星ソラリス』『ストーカー』やP・K・ディックの小説『ユービック』『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(映画『ブレードランナー』の原作)などにも少なからぬ影響を受けながら、自ら構築した映画の迷宮に足を踏み入れた。彼岸と此岸、ユートピアと反ユートピアが会わせ鏡となったその迷宮は、「あなた、だぁれ?」と幻の少女が問いかけたTV版『うる星やつら/みじめ!愛とさすらいの母』から『アヴァロン』に至るまで、変容しながら我々を迷わせ続けている。この迷宮はなかなか居心地がいいので、押井監督も我々も20年近くもの間、いしいひさいちの地底人のごとく彷徨を続けることになったのである。
 自分は誰なのか? どこにいるのか? 生きているのか死んでいるのか? ボルテックスのように鏡の迷宮が崩壊すれば、その答えが出るのか出ないのか? オズの国に迷い込んだ少女ドロシーと愛犬トトは懐かしのわが家へ帰れたが、『アヴァロン』のヒロインが飼っていた愛嬌たっぷりのバセットハウンド犬(押井監督の愛犬でもあり、最近の彼の映画には必ず登場)は、どこで迷子になっているのだろうか? 飼い主と再会できるのだろうか? 再会できたとしても神話の英雄ではない彼らに帰るべき世界はあるのだろうか?
 といった具合に疑問符が渦を巻き、日々死滅している脳細胞をかき回してくれると、いくらか脳ミソの汚れが洗い落とされるような気がして、ひからびた世界とつまらない映画ばかり見て濁ってしまった目もいくらか澄んでくるような気がするところに、押井守の映画の効用があるように思う。たぶん、それは僕の錯覚なのかもしれないが。



      もののけ随想 -日本映画が誇る超大作アニメのあれこれ  藤田真男  (2001年11月-12月 No.28号)
 
『もののけ姫』
『もののけ姫』はこうして生まれた。
今世紀最初の超大作アニメが『メトロポリス』だとしたら、
前世紀の超大作で真っ先に思い出されるのは本作であろう。
そのスケール、深い内容・・・『タイタニック』の登場まで歴代
配収1位の超ヒット作だった。
もちろん監督は今年『千と千尋の神隠し』で、その
『タイタニック』の興行記録を破るだろうと言われるこの人。

     一刀両断や分析は
     無理でしょう  

 『もののけ姫』は森の神々と森を破壊するタタラ者と呼ばれる製鉄集団、未開と文明との戦いに巻き込まれながら自分たちの生きるべき場所を模索する少年と少女の物語だ。宮崎駿監督の心のなかで何十年もかけて次第に形をなしてきた森と鉄という2つの主題が1本の映画のなかでぶつかり合い、しかも二元論では収拾のつかないさまざまな問題まで抱え込んでしまった。その格闘のあとともいえるこの映画を見て、理路整然と分析したり、一刀両断にしたりできるなら、こんなラクなことはない。後述のドキュメンタリーを見ても分かるが、宮崎監督は脚本もないまま描いては消し、消しては描き、何度も迷い、自らと格闘しながら、自分でも予想がつかない結末に向かって進んでいく。
 人間に首を取られた荒ぶるシシ神(夜はディダラボッチに変身する)が大地を呪い、森と人間の生命を奪い、人間が鉄を作るために建設したタタラ場を破壊するラストの「大破壊」シーン。エミシの少年アシタカともののけ姫サンがシシ神に首を差し出し、朝日が上り、シシ神は倒れる。なーんだ『もののけ姫』は『長靴をはいた猫』(1969)のシリアス版だったのかと、僕は一瞬、拍子抜けしてしまった。大破壊のあとに草花や木の芽が生えてくる。ひとりの男が「シシ神は花咲かじじいだったんだ」と間抜けなことを言う。他の人々の反応も、やり直そうとか、いい村を作ろうとか、大団円のセリフとしてはしまらない。自分たちが何を失ったのか、どこへ行けばいいのかも分からずに、あたりをきょろきょろ見回すしかないといった態である。彼らには世界を救えるような力はない。だが、それまでよりも、ほんの少し賢くなれたかもしれない。シシ神の首を取り損ねた小悪党のジコ坊が「バカには勝てん」と嘆くのは「バカな人間が、ほんの少しばかり賢くなってどうすrんだ」という反語的なジョークみたいなものだろう。

      大絶滅と再生

 チェルノブイリ原発事故で立ち入り禁止となった地域は「ゾーン」と呼ばれている。奇しくもタルコフスキー監督のSF映画『ストーカー』の舞台となった「ゾーン」と同じ名がつけられたのは、どういう符合であろうか。そのゾーンに戻ってきて勝手に住み続けている村人たちがいる。豊かな緑と光があふれ、美しい水が流れ、農作物がたわわに実り、人々は自給自足の生活をしている。汚染されて人間の住めなくなった土地が、地上の天国かエデンの園のように見えるのは、一体どういう神か悪魔の皮肉なのか。そんな呪われた台地に住み続ける人々を見ていても「バカには勝てん」とは思えないし、どこかうらやましいような気さえするのは、どういうわけだろうか。
 宮崎駿が『もののけ姫』の前に監督した短編アニメ『On Your Mark』(1995)の舞台は、このチェルノブイリ周辺のゾーンをモデルにしたものと思う。題名は陸上競技で「位置について」を意味する。人類の歴史はフライングの繰り返しである。地球の生命はほとんどすべての種が滅びる「大絶滅」という現象を過去に何度も体験した。チェルノブイリや大破壊のような取り返しのつかないフライングを経てもなお、生命は再び位置について生きていくであろう。その歴史から何か学べることがあるとするなら、バカな人間がほんの少し賢くなるのも無意味ではないかもしれない。

      余談1 エミシ

 以下は余談である。
 アシタカは蝦夷(エミシ)の村の少年だ。室町時代だというのに縄文人のように竪穴式住居で暮らしている。事実、竪穴式住居は室町の頃まで残っていたし、江戸初期の農家も竪穴式からさほど進歩していない。エミシについては何も分かっていない。『もののけ姫』の題名も決定していないころ、司馬遼太郎は死の直前に宮崎駿と対談した。2人はお互いに大ファンだった。その対談で司馬氏は「もしかして月代(さかやき。時代劇の男のように頭を剃る風習)は弥生式農耕のグループの印だったかもしれない。そうすると、蝦夷は剃っていなかったかもしれないな」と、宮崎監督の疑問に答えている。エミシはアイヌとも違う。「蝦夷というのは、要するに東北人です」と司馬氏は簡潔に答え、続いてケルト人を連想しているのが面白い。ローマ文明によってヨーロッパの西の果てに追いやられた古民族ケルトと、大和文明によって東北に追いやられたエミシ。司馬氏はケルトの末裔の住むアイルランドを、宮崎監督はウェールズを訪ねていて、ともにケルトへの関心は深い。
 僕はマイケル・マン監督の力作『ラスト・オブ・モヒカン』を連想した。ローマに追われ、さらに英国に支配された故国から新大陸へ渡ってきたケルト人の末裔のアイルランド人らしい主人公(と僕は勝手に想像している)は、犬神の娘として育てられた少女サンと同じように滅びゆくモヒカン族の戦士として育てられ、英国軍人の娘と出会い、戦いに巻き込まれる。そして彼らも戦いのあと、どんな未来が待っているのかも分からず、黙って森の彼方を見つめるしかない。

      余談2 シシ神とタタラ

 「ほんとうにダメな国にうまれたと感じていたので、農村の風景を見ますと、農家のかやぶきの下は、人身売買と迷信と家父長制と、その他、ありとあらゆる非人間的な行為が行われる暗闇の世界だというふうに思いました。それを回復するためにえらい時間がかかりました」と宮崎駿は司馬遼太郎、堀田善衛との鼎談集『時代の風音』のなかで語っている。前述した江戸初期の農家に入って陰湿な暗闇を体験しただけでも、宮崎駿の気持は分かる。日本人って嫌だなあ、と思わずにはいられない。彼をその呪縛から解放してくれたのは、中尾佐助の提唱した照葉樹林文化輪だった。日本人は稲作だけにしがみついて何千年も生きてきたわけではない。日本からヒマラヤの麓まで稲作とは別の照葉樹林文化(例えばコンニャクという奇妙な食物)を共有する人々が生きている、という発見だ。
 『もののけ姫』では、シシ神の森のモデルを探して屋久島にロケハンをした。かつて日本の西半分は屋久島のような照葉樹の原生林におおわれていたという。照葉樹とは、クスノキ、シイ、カシ、タブなどの常緑広葉樹のことで、葉の表面がテカテカ光る。クスノキ(楠)は南から渡来した木の意味。東京本郷の楠亭という有名なレストランの前に江戸時代から有名なクスノキがある。九州や四国で大きなクスノキを見てきた司馬遼太郎でさえ、東京の都心にこれほどの大木があろうとはと驚いた。クスノキは30メートル以上にまで成長し、まれにトトロも住んでいる。
 シシ神は、古代メソポタミアの叙事詩『ギルガメシュ』に登場する森の神にヒントを得たそうだが、諸星大二郎の漫画『暗黒神話』に登場する古代日本の怪物タケミナカタの神にも似ている。漫画では古代の神とは、たたりをもたらすものだったと説明されている。少女サンがかぶっている仮面や『風の谷のナウシカ』の飛行ガマなどにも、諸星の縄文的モチーフの影響がみられる。『暗黒神話』『孔子暗黒伝』『オンゴロの仮面』などの諸星作品は、照葉樹林文化論とともに宮崎駿に少なからぬ刺激を与えたはずだ。
 タタラについては司馬遼太郎の『街道をゆく』第7巻に詳しい。タタラの技術は朝鮮半島を経てもたらされた。その古代の製鉄技術が今なお受け継がれている世界で唯一の場所こそが、『もののけ姫』の舞台となった出雲だ。その山中から産出する良質の砂鉄で作られたタマハガネは、なんとジレット社の剃刀の原料にもなっているそうだ。東宝の特撮陣が協力した北朝鮮の怪獣映画『大怪獣プルガサリ』には鉄を食べる伝説の怪獣が登場する。朝鮮半島の森を滅ぼしたタタラとの関連を考えてみるのも面白い。

       余談3 もののけ姫

 もののけ姫こと少女サンは滅びゆく犬神の娘として育てられた。宮崎アニメの少女たちは、しばしば動物と交感する。僕は、そういう少女に出会ったことがある。NHKの単発ドラマ『夢の島少女』『四季・ユートピアノ』などに主演した彼女は、以前は同級生が「怖い」というほど無口な少女だった。特技は「犬とコミュニケーションすること。言葉は使わないんです。よその犬にアイサツしたり、自分ちの犬の悩み事を相談してあげたり。散歩のことっとか、もっぱら自分の生活のことを考えてます」と言う。なるほど、犬ってそんなものだろう。『四季』にも彼女がよその犬にアイサツするシーンがあり、本当に犬と交感しているようだった。我々はいつ、そういう感覚を失ったのだろうか。
 日本が生んだ最高の知性のひとりであり、最も美しい日本語の文章を書いた辻まことの画文集『あてのない絵はがき』(小学館)に『山の声』というエッセイがある。大菩薩峠の近くで辻まことは風化した仏像の手を拾って持ち帰った。近所に住む幼女が、その手を見て異様に脅え「ワンワンこわい」と言って泣きだした。しばらくして散歩の途中、彼女がまた「ワンワンこわい」と言う。雑貨屋の軒下に御岳神社の御札があり、狼の絵が印刷されていたのだ。
 「犬神信仰によって念じられたかたちがもし作品に結晶していて、幼女の眼のそれが透視されたとしたら、木刻された像と木版に刷られた狼の像が、その背後において一点となることが直感されたとしたら・・・それは本当に不気味なコミュニケーションではないか・・・私にはそんな感覚はないし、信じるわけにはいかない。しかし、まったく信じないわけにもいかない。幼女の不思議な感応はいくばくもしないうちに彼女から失われたようだった。(中略)幼女はその不思議な期間にあって、時間の次元を深く逆行することのできた天成の巫女だったのだろう。(中略)だがしばしば人間もまた人間だけではない領域を持ち、すべての生命を形成するあの源泉からの祈りを聴き、その声から新しくよみがえることを願うのではないだろうか」
 何年か前に東京の西の奥多摩で、絶滅したはずの狼ではないかと思われる動物が撮影された。大菩薩峠をはさんだ武州(武蔵)と甲州の山々は犬神信仰の本場で、山頂の神社には狼に似た石像が座っている。僕は大菩薩峠へ登るたびに、辻まことが拾った仏像の手を狼と幼女の話を思い出して生命の不思議を思う。もののけ姫こと少女サンもまた、生命の源泉から響いてくる「山の声」を聴くことのできる天成の巫女だったのだろう。

       余談4 宮崎駿

 最後に今回発売されるDVDについて。『もののけ姫』本編には8カ国語インターナショナル版と絵コンテ映像がついて3枚組・インターナショナル版ではタタラやエミシをどう訳したのだろう。製鉄所や先住民か。それはそれで分かりやすくていいだろう。
 同時発売の『「もののけ姫」はこうして生まれた。』は製作発表から宣伝、アフレコ、劇場公開、大ヒットに至るまでのドキュメンタリーで、北米キャンペーンの模様を収めた特典映像も含めて3枚組、全7時間とう前代未聞の大長編だ。『街道をゆく』で司馬遼太郎も訪ねたタタラの遺構や博物館。8枚重ねの背景画をミリ単位で動かしながらの移動撮影、ガラスや透過光を使った特殊効果、セル画と巧みに融合させたCG合成などの製作過程。スタジオを訪ねてきたNHK『映像の世紀』のディレクター、中国映画の監督、ディズニーの監督たちと宮崎駿の対談。宮崎監督の兄が語る弟の思い出、『となりのトトロ』の家のモデルになった少年時代の家。スタジオの防災訓練、大掃除などの年中行事・・・・と内容豊富だが、なにより面白いのは宮崎監督その人だろう。愛妻弁当を手に英国製の真っ赤なオープン3輪自動車に乗って出勤。ホカロン、エレキバン、鍼などで肩のこり、手の傷みと戦いながら、早口で何事かをブツブツつぶやきながら、ひたすら描き続ける姿を見ているだけで妙にあきない。最後はアニメーターたちが参加した「ツール・ド・信州」のドキュメント。東京小金井のスタジオジブリから信州の宮崎駿の山荘・黒豚亭までの自転車レースだ。ゴール近くで乙事、烏帽子など『もののけ姫』のキャラクターと同じ名前の地名を発見し、なーんだ、と拍子抜けする意外な大団円。おわり。

 おまけ。いしいひさいちの新刊『となりのののちゃん』(東京創元社)は、スタジオジブリの鈴木プロデューサーらをパロディ化したアニメ製作会社の面々が、起死回生の大作sニメを製作する過程を描いたドキュメンタリー漫画(?)であり、スズキ氏が『もののけ姫』の首なしディダラボッチのマネをしたりする抱腹絶倒の怪作。この漫画を楽しむためにも『もののけ姫』と製作ドキュメントを見る必要がある。



      そこには怒りをこめて振り返るべき
      愚かな歴史が、はっきりと刻まれている  藤田真男  (2004年7月-8月 No.44号)
 
『戦記映画 復刻版シリーズ
各3990円。発売:日本映画新社 販売:コニービデオ
2009年現在 廃盤。一部が中古ビデオで稀。

       提灯行列の亡霊

 以前、秋葉原の暗い裏通りで奇妙な集団に遭遇した。彼らは手に手に提灯を下げ、「私たちの昭和万歳! 天皇陛下万歳!」と叫んでいた。なんと提灯行列なのだ。その日は天皇誕生日か何かの反動的記念日ではなかった。戦時中に日本人を狂乱させた提灯行列の亡霊が迷って出たのかと思うほど、ブキミで不快な体験だった。
 白昼の靖国神社でも亡霊を見た。仮装行列さながら全国から集まった軍服姿の旧軍人や遺族が花見客の前で軍歌をがなり、芸者たちが踊り、原宿のホコテン以上の混雑と狂態。境内の売店には教育勅語の複製など軍国グッズが並び、隣の武器博物館には特攻兵器のレプリカや南方から回収してきた実物の兵器が展示されている。自衛隊の演習ビデオと一緒に戦時中のニュース映画のビデオも売られていて、痴呆的な顔つきで画面に見入る人々。
 そこへ老紳士が現れ、「こんなもので、みんなだまされてたんだ!」と吐き捨てるように聞いたときには、少しほっとした。
 この老紳士のように正気の日本人なら、DVD全20巻から成る『戦記映画 復刻版シリーズ』を見て無性に腹が立つはずだが。が、いくら腹が立っても、このシリーズは見るべきなのだ。そのほとんどは戦意高揚のために日本映画社や東宝映画が製作した記録映画だが、そこには怒りをこめて振り返るべき愚かな歴史が、はっきりと刻まれている。

       まぎれもない事実

 例えば『富士に舞う 少年戦車兵訓練の記録』(1943)である。富士山麓で訓練中の戦車が小さなコブで立ち往生すると、教官は「戦場では敵の対戦車兵器に必ずやられる」と生徒に注意する。日本は「必ずやられる」ブリキのオモチャみたいな豆戦車で無謀な戦争をしたのだ。中国でさえ外国の自動小銃のコピーを量産出来たのに、日本にはその技術すらなく、19世紀のままの旧式自動小銃で近代戦を戦おうとしたのだ。
 本シリーズのうち記録映画史上、特に有名なのは亀井文夫監督の3本だ。
 『上海 シナ事変後方記録』(1938)は事変(と、侵略戦争のことを言い換えた)直後の上海の記録。行進する日本兵に万歳しない中国人。「おててつにないで」を日本人の子供たちと一緒に歌わない中国人の子供たち。爆弾三勇士(1932年の上海事変で戦死)の墓も登場する。三勇士の軍国美談は軍部とマスコミによるデッチあげだったのだが、全国民が信じてレコードや映画にもなり、銅像も建てられた。その銅像は今も(粗悪な材料のために半壊状態になって)港区青松寺に残っている。ナチスの亡霊の復活を断じて許さないドイツなら絶対にあり得ないことだ。
 『戦ふ兵隊』(1939)は果てしない中国大陸を行軍する日本兵と、戦火のなかから復興に立ち上がろうとする中国人の記録。疲れ果てた日本兵のボロボロの軍服にはハエがたかり、まるで浮浪者の群れだ。この映画は検閲で「厭戦的」とみなされて公開中止。亀井監督は2年後に投獄された。が、亀井作品だけが特に「厭戦的」だったわけではない。どの映画の日本兵も似たりよったり、これで戦意高揚になるとは思えない貧弱さだ。当時、巨匠フランク・キャプラはそれらの映画を見て、「反戦映画」かと思ったほどだった。
 『日本の悲劇』(1946)は敗戦直後の亀井作品で、日本の侵略戦争の総決算。戦時中のニュース映画を引用しながら軍部、財閥、政治家のウソと不正をあばき、さらに天皇の戦争責任にも言及したため占領軍によって上映を禁止された。この映画には特攻隊が天皇から賜ったお褒めの言葉も引用されている。その言葉は本シリーズの『陸軍特別攻撃隊』(1945)に記録されていて、これはまぎれもない事実なのだ。ちなみに戦時中、昭和天皇が「また負けたのか、バカモノ!」とどなりまくっていたという旧宮内省関係者の記録もあるが、こういう史実も今では隠ぺいされつつある。

      愚かな歴史

 1945年8月15日、日本は敗れるべくして敗れた。本気で戦争責任を感じて反省した日本人は少なかった。戦時中、退却を転進と言い換えたのと同様に敗戦を終戦、占領軍を進駐軍と言い換えた。敗戦直後、日本は国費を投じて占領軍将兵を「慰安」するための団体を設立し、「世界最大の売春トラスト」と呼ばれた。どこの世界に売春宿を、おおぴらに営む国家があっただろうか。
 やがて日本は復興につれて反動化の「逆コース」を歩み始めた。元ナチス高官が戦後ドイツの首相になることなど断じてあり得ないが、日本では戦時中の閣僚だった戦犯・岸信介が首相になった。戦時中、数多くの軍国映画、国策映画を作った東宝は「それぞれの作品はよく憂国の情ほとばしり、文部大臣賞、情報局総裁賞など、殆ど東宝が独占することができました」と、1963年に出版された公式の社史に誇らしげに書いた。東宝は亀井文夫監督の「厭戦」映画を作ったことこそ誇るべきなのに、率先して戦争に加担した愚かな歴史を自画自賛するに至ったのである。
 敗戦から59年。海外へ派遣された(と、派兵をまたもや言い換えた)自衛隊が現地人に日本語を教えるという戦時中そっくりの信じがたい光景が伝えられ、皇太子夫妻がらみのニュースでは「お世継ぎ」などという時代錯誤の、しかも主権在民を否定して憲法違反にもなりかねない言葉が、あからさまに使われている。対米戦の直前、日本が破滅の淵へと突き進んでいることを自覚できた日本人はほとんどいいなかった。現在の日本の政治。経済状況も、まさに破滅の淵にある。今こそ、このDVD全集に刻まれた過去の愚かな歴史に学ばなければ、近い将来、愚かな歴史を再び繰り返さないという保障はまったくない。



      第2次大戦の戦場へ
      第5集 世界は地獄を見た  藤田真男  (* 年 *月)
 
NHK DVD『映像の世紀』
2009年

       市民を巻き込んだ戦争

 司馬遼太郎の知人のアメリカの大学教授が教室で太平洋戦争のことを話したら、学生たちはアメリカと日本が戦争をしたことすら知らなかった。話が終わると「で、どっちが勝ったんですか?」と質問したという。
 あるテレビ番組がハワイの海で日本人OLに取材したら、彼女たちはハワイのどの島にいるのかさえ知らなかった。
 もちろん日本軍がハワイの真珠湾を奇襲攻撃したことも知らないだろう。そんなアメリカの大学生も日本のOLも、『映像の世紀』第5集を見れば、第2次大戦がどんな戦争であったかが少しは理解できるはずだ。副題が『無差別爆撃、ホロコースト、そして原爆』。
 最初に廃墟が映しだされる。ドイツ軍に破壊されたフランスの村が、あまるでポンペイの遺跡のように廃墟のまま保存されている。その現在の姿に、かつて村人が撮影したホームビデオの映像が重なる。子供も大人も楽しく暮らしていたのどかな村は、間もなく無人の廃墟と化した。そして、第2次大戦は非戦闘員である市民をも巻き込んで、かつてない大量の犠牲者を出した戦争であったことが明らかにされていく。
 1939年、ドイツのポーランド侵攻で開戦。フランスの地下要塞マジノ戦もたちまち撃戦。赤錆びたマジノ戦の砲塔が現在も作動するのには驚いた。ユダヤ人ゲットーの隠し撮り。ロンドン空爆。地下鉄に批難する市民。1941年、真珠湾攻撃で日米も参戦。アメリカ国内の日系人収容所を撮影したカラー・フィルム。鉄条網の彼方に見える山は、なんと『未知との遭遇』のデビルズ・タワー! こんなところにあったのか。ナチの強制収容所での処刑の隠し撮り。冬将軍とソ連軍の反撃で敗走するドイツ軍。捕虜のほとんどは生還しなかった。ガダルカナル、サイパンの日本軍玉砕。投降を拒んで自殺する非戦闘員。以後の日本の連戦連敗はカラーで撮影されていて生々しい。連合軍のドイツ無差別爆撃。ハンブルク市民が空襲下で撮影したカラー・フィルム。パリ解放。暴徒と化したパリ市民がドイツ軍協力者をリンチにかけ、ドイツ軍兵士と寝た女たちを丸坊主にし、さらしものにする痛ましい光景。そこに詩人で映画監督のジャン・コクトーの日記の朗読がかぶさる。コクトーは市民の暴走を嘆く人道主義者のように聞こえるが、以前、米CBSの報道番組では、コクトーこそ熱心なナチ・シンパだったと非難していた。いずれが真実なのか?ついでに言えば、アメリカの空の英雄シンドバーグも熱烈なナチ・シンパだったし、ウェルト・ディズニーもアメリカ・ナチ党の集会に参加していた。

       スティーブンスもフラーもカメラを回した

 ナチ宣伝相ゲッペルス一家の白骨死体。生前のヒトラー最後の映像。強制収容所の解放とブルドーザーで処分される死体の山。神風特攻隊。東京大空襲。沖縄決戦。広島、長崎原爆。1945年、終戦。
 第2次大戦での犠牲は推計6500万人。そのうち一般市民が4000万人以上といわれる。ナチの強制収容所で虐殺された人々が約1300万人。その半数近くがユダヤ人。ソ連の犠牲者は2000万人。米軍の戦死者は50万人。
 エンディングに映像資料を提供したアーカイブスがクレジットされていて、その中にジョージ・スティーブンス・コレクションの名もある。『シェーン』などで知られる映画監督ジョージ・スティーブンスは米陸軍の記録映画班のメンバーとして従軍し、アウシュビッツと並んで悪名高いダッハウ強制収容所の解放を撮影した。その一部が『映像の世紀』に使われたらしい。スティーブンスが戦後、『アンネの日記』を映画化したのもダッハウでの凄惨な体験があったからだろう。
 スティーブンスと同じように米絵幾軍の兵士として強制収容所の解放に立ち会ったのがサミュエル・フラー監督だった。フラーはその時、生まれて初めて手にしたカメラで収容所の惨状を撮影した。そして、この時の体験から戦争映画の常識を破った大傑作『最前線物語』が生まれた。フラーの撮影した記録フィルムとフラー自身の証言は、アメリカ映画の歴史を綴ったアンソロジー・ビデオ『アメリカン・シネマ』(CIC・ビクター)第3巻『ウェスタン/戦争映画』編に収録されている。
 スティーブンスやフラーの撮影した映像も十分ショッキングなものだが、NHK教育テレビで放送された英国製のドキュメンタリー番組『カラーで見る第2次大戦』は、さらに驚くべき映像の連続だった。我々は世界を白黒では見ていない。だから白黒で見る戦争は、ともすると非現実的な映像の中だけの世界、まるで仮想現実であるかのような錯覚を抱いてしまうが、『カラーで見る第2次大戦』を見ると、それが「まぎれもない現実であったことを皮膚感覚で痛感させられる。この番組も最近ビデオ化(日本クラウン)されたので必見。
 ドイツでも日本でも、戦争を経験したはずの世代ですら第2次大戦の真実の姿を知らず、ちっとも反省していない人々が少なくない。無知と言う点ではハワイのOLも(戦争を知らない老人たち)も同罪である。そういう人々がいなくなる日まで、「映像の世紀」や「カラーで見る第2次大戦」のようなドキュメンタリーは、その役割を終えることはないだろう。

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 藤田 真男の映画短評「ここ掘れ!ワンワン」   (編集・池田博明)


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      BACK TO 日曜日にはTVを消せプログラム 



外国映画  (洋画)

    
     孔雀夫人(1936年,米。101分)  藤田真男 (「シティロード」1990年2月)

 先にビデオ化された『ミニヴァー夫人』(1942年)が、その人間観察眼といい、淡々としたユーモアといい、ジェーン・オースティンの『自負と偏見』(新潮文庫)を思わせるタッチの傑作ホームドラマだったので、ワイラー監督はきっとオースティンのファンなのだろうと思った。今度の『孔雀夫人』では、W・ヒューストンが船上から英国の灯を認めるや「ジェーン・オースティンとシャーロック・ホームズの国だ!」と飛びあがって喜んだので、僕もわが意を得たりと嬉しくなった。
 それほど好きなオースティンをワイラーはなぜ自ら映画化しなかったのか? たぶん小津安二郎が敬愛する志賀直哉を、おそれ多くて映画化しなかったのと同じなのだろう、と僕は想像する。小津はワイラーを敬愛し、来日時に会ったワイラーの印象を「田舎っぺいだが、それだけに親しみやすかった」と語っている。だから小津の『お茶漬けの味』が『孔雀夫人』に少し似ているのも、全くの偶然とは思えないのである。
 アメリカの成金夫婦がヨーロッパ旅行に出かける。ヨーロッパかぶれの妻は、パリの高級ホテルに着くなりハムエッグを食っている夫(w・ヒューストン)を見て、田舎者とバカにする。そして貴族の男と浮気する。しかし、アメリカには“文明”などないとバカにしていた妻こそ田舎っぺであり、オースティンの機微も解せない愚妻だったという話である。ワイラーの『ハムエッグの味』である。

     

     愛と哀しみのボレロ(1981年,仏。288分)   藤田真男 

 正月に『座頭市』特別編のTV放映を見逃した人は残念でした。これは劇場版でカットされた名場面の数々を追加再編集した二度と見られぬ特別版なのだ。
 さて、ルルーシュもこのところ日本ではカツシンと同じぐらい不遇である。自伝的大作『マイ・ラブ』がカットされたのが(ビデオはノー・カット)ケチのつき始め。いつのまにか未公開作の山ができていた。それら6作品が順次ビデオで公開されることになったのはメデタイ。第1弾は『愛と哀しみのボレロ・完全版』だ。5時間近い超大作だが、2回続けて見てもあきないし、2回見ないと脇役まで把握できない。そしてその脇役たちこそが真の主役なのだ。
 物語はルルーシュの生まれた37年に始まり、親子三代、80年まで続く。ナチの収容所で死んだユダヤ人の遺児ロベールが成長し、アルジェリアに出征する。その時の戦友たちが真の主役であり、ロベール(ロベール・オッセン)はルルーシュの分身ともいえる。ルルーシュもユダヤ人だ。ロベールの息子はパトリック。これもたぶんルルーシュの息子の名前だ。ま、親バカでもある。何組もの親子三代のドラマに、フランシス・レイ扮する盲目のアコーディオン弾きが影のようにつきまとう。盲目の歴史の目撃者というシャレですな。同じようなシャレっ気が、あちこちに見られる。ラストのチャリティ・ショーではロベールの戦友が眠りこけているににも注目。実はフマジメな映画なのだよ。メイキングのオマケも見もの。



     ヴィバラビイ (1984年,仏。110分 日本未公開作品)   藤田真男

 クロード・ルルーシュのSF・・・と見せかけて実はSFではない。題名の意味は『人生万歳』。
 近未来、核戦争、パニック・・・ミシェル(ミシェル・ピコリ)が目覚める。夢だった。かたわらに美しい妻キャサリン(シャーロット・ランプリング)がいる。ミシェルは米資本の大企業の欧州代表で、古女房アヌーク(アヌーク・エーメ)と別れて、キャサリンと再婚し、今は家庭円満。枕元のラジオが核戦争の危機を訴えている。これは夢ではなく、現実に米ソが交戦中なのだ。続いて新作『人生万歳』を完成させたルルーシュへのインタヴュー番組が始まる。スタジオでインタヴュアーが「平和団体との関係は?」と質問する。ユニセフ、赤十字とタイアップした『愛と哀しみのボレロ』は、フランスでもバカにされたらしい。ルルーシュはウンザリしたように首を振り、「この映画は先入観なしで見てほしい。ストーリーを人に話さないでほしい」とだけ答える。  
 その夜、『人生万歳』のプレミア上映を観に行こうとしていたミシェルが、神隠しにあったかのように失踪する。同時に、演劇学校の講師フランソワ(ジャン=ルイ・トランティニャン)の妻サラ(エブリーヌ・ブウイックス)も失踪する。3日後、2人が帰ってきたときには、失踪中の記憶が失われていた。
 以下、ネタをバラしますので、ビデオを観る気がある人は、なるべく読まないように。
 ミシェルとサラは再び失踪し、再び戻る。そして異星人のメッセージを全世界に発表して平和を訴える。だが、すべてはミシェルの会社の米本社(実はスパイ組織)と米政府が仕組んだペテンだった。名付けてオーソン作戦。オーソン・ウェルズの『宇宙戦争』の二番煎じだ。秘密を知ったミシェルとサラの家族全員が暗殺される。ここでまたミシェルが目覚める。すべて夢だった。
 現実に戻ると、古女房アヌークがいる。サラは娘で、フラウソワは部下だった。ミシェルは浮気を重ねながら離婚のチャンスを狙っていたらしい。フランソワとサラとアヌークの親子ドンブリが発覚すると、ミシェルは被害者ヅラして古女房を捨て、フランソワをクビにする。そして意気揚々と、かねて目をつけていた美女、夢の中の妻キャサリンを口説きに出かける。早い話がルネ・クレールの『夜ごとの美女』をマジメにしたような、スケベオヤジの夢である。世界平和はどうしたのかって? 人間が滅びたらナンパもできないでしょうが。そんなことも分からないでルルーシュをバカにしちゃいけませんぜ。



     刑事ロニー・クレイブン  (1985年,英。307分)   藤田真男

 超ド級の大傑作!!
 邦題にだまされてはいけない。原題は『暗黒の淵』、全5時間、難解ではないが尋常でないストーリー。刑事ドラマ、スパイ・サスペンスとして観ただけでは、何も観ないのmp同然だ。では一体、何なのか? それが分からない。巨大な暗黒の淵を前にして、ただ呆然と立ちつくす。得体の知れぬ衝撃と感動、しかもそれが、未知の第三世界ではなく、我々がよく知っていると思い込んでいた英国からやってきたという二重の驚き。
 製作はBBC。1985年度英国TVフェスのベストドラマ、主演男優、音楽(エリック・クラプトンのギターがすばらしい!)など6部門を受賞。脚本は『戦略大作戦』『ミニミニ大作戦』『レッドブル』以来、久々登場のトロイ・ケネディ・マーティン。今にして思えば、あの作品に観られた諧謔は、英国的というよりアイルランド的ではないのか? 『戦略大作戦』の主人公の名はケリー(C・イーストウッド)。アイリッシュだろうか。とするとミック・ジャガー主演『太陽の果てに青春を』の無法者ネッド・ケリーもそうだ。これも単なる英国製西部劇ではなく、流刑地・植民地オーストラリアにおける、アイリッシュの反英民族闘争映画らしい。ケリーはIRA兵士のアナロジーなのだ。ビートルズの4人にうち3人はアイリッシュの血を引いているが(だからU2はビートルズの直系といえる)、ミック・ジャガーもそうなのだろうか。
 トロイ・ケネディ・マーティンもアイリッシュだろうか。ケネディ大統領はそうだ。我々が英国的と思っているものには、アリルランド(ケルト)的なものがかなりまじっているらしい、と『刑事ロニー・クレイヴン』を観て気づかされた。
 主人公ロニーに接触してきたサッチャー内閣直属のスパイが「私はアイルランドびいきなんだ。ケルトの想像力には感嘆させられる、君もケルト人かね?」と、探りを入れる。ロニーはそっけなく「違う」とだけ答える。

 5時間の超大作ながら、セリフ1行、画面1カットにもムダがない。脚本家トロイ・ケネディ・マーティンの力量は恐るべきものだ。
 あえて一言でいえば、核エネルギー戦略をめぐる英米のスパイ戦に巻き込まれた刑事の物語だ。前号にも書いたが、単なる刑事ドラマ、スパイ・サスペンスではない。『ストーカー』『サクリファイス』『風の谷のナウシカ』『プリズナーNo.6』を足して、おまけにペキンパー西部劇風の男の道行きをつけ加えたような、とんでもない傑作である。
 主人公ロニーは英国の地方警官だが、70年代には英国領北アイルランドにいて、IRAに潜入させるスパイを訓練していた。その残党が、ロニーの娘を射殺した犯人だと分かる。「ひどい時代だった」とロニーはつぶやく。当時の北アイルランドは、英軍による対テロリスト謀略工作の実験場と化していた。いかに「ひどい時代だった」のか、ロニーは語らない。彼の背景を知るためには、鈴木良平著『IRA』(彩流社刊)を必読のこと。1世紀にわたるIRAの反英闘争の歴史は、日本人の想像を絶するほど壮絶であり、劇的である。
 射殺されたロニーの娘エマが、ロニーの前に現れて彼を“迷宮の中心”へと導き始める。最初は単なる回想か幻想かと思ったが、なんと幽霊なのだ。エマが倒れた場所には、奇跡の泉が湧く。幽霊と言うより、ケルト的な妖精の一種かもしれない。エマは過激な反核グループの一員で、極秘プルトニウム工場に侵入したため、核燃料会社の手先に射殺されたことが分かる。ロニーとCIA工作員が、その鉱山跡の地下工場に侵入し、プルトニウムを盗み出す。そして一気にラストへなだれ込む。観終わったあとには言葉も出ない。
 自ら“天使”と名乗るCIA(ジョー・ドン・ベイカーが鬼気迫る怪演)。大地の女神ガイアの分身ともいえるエマ。『ストーカー』の主人公と同じく、全世界の罪と苦悩を背負った殉教者のようなロニーの迷宮彷徨。すべての謎を解く鍵となるプルトニウムが坑道の奥深く、まさに“迷宮の中心”にあるという寓意が、このサスペンスを装ったドラマ全体に神話的な構造を与えている。ロニーは『ストーカー』の“ゾーン”や『プリズナーNo.6』の“村”と同じ世界に生きているようだ。
 ちなみに『プリズナーNo6』は、以前観た英国のドキュメンタリーによれば、明らかにケルト的な特性が認められるそうだ。核燃料をめぐる大国の戦略、プルトニウムのレーザー濃縮法などについては、NHK取材班『核燃料輸送船』(日本放送出版協会刊)を必読のこと。



     悪を呼ぶ少年  (1972年,米。100分)  藤田真男

 スプラッシュ公開のため20年前には観逃した。面白いとは聞いていたが、これほど面白いとは思いもよらなんだ。のどかな夏の田園で遊ぶ幼い双子の兄弟。名手ロバート・サーティーズの撮影、ジェリー・ゴールドスミスの音楽の美しさが、眠気を誘いそうになる開巻。小さな事件と伏線を積み重ね、後半は恐怖のどん底に叩き込む。こんなコワイ映画は観たことない。『サイコ』よりコワイ。『戦慄の絆』なんか屁みたいなもんだ。あー、面白かった。



      ジョンとメリー (1969年,米。93分)   藤田真男

 12年前、デビュー直前の丸山昇一さんから「『ジョンとメリー』が大好きなんですよ」と聞いて、内心では「え?」と思った。22年ぶりにビデオで再見して分かった。プロの脚本家が感心するわけだ。当時の僕には。この映画の脚本と演出のうまさを見分ける目がなかった。独白、すれ違いの会話、回想、妄想が2人の真の会話に結実するまでの、たった半日の物語。うまい! 丸山脚本『翔んだカップル・オリジナル版』『ふたりぼっち』と見比べるべし。

 

      10億ドルの頭脳  (1967年,英。103分)  藤田真男

 ケン・ラッセル監督の日本デビュー作。『国際諜報局』『パーマーの危機脱出』に続くシリーズ第3作。製作は007のハリー・サルツマン、タイトルデザインも007のノーリス・ビンダー。お話は『私を愛したスパイ』の原型ともいえるもので、トリプルXみたいな女スパイも登場。ウルトラ右翼のテキサスの石油王(会社のマークは鉤十字の変形)が、私設軍隊を率いてソ連領へ侵攻。石油王をG・C・スコットが演じたら、もっと面白くなるだろう。



      まぼろしの市街戦  (1966年,仏。102分)  藤田真男

 輸入LDを買おうかどうか迷っていたら、ついに国内盤LDが出た。ユナイト日本支社がつぶれて以来、たぶんどこでも上映されていない幻の傑作。第1次大戦中、ドイツ軍占領下の田舎町。精神病院の患者たちから「ハートの王様」(原題)に祭り上げられた英軍斥候兵と、サーカスの綱渡りの美女が織りなす反戦ファンタジー・コメディ。『魔女の宅急便』の音楽は、この映画のG・ドルリューの名曲のパクリのような気もする。テープは7月発売。

 

      軍事法廷/駆逐艦ケイン号の叛乱  (1988年、米。101分) 藤田真男

 E・ドミトリク監督とボギーが、赤狩りに対する苦い思いを込めて作った『ケイン号の叛乱』のTV版リメイク。今回はボギーが演じた艦長ではなく、艦長の精神異常を立証する被告側弁護人が主役になって、しかも舞台を法廷だけにしぼった完全な室内劇。その法廷が体育館のバスケットコート、屋外では軍楽隊の練習や騒音が響く。それ以外は驚くほど正統的な法廷劇だ。こうでもしないとアルトマンも反米的な作品は作りづらいようである。



      狼は天使の匂い  (1972年、仏。128分)  藤田真男

 コクトーの『美女と野獣』は、ルネ・クレマンが“技術顧問”を務めていたそうだが、ホントはほとんどクレマンが撮ったようなもんじゃないの、と、この『狼は天使の匂い』を観ると思えてくる。
 『不思議の国のアリス』を下敷きに『雨の訪問者』をさらに趣味的にした傑作フィルム・ノワール。R・ライアン、ミア・ファローの妹ティサを始め、登場人物全員どこかお伽話めいていて、子供じみて、残酷で、こっけいで、悲しい。



      ワン・ツー・スリー  (1961年,米。109分)  藤田真男

 ビリー・ワイルダーの未見の旧作のうち、一番観たかったのが、この『ワン・ツー・スリー』だ。
 ジェームズ・キャグニーが、コカコーラ西ベルリン社長として登場。妻に隠れて秘書と浮気しながら、出世のことばかり考えている。ナチ式敬礼のクセが抜けない部下にウンザリし、ヨーロッパ総支社長の椅子につくことを夢見る毎日。そのためにソ連市場を開拓して手柄を立てようと計画中。そこへアトランタ本社の社長のバカ娘(名前は『風と共に去りぬ』にちなんでスカーレット)が遊びに来て、社長からお目付け役を命じられる。バカ娘は東ベルリンで出会ったガチガチの共産党員の青年と恋に落ち、洗脳までされてしまう。おまけに妊娠。そこへ社長夫妻が娘を迎えにくるという。キャグニーは田舎っぺの青年を、バカ娘の夫にふさわしいニセ貴族に仕立て上げる。
 機関銃のような早口のセリフを大声でわめき合い、そのバックには「インターナショナル」「ヤンキー・ドゥードゥル」「ワルキューレの騎行」「剣の舞」がガンガン流れて、けたたましい限り。
 共産党員の青年と、コーラを買いに来たソ連通商代表の3人組は、ワイルダーが脚本に参加していた『ニノチカ』の焼き直しのようだ。ラストのドタバタは、のちにワイルダーが『フロント・ページ』としてリメイクした、ホークスの『ヒズ・ガール・フライデー』を思わせる(ホークスのドタバタの方が滑らかで洗練されているが)。バカ娘は、おそらくマリリン・モンローをイメージしたものだろう。当時、ワイルダーは「ソ連がモンローを誘拐して洗脳しようとするが失敗してしまう。なぜならモンローには脳ミソがなかったからだ」というアイデアを語っていた。ホークスなら、こんなタチの悪い冗談はいわないだろう。『七年目の浮気』のロケ中、数千人の見物人と記者の前で(おそらくは宣伝のために)、何度も何度もモンローのスカートをめくり上げさせたワイルダーは、やはり相当えげつない狸オヤジだ。ホークスならこんなことはしないだろう。
 『ワン・ツー・スリー』は、狸オヤジがユダヤ人としてのアイデンティティをむき出しにした特異な作品といえる。お里が出たのである。これは悪口ではない。お里が出たら、ワイルダーは意外にもマカヴィエフに似ていた。『コカコーラ・キッド』はもちろんだが、スターリニズム=ナチズム=マッカーシズム(これらは三位一体)をコケにした『WR:オルガニズムの神秘』と『ワン・ツー・スリー』は、鉄のカーテンの東と西で育った双生児のようにもみえる。



      脱走山脈   (1968年,英。102分)   藤田真男

 象を連れてアルプスを超え、ローマ軍を打ち破ったカルタゴの名将ハンニバルの物語は、みなさんガッコーで習いましたね。それを第2次大戦中におきかえたパロディ戦争映画なわけ。平和主義者の英兵ハンニバルと、ナポレオン気取りの米兵の、ほのぼの脱走珍道中。脚本がイアン・ラ・フレネとディック・クレメント。この名コンビによるスパイ映画のパロディ『雨のパスポート』、連続活劇のパロディ『冒険冒険大冒険』も英国喜劇ファン必見の傑作。



      灰色の容疑者  (1988年,米。105分)  藤田真男

 試写会なしでいきなり単館公開された『クリミナル・ロウ』を改題してビデオ化。
 前号と前々号で絶賛紹介した大傑作TVムービー『刑事ロニー・クレイブン』で認められたM・キャンベル監督の劇場用デビュー作だ。『タイトロープ』のイーストウッド刑事を弁護士におきかえたような心理サスペンス。作品のスケールは小さいが、この新人の演出力はやはり本物だ。次作に期待。『刑事ロニ〜』のJ・D・ベイカーが友情出演。



       ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ (1990年,英。117分)  藤田真男

 『ハムレット』の端役にすぎなかった2人の男が、いきなり“主役”の座を与えられたために、自分たちが何をすればいいのか、自分たちが何者なのかも分からなくなった挙句、糸の切れたあやつり人形のように絞首台に吊るされる。
 『ハムレット』なんて読んだことも観たこともなかったけど、この映画は大変面白かった。
 2人の主役には、ローゼンクランツとギルデンスターンという名が与えられているが、結局のところ、どっちがどっちなのか誰からの関心を払われないままに終わる。
 彼らはハムレットの居城へ向かう旅の始めに、コイン投げの賭けをする。何十回投げても、何百回投げても、表しか出ない。2人はまさにコインの表と裏であり、偶然と必然であり、漫才のボケとツッコミでもある。
 ボケのローゼンクランツ(仮名)は、無自覚な天才発明家である。彼はまず、ビッグ・マックを発明しそうになる。さらに万有引力、作用と反作用、飛行機、蒸気機関などの原理を次々と発見しそうになるが、相方でツッコミのギルデンスターン(仮名)の現実的な無関心によって、ことごとく水泡に帰してしまう。頭の上に落ちて来たリンゴを見て、ふとギモンを抱くローゼンクラツ。するとギルデンスターンが、たちまちリンゴを食ってしまう、そんな具合である。残念ながら、このニュートンのリンゴの木は、ここデンマーク王国ではなく、英国にあった(今もあるそづあ)のであり、それが歴史の必然というものであった。
 迷宮のような城内を右往左往する2人には関係なく、本来の“舞台”の上ではハムレットの苦悩や王たちの陰謀が、ことさらクソマジメに演じられていく。
 これがデビュー作のトム・ストッパード監督は『未来世紀ブラジル』や『太陽の帝国』の脚本を書いた人だそうだが、それらの作品よりもこっちのほうがずっと面白い。狂言回しの旅役者に、リチャード・ドレイファスを起用するセンスも正しい。シェイクスピア役者やデ・ニーロみたいなバカに出てこられたら台なしである。
 太平サブロー・シローの日本語吹き替え版も観たが、これは気負いすぎで、しかも標準語なので2人の呼吸が合わなかったせいか、ボケとツッコミの面白さが失われてしまった。期待してたんだけどね、残念。むしろWヤングの“10円ちょーだい!”という、あの軽さがぴったりするかもしれない。『濡れ髪髪喧嘩旅』の市川雷蔵・川崎敬三の凸凹コンビも適役かもしれない。



      ポップコーン (1991年,米。93分)  藤田真男  (「シテイロード」1991年4月)

 オペラ座ならぬB級ホラー映画館の怪人。ヒロインの悪夢が現実の化すのは『ハードカバー』に、ヤケドの怪人は『ダークマン』にも似ています。『ハードカバー』が65点、『ダークマン』が60点とすれば、本作は55点ぐらいか。けど、劇中で上映されるヘンなSFホラー(1本は日本製オドラマ映画!)が、なかなきょくできてるので5点オマケ。『ブラボー火星人』の、といって分からなければ『ねえ!キスしてよ』のレイ・ウォルストンが特別出演。



      ヒューストン・アンソロジー (1988年,米。117分)  藤田真男

 故ジョン・ヒューストン監督の、波乱万丈の一代記である。
 僕はこれまでにヒューストンの伝記など読んだこともなかったし、彼をモデルにした『ホワイトハンター ブラックハート』も未見なので、ヒューストンという人が一体どういう人なのか、長いこと理解に苦しんでいたのだが、このドキュメンタリーを観てようやく少し理解できた。そして、これまでよりもずっと、ヒューストンという人を好きになった。
 まず、なぜあれほど多くの駄作や失敗作を平気で撮ったのか? 答えはカンタン。ヒューストンは個々の作品よりも、映画を撮影するという行為そのものを愛していたからだ。ただ撮るだけでは面白くない。いやがる俳優たちを、できるだけハリウッドから遠く離れた世界の果てへ引っ張って行き、撮影現場の混乱ぶりを楽しみたい。フィッツカラルドみたいな困ったオッサンである。
 一言でいって、彼は奇人だ、とポール・ニューマンは証言する。ニューマンだけではない。すべての証言者が、ヒューストンの奇人ぶりを次から次へと証言してくれる。こんな楽しいアンソロジーは、めったにあるもんじゃない。
 ハワード・ホークスが時代の一歩先を行くモダンすぎる奇人だったとすれば、ヒューストンは全く正反対の大時代的な奇人だったようだ。ヘミングウェイを間に置くと、2人の対照が際立つ。3人の共通点は冒険家ということだ。
 父は映画監督ではなく、冒険家だった、と笑顔で語る息子ダニー・ヒューストンの言葉が、すべてを言い尽くしている。
 そう思うと、パパ・ジョンが脚本(遺作)を書き、ダニーが監督(デビュー作)をした『ミスター・ノース』のすばらしさに、改めて胸を打たれる。かつて冒険bを夢見た老富豪(ロバート・ミッチャム。このドキュメンタリーのホストも務めている)から、放浪の旅を続ける青年へと、冒険家の魂が受け継がれていくあの映画は、まさにジョンからダニーへの遺言だったのだろう。ここには『ザ・デッド』の暗さは、みじんもない。
 このドキュメンタリーも、ヒューストンが日本式の風呂に入っているふざけた場面で終わる。
 主な作品の名場面集、生前のヒューストンへのインタヴュー、画家志望だった彼が描いた油絵、反戦的として公開禁止になっていたヒューストン監督の第2次大戦ドキュメンタリー、監督人生の大半をすごしたアイルランドでのホームムービーなど、貴重な映像を満載。



      かわいい魔女ジニー (1)〜(3)  (1965-68年,米。各75分) 藤田真男

 『フェリスはある朝突然に』でM・ブロデリックがベリーダンスのマネをする。そのバックの音楽こそ『かわいい魔女ジニー』のテーマ曲。僕はああ懐かしいと思ったのだが、フェリスが観ていたのは実写版ではなく、のちのアニメ版(M・ハミルが声の出演)だったようだ。が、フェリスの妹の名がジニーだから、親子二代にわたるジニー・ファンらしい。それほどの人気長寿番組だ。とにかくジニーはかわいい。ラムちゃんはジニーのマネだと思う。

 

      メモリーズ・オブ・ハリウッド (1990年,米。55分)   藤田真男

 華やかなりしハリウッド黄金時代の思い出のアルバム。古い作品と未公開作が多いが、日本人にはかえって新鮮。と同時に奇妙に懐かしい。製作は前号紹介ポートレイト・オブ・アイルランド』のダン・モス。彼の父は超ベテラン編集マン。協力が『ザッツ・エンタテインメント』のジャック・ヘイリーJr。名場面、メイキング、予告篇集などのバックに新旧映画名曲を新録音。登場スターは『ザッツ〜』以上に多彩。画質最高。監修は野口久光!



      ステルス 究極のカモフラージュ  (53分)    藤田真男

 軍事オタクでない人が観ても充分に楽しめ、かつ勉強にもなってしまうドキュメンタリー。軍事研究の本場、英国BBC製作だから、そのへんのフィルムを寄せ集めたスーパーウェポンものとは格が違う。近代戦の歴史とともに発展してきた“だましのテクニック”を、徹底的に分析紹介。これが昆虫の擬態を捉えた自然科学ドキュメンタリーみたいに面白い。解説もユーモラス。ステルス爆撃機の先祖のナチの秘密兵器が現存しているのには驚いた。



      ワイルド・アパッチ (1972年,米。103分)  藤田真男

 『アパッチ』(1954年)を撮った時、アルドリッチもランカスターも、ハリウッド西部劇の限界を感じたはずだ。だから『ワイルド・アパッチ』を撮った。演出も撮影も音楽も旧ハリウッド調だ。にもかかわらず、この映画にはニューシネマの影が垣間見える。ニューシネマの極北ともいうべき『さすらいのカウボーイ』(ピーター・フォンダ監督・主演)を書いたスコットランド人アラン・シャープが『ワイルド・アパッチ』の脚本も書いている。
 ギャビン・ライアルの『深夜プラス1』を思わせるハードボイルド映画『ラスト・ラン』も『さすらいのカウボーイ』も『ワイルド・アパッチ』も、シャープの書いた主人公はみな、無意味とも思える旅の果てに犬死にする。
 逃亡した残虐なアパッチを追跡する騎兵隊。その先頭に立つスカウトのランカスターは、アパッチに対して何の憎しみも抱かない。といって同情の念も持っていない。そのことが、若い隊長には全く理解できない。ランカスターもあえて説明しない。隊長を演じるのが『いちご白書』『愛と死のエルサレム』のブルース・デービソン。ちょうど『北国の帝王』のリー・マービンとキース・キャラダインの対立(ホーボー対ヒッピー)と同じ図式である。だが、アルドリッチは単にニューシネマへのアンチテーゼを示そうとしたのではない。『さすらいのカウボーイ』がニューシネマの極北なら『ワイルド・アパッチ』は旧ハリウッド西部劇の極北であり、両者は合わせ鏡なのだ。もはや新旧の区別は意味がない。
 シャープは自作の小説についてこう書いた。
 「“個人”ー彼の真の本性と、世界やその他の事象に対する彼の関係とを、本物にしよう(リアライズ)と試みているようなーへの讃歌であり、この自己実現(セルフ・リアライゼーション)は、旅のようなものである」
 若い隊長も、ついにこの旅の意味とランカスターの心を少し理解する。傷ついたランカスターは、最期の一服を吸おうとして隊長に訊く。「タバコはまだ巻けないだろうな」「すみません」「いいさ、今に覚えるさ」−ここでグッと来ない人間は「お前には人間の心が分かっていないんだ」と、リー・マービンにどなられても仕方がない。
 隊長とわずかに生き残った隊員たちが去ったあと、ランカスターは最期の力をふりしぼってタバコを巻こうとする。そうすることで彼の自己実現のための旅は終わる。へんなたとえだが、市川雷蔵の『斬る』『剣鬼』に感動できる人なら『ワイルド・アパッチ』にも深い深い感動を覚えるはずだ。税込み3500円、安い!



      インディアン狩り  (1968年,米。100分)   藤田真男

 R・レッドフォード主演『大いなる勇者』は、ポラック監督の最高傑作だろう。その原型ともいえるのが『インディアン狩り』だ。
 題名とは裏腹に、実におおらかなウェスタン・コメディ。粗野な白人猟師とインテリ黒人奴隷とインディアンと盗賊たちが入り乱れての毛皮争奪戦。インディアンに頭の皮をはがされないようにと、初めから頭をツルツルにしているテリー・サバラス、女丈夫のシェリー・ウィンタースら助演陣も好演。

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 第2回 メビウスの新作アニメを見たい   (2002年8月)  『時の支配者』

 『千と千尋の神隠し』がベルリン映画祭グランプリを受賞したあとで、宮崎駿監督が「日本のアニメーションは質が高いとか、世界に進出しているなどというのは誤りだ。くだらないシメーションが大量に作られている」といった意味のことを、いつものように怒りながらNHKのニュース番組で語っていた。まったく、そのとおり。
 一方、押井守監督はテレビ東京のニュース番組で「アニメーション作りは宮大工の世界に近い。(海外進出よりも)もっと日本のマーケットを広げていかないと」と語っていた、これも、そのとおり。質の高さを維持しながら職業として成立させていくには宮大工のようにコツコツやるしかない。自動車や百円ショップを埋め尽くすガラクタのようにむやみに大量生産すべきものではない。
 高畑勲は宮崎駿の最大の功績は『となりのトトロ』だという。まったく同感。この名作のように時代も世代も超えて愛される質の高いアニメを、宮崎駿や高畑勲や押井守ぐらいの才能を持った人々が2、3年に1本ずつ作っていけば十分なのではないか。
 昨年、日本で初公開されたフランス製の長編アニメ『時の支配者』(1980)は『となりのトトロ』とはまったく異質の作品だが、これも大量生産では決して作れない、何十年たっても決して古びない名作だろう。公開を機にビデオが再発売されたので改めて紹介。
 両親を失い未開の惑星に取り遺された幼い少年。一方、少年を救助に向かう宇宙船の船長と友だちの老人。この両者の冒険を同時進行で描きながら、思索的、哲学的なテーマを子供の観客にもわかるように妖精コンビが説明する。時空の異変に巻き込まれた少年は記憶を失って過去の世界へ。同じ異変に巻き込まれて死んだ老人は、実は少年の未来の姿だった。彼らは互いに相手が自分自身だとも知らずにマイクで語り合っていたのだ。そしてラストに唐突に時の支配者が登場して人間たちの生と死をじっと見守る。時の支配者は時の流れをコントロールする能力を備えた風変りな宇宙人の一種だ。顔は田舎道の脇に立っている馬頭観音みたいで神のような威厳があるわけではない。もの言わぬ石のように、ただ立っているだけなのに画面にあふれる不思議な哀しみは何なのだろうか?
 このアニメは大変とっつきにくい。何度見てもとっつきにくいがのだが、何度見ても思わず涙ぐんでしまう。難解ではないが、こんな深いアニメを子供のために作ることに驚かされる。子供を子供扱いしない文明のなかから生まれたアニメなのだと思う。
 『時の支配者』の原画と共同脚本は漫画家のメビウス。何年か前に日本の週刊誌で見たメビウスの仕事場の壁には、なぜか吾妻ひでおの漫画本が何冊も大切に飾ってあって、へぇーっと思った。かの地の文明人と我々には、こんな意外な接点もあったのか。そういえば同じころ、メビウスが参加したフルCG長編アニメが作られるとかいうニュースが伝わっていたが、あれはどうなったんだろうか? もし完成しているのに未公開なのなら、どこかでビデオ化してくれませんか? ワンワン。


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 第12回 奇蹟のアメリカン・ニューシネマ   (2003年6月)  『さすらいのカウボーイ』

 「タイトルバックからね、もう詩情あふれる作品でしょ。一番すばらしいと思ったのは、最後にね、ピーター・フォンダがあっけなく殺されちゃうでしょ。そうすっとね、友達にね・・・・うn、そう! ウォーレン・オーツ。彼にね、抱いてくれよ・・・・って言うでしょ。そのときにね、もう男でも女でもない人間と人間のつながりみたいなものが迫ってきてね、終わってから席を立てなかったですね。ピーター・フォンダの死体を馬に積んで帰ってくるでしょ。そうすっと、女房がじっと待ってんのね。触れなば落ちんという風情で。その女房ごしにワンカットでずーっと撮ってんのね。パンしてくるわけね。そんとき女房は、死んだなってことがわかるんだけど、アップなんかにしないのね。ふたりが家の中へ入っていくのね。男友達と、その女房との生活が始まることを暗示して終わるわけね」
 これは1979年、女優の松尾嘉代に取材したときの映画談議の一部だ。彼女は立て板に水の巻き舌で『さすらいのカウボーイ』(1971)の記憶を克明に語ってくれた。語ることで記憶と感動を新たにしたくなる映画なのだ。
 「『さすらいのカウボーイ』の眼もあやな色彩や、奔放な編集は、ブルース・ベイリー率いる西海岸派の地下映画に通じる。メッセージもスローガンもありはしない。だが、眼もあやな色彩の淋しさち疲れとを、誰しもが感じることができる。この映画では色彩に人間の生命が宿っていることを銘記すべきだ」
 これは1972年、僕の知人が雑誌に投稿した批評の抜粋。地下映画とは当時の日本でアングラ映画と呼ばれていた実験映画だ。撮影監督ビルモス・ジグモンドが『ギャンブラー』(1971)『続・激突!カージャック』(1973)などでも試みた実験的な映像が『さすらいのカウボーイ』では全編に流れるように続く。
 「あの作品の脚本を書いたアラン・シャープはスコットランド人なんだ。彼の脚本はすばらしい作品だった。文学作品と呼んだっていいくらいにね」「ピーターはこの映画で、自分の落ち着く場所を求めて、家へ帰ろうとする男を描いた。家路をたどる男。『オデッセイ』のユリシーズのようにね」
 これは大久保賢一著『荒野より』(1981)から抜粋したウォーレン・オーツの言葉。シャープの脚本作品『ラスト・ラン』(1971)と『ワイルド・アパッチ』(1972)も、監督作品『トレジャーinメキシコ』(1985)も、すべて彼の言う「自己実現の旅」を描いた傑作だった。そして『さすらいのカウボーイ』は『2001年宇宙の旅』(スペース・オデッセイ)に匹敵するウェスタン・オデッセイなのだ。
 今回、初ビデオ化された『さすらいのカウボーイ ディレクターズカット版』(2001)は実は修復版だ。オリジナル版のいくつかの場面と驚異的な映像美は、残念ながら失われている。機械的な技術では完全な修復は不可能だったのだ。それは逆に考えれば、あの映画が比喩ではなく、人間の生命を宿していた証拠でもある。無機物のフィルムが生命を宿した奇蹟の映画だったのだ。そして、その生命が失われた今もなお、ピーター・フォンダ監督らが創造した精神は映画のなかに生きている。


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 第16回 キャプラのおとぎ話は深い   (2003年10月)  『毒薬と老嬢』

 フランク・キャプラは日本でいえば小津安二郎に匹敵する巨匠である。彼の代表作はあらかたビデオ化されたと思っていたが、まだ傑作が残っていた。キャプラには珍しい殺人コメディ『毒薬と老嬢』(1944)が出た。
 小津が生まれた1903年、6歳のキャプラは移民船でイタリアからアメリカへ渡った。自由と民主主義の新天地アメリカでは道路も黄金でできていると信じていたが、そうでないことはすぐに分かった。やがて、『或る夜の出来事』(1934)『オペラ・ハット』(1936)『我が家の楽園』(1938)でアカデミー監督賞を獲得。それらは民主主義のおとぎ話ともいうべき傑作喜劇だった。が、戦後、アメリカの繁栄に反比例してキャプラ映画の評価は急落し、『一日だけの淑女』(1933)を自らリメイクした『ポケット一杯の幸福』(1961)を最後に引退した。
 昔、高齢社会を扱ったNHKのドキュメンタリーに突然キャプラが登場して驚いた。悠々自適の老後を過ごす彼はアメリカでも忘れられかけていたのではなかろうか。
 1980年、キャプラ映画の名優ジェームズ・スチュアートがアメリカ映画協会永年功労賞を受賞した際に、ダスティン・ホフマンもステージに立った・彼がキャプラ映画を1本も見たことがないとスピーチすると、会場が大きくどよめいて「それでも映画人か、非国民め!」と、ブーイングでも起こりそうな気配だった。そのあとホフマンは、つい先日初めてキャプラ映画を見て感動した、と取ってつけたようなお世辞を述べて拍手を浴びた。
 その2年後、まだ元気だったキャプラが同じ永年功労賞を受賞。授賞式で会長が「キャプラコーン」という言葉を使うと会場がざわめいた。この言葉は一時期、キャプラ映画の蔑称として使われた。現実離れした子供だましのおとぎ話といった意味だろう。ホフマンも自分の主演作『卒業』(1967)が『或る夜の出来事』の現代版だとも知らずにキャプラ映画をバカにしていたに違いない。その9年後の1991年、キャプラは94歳で亡くなった。
 キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1947)は今や国民映画となり、『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』(1989)など多くの映画にも引用されている名作だ。劇中、人生に絶望して自殺をはかろうとしたジェームズ・スチュアートに、天使がスチュアートの生まれなかった別の世界を見せる。その悲惨な世界こそが、実は我々が住んでいる現実の世界なのだ。現実が悲惨だからこそ、キャプラは理想の世界を示してみせた。決して現実離れしたおとぎ話ではないのだ。だからこそ今でも人々を感動させる力を失わない。
 さて、『毒薬と老嬢』だが、これは典型的なスクリューボール・コメディで、このジャンルの最近の傑作『奇人たちの晩餐会』(1998)と同じように奇人変人たちの騒動を描いている。善良そのものの主人公ケーリー・グラントの一族は、実はメイフラワー号で新天地に渡ってくるなり、インディアンの頭の皮をはいだ先祖に始まって代々の殺人狂。アメリカが「自由」のために戦争しているさなか、こんな危ない映画を作ったキャプラの狙いは何だったのか、と考えながら大笑いしていただきたい。


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 第23回 宝物を掘り当てたような気分   (2004年5月)  『夏休みのレモネード』

 『ビューティフル・マインド』(2001)を見てロン・ハワードもやっと一人前の監督になれたか、と思ったものの、僕のアタマの中の彼は50歳のオッサンではなく、いまだに『アメリカン・グラフィティ』(1973)や『ラスト・シューティスト』(1976)の少年のままなのだ。最近の映画人に至っては名前も顔をほとんど知らないし、興味もない。ベン・アフレックとアフラックのアヒルの区別もつかない。
 というわけで予備知識もなく、期待もせずに見た『夏休みのレモネード』(2001)は、意外な傑作だった。脚本・監督はピート・ジョーンズ。デビュー作とは信じられない巧みな脚本・演出だ。製作はベン・アフレックとマット・ディモンとクリス・ムーア。彼らが新人発掘のために企画した脚本コンテストの応募作1万2000本のなかから選ばれた作品の映画化だという。そんな宝くじみたいな企画から、いきなりこんな大当たりが出たというのも信じられない。それだけアフレックたちに脚本と人を見る目があったのだろう。
 アフレックと幼なじみのディモンは『グッド・ウィル・ハンティング 旅立ち』(1997)の脚本(アカデミー賞受賞)を共同で執筆し、共演もして評判になったらしいが、僕は興味がないので見てなかった。で、今回ついでに見たら、20代なかばの彼らが、ともかく自分たちの作りたい映画を作ろうとする熱意には好感が持てたが、いかにも若書きの脚本だとも思った。脚本にも演出にも演技にも説明過多やユーモア不足が感じられた。助演のロビン・ウィリアムスの、媚と自身が少し鼻につく(だからアカデミー賞ももらえる)名演技も、あまり感心できない。
 といった欠点をすべて取り払ったのが『夏休みのレモネード』なのだ。
 1976年の夏のシカゴ。貧乏人の子だくさんのアイリッシュ・カトリックの家に育った小学生の少年が、ユダヤ教のラビのひとり息子と友だちになる。ユダヤ人の少年は白血病だが、死を恐れるほど現実を知らない。ユダヤ人の彼には天国がない。彼も天国へ行けるように、と主人公は友だちをカトリック」に改宗させようとする。白血病の少年が死ぬことは劇中の人々にも観客にも分かっているのに、それでも楽しく笑いながら見ることができる。
 父と兄の口論もアイリッシュならではの痛烈な皮肉の応酬だし、温和なラビも、たまにユダヤ人ならではの機知に富んだ言葉を口にする。そういうセリフひとつひとつが巧まざるユーモアを醸し、全編、非常に上質のジョークを聞いているように心地良い。
 父親役のアイダン・クライン、ラビ役のケビン・ポラック、カトリックの神父役のブライアン・デネヒーらの、少年たちに負けない自然な演技の素晴らしさ。地味なポラックは、前々からいい俳優だと思っていたが、今回は彼にぴったりの大役で代表作になるだろう。ロビン・ウィリアムスにはまねのできない本当の名演技だと思う。
 日本語字幕のていねいな翻訳もいい。訳者もきっとこの映画が大好きになり、セリフひとつひとつもおろそかにしたくなかったのだろう。そんな気持ちになる宝物のような映画なのだ。


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 第29回 ローグ、諸星大二郎、ブアマンをつなぐ<反文明>の魂   (2004年11月)

 カルトSF『地球に落ちて来た男』(1976)などで知られるニコラス・ローグ監督の日本デビュー作『美しき冒険旅行』(1971)は、その特異な映像美(撮影もローグ)で見る者を圧倒した傑作といわれる。が、名画座でもほとんど上映されず、僕にとっても幻のまま(いいかげんなTV放映を見たような気もするが)記憶の彼方へ消えかけていた。その幻の傑作が『WALKABOUT 美しき冒険旅行』と改題して今夏、32年ぶりに再公開され、パッケージも発売される。
 物語はきわめて単純。父親が突然自殺し、オーストラリアの砂漠に取り残された少女と弟が、文明社会との唯一の絆であるラジオを握りしめて砂漠を歩き続け、家に帰ろうとする。飢えと渇きで歩けなくなった姉弟が、原住民アボリジニの少年と出会う。彼は通過儀礼としての放浪の旅(これが英語題の意味)の途中だったが、言葉が通じない姉弟には知る由もない。姉弟は少年に助けられて開拓民の廃屋にたどり着く。そこで少年は全身に刺青のような化粧をして奇妙な踊りを踊り続ける。姉は恐怖におののくが、幼い弟は「未開人」に近いので恐れない。翌朝、求愛を拒否されたと思った少年は自殺していた。姉弟は文明社会への道をたどる。
 やがて結婚した姉は、弟とともにアボリジニの少年とエデンの園のような未開の楽園で裸で暮らす自分の姿を想像してみる。この哀しくも感動的なラストシーンを見て、僕は20年来の疑問が氷解する思いだった。このラストシーンこそが諸星大二郎の傑作『大いなる復活』のラストシーンの原型だったのか、と。
 塚本晋也監督『ヒルコ/妖怪ハンター』(1991)などの原作者である異色漫画家・諸星大二郎の神話的、縄文的なモチーフは宮崎駿にも少なからず影響を与えた。その諸星の代表作のひとつ『マッドメン』シリーズは1975年から81年にかけて描かれ、2冊の単行本『オンゴロの仮面』『大いなる復活』にまとめられた。諸星の漫画には以前からジョン・ブアマン監督の影響が見られたが、ブアマンの傑作『エメラルド・フォレスト』(1984)は逆に『大いなる復活』そっくりなので驚いた。テーマもラストシーンもそっくりなのだが、まさかブアマンが諸星漫画を読んだとは思えない。文化人類学的な知識と未開への関心、反文明など、同じ志向を持つ日英の両天才が偶然、あるいは必然的に同じ結論に達したのだろうと思っていたのだが、それだけではなかったようだ。『美しき冒険旅行』は諸星大二郎とブアマンに影響を与えたかもしれない傑作として僕の記憶に残る映画になった。きわめて個人的な感想だけで終わってしまってゴメン。

★43年ぶりに田坂具隆監督『はだかっ子』を見た。乱開発以前のトトロの森周辺の風景に感動。


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 第37回 ケルト人ショーン・コネリーの逆襲と英連合王国の崩壊  (2005年9月)

 ヨーロッパの歴史を書き換えたともいえる英国BBCの革命的TVドキュメンタリー『The Celts 幻の民 ケルト人』がDVD化される。NHK教育での6回にわたる放送のほとんどを見逃して以来、僕はこの日の来るのを16年間待ち続けていた。
 この番組は、古代ローマではなくケルトこそがヨーロッパ文明のルーツだと広く世に知らしめた。数十万の戦士がローマ軍やゲルマン軍と闘ったケルトの興亡史は、ヘタな史劇やファンタジーをしのぐ面白さだが、この番組は単に壮大な歴史ドキュメンタリーではない。

 ケルトの遺産は現代の文学、音楽、映画などにも、さまざまなかたちで受け継がれている。例えばジーン・ケリーのミュージカル映画はケルトのダンスを連想させる。この番組のサントラ・アルバムでデビューしたアイルランドの歌姫エンヤもケルトの血を引いている(DVDの特典には彼女のインタビューなども収録)。この番組にはケルトの伝説の王アーサーゆかりの地や、映画『マイケル・コリンズ』(1996)のゆかりの地や、TVシリーズ『プリズナーNo.6』(1967)のロケ地や、『風と共に去りぬ』(1939)にその名を受け継がれたアイルランドの聖地タラの丘なども紹介されている。あの『プリズナーNo.6』が、自由を求めるケルトの叫びだったとは。
 番組の終盤はケルトの末裔の運命を追う。ヨーロッパの西の果てに追いやられ、大西洋にこぼれ落ち、新大陸に流れ着いたケルトの末裔の多くが、今は古都ボストンの寂れた共同墓地に眠っている。そこは『ミスティック・リバー』(2003)の川向うの貧民街なのだ。あの映画の中にも2500年に及ぶケルトの血と涙の歴史が流れている。ちなみに悪役のショーン・ペンの刺青はケルト十字架であった。
 イングランドのケルト(アイルランド、スコットランド、ウェールズ)に対する弾圧と支配の歴史を詳細に伝え、IRAのテロは否定しながらも自由を求めるケルトの戦士の末裔としてのIRAの存在を認めた点で、この番組の政治的影響は大きかっただろう。かつて女王陛下のスパイ007を演じたショーン・コネリーの腕には愛国心を示す刺青があり、映画の中でもその刺青を隠そうとしない。我が愛する祖国はイングランドではなくスコットランドだ。数年前、スコットランドに独自の議会が復活した日、すなわち連合王国(英国)が崩壊した日、コネリーは議場で誇らしげに演説をした、今やケルトの民は幻ではなくなった。EU(ヨーロッパ連合)を古代ケルトの部族国家の復活と考えるのは空想が過ぎるが、そう考えるのも楽しい。

★CSでは、あらゆるテーマのドキュメンタリー番組が見られるが、いちいち驚きながら、次々と忘れてしまう。


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 第40回 戦争映画の常識を打ち破った史上最高の戦争映画が甦る   (2005年12月)

 昨年初め、ある雑誌での「欲しいDVDソフト」というアンケートの回答に、僕は「『最前線物語』
 *時間ぐらいのフィルムがあるそうなので、未編集でもいいからカットされた場面をすべて見てみたい」と書いた。
 が、それは夢のまた夢だと思っていた。その永遠に叶うはずのない夢を叶えてくれた『最前線物語 ザ・リコンストラクション』は今年最大の、というよりDVDの歴史始まって以来の大事件だといっても大げさではない。
 リー・マーヴィン、マーク・ハミル主演『最前線物語』(1980)は、第二次大戦中にアメリカ陸軍の一兵士として北アフリカ、イタリア、フランス、ベルギー、ドイツと転戦し、チェコスロバキアでユダヤ人強制収容所の解放に立ち会ったサミュエル・フラー監督(1912〜1997)の自伝的戦争映画である。そこに描かれたものは、ゴダール監督『気狂いピエロ』(1965)に特別出演したフラーの「映画とは戦場のようなものだ。それは愛、憎しみ、アクション、暴力、死、ひと言で言ってエモーションだ」という名セリフそのままに、映画の常識を覆した思いもよらぬ演出による破天荒な悲喜劇が突発する、戦争映画の枠を超えた戦争映画の最高傑作だった。なにしろフラーは撮影開始の合図に「アクション!」と叫ぶ代わりに拳銃をぶっ放すような監督であり、あらゆる常識を逸脱し、あらゆるタブーに挑んできた彼の映画作りの集大成ともいえる傑作が『最前線物語』だったのだ。
 この映画は公開当時、観客の度肝を抜き、批評家からも絶賛されたが、フラーには編集権がなく、彼の思い通りの作品にはならなかった。そこでフラーの遺志を受け継いだ映画批評家のリチャード・シッケルがプロデューサーとなって完成させたのが、今回のリコンストラクション(再構築)版である。失われたフィルムを発掘し、ほぼ完壁にデジタル修復し、役1時間分を追加再編集してフラーの意図に限りなく近づけたもので、そこに注がれたスタッフの情熱や労力は、並みのディレクターズ・カット版や修復版よりもはるかに大きく尊い。アメリカ映画の偉大な遺産のひとつを蘇らせたスタッフに対して心からの感謝と敬意を表したい。誰が見ても感動し、何度見ても面白い。この大傑作がわずか1500円。10月28日までの期間限定出荷。すべてのレンタル店で在庫してほしい。
 なお、既発売のセル用DVD『最前線物語 ザ・リコンストラクション スペシャル・エディション』の特典映像も驚くほど充実した内容なので、興味のある方は、こちらも必見。

★どうも関東大震災前に似た状況らしく、半年以内に大地震が起こるという学者もいる。これで日本もオシマイか。


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 第42回 波乱万丈、疾風怒涛、血沸き肉躍るホンモノの大冒険映画   (2006年2月)

 毎回のように最高傑作を連発しては、おす○の絶叫誇大宣伝みたいでナンだが、今回の『王になろうとした男』も史上最高のボ受けねいがのひとつに間違いないので、ここは信用していただきたい。
 これは孤高の監督ジョン・ヒューストンが、クラーク・ゲーブルとハンフリー・ボガート主演での映画化を果たせず、晩年になって撮り上げた畢生の傑作なのだ。原作は冒険映画の名作『ガンガ・ディン』(1939)『ジャングル・ブック』(1942)などの原作者で、インド生まれの英国人作家キプリング。主演はショーン・コネリーとマイケル・ケイン、キプリング役でクリストファー・プラマーが共演。理想的な配役だ。
 ヒューストンの人生が、いかに破天荒なものであったかは、彼をモデルにしたクリント・イーストウッドの『ホワイトハンター。ブラックハート』(1990)を見てもわかる。そのヒューストンが自らの夢を託した『王になろうとした男』も、破天荒な冒険映画である。
 19世紀末のインド。秘密結社フリーメイソンの会員である山師風のふたりの退役英国軍人がメイソン会員で新聞記者のキプリングと出会い、浮世離れした夢を語る。「この世は生きるに値しない」と語りながら、ふたりはアフガニスタン奥地のカイバル峠を越えて未知の秘境へとたどり着き、抗争をつづける部族をイモヅル式に次々と征服し、アレクサンダーU世として神殿に迎えられ、2300年前にアレクサンダー大王が残した財宝を手に入れようと企む。
 アレヨアレヨと見る者を地の果てまで引っ張っていくパワーとユーモア。あっけにとられるほど気宇壮大で誇大妄想的な物語だが、舞台となる地域にはアレクサンダー大王の軍隊だか古代ローマ軍の末裔といわれる金髪の混血児が住む村が実在していて、妄想と歴史の境目も定かでない秘境が存在するほどに、まだ世界は広い。この虚実皮膜の大冒険は、わが家の旧式TVで見ても、もちろん面白いのだが、できれば大画面の高画質ワイドTVで見てみたい。
 今月の新作では、にっかつロマンポルノが生んだ快作『ピンクヒップガール 桃尻娘』(1978)もオススメ。シリーズ第3作はTVアニメ『あたしンち』の初期傑作に通じる楽しさで、これもぜひDVD化を! 竹田かほりの相棒のオツムの弱い女子高生を演じた亜湖は、その後、英会話をマスターしてイーサン・ホーク、工藤夕貴主演『ヒマラヤ杉に降る雪』(1999)で日系人のオバサンを演じた、のかどうか、誰に聞いても知らないというのだが、あの独特の狐目は亜湖ちゃんとしか思えない。

★天才ギャグ漫画家・吾妻ひでおが沈黙の10年間のホームレス、アル中体験を描いた新刊『失踪日記』はスゴイ!


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 第49回 世界を滅ぼす怪物企業に戦いを挑む壮大なドキュメンタリー   (2006年7月)

 今、世界は破滅の淵に立たされている。破滅をもたらすのは巨大化した企業だ。米国には毎月の売り上げが10兆円を超す企業もある。ノンキな日本がライブドアだの耐震偽装だので空騒ぎをしている間にも、世界は確実に破滅の淵へと突き進んでいる。
 『ザ・コーポレーション』は、この戦慄すべき事実を多角的に検証し、企業犯罪を裁く大作ドキュメンタリーだ。映画監督マイケル・ムーアを筆頭とする反企業活動家や学者のほか、悪徳企業の幹部や御用学者も登場するが、彼ら被告側証人の偽証、欺瞞はたちまち反証される。作中の個々の企業犯罪の実例の中には、日本では知られていない事件(世界有数の公害企業シェル・ナイジェリアに反対した活動家6人が処刑された。モンサント社の企業犯罪隠ぺいに加担したFOXテレビを番組制作者が訴えたが逆転敗訴した、等々)もあるが、それが企業やマスコミの最低限のモラルばかりか司法制度の崩壊をも示す事態であること、また氷山の一角であることも想像がつく。
 例えば「2025年までに世界の人口の3分の2が飲み水を失う」という予測がある。地球上の水資源(その総量は極めて少ない)の独占は既に始まっている。その手口は世界銀行(日本も出資。地球規模の地上げと乱開発の元締め)がアメとムチで各国政府や自治体を買収し、引き換えに企業が公営水道事業を乗っ取るといったものだ。雨水さえも企業が独占できる。映画の字幕では「民営化」と訳してあるが、正しくは「私有化」「私物化」だろう。「地球を私物化してもいいのか」という作者の問いに対して、ある御用学者は開き直って反論するが、その傲慢さには唖然とさせられる。私物化は今や微生物や遺伝子にまで及び、「地球の私物化」も決して誇張や比喩ではないのだ。
 作者は、法律上は人と同じ権利と義務を持つ法人たる企業の罪状(奴隷的労働、環境汚染、等々)を挙げ、その「人格」を鑑定し、現代の企業はサイコパス(精神異常者)だと判決を下す。この映画は狂人の手から世界を奪い返そうとすつ人々の、地球の命運をかけた戦いの報告でもある。その戦列には未来に対する自らの責任に目覚めた大企業の経営者も加わっている。こんな知的で高潔な経営者も実在する。多数の死傷者を出しながら米国企業の手から水道を奪還した純朴で勇敢なボリビア市民の「子供たちの未来はとても暗い。だが、私は民衆の怒りと叛乱を信じている」という言葉も感動的だ。『指輪物語』の小さな英雄たちのような人々もまた実在する。世界は変えられるのかもしれない。

★「道」とか「愛」とか標語入り日の丸ステッカーを付けた旧道路公団の手先らしい土建屋の車の横行が不愉快。


藤田真男のここ掘れワンワン

 第52回 戦争の宣伝をするぐらいなら銃殺されるほうがましだ!   (2006年10月)

 昨年、「セールスマンの死」などの劇作家アーサー・ミラーが憤死した。9・11テロ以後のアメリカのファッショ化に激しい憤りを感じていた彼の死は、まさに憤死だった。高齢の彼が自作の戯曲を自ら脚色して『クルーシブル』(1996)の映画化(ミラーの息子が製作し、ダニエル・ディ・ルイスとウイノナ・ライダーが主演)に関わったのも、草の根ファシズムの再来を予感してのことだったのだろうか。
 『クルーシブル』の原作は、独立前のアメリカで起こった中世さながらの魔女狩りを題材にして、1950年代のヒステリックな赤狩り(共産主義者狩り)を批判した戯曲である。魔女狩りも赤狩りも草の根ファシズムの典型といえる。自由、平等を唱えた独立戦争でさえ、草の根ファシズムの噴出だった。ヒトラーのように狂信的な扇動家が独立を主張するまで、その必要を感じるアメリカ人など皆無だったのだ。たったひとりの扇動家が草の根ファシズムを噴出させたという点で、独立戦争も赤狩りも同じ根を持っている。アメリカのファシズムは火山のように噴出を繰り返してきた。が、その一方で、ミラーのようにファシズムと闘い続けた人々もいる。ミラーや当時の彼の妻マリリン・モンローとともに『荒馬と女』(1961)を作った異端の巨匠ジョン・ヒューストンも、そのひとりだ。
 その彼が赤狩りの真っ只中に監督した幻の傑作『勇者の赤いバッヂ』(1951)が、ついにレンタルDVD化される。南北戦争中、恐怖心から脱走しかけた兵士が前線に戻り、「無知ゆえに」前線に残った仲間たちの先頭に立って英雄になるまでを、苦いタッチで描いた映画だ。内容も題名も、赤狩りの最中にあっては、際どいものだったろう。
 主演は第2次大戦の英雄オーディ・マーフィ。共演のビル・モールディンは戦時中に人気のあった風刺漫画家で、イタリア戦線でヒューストンと出会った。ヒューストンはそこで2本の記録映画を撮り、1本はかろうじて公開されたが、もう1本の『光あれ』は1980年まで上映を禁止されていた。最前線の兵士たちが恐怖心で心身に異常をきたした様子を冷
徹に記録した映画だった。当時、ヒューストンはモールディンに対して「戦争の宣伝をするぐらいなら銃殺されるほうがましだ!」と語ったという。
 9・11テロ以後、アメリカでは軍隊や国家を批判する映画の製作は、ますます困難になっている。それでもフィル・テイペット監督『スターシップ・トルゥーパーズ2』(2003)のような傑作がまだ作られている。ミラーやヒューストン、そして彼らの後継者たちの勇気に敬意を表する。

★キングレコードからいただいた『名犬ラッシー』DVD-BOXは『となりのトトロ』に匹敵する予想外の傑作!


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 第53回 日仏アニメーションの半世紀にわたる交流の結晶   (2006年11月)

 かつて高畑勲、宮崎駿らに多大な影響を与えたフランス初の長編アニメにして故ポール・グリモー監督の代表作でもある『やぶにらみの暴君』(1953)は、長い年月をかけてグリモーが本来意図した通りの作品として改作、完成された。その完成版『王と鳥』(1980)が今夏、高畑勲の翻訳、スタジオジブリの提供で、ついに日本初公開された。公開に先立ち、同名の本も出た。その著者のひとり、叶精二がグリモー監督の息子アランに取材した際に、アランは「高畑の作品には父の作品と同じ空気が流れている。まるで父の続きを見ているようだ」と熱っぽく語ったという。
 フランスにも高畑作品を愛する人たちがいるのは嬉しい。が、そもそも、日本のアニメがディズニーの亜流にならずにすんだのはグリモーのおかげなのだから、高畑がグリモーと彼のj後継者たちに敬意を表するのも当然だろう。高畑によると翻訳と吹替版演出、ジブリ提供、アルバトロス配給で公開された『キリクと魔女』(1998)のミッシェル・オスロ監督はグリモーの後継者のひとりといえるが、彼も高畑の大ファンで、全作を見ているという。
 そのオスロ監督の日本未公開作品『キリクと魔女2』が発売される。キリクは一寸法師みたいなアフリカの小さな英雄だが、前作の最後でたちまち逞しい青年になり、人間に戻った魔女と結ばれた。めでたし、めでたし。で、第2作はその続編ではなく、赤ん坊のままのキリクの活躍を描いた4話オムニバス。前作ともつながっているので、ぜひ前作と併せてユーザーに薦めてほしい。
 前作同様、そこに描かれたカラフルな動植物や風景のすべてが、額に入れて飾っておきたいほど美しい。特に雪をかぶったキリマンジャロが雄大な山容を表した瞬間には思わずハッとした。それは、富士山を映像で見ても別に何とも感じないのに、実物を見た途端に思わずハッとするのに似た不思議な感覚なのだ。絵にも描けない美しさが、絵に描かれている。これは実にタイヘンなことだ。前述べの本で高畑は『やぶにらみの暴君』を見たときに感じた「映像としての絵の力」に言及している。アニメーションを(実写のなぞりではない)アニメーションたらしめている絵の力を持った作品は、残念ながら多くない。『キリクと魔女』シリーズは、その絵の力を宿した希有な作品であり、子供も大人も楽しめる傑作だと思う。
 子供も大人も楽しめるジョ・ダンテ監督のSF喜劇『エクスプロラーズ』(パラマウント)も紹介したかったが、字数が尽きた。以下次号。

★窓の外の木の周りを金属光沢のタマムシが飛び回っている。東京にもまだタマムシがいるとは嬉しい。


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 第54回 幻の『エクスプローラーズ』はパロディ版『2001年宇宙の旅』  (2006年12月)

 近所の建売住宅に「○○宇宙実験室」という表札がかかっていて、車庫には一辺1mほどの立方体のガラクタが置いてある。軽量鉄骨製の骨組みの中心に据えられたキカイには「第五次元探査装置」と書かれていて、時々、この家の主らしい○○老人と数人のオッサン8たちがキカイを動かしている。先日はキカイのそばの植木鉢をビデオで撮影しながら、オッサンのひとりが老人に質問をしていた。どうやら、完全に枯れていた鉢植えの花が、いつの間にか生き返ったらしい。まるで『E.T.』だね。
 世界の科学者が10次元とか11次元の研究をしてるんだから、素人のオッサンたちが5次元の研究ぐらいしても悪くはないけれど、世間がそう思うとは限らない。僕だって、いい年してバカみたい、と思わないでもない。が、もしも。このガラクタで宇宙の謎と神秘が解明できたとしたら、ケッサクだとは思う。
 そういうふうにケッサクなSF喜劇が、ジョー・ダンテ監督『エクスプロラーズ』だ。ただし、主役はオッサンではなく宇宙に憧れる3人の少年。演じるのは今や大人のスターになったイーサン・ホークと、若くして死んだリバー・フェニックスと、無名のフツウの少年。彼らは夢(実は宇宙人からの通信)で見た回路をパソコンに組み込み、ガラクタを集めて宇宙船を作り、冒険の旅に出発する。彼らを見守るオッサンの存在も好ましく、これはオトナのファンタジーでもある。
 珍妙な宇宙人と遭遇し、宇宙船をオシャカにしながらも無事に帰還したイーサン・ホークが教室にいると、いつの間にか無人になった教室に失われた手作り宇宙船が出現する。この教室のシーンは日本公開版でも従来のビデオやTV放映でもカットされていたが、アメリカ版にそういうシーンがあることは、雑誌で読んで前から知っていた。このシーンを見たいがために僕はTV放映を何度もチェックし(映画そのものは何度見ても楽しいのだが)、その度にガックリしていた。わずか1分足らずとはいえ、この幻のシーンを今回のDVDでついに見られただけでも大満足。このシーンを見て初めて、この映画が『2001年宇宙の旅』の巧妙なパロディだと気づくSFファンも多いはず。手作り宇宙船のデザインも『2001年宇宙の旅』の小型宇宙船そっくりだ。子供だましではない、こんなに楽しい映画を軽々と撮ってしまうダンテの才能はスピルバーグ以上だろう。DVDの解く特典映像の追加シーンにも期待していたのだが、これは日本公開版と日本版ビデオには初めからあったシーンだった。日本版の方が得することもあるんだね。

★ジョン・ヒューストン監督の痛快な自伝(死後、19年目についに邦訳)を読んだら前々号の拙文に誤りが・・・ゴメン。



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 第55回 70年代SFの女王ル=グインと宮崎駿、押井守、吾妻ひでお  (2007年1月)

 『レイス・オブ・ヘブン-天のろくろ』(2001)を見た後、図書館で2006年春に復刊された原作『天のろくろ』を見つけた。同じル=グゥイン原作の『ゲド戦記』(2006)の大ヒットを当て込んでの復刊だろうが、それにしても出版不況の中、よくぞ出してくれたものだ。発行元のブッキングという会社は楽天と共同で「復刊ドット・コム」というサイトを経営していて、絶版本の復刊を望む一定数の投票が集まったところで版元と予約交渉し、購入予約を募ってから復刊するというシステムなのだそうだ。ベストセラーにはならないだろうが、返本の山ができるリスクもない。同じ方法で廃版ビデオをDVD化したり、レンタル店が会員のリクエストと予約でマイナーな旧作の仕入をするシステムなんかがあると嬉しい。
 それはともかく、日本にも『ゲド戦記』以外のル=グゥイン作品の愛読者が少なからずいることは間違いない。押井守も、そのひとりらしい。押井守の傑作長編アニメ『うる星やつら2ビューティフル・ドリーマー』(1984)の原型ともいえるTV版『うる星やつら』第99話『みじめ!愛とさすらいの母!?』(1983))の元ネタが、ル=グゥインの『天のろくろ』であったことに、今回の『レイス・オブ・ヘブン-天のろくろ-』を見て遅まきながら気がついた。宮崎駿が『ゲド戦記』を何度も読み返し、その強い影響を受けたであろうSF漫画『風の谷のナウシカ』を描き始めていた頃、押井守は同じル=グゥィンの『天のろくろ』を早々とパロディ化していたのであった。ちなみに吾妻ひでおが古今東西のSFをネタにしたパロディ漫画の傑作『不条理日記』の第1話にル=グゥインの『闇の左手』の完壁なパロディ版を描いたのは、さらに早い1978年のことで、この漫画の中で彼は将来、自分がアル中になることまで予見していたのであった。
 もひとつ気づいたのだが、『天のろくろ』はナチズムを予感したといわれるドイツ映画の古典『カリガリ博士』(1919)によく似ている。夢を現実に変える力を持つ主人公の青年は『カリガリ博士』の「眠り男」の分身のようであり、青年に夢を見させて世界を操ろうとする精神科医は、カリガリ博士の分身のようである。
 予算不足のせいか、『レイス・オブ・ヘブン』の後半が原作のダイジェストに終わったのは残念だが、原作のエッセンスを損なわずに『ガタカ』(1997)にも似た暗くスタイリッシュな画面に仕上げた演出は、フィリップ・K・ディック原作の一連の凡作SFよりも、はるかに上出来。今月の新作では未公開の韓国映画『ウェディング・キャンペーン』(SPE)も、なかなか面白かったが、字数が尽きたので以下次号。

★吾妻ひでおの待望の新刊『うつうつひでお日記』を読む。うつ、心因性腰痛にはサーノ博士の本を読めば効くのに。


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 第57回 東映動画やディズニーのスタッフを唸らせた歴史的大傑作   (2007年3月)

 昨年11月号の『キリクと魔女2』の紹介文中で少し触れた故ポール・グリモー監督の長編アニメ『王と鳥』(1980)が、高畑勲監督による日本語字幕翻訳で、ついに発売される。
 『王と鳥』の前身である『やぶにらみの暴君』(1953)が宮崎駿ら東映動画の若手スタッフに与えた影響の大きさは、例えば『王と鳥 スタジオジブリの原点』(大月書店)に掲載された作画監督・大塚康生の絵を見ただけでも容易に察しがつく。それは東映動画時代に大塚が『やぶにらみの暴君』のフィルムを模写した絵だが、ホンモノのセル画に迫るほどの出来ばえなのだ。高畑も文字や楽譜で映画の再現を試みたという。この映画の持つ影響力は何十年たっても少しも衰えてはいない。前記の本での大塚証言によると、彼が高畑、宮崎らと参加した日米合作アニメ『ニモ』(1989)の制作中、日本側製作者がアメリカ人スタッフ(のちにディズニー・アニメの監督になったりした人々)に『やぶにらみの暴君』の仏語版ビデオを見せたところ、彼らは「こんな映画があったのか!」「日本人はこの映画をみんな見たのか」と、びっくりし、腕組みして考え込み、うつむいてしまったという。
 グリモー監督がジャック・プレヴェール(脚本家、詩人。「枯葉」の作詞者)とともにフランス初の長編アニメ『やぶにらみの暴君』に着手したのは1947年。53年に未完成のまま製作者の手で一般公開。内外で高い評価を得たが、グリモーは長い法廷闘争の末に映画の権利とネガを取り戻して改作に着手。80年に『王と鳥』と改題して公開。85年、第1回広島アニメフェスティバルにグリモーが名誉会長として来日し、『王様と鳥』の邦題で日本初上映。が、既に『やぶにらみの暴君』を見ていた多くのファンは、この改作に首をひねった。ほぼ同時に『王様と幸運の鳥』と題したVHSが発売され、僕はこれを見たのだが、日本語吹替版はともかくとして、その画質の悪さのみが目につき、『やぶにらみの暴君』の変わり果てた姿に失望せざるを得なかった。2000年に高畑の字幕翻訳でDVD『王と鳥』が出たときも、ほとんど注目されず、僕もあえて見ようとは思わなかった。
 が、昨年、高畑の粘りでついに日本初公開され、今回のDVD発売に至る。製作開始から60年、初めて完全なかたちの『王と鳥』を見た僕は、デジタル修復されたプリントの鮮明な美しさに目を瞠った。そして暴君の城(宮崎駿監督『ルパン三世/カリオストロの城』のモデル)を破壊した巨大ロボットが、ロダンの「考える人」と同じポーズをとって沈思黙考するラストの意味に今頃気づいた自分を恥じるばかりだ。
 
★伊豆や駿河へ山歩きに行く度に親切な原住民からミカンをもらう。静岡以外ではこういう経験はない。不思議。


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 第59回 フィリップ・K・ディックとウィノナ・ライダーの意外な関係     (2007年5月)

 3年前、このコラムでリチャード・リンクレイター監督の実験アニメ『ウェイキング・ライフ』(2001)を取り上げ、結びにこう書いた。
 「この映画は、いわばデイックの小説を映画化するための創作ノートみたいな作品なのかもしれない。ディックの映画化作品は『ブレードランナー』から『マイノリティ・リポート』まで、どれも成功したとはいえないものばかりだが、いつの日かリンクレイター監督が『アンドロイドは電気羊の夢をを見るか?』や『ユービック』を完ぺきに映画化してくれることを期待したい」
 その期待は叶えられた。ただし、リンクレイターが映画化したのはディック晩年の私小説的な近未来小説『スキャナー・ダークリー』だった。発表から5年後の1982年に53歳で死んだディックが、生前、最高傑作と自負していた作品だが、彼のsf小説のファンにとっては評価が分かれる作品でもある。
 『スキャナー・ダークリー』は自在に姿を変えられる麻薬捜査官(キアヌ・リーブス)が、自堕落な生活を送るヤク中の友人たちを監視しながら自らも麻薬に溺れていくという物語で、『ウェイキング・ライフ』と同じく実写フィルムを手作業でデジタル・アニメ化した映画だ。
 ラストには、麻薬に溺れて死んだディックの仲間のリストが出るが、そこには「私の母の名前もある」と、DVDのメイキングと音声解説に出演したディックの娘は語る。メイキングにはディックの貴重なインタビュー・フィルムも収録されていて、そこで彼は、小説と同じように政府に監視されていたと語っているが、実はそれは彼の妄想だったという。これはSFというよりは、つげ義春の妄想をまじえた私小説漫画や、吾妻ひでおのホームレス、アル中体験を描いた実録漫画『失踪日記』などに通じる作品かもしれず、同じような訴求力を持つ。
 ディックの妄想は9・11テロ以後のファッショ化した社会で現実となった。メイキングの中で監督は「口には出せないが、今の社会も似たような雰囲気がある」と語り、製作者は「企画当初よりもひどくなっている」と語る。
 共演のウィノナ・ライダーの名付け親はヒッピーの思想的指導者で、ディックの友人でもあった。ヒッピーのコミューンで育ったライダーは、引っ越し先の田舎町(『アメリカン・グラフィティ』のロケ地)で迫害され、頭を割らたり肋骨を折られたりしたという。出演作『シザーハンズ』や『クルーシブル』に描かれたような閉鎖社会、草の根ファシズムを少女時代に身をもって体験した彼女が、『スキャナー・ダークリー』に強い共感を覚えるのも当然だろう。

 ★昨年、全国で5000頭近い熊が殺された。もはや合法的な密猟。韓国では日本産クマノイは純金よりも高価だとか。


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 第60回 アルプスの氷河に眠るインドの女王が生んだ独創的傑作   (2007年6月)

 『アルプスの少年-ぼくの願い事-』は未公開の劇映画としては久々の傑作だ。僕が見た仏映画としては『奇人たちの晩餐会』(1998)以来の傑作で、公開されれば『クリクリのいた夏』(1999)よりも高く評価されたかもしれない。以上3本とも、『愛と哀しみのボレロ』(1961)の頃からジョン・ベルーシ似のコメディアンとして僕が注目してきたジャック・ヴィルレが、仏映画を背負って立つ名優になった晩年(2005年、53歳で死去)の出演作だ。
 前号p.156『アルプスの少年』の広告の邦題ロゴに4発プロペラ機の絵があしらってある。翼を広げた白鳥のように優美な流線型の機体、3枚の垂直尾翼を持つユニークなデザインのこの旅客機は「空の貴婦人」と呼ばれた傑作機、ロッキード・コンステレーションだ。劇中のコンステレーションは「マラバル・プリンセス」という名で、これが映画の原題でもある。半世紀前の飛行機、少年と祖父、周囲の人々が何本もの縦糸、横糸となり、ひとつの物語を織りなしていく技は、単純だが巧みである。
 開巻、ボロボロに疲れ果てた男が氷河を下って山小屋にたどりつく。ジャック・ヴィルレが「ソフィはどうした!?」と叫ぶ。幼い少年がドアの外を見つめて立ちつくす。5年後、少年は父の運転する新幹線TGVと登山鉄道を乗り継いてフランス・アルプスの麓にやって来て、再会した祖父ヴィルレの山小屋に預けられる。5年前、山d絵死んだソフィは祖父の娘で、少年の母だったのだが、少年には事件の記憶はなく、今も母の死を理解できない。しかも少年は失読症だ。祖父の知人の村人が氷河で見つけたインド女性の足を持ってきて自慢する。彼は子供の頃に墜落したインド航空機に財宝が眠っていると信じて氷河で発掘を続けているのだ。
 あれ?エドワード・ドミトリク監督、スペンサー・トレイシー、ロバート・ワグナー主演の山岳映画の名作『山』(1956)にも同じ話があったけど実話なのか? 調べてみたら1950年、吹雪の中を飛んでいたジュネーブ行きインド航空機「マラバル・プリンセス」がアルプス最高峰、モンブラン山頂の下に墜落したのは事実で、ハリウッド映画の題材になるほどの大事件だったらしい。その機体や遺体が半世紀を経て氷河を流れ下ってきた、という映画を作る監督が現れようとは思いもよらなかった。予測のつかない展開は山岳映画としても児童映画としても独創的で、どのジャンルにも分類できないところが魅力的。ヘタなリメイクやマンガの映画化に明け暮れる日米の映画人も少しは見習ってほしい。

★山梨と茨城の低山で捨て犬を見た。1頭は縛られていた。家電の不法投棄と同じく処分費用が惜しくて「犬捨山」へ車で捨てに来るのだ。いじわる爺さんにみたいにバチが当たれ!


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 第61回 ノルシュテインがロシア小咄に託した人生とアニメの真髄   (2007年7月)

 三鷹の森ジブリ美術記念館配給によるアレクサドル・ペトロフ監督の新作『春のめざめ』(2006)がDVD化される。アカデミー賞を受賞した短編アニメ『老人と海』(1999)がNHKで放映された際にメイキング映像も見たので、ペトロフの技法については既に知っていたし、技法自体も古くからあるものだが、それでも新作を見て改めて驚かされた。今回のメイキング映像でも、ガラス板の上を動き回るペトロフの指先から、本当に生きているような人物像が生まれる(絵筆は補助的に使う程度で、ほとんど指先だけで緻密な油絵を描く)様を見ていると、まるで魔法化奇跡のように思えてくるのだ。
 本編の舞台は19世紀末、革命前のロシア。16歳の少年の初恋が印象派絵画、特にルノワールのタッチと色彩で描かれる。さまざまなイメージが流れるように千変万化する夢と妄想のシーンはシャガールの絵のように幻想的。そのはかない美しさを言葉では説明できない。
 メイキングでのインタビューの結びに、ペトロフは自身にとってのアニメーションについて語る。乱暴に要約すれば、現実の世界とは違って妥協せずに生きていけるのが芸術や創作の世界。それも簡単ではないが、現実の世界から自由でいるための手段がアニメーションなのだと彼は言う。そして最後に彼は「もっと何か大事なことを言い忘れてるな」と言って、はにかんだように笑う。これほど真しに自身と自作について語る監督は見たことがない。メイキングにはロシア。アニメの巨匠でペトロフの師匠にあたるユーリ・ノルシュテインとの対話も収録。ノルシュテインが、いつ完成するかも知れない『外套』を20年以上も作り続けているのも、自由を求め、妥協せずに生きるためだろうか。
 余談だが、ジブリ美術館のガイドDVDに出演したノルシュテインは、高畑勲監督との対話の最後にロシアの小咄を引用する。おばさんたちが「今日はなんていい天気なんでしょう。昨日、死んだ人は損したわね」と話し合っているという小咄だったと思うが、、なんだか深い。
 今月はもう1本、ラッセ・ハルストレム監督の未公開作『アンフィニッシュ・ライフ』(2005・ジェネオン)も、なかなかよかった。息子を失い親友の黒人カウボーイと暮らすロバート・レッドフォードの牧場へ、暴力的な恋人に追われる義理の娘と孫娘が逃れてきて、家族が再生するまでの物語。さっきのロシア小咄にも通じるシャレたオチが爽やかな余韻を残す。
 字数がないので次号で改めて紹介するけど、未公開の英国映画『宇宙人の解剖 特別版』(2006?WHV)も近来にない実録喜劇の傑作だ。

★ニック・パーク原案『ひつじのショーン』が楽しい。『ウォレスとグルミット』ファン必見。NHK教育、日曜夕方。


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 第62回 爆笑!宇宙人解剖フィルムはニセモノじゃない、リメイクだ!?  (2007年8月)

 ロンドンの小さなオフィスに記録映画の監督が呼ばれる場面から、実話に基づく劇映画『宇宙人の解剖 特別版』(2006)は始まる。監督は取材相手のレイ・サンティリとゲーリー・シュフィールドについては名前すら知らず、取材する価値を疑う。「グーグルで検索してみれば?」と言われて机上のパソコンでray santilliを検索した監督は、ヒット件数に驚いて態度を一変。レイとゲーリーは「389万2407件!」と口をそろえて嬉しそうに確認する。こうして漫才コンビみたいなレイとゲーリーの、世にもおかしな物語が始まる。
 1995年、レイは海賊ビデオなどを売るインチキ露天商。ゲーリーは法律事務所の下っ端。ともに低学歴の落ちこぼれ。彼らはプレスリーの未公開フィルムを買い付けようと渡米する。フィルムを売りに来た元米軍カメラマンが別の秘蔵フィルムを見せる。それは宇宙人の死体の解剖記録だという。資金を調達して買ったフィルムは保存状態が悪くて画像が消失。そこで家族や友人の手を借りて再現フィルム(宇宙人は改造マネキン)を撮影して出資者に私、さらに無断でテレビに売り込む。心配するゲーリーにレイは「ニセモノじゃない、リメイクだ!」と名言を吐く。以上が、1995年に世界中で放映されて話題騒然となった宇宙人解剖フィルムの真相だと、10年後に本人が告白した次第。
 全編に漂うヘンテコなユーモアが絶妙。タイトルに「共同製作イーリング・スタジオ」の名を見つけてナルホドと思った。これは、ひょっとして、英国喜劇の黄金時代を築いたイーリング・コメディ(日本では『レディ・キラーズ』のオリジナル版『マダムと泥棒』ぐらいしか公開されていない)の現代版なのだろうか。戦中戦後、苦しい生活を強いられた英国の労働者たちを、独特のブラック・ユーモアで楽しませ、励ましたイーリング・コメディの伝統は最近の英国映画、例えば『フル・モンティ』などにも受け継げらているという。その伝統芸を受け継ぎつつ、こんなヘンテコな傑作が生まれたのだとしたら奇ッ怪というか愉快というか。
 ちなみにグーグルでray santilliを検索したら10万3000件だった。作者たち(製作総指揮はレイとゲーリー)に、また一杯食わされたようだ。ウソととマコトの境界も定かでないところが実に楽しく、見事な喜劇になっている。
 あとでVHSの『宇宙人解剖フィルム 完全版』(1996・ポニー)を見たら、これまた笑えた。レイ本人や特撮マン、スクリーミング・マッド・ジョージこと谷譲二も出演。VHSが残っていたらぜひ映画と並べてプッシュしてほしい。

★北杜夫「白きたおやかな峰」に感動。日本人にこんな山岳小説が書けたとは驚異。子供の頃に読まなくてよかった。


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 第64回 子供も大人も楽しめる単純にして複雑なアードマン最新作   (2007年10月)

 1980年代初めだったか、英国の夏休み映画のヒット・チャートを見たら、なんと第2次大戦中の冒険映画『ジャングル・ブック』が堂々の第1位だったのでビックリしたことがある。世間が『スター・ウォーズ』だナンだと浮かれていた時代に、40年前の傑作を楽しんでいた英国人の精神の健全さは敬服に値する。
 『ウォレスとグルミット』シリーズのアードマン・アニメーションズが製作し、英国BBCで(日本ではNHK教育とBS2で)放送された短編ギャグ・アニメ『ひつじのショーン』シリーズもまた、40年、」50年と愛され続けるだろう傑作だ。主役のショーンは『ウォレスとグルミット、危機一髪!』(1995)に登場して人気が出たキャラだそうだが、10年以上たって主演作が作られるというノンビリしたペースも英国ならでは。40年前の映画を楽しむ観客がいるからこそ、ウィスキーを熟成させるような時間をかけて上質のアニメも作れるのだろう。
 部隊は小さな牧場。粘土製の登場キャラは十数頭の羊、1頭の牧羊犬、独身中年の牧場主などだが、セリフは「メェ〜」とか「アウアウ」だけなので無声映画のように単純。それなのに毎回、楽しい事件が起こる。牧場主の目を盗んではイタズラをする羊たちは実は人間のすることは何でもできて、アイリッシュ・ダンスやブレイク・ダンスを踊り、UFOの修理までできるのだが、牧場主の前では4足歩行の愚鈍な羊のふりをしている。幸い牧場主が鈍感で目も悪い。一方、とびきりの性格のいい牧羊犬は2本足で立って主人に敬礼し、ほめられたりすると我知らずシッポをふって4本足で跳ね回る。人間と動物たちの間で板ばさみになって苦労する愛すべき忠犬の悲しくもコッケイな姿は、あまりにも人間的。従来の擬人化された動物たちとは一線を画す複雑微妙なキャラが作れて初めて、このような一種のシチュエーション・コメディがアニメでも可能になったのだろう。
 10年、20年かけて、ひとつのキャラうやアイデアを育てていくアードマンのアニメと、消耗品の日本の多くのアニメとでは、作者たちの姿勢がまるで違う。その意を汲んだ上で、レンタル店でもアードマン作品を大切に育てていってほしい。レンタル用DVDは11月から来年3月にかけて全40話を順次リリース予定。
 無声映画をもう1本。先月号で紹介できなかった『ダフト・バンク エレクトロマ』(2006・am)は、久々に硬質なSF映画の秀作。死すべき生命、すなわち人間になることを願う2体のロボットの旅を静かな音楽に乗せて淡々と描いた、シンプルで美しい大人のSFだ。

★何十年ぶりか思い出せないほど久しぶりに天然の蛍を見た。ダンプが走る国道沿いの川にいるとは思いもよらなかった。


藤田真男のここ掘れワンワン

 第66回 最近はイーストウッドよりレッドフォードのほうがエライ   (2007年12月)

 アメリカ映画の希望の星、リチャード・ケリーの6年ぶりの監督第2作『Southland Tales』が、まもなく米英で公開される。25歳の天才監督、ケリーの長編デビュー作『ドニー・ダーコ』(2001)は、わずか50数館での興行では成功しなかったものの、DVD発売後(売り上げは興収の20倍)、世界各国で爆発的に人気が高まり、インターネット映画データベースの検索数では全29万タイトル中、48位! アメリカ社会の閉そく状況を反映した政治的学園ドラマでもある異色SF『ドニー・ダーコ』の内容は、アンドイレイ・タルコフスキー監督『ストーカー』『サクリファイス』や相米慎二監督『台風クラブ』などにも一脈通じるものだが、日本にはこの傑作の理解者は少なく、ディレクターズ・カット版DVD(2005)も未発売なのは残念。
 無名の新人監督のデビュー作『ドニー・ダーコ』がここまで注目されるようになったきっかけはサンダンス映画祭での審査員大賞ノミネートだtった。ロバート・レッドフォードが主宰するサンダンス映画祭は30年近い歴史を持つ世界最大のインディペンデント映画祭であり、新人監督の登竜門となり、『ウェルカム・ドールハウス』(1995)『アメリカン・スプレンダー』(2003)などの傑作を世に送り出している。
 そのサンダンス映画祭2005で審査員特別賞を受賞したのが、今回の『消された暗号 BRICK -ブリック-』だ。トリッキーなサスペンス映画かと思ったら、なんと高校生が主役の探偵ハードボイルド映画なのだ。探偵役も悪役もフツウの高校生で、大人はほとんど登場しない。麻薬のカタマリ(ブリック=レンガ)をめぐる謎解きはどうということはないが、殴られても立ち上がる探偵に好感が持てる。
 「殴られても殴られっぷりのいいのが、ハードボイルドの本質だと思う。その意味で『動く標的』のポール・ニューマンが好きだ」と語ったのは西村潔監督。ハードボイルド作家の矢作俊彦も同じことを書いていた。
 探偵ハードボイルド映画というのは簡単に見えて難しいジャンルだが、それを高校生にやらせようとした意欲を買う。地味な映画だが、サンダンス映画祭受賞作、候補作の棚を作れば興味を引くかもしれないし、『ドニー・ダーコ』のファンを今から増やすことも不可能ではないと思う。今年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞した『ONCE ダブリンの街角で』もリリース時には要注目。もちろん、その棚にはレッドフォードがサンダンス・キッドを演じた大傑作『明日に向って撃て!』(1969)も、お忘れなく。

★女子修道会のサイトの「シスターのお薦め」ページに傑作『夏休みのレモネード』や『パッチギ!』続編も出てた。


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 第67回 息を呑む美しさでアニメの新たなページを開いた傑作   (2008年1月)

 先日、CSのアニメ専門チャンネルで香港のTVアニメ「春田花花幼稚園〜マクダルとマクマグ」シリーズ(DVD-BOX発売中。劇場版第1作は伝統あるアヌシー映画祭グランプリに輝き、第2作も劇場公開された。これも早くDVDを出してほしい!)を見て、その発想と技法の自在さに感嘆し、最近の日本のアニメの貧しさ、幼稚さを改めて痛感させられたばかりだが、『キクリと魔女』に続くミッシェル・オスロ監督の長編第2作『アズールとアスマール』を見て、ますますその感を強くした。これはもう、日本のアニメなど初めから勝負にならない。まるでレベルが違う。しかもこれは玄人向けの芸術アニメではない。フランス本国で大ヒットした堂々たる商業アニメであり、幼児から老人まで誰が見ても楽しめる。このアニメの美しさに心を動かされない人はまずいないだろう。
 現在のフランスで大きな社会問題になっている移民敗訴を反映した、白人とアラビア人の青年の葛藤と冒険の物語のなかに、幻想美あふれるアラビアン・ナイトの世界が何の違和感もなく溶け込んでいて、全編、息を呑むばかり。オスロ監督の初期短編で使われた影絵アニメ風の技法などもまじえて、2Dと3DCGが完璧に融合。両者の間にも違和感はなく、3DCG特有のデクノボーが動いているようなぎこちなさもなく、絵としてのアニメーションの力が少しも損なわれていない。
 『Mr.インクレディブル』制作中には2D派と3D派スタッフの対立があったという。小さな布を3Dで描くのが、いかにタイヘンであったかと、音声解説で監督は得意気に苦労話をするのだが、3Dが嫌いらしいアニメーターは「2Dでやれば簡単だったのにね」と、小馬鹿にしたような調子でコメントしていて、我が意を得た。3Dは袋小路で徒労を繰り返すばかりで、その可能性は限られたものだと僕は思っていた。が、それは技術の問題ではなく、オスロ以外の作者たちが無能なだけだったのだ。
 『キリクと魔女』に続いて高畑勲監督が手がけた日本語吹替版も完璧。全編に日本語とオリジナル版のままのアラビア語が混在しているのだが、これまた違和感なく、きわめて自然につながっている。最近の洋画の吹替版は耳をふさぎたくなるものが多いが、『アズールとアスマール』は、お手本となる見事な出来栄え。これならオスロ監督やフランスの観客に見せても恥じるところはない。重ねていえば<三鷹の森ジブリ美術館ライブラリー。というレーベル名に恥じぬ、実に美しく、心に響く傑作である。

★とっくに製造中止かと思ったLDプレーヤーが今も発売中とは。パイオニアはエライ!ソニーのベータも見習え。


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 第71回 窓ぎわスパイの良心、激動の時代を生きた韓国人作家の良心  (2008年5月)

 期待は失望の母である、という経験則が、今回は当てはまらなかった。嬉しい誤算だ。
 未公開のイタリア映画。しかも政治がらみのスパイ・サスペンスとあっては粗雑で反動的な駄作の可能性が高い。が、巨大組織NSA(米国家安全保障局)に戦いを挑むという話が気になったし、かつてイタリア映画には権力の不正腐敗に立ち向かう気骨ある監督たちもいたから最近はどうなのか興味もあった。『エシュロン-対NSA網侵入作戦-』(2006)を見た結果は、ひそかに期待した以上のものだった。
 1999年に発覚した実際の盗聴事件にヒントを得た(モデルとなったNSA通信基地も画面に登場する)フィクションだが、コンピュータ画面ばかり映した安手のサスペンスかと思って失望しかけると、舞台は英国からローマ、雪のアルプス、米国、南極にまで広がる予想外の展開。複雑怪奇な電子機器からなる盗聴システムを駆使した頭脳戦が始まると、愚妻は「あ〜、分からんよ〜」と泣きを入れる。が、観終わってみれば、独身中年の窓ぎわスパイの良心と命を賭した戦いと逆転劇がムダのないストーリーと歯切れのよい演出で描かれていて、ジャコモ・マルテッリ監督の手腕に感服。『機動警察パトレイバー劇場版』『エニグマ』などの暗号がらみのサスペンス・ファンにもオススメ。
 韓国映画アカデミー出身の新人監督チャン・ヒュニュンのインタビューが「DVDナビゲーター」3月号に出ている。彼の短編アニメ『ウルフ・ダディ』は宮崎駿脚本、高畑勲監督『パンダコパンダ』を思わせる小品で、かつて宮崎駿らがめざした子供向けの優れた「漫画映画」が、韓国でも生まれつつあるのだろうか。
 クォン・オソン監督が道に落ちたウンチの短い生涯を、ほのぼのタッチで描いた人形アニメ『こいぬのうんち』(2003)も、漫画映画と呼ぶにふさわしい秀作だ。韓国の懐かしい田園風景を入念に再現したミニチュア・セットも『となりのトトロ』に似て素晴らしい。原作絵本(8年前に出た邦訳は10万部のベストセラー)の作者クォン・ジョンセンは1937年東京生まれ、苛酷な半生を経て韓国を代表する童話作家となる。彼の「モンシル姉さん」(邦訳あり)は1991年に韓国でTVドラア化されて大人気を博した。作者が体験した朝鮮戦争を背景にした「わら屋根のある村」も邦訳が出ていて、その表紙の絵が、まさに『こいぬのうんち』の村の風景なのだ。この本を読みながら愚妻は『火垂るの墓』みたいで・・・・・と涙ぐんでいた。韓国は児童文学においても日本を凌駕しているようだ。
 以上2作ともデータは前号参照。

★台風による増水に何度も襲われて絶滅したかと思った狸たちが近くの川で生きていた。土管の中がネグラらしい。


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 第73回 G・W・ブッシュが大統領である異次元の世界の終わり   (2008年7月)

 9・11のトラウマを描いたアダム・サンドラー主演『再会の街で』には唖然とさせられた。真のトラウマと苦い思いは、例えばアート・スピーゲルマンの政治漫画「消えたタワーの影のなかで」(岩波書店)に描かれている。
 「わが国の『指導者たち』は新約聖書の『ヨハネの黙示録』を読んでいるが・・・ぼくはフィリップ・K・ディックのパラノイアSFを読んでいる。飛行機がタワーに突っ込んだとき、ぼくはジョージ・W・ブッシュが大統領である別の次元の現実のなかにほうりこまれたんだ」
 「世界の終わりほど、みんなを結びつけるものはない・・・・でもなぜアメリカ国旗が、グラウンド・ゼロの残骸からにょきにょき出てこなくちゃならないんだ?」
 「暴走する共和党の象ども・・・うすのろの民主党のロバども・・・ほんとうのアメリカ人たちがわざわざ投票に行かないのもふしぎじゃない!二つの政党のマスコット動物たちはともに前世紀の遺物だ」
 「2000年のクーデター(大統領選挙)の後に、国の半分以上の人たちの苦痛はすでに2倍になっていたのに・・・いまみんなは、あんたを止めるにはあまりにも恐がり無感覚になり、意気をくじかれている。しかしぼくたち狂人は第三の党を結成していくぞ。だから気をつけろ!」
 『ドニー・ダーコ』の若き天才リチャード・ケリーの監督第2作『サウスランド・テイルズ』もまた『再会の街で』の対極に位置し、不正選挙で政権を奪取したブッシュに対する怒りと9・11以後の世界に対する不安と苛立ちを表現しようとした野心作だ。それは「ジョージ・W・ブッシュが大統領である別の次元」で「アメリカ国旗が、グラウンド・ゼロの残骸からにょきにょき出て」きた世界の終わりを描いたトラジコメディ(悲喜劇)仕立てのSFであり、カート・ヴォネガットの終末S小説「猫のゆりかご」(ケリーが脚本化したが映画化はされず)にも似ている。
 テロリストの核攻撃から3年後、愛国者法が拡大され、全国民が監視され、共和党がほとんどの議席を独占し、無数の星条旗が全米に翻る(映画史上、最も多くの星条旗が画面に映し出された映画だろう)。世界の命運を握る記憶喪失の映画スターと警官。その警官の名はタヴァナー・これはデイックのSF小説「流れよ我が涙、と警官は言った」の主人公の名でもある。
 この映画は3部作の第部にあたるが、興行的に成功しなかったため続編はないだろう。心あるSFファンと『華氏911』や『不都合な真実』を支持する人々に見てもらいたい。

★リチャード・ケリーの第3作『ザ・ボックス』はキャメロン・ディアス主演なので、日本公開を期待したい。


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 第77回 世界を支配する「善意の帝国」を予見した知的SFの大傑作   (2008年11月)

 20世紀中にソ連の崩壊、東西冷戦の終結が現実になることを予測できた人は、ほとんどいないと思う。が、ジョセフ・サージェント監督のSF映画『地球爆破作戦』は、今から38年も前に、想像もつかない近未来の世界を寓話的な形で正確に予測していた。だから、この映画は今見ても『2001年宇宙の旅』以上に刺激的で面白い。
 アメリカの天才科学者が、すべてを自動的に管理できる万能コンピュータ、コロッサス(古代の巨人像に由来)を開発。子供のようなコロッサスは知能と自我を備えて急速に成長し、偶然にもソ連がひそかに開発していた同型のコンピュータを吸収合体。全知全能となった無敵のコロッサスは「善意」から全人類を支配、より良い未来へ導こうとする。
 誰が見てもリクツ抜きで楽しめる映画だが、リクツによって初めて見えてくるものもある。コロッサスは、いわばグローバリズム(地球の私物化を狙う新型帝国主義)の先取りであり、ネオコン(ネオコンサーバティブ=新保守主義のエリート集団)と狂信的なキリスト教右派と政治権力以上に巨大化した超国家企業によって生み出されたブッシュのアメリカを、すでに予見していた映画だとも言える。今やネオコンは「善意の帝国」となって世界を支配すべきだと、あからさまに公言している。まるで歯が立たない巨人コロッサスに、それでもなお抵抗を続けようとする無力な人間たちの姿は、現在の我々に、なんと似ていることだろう。
 サージェント監督は1970年代に映画『サブウェイ・パニック』やTVムービー『ザ・マン 大統領の椅子』『アメリカを震撼させた夜』などの傑作を撮った万能の職人だが、戦前育ちの筋金入りにリベラルでもあるのだろう。ブッシュのアメリカでは「リベラル」という言葉は「アカ」と同じく非国民を意味するレッテルになったが、それでもサージェントはアメリカの草の根ファシズムや人種差別に異議を唱えるリベラルな傑作TVムービーを撮り続け、83歳の今なお、まったく衰えを見せずに現役。アメリカ史上最高の監督のひとりである。
 今月の新作から『ユゴ/大統領有故』に続くイム・サンス監督の最新作『なつかしの庭』も紹介したかったが、字数が尽きた。1980年の光州事件で市民軍に参加し、17年間の獄中生活を終えて出所した男の心の旅路を描く回想劇だ。おおがかりなオープン・セットを建設して光州での市街戦を再現した『光州5・18 韓国国家が隠した真実』も同時期にリリースされるので、2作併せてぜひ! 続きは次号で。

★今後数十年で生物種のほとんどが滅びる、と世界中の学者が予測。地球が元に戻るには1億年かかるという。


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 第80回 無知との遭遇または愚民による愚民のための愚民の政治   (2009年2月)

 SF喜劇『26世紀青年』の原題「イディオクラシー」はイディオット(愚者)とデモクラシーを足した造語で、愚民主義というところ。簡潔にアメリカを定義した絶妙な題だ。
 「ヨギ・ベラには『問題は、無知なことではない。間違って知っていることが問題なのだ』という不滅の言葉がある。
 これは元副大統領アル・ゴア著『地球の掟』の一節で、ヨギ・ベラは大リーグのの名捕手、名監督。「間違って知っていること」の最たるものが、例えば宗教だ。ニュートンは誰よりも宇宙を理解していたが、宇宙も人間も数千年前に神が創造したと信じていた。現代人はニュートンよりも進化しているわけではない。
 アメリカで進化論教育が合法化されたのは、公民権運動や反体制運動が盛り上がった1960年代のこと。神の教えに反する妊娠中絶も合法化され、聖書の十戒に基づく映画倫理規定も撤廃された。アメリカは建国以来初めて、真に自由で民主的な文明国に生まれ変わるかに見えた。こうした時代背景を抜きにしては『猿の惑星』(1968)の痛烈な風刺を理解することもできない。劇中の異端裁判には、かつてアメリカで猛り狂った魔女狩りや赤狩りの寓意がこめられ、空飛ぶ機械も進化論も否定する愚かな猿たちはアメリカ人そのものの戯画であった。
 ところが、80年代になると聖書を絶対視するキリスト教原理主義や福音派(本来の福音派とは異なるアメリカ独自の新興宗教で、2代目ブッシュ大統領も早くから入信)が勢力を拡大し始め、中絶医に対するテロが横行。今やアメリカ人の半数以上が人類誕生は1万年以内のことだと思っている。公立学校でも憲法に抵触しないように捏造されたエセ科学による宗教教育、反進化論教育が広まっている。元に戻っただけともいえるが、退化したのは事実。
 この退化を風刺したのが『26世紀青年』だ。主人公が5世紀後のアメリカで冷凍睡眠から目覚めると、そこは荒廃し、退化したアホの惑星だった。ホワイトハウスの面々も猿なみに無知ではあるが、ブッシュやラムズフェルドやライスほど卑しくないのが救い。金とセックスとゴシップにしか興味のない愚民たちに向かって主人公は「昔は誰でも本を読んでいた。映画にはストーリーがあった」と訴える。愚民政治を支えるFOXニュースまで実名でコケにしたのも快挙。おバカ映画に見えて、実は同じFOX映画『猿の惑星』の風刺精神を正しく受け継ぎ(テーマ局も借用)、マイク・ジャッジ監督が声優として参加した『ザ・シンプソンズ』や『サウスパーク』にも連なる知的な野心作なのだ。

★日本の小学校高学年の過半数は太陽が地球の周りを回っていると思っている。アメリカ人とどっちがアホなのか。


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 第82回 去年の雪、じゃなくてブッシュがよけた靴、いまいずこ   (2009年4月)

 ジョン・キューザックの出演作にはセンスのいい娯楽映画が多い。初期の青春ロードムービー『シュア・シング』とか、クリント・イーストウッド監督の最後の傑作になるだろう奇人変人の実録群像劇『真夜中のサバナ』とか、キューザックの父祖の地アイルランドが部隊の回想劇『フィオナが恋していた頃』とか、ポール・ニューマン主演『暴力脱獄』やマルケスの本が男女の運命のキイとして使われたスレ違いコメディ『セレンティピティ』とか、ハイセンスな映画が何本も思い浮かぶ。『マルコビッチの穴』や『アドルフの画集』がゲージツっぽい凡作にならなかったのも、キューザックの持つ、ある種の知的な軽さのおかげだろう。
 最新主演作『エージェント・オブ・ウォー』(2007)は、彼が製作と脚本にも参加した政治風刺喜劇だが、気負いは少しもない。
 キューザックはもとCIAエージェントで、米国の利益を害する者を始末する殺し屋。舞台はイラクとアフガニスタンを足した架空の国。ここでは米政府が侵略戦争と復興事業を大企業に「丸投げ」し、民主化という名の植民地化が進行中。首都エメラルド・シティを支配するのは「総督」と呼ばれる謎の男。これは『オズの魔法使』のパロディだが、現実の戯画でもある。
 世界中に配置された米軍基地の一部では、実際に司令官がなかば公然と「総督」と呼ばれているというから驚く。ローマ帝国の属州の総督の再来だ。オバマが選挙運動中、彼の恩師の黒人牧師が「米国のローマ帝国にしたいのか」とブッシュ政権を皮肉り、保身をはかるオバマを狼狽させたが、日本の新聞では「ローマ帝国」云々は報道されなかった。たぶん、記者たちの認識不足で誰も理解できなかったのだろう。その点、キューザックの新作には正しい認識が示されていたので、映画界にもモノの分かった人がいるのだと感心。だからどうということもないし、コメディとしては必ずしも成功していないが、外野席から的を得たヤジを飛ばす映画が作られただけでも喜ばしい。それは、イラク訪問中のブッシュに向かって投げつけられた靴が惜しくも命中しなかったのは残念だけど、それでも充分に痛快(ネットに登場した靴投げゲームも愉快)だったし、よくぞやったとホメてやりたいのと同じなんだね。
 今回は『メリーに首ったけ』のファレリー兄弟監督『ライラにお手あげ』も見た。原作はニール・サイモン。『セレンディピティ』にも似たコメディだが、演出は及ばす。でも、最近の米映画としては佳作の部類なので見て損はない。

★前怪の訂正。イヴリン・ウォー原作『情愛と友情』のTV版『ブライヅヘッドふたたび』の脚本はアンドリュー・デイビスではなく、チャールズ・スタリッジでした。


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 第87回 凡百の猟奇サスペンスとは一線を画した新鋭の志の高さ  (2009年9月)

 『チェイサー』(2008)はナ・ホンジン監督のデビュー作で、昨年の韓国映画の興収では大スター共演の大作冒険活劇『グッド・バッド・ウィアード』に次ぐ大ヒットを記録し、主な映画賞も独占した。ボン・ジュノ監督『殺人の追憶』を思わせるサスペンス・アクションの力作だが、こういう映画を撮れる新人監督が突然現れるところに韓国映画の底力を見た思いがする。
 実話をもとにした物語はシンプルで、冒頭から猟奇連続殺人犯と、彼を追うことになる元暴力刑事が登場し、『ダーティ・ハリー』さながらのスピーディな展開。ただし、主人公の元刑事はハリー刑事と違って追い詰めた犯人を殺しそこね、無念の思いが残る。そして犯人が住んでいた家の庭から次々と死体が発掘される。
 同じく実際の猟奇連続殺人事件を題材にした『殺人の追憶』は、事件当時(チョン・ドゥファン政権からノ・テウ政権への移行期)の国家による暴力を暗示している。先日、NHK教育テレビの韓国映画特集に出演したボン監督も、その政治的暗喩を認めていた。
 『チェイサー』には現在のイ・ミョンバク政権が過去の権力者による犯罪を隠蔽しようとしていることへの怒りが垣間見える。これは決して、うがった見方ではない。犯行現場となる白いタイル張りの浴室は『ペパーミント・キャンディ』などで再現された、かつての韓国の警察や情報部の拷問室そっくりだし、発掘される売春婦たちの死体は過去の虐殺事件の犠牲者を連想させる。韓国では半世紀の間に米兵の手で虐殺された売春婦も数知れない。チョン・ドゥファン政権に殺された「アカ」も米兵に殺された売春婦も社会のクズだ、誰に殺されようが当然の報いだ、として彼らの死を顧みない社会が、この映画の背景に横たわっている。
 過去の権力者による暴力、虐殺事件の真相究明を立法化させたノ・ムヒョン元大統領は自殺に追い込まれ、チョン・ドゥファンやノ・テウは死刑を免れて今ものうのうと生きている。『チェイサー』の元刑事が犯人の頭に叩きつけようとした凶器のカナヅチは、同時にチョン・ドゥファンやノ・テウや彼らを容認する社会に向けられたものだ。韓国の心ある観客の目には、そう見えたはずだ。そうは見えなかったとしても、退屈するヒマも与えない娯楽サスペンスとして誰もが楽しめるようにできているところに、この新人監督の非凡な才能がうかがえる。
 日本の公式サイトに監督が寄せた、たとえ話の形を借りたメッセージが非常に興味深い。映画を見た後で、ぜひ目を通してほしい。

★CSで韓ドラ『第共和国』を見ている。記録映像や盗聴テープまでまじえて、日本も加担したチョン・ドゥファンの犯罪の全貌を、すべて実名で描いた力作。

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日本映画  (邦画)
 

     ユタとふしぎな仲間たち (1974年,NHK。60分) 藤田真男

 NHK少年ドラマシリーズのスペシャル版ともいえるフィルムドラマ。たしか子供の日に放映されたと記憶している。『NHKビデオギャラリー』で、その一部が再放送されたが、未だにファンが多いらしい。
 都会から田舎へ越してきた少年の前に、おかしな妖怪“座敷わらし”たちが現れる。『となりのトトロ』の実写版と思えばいい。座敷わらしに扮する佐藤蛾次郎らが、人間ばなれした好演。黒澤の『夢』より、はるかにファンタスティック。



     機動警察パトレイバー P-10  (1991年,バンダイ。105分)  藤田真男

 押井守脚本OVA第3弾「その名はアムネジア」は、長編アニメ『風の名はアムネジア』(主人公は記憶喪失)のパロディ。それに『ブレードランナー』と『うる星やつら』TV版「そして誰もいなくなったっちゃの巻」のパロディや楽屋オチも加えて、なかなか芸の細かい一篇。
 それ以上に、同時収録のTV版「特車二課壊滅す!」(押井脚本)がケッサク。整備班員シゲのアジ演説が、三島由紀夫のパロディだと分かる世代なら大爆笑!


映画 知ってるつもり

   山下毅雄の名曲をリメイクした大友良英の快挙を讃える  藤田真男  (2001年9月) 

 昨年、山下毅雄のCDを2枚見つけた。もっと早く紹介するつもりだったが、佐分利信のことを書いていて遅くなった。
 今回、紹介するのは大友良英編曲・演奏『山下毅雄を斬る/大友良英』(1999/ブルース・インターアクションズ)というアルバム。多彩なミュージシャンを集め、山下毅雄の名曲をリメイクして現代に甦らせたアンソロジーだ。『ルパン三世』のリメイクでのチャーリー・コーセーの歌も『プレイガール』の伊集加代子のセクシー・スキャットも、30年前に比べて衰えるどころか、ますます磨きがかかっているのは驚くばかり。『スーパー・ジェッター』は透明でボーイッシュな女性ボーカルがすばらしく、山下毅雄の息子の山下透が弾くオモチャのピアノ伴奏と見事にマッチしている。遠藤賢司が絶叫する『ジャイアント・ロボ』は、ほとんど前衛音楽で、ライナーノートで大友自身が、子供の頃にテレビでこんな曲を聴かされていたのかとあきれているぐらいだから、こういう音楽だったのか。劇場版『七人の刑事』は息子さんが松竹の倉庫から発掘してきたオリジナル・サントラを再現したもので、これもすごい。車や鐘の音、銃声などの効果音、アナウンサーの声、雑踏に流れる歌謡曲、電子ノイズなどジャズをコラージュした音楽は、山下洋輔カルテットが即興で音楽をつけた前衛ピンク映画『荒野のダッチワイフ』をホウフツさせ、40年近くも前の松竹映画に、ほんとにこんな音楽がついていたのだろうか?と思うほど。
 大友はフリージャズをやっているミュージシャンで、映画音楽でもピンク映画、香港映画、中国映画、相米慎二監督『あ、春』『風花』など幅広く活躍。7000曲(!)を作った山下毅雄をめざしてがんばってもらいたい。 p.209


映画 知ってるつもり

   山下毅雄の名曲を発掘した息子さんの努力にも敬意を表する  藤田真男  (2001年10月)

 前号で紹介したCD『山下毅雄を斬る/大友良英』のラストを飾るのは単発TVドラマ『煙の王様』のテーマ曲だ。生ギターをフィーチャーしたリリカルな珠玉の名品で、聞くたびに胸がしめつけられ、目頭が熱くなる。『暴力脱獄』のテーマ曲(ラロ・シフリン)や『血と怒りの河』のテーマ曲(マノス・ハジダキス)に匹敵する名曲で、日本サントラ史上屈指の傑作に違いない。リメイクしてくれた大友に感謝。
 1970年代初めまで、あれほど精力的に仕事をしていた山下毅雄が第一線から姿を消した理由は知らない。1985年、TBSで『7000曲を作った男/山下毅雄』という特別番組が唐突に放送された。山下が指揮と口笛を担当し、奥さんと2人の息子、コーラスの伊集加代子も参加したコンサートの模様、関係者の証言、各局で放送された番組などで構成されていた。昭和37年度芸術祭文部大臣賞を受賞し、海外にも広く紹介された『煙の王様』(円谷一演出)のダイジェスト版も放送され、その音楽は山下毅雄自身、一番心に残る曲だと語っていた。
 もう1枚のCDは次男の山下透が選曲・監修した『早すぎた奇才/山下毅雄の全貌 未発掘編』(2000年・クラウン)というサントラ盤だ。かねてよりCDが出ないものかと思っていた『日本暴力団・殺しの盃』や『現代やくざ・血桜三兄弟』のサントラが収録されたのは快挙。ヤクザ映画とは思えないモダンな名曲だ。山下透は早くから父のゴーストで作曲をしていて、なんと中学生のころに書いたTV主題歌も収録。その彼が父の曲を発掘するためにTV局や映画会社に電話するのは、さすがに照れくさかったらしい。本当なら映画業界や映画マスコミの人たちが、もっと早くやるべき仕事だったのだ。音楽畑の人たちの地道な努力に敬意を表したい。 p.215
 
映画 知ってるつもり

   「最近はおもしろい台風がない」と言った相米監督は台風とともにいなくなった 藤田真男  (2001年12月) 

 台風がゆっくりと接近する日の朝、知人からの電話で起こされた。相米慎二監督が亡くなったと聞かされても、他人事のような返答しかしなかった。何か話したかったのか、葬式に誘いたかったのかなと、あとで思った。
 「何でもいいんだ。それが映画でしょ」が口癖の相米さんが、居酒屋で注文を取りに来たおばあさんにまで「何でもいいよ」と答えたら「何でもいいじゃ、わかりませんよ」と思わぬ逆襲をされてウロタエたのは無性におかしかった。そんな無防備なところが、フツウの大人とは違うように子供たちにも感じられたのだろうか。
 『台風クラブ』の受賞パーティ会場に到着したとたん、相米さんは子供たちにワッと囲まれた。「子供はめんどくさい」と言いながら大変な人気だ。僕が「相米さん、学校の先生になるといいね」と言ったらジロリと睨まれた。『ションベン・ライダー』の撮影中、相米さんの弱点は蛇だと気づいた子供たちが「虐待」に対する仕返しの方法を相談していた。蛇が見つからなかったのか結局、相米さんを汚い運河に投げ込むという方法でフクシュウは果たされたらしい。相米さんは「ああ、やられたよ」と嬉しそうだった。映画を通じて子供たちと何かを分かちあえたかもしれないという喜びだったのだろう。
 僕にとっての相米さんは鎮守の森の大木の中で眠りこけているトトロのような存在だった。映画を撮らなくても、姿が見えなくても、またどこかで昼寝しているんだろうなと思うだけで、なんとなく安心できる監督だった。
 台風一過の翌日、久しぶりに富士山が顔を出し燃えるような夕映えのなかに美しいシルエットを見せた。相米さんが映画化を願っていた武田泰淳原作『富士』の「富士が燃えているよ」という場面を思い出したら悲しくなった。 p.219


映画 知ってるつもり

   この本を読んだ人は映画と生の秘密に触れることができる  藤田真男  (2002年3月) 

 1977年に初版が出たのち、長らく絶版になっていたロジェ・グルニエ著『シネ・ロマン』(白水社)が昨年、新装復刊された。奇跡である。
 著者のグルニエは1919年生まれ。スペイン国境に近いフランスの田舎町ですごした少年時代の記憶をもとにしたらしい年代記スタイルの小説が『シネ・ロマン』であり、この作品で1972年度フェミナ賞を受賞。
 『シネ・ロマン』には1930年代の田舎町の映画館での出来事が短い挿話をつないで描かれている。『フェリーニのアマルコルド』(1974)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(1989)にも似ているようで、まったく違う。作中にはシドニー・ポラック監督の傑作『ひとりぼっちの青春』(1969)で描かれたマラソン・ダンス(大恐慌時代の残酷な見世物)も登場し、『ひとりぼっちの青春』の原作者ホレス・マッコイへの賛辞もある。作者は主人公の少年の目に映った数々の映画、ローレル・ハーディのドタバタ喜劇や、天才振付師バスビー・バークリーの『ゴールド・ディガース』(1933)を回想したのち、こう記す。
 「これらのフィルムは、彼にとっては、区分けすることも判断を下すこともできないものだった。なぜなら、それらは、質の良し悪しを問わず、はたまた、世評のいかんにかかわらず、彼の生の奥深い部分の、それもおそらく、もっとも伝え難い秘密の部分の、一部となってしまっていたのだから」
 この小説が与えてくれる感動も、言葉では伝え難いものだ。映画について書かれたあらゆる書物のなかでもっともすばらしい本のひとつであることは間違いないと思うので、また絶版にならないうちにぜひ読んでもらいたい。なお『ゴールド・ディガース』などの映画も今ではビデオで見ることができる。ありがたいことだ。   p.237


藤田真男のここ掘れワンワン

 第33回 日本人に未来はない。沖島勲と司馬遼太郎のつぶやき  (2005年3月)

 沖島勲監督の全作品が一挙にDVD化される。快挙である。全作品といっても、沖島監督が36年間に撮った映画は、わずか4本。若松プロのピンク映画『ニュー・ジャック・アンド・ヴェティ』(1969)で監督デビューした彼は、その後、『まんが日本昔ばなし』(1975〜94)などTVアニメの脚本を書き続けたが、その間に突如として監督第2作『出張』(1989)を発表し映画ファンを驚かせた。既に中年になってしまった監督の20年ぶりの第2作だとは、とても信じられないほど若々しく軽妙で感動的な傑作だった。この映画はビル・フォーサイス監督『ローカル・ヒーロー 夢に生きた男』(1983)日本版ともいえる浮世ばなれしたコメディだ。
 出張の途中、山奥の温泉宿に泊った万年課長・石橋蓮司。時の流れから取り残されたかのような、その温泉の名は日和見温泉。日和見とは1960年代末の全共闘用語である。石橋課長はいつしか時の流れを逆行していく。ゲリラ部隊と機動隊との奇妙な銃撃戦に遭遇して「こりゃ、面白そうだ」とはしゃぎ、会社の景気はいいが「面白いことなんか何もない」と不満をもらす。十数年前から外界と隔絶した山中で闘争を続けているゲリラ隊長は「この方を誘拐人質第3号に¥と、石橋課長を丁重に迎える。『野良猫ロック・暴走集団’71』(1971)で演じたヒッピーそのままのゲリラ隊長を原田芳雄が、いかにも楽しげに演じる。釈放されて妻や上司にいびられ、再び出張の旅に出た課長は車窓からゲリラたちのいる山に向かって「ガンバレよ〜、私だ〜!」と万感の思いをこめて叫ぶ。
 この、ほろ苦い現代の昔ばなしは、高度経済成長時代に違和感を覚える戦中派サラリーマンの心情を戯画的に描いた岡本喜八監督の最高傑作『江分利満氏の優雅な生活』(1963)のバブル時代版、全共闘世代版だともいえる。
 沖島監督がナナメに日本を見つめる目は、ピンク映画風ファンタジー『したくて、したくて、たまらない、女。』(1995)に続く『YYK論争 永遠の“誤解”』(1999)でも健在だ。劇中映画の源義経(Y)、源頼朝(Y)、平清盛(K)たちが関西弁やタメ口で歴史を論じ、この低予算映画を撮る監督たちが日本と日本映画の絶望的な状況を嘆く。「司馬遼太郎が明治の日本人は凄かったと考えたのは間違いだったんじゃないか。日本人は昔からバカだったんじゃないか」と。そのようにつぶやくしか、もはや誰にも成す術はない。日本と日本人の行く末を案じ続けた司馬遼太郎も、死の直前の対談の最後に「やはり次の時代は来ない」と、つぶやくしかなかった。天国の司馬遼太郎に見せてあげたい映画である。

★78歳のナット・ヘントフが9.11以後の反動化を告発した『消えゆく自由』を読む。アメリカにも未来はない。


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 第34回 相米慎二監督の襟を正させた澤井信一郎監督の名人芸   (2005年4月) 『野菊の墓』

 後藤久美子、仲村トオル主演『ラブ・ストーリーを君に』(1988)を初めて見たのは数年前。見終わってから、こんないい映画を10年以上も敬遠していたことを申し訳なく思った。それで思い出すのは相米慎二監督の話である。
 驚異のデビュー作『翔んだカップル』(1980)に続く第2作『セーラー服と機関銃』(1981)の撮影を終えた相米監督が、スタッフとオールナイトの映画館に入った。映画が始まると、みんな疲れていたせいか、見る前からつまらないアイドル映画という先入観があったせいか、たちまち爆睡。しばらくして、ひとりで見続けていた相米監督が「おい、みんな起きろ。これはいい映画だぞ」とスタッフを叩き起こし、全員で襟を正して見たという。映画は松田聖子主演『野菊の墓』(1981)だった。
 この話は今は亡き相米さん自身の口から聞いた。いかにも相米さんらしいマジメさがうかがえる話で、ボソボソ語る彼のぶっきらぼうな口調を思い出すと、今でも胸の奥に何かあたたかいものが感じられる。それは映画を愛する人々が灯し続けた小さな炎のあたたかさだろう。
 『野菊の墓』は澤井信一郎監督のデビュー作だ。実に20年にわたる助監督生活を経てデビューした遅咲きの新人監督が、これほどみずみずしい感性を保っていられたとは、驚くべきことだった。前回の沖島勲監督と同様、長い雌伏の時にも決して胸の奥の炎を絶やさなかったに違いない。その澤井監督の久々の傑作が『ラブストーリーを君に』だったのである。脚本は丸山昇一。苦節13年の修業時代を経て『処刑遊戯』(1979)でデビューし、続いて相米監督『翔んだカップル』の脚本を書いた丸山にとっても、この映画は久々の傑作となった。
 信州穂高の美しい山なみを背景に、白血病の美少女と元家庭教師で大学山岳部の青年との純愛を淡々と描く。これが、ただの難病映画でも、ただのアイドル映画でもない。妙なたとえだが、柳屋小三治の人情噺みたいに端正で格調高く、ふっと心にしみる。丸山昇一は落語とニール・サイモンの脚本を勉強して語り口を磨いたらしいが、この映画では、その名人芸が最大限に発揮された。その脚本を見事に絵にできた監督も、やはり名人だ。これほどイヤミなく、素直に観客を泣かせる映画はない。日本のメロドラマ史上、最高傑作のひとつではないか。成瀬巳喜男監督の名作『浮雲』(1955)よりも好きだ。
 今月はもう1本、劇場用アニメ『スヌーピーとチャーリー』(1972)もオススメ。世代を超えて見るものの琴線に触れる。米国アニメ史上屈指の傑作。ロッド・マッケンの名曲も心に響く。

★CATVを導入、DVDレコーダーも買って次々と録画。山中貞雄脚本の無声映画とか、すごいのも見られる幸せ。


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 第44回 最後のカツドウヤにして最後の江戸ッ子、石井輝男逝く  (2006年2月) 

 26年前の冬、クラシックな白いボルボGTkら笑顔で降り立ったのは、トレードマークの黒メガネをかけた石井輝男監督。取材を申し込んだ僕と友人が乗りこむと、石井監督は「このクルマは健チャン(高倉健)に薦められてね」と問わず語りに話し出し、自宅に着いてからも5時間以上、席も立たずに話し続けた。
 語り口は終始穏やかだが、聞き手を一瞬も退屈させないサービス精神とエネルギー、誰に遠慮も気兼ねもなく、臆せずおもねらず、衒いもごまかしもない歯切れのよさ。陰口は言わないが、次々に飛び出す同業者の悪口がまた小気味よい。何もかも彼の映画そのままで、日本人の陰湿さは皆無。こんなに、きさくな人だとは思わなかった。虚飾も屈折もない、まっすぐな人。これが江戸っ子なのか、と感服した。
 別れ際に石井監督は、昔から大好きなつげ義春の漫画をいつか映画にしたい、アテはないんだけどね、と夢を語った。まさに夢のような話だと思ったから、14年後に、つげ義春原作の『ゲンセンカン主人』(1993)で彼が映画に復帰したときには驚いた。原作そのまま、なんの衒いも小細工もない、まっすぐで心地よい映画だった。うらぶれたユ^モアと透明な叙情は師匠・成瀬巳喜男監督の傑作オムニバス映画『石中先生行状記』(1950)を思わせ、いつか師匠のような映画を撮りたいという石井監督の半世紀来の夢を叶えた傑作でもあった。
 彼の父は祭りの神輿の下敷きになった片腕を「めんどくせぇ、叩っ切ってくれ」と言って切ってしまった気の短い江戸っ子だが、大変な長命だった。2005年、成瀬巳喜男の生誕100年記念映画に出演した石井監督は、とても80歳すぎには見えず、このぶんだと彼も100歳まで生きるに違いないと思った。その数ヶ月後の2005年8月、石井監督は肺癌で亡くなった。
 かつて石井輝男監督は『網走番外地』シリーズをヒットさせた後、『異常性愛路線』(1968〜1969)と呼ばれるエログロ路線を量産して世間の集中砲火を浴びた。「内田吐夢の名作を上映した東映のスクリーンが汚れる」などと批判した批評家・佐藤忠男に対して当時の石井監督は「観念バカじゃないか」と痛烈に批判。それら異端の傑作群のうち、名脇役・小池朝雄が怪演した『徳川女系図』『徳川女刑罰史』『徳川いれずみ師 責め地獄』『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』と、丹波哲郎の代表作のひとつ『ポルノ時代劇 忘八武士道』がレンタルDVD化される。いずれも痛烈にして痛快、映画作家ではなくカツドウヤと自称した石井輝男監督のカツドウヤ魂の神髄に触れてほしい。
 
★今月のオススメ。合成樹脂製「NEW臭わんゾー」は石油暖房器具の臭いが手品みたいに消える。やく600円。


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 第45回 フツウのオッサンにしか見えないけれど森崎東は天才である  (2006年3月) 『ニワトリはハダシだ』

 森崎東監督の最新作『ニワトリはハダシだ』が、ようやくDVD化される。最新作といっても第4回東京フィルメックスのクロージング作品として上映されたのが2003年秋、一般公開が2004年秋だから、その両方を見逃した僕は2年以上も待たされたことになる。最近は、こういう不遇な日本映画が少なくない。
 フィルメックスでは天才・清水宏監督の生誕100年特集も上映された。館内は意外にも老若男女で満員で(弁当持参の人や外国人もいた)、みんな遠くからお金かけて見にきてるんだから、60年も70年も昔の映画でも、DVDを出せば1000枚や2000枚はすぐに売れるんじゃないかと思ったりもした。見終わって外へ出ると、後から出て来た森崎東監督がフィルメックスのスタッフらしい人と話しながら通り過ぎた。小柄な森崎監督が大地を蹴るような勢いで歩み去る姿は、とても76歳の老人には見えなかった。かつて松竹の城戸四郎会長から「そのヒッピーみたいなヒゲを剃れ」と言われても応じなかった顎のヒゲが以前より白くなってはいたが、彼の風貌は最後に会った時から、あまり変わっていないのだ。初めて会ったのは33年以上も昔だが、今にして思えば森崎監督はまだデビュー3年目なのに、新人離れした風貌を備えていた。
 『喜劇・女は度胸』ででびゅーしてから5年ほどの間、森崎監督の勢いはまったく凄かった。その間に松竹で撮った12本の映画の中には、ご本人も恥じている失敗作も2、3本あるもののの、デビュー以来5年間も傑作を連打した監督など、日本映画史上では山中貞雄以外にいないのではないか。昨年末、BSで見た森崎監督の初期傑作群は、今でも抜群に面白い。
 これほど才能あふれる監督が、この16年間にわずか4本の映画しか撮っていない。しかも誰が撮ってもいいような映画まで撮らなければならないところに、日本映画の惨状が見えてくる。というようなことばかり書いていると余計不愉快なので、もうやめておく。
 何はともあれ、『ニワトリはハダシだ』の発売を喜びたい。内容は社会の底辺でたくましく生きる男女の姿を描いて来た過去の森崎作品の集大成的な群像劇で、風変わりな題名や「生きてるうちが花なのよ〜」と歌われる主題歌も旧作にちなんだもの。ただし、これが森崎監督の遺作になったとしたら、ちと寂しい。よりパワフルな新作を見せてほしい。ついでだが、森崎監督の初期傑作のうち『喜劇・女』シリーズの最終作『女生きてます・盛り場渡り鳥』だけは、なぜかビデオ未発売なので、ぜひDVD化を。

★今月のオススメ。93年以降、24型以上のソニーのTVには耐震用固定ベルト(別売300円)が付けられます。


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 第51回 いかにして押井守監督は「立喰師」を発明し得たのか  (2006年9月)

 「立喰師」とは押井守監督が「発明した職業」で、OVA版『機動警察パトレイバー』(1988)の『二課の一番長い日』(鈴木清順監督『けんかえれじい』の巧みなパロディ)には「立喰のプロみたいな」クーデター首謀者が登場したし、実写の作品『紅い眼鏡』(1986)には元祖立喰師、月見の銀二(天本英世)が、既に登場していて、その写真が押井監督の新作『立喰師列伝』(2006)にも引用されている。そんなわけで、この新作は構想20年、念願の映画化なのだろう。
 この映画は日本の戦後史のエポックに現れては消えていった伝説の立喰師たちの足跡をたどるドキュメンタリー仕立てで、俳優たちの写真をデフォルメしたCG画面の背景に実在、非在の時代の表象(架空の漫画や映画、吉本隆明の詩、若き日の庵野秀明監督が自ら演じたウルトラマンなど)を散りばめたギャグアニメだが、立ち食いのプロの戦後史などという発想と飛躍において、押井守の右に出る者はいない。
 そもそも「立喰師」とは何か?劇中の饒舌なナレーターが語る「世間師」が、そのネーミングの祖形だろう。民俗学者・宮本常一の「忘れられた日本人」(岩波文庫)によると、江戸後期から昭和初期にかけて日本中のどの村にも世間師がいた。狭い村を出て、あちこち流れ歩きながら拾い世間を見て来た人たちのことを村人たちが「世間師」と呼んだもので、別に職業や肩書ではない。これをひとひねりすれば、と押井監督は考えたのかもしれない。
 立喰師は実利を求めず、志に生きる。僕の想像ではロバート・アルドリッチ監督『北国の帝王』(1973)のホーボーこそが、立喰師の直径の祖先だと思う。ホーボーとは大恐慌時代のアメリカを旅して回った浮浪者のことだが、アルドリッチの描いたホーボーは貨物列車に無賃乗車することに誇りを持つ「タダ乗りのプロ」なのだ。列車にはホーボーの天敵たる鬼車掌が待ち構え、ホーボーの抹殺を天職としている。タダ乗りのプロと鬼車掌との命をかけた(しかし互いに何の利益もない)壮絶な死闘を描き、笑いとアクション、興奮と感動、アメリカの歴史と政治的メッセージまでが混然一体となった破天荒な大傑作が『北国の帝王』なのだ。最近、リメイクされた『飛べ!フェニックス』(1965)にしてもそうだが、フツウのハリウッド娯楽映画を装い、何くわぬ顔でこんな映画を作ってしまうところに、アルドリッチのしたたかさがある。そのしたたかな独創性によってアルドリッチは生涯、映画を新たに発明し続けた。アルドリッチは自らの理想と思い定めてきた押井監督が『立喰師列伝』を作ったわけもそこにあるのだろう。

★「不審者」から子供を守る官民一体の「防犯」キャンペーンは草の根ファシズムと自警団の復活に見えて不愉快。

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