清水宏論    
               藤田真男
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「キネマ旬報」2008年5月上旬号:122-126
 ”即興と自由を求めたのは、清水のまっすぐな眼差しと心だった" 
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ホームページ作成者・池田博明



          清水宏論 

                藤田真男


 「アクビとクシャミの、うまいのは見たことないねェ」と、セットでの雑談の折に大ベテラン女優・原泉は、乾物屋のご隠居みたいな口調で「演技」の本質を衝いた。以来、僕は役者のアクビやクシャミを見るたびにシワガレタ声の至言を思い出し、やっぱり偉大なバアサンだったと感心している。
 アクビやクシャミのように無意識の生理的自然現象は、役者の意識的な「演技」の不自然さを瞬時に露呈させる。そのことに誰よりも早く気づき、「役者なんかものを言う小道具と思え」などと正鵠を射る暴論を吐いていた映画監督が、即興の天才・清水宏だったように思う。
 山田洋次が俳優・加藤恒雄から聞き書きした『わが師 清水宏』によると、小津安ニ郎は親友の清水宏に対し、「何歩あるいて、立止まってこんな風にふり向いて」などと役者に指図せず適当に撮っているようで、「ちゃんと清水調の作品になっている、そこにぼくとお前の違いがある、やっぱりお前は天才だなあ」と語ったという。たとえるなら小津は端正な名人・三遊亭圓生、清水は破天荒な達人・古今亭志ん生であった。
 小津が佐分利信に今の演技はどうやったのかを尋ねたところ、本人は自覚していなかった、という逸話があるそうだ。彼は何歩あるいて、などと意識せず普段どおり、のそのそ歩いただけだったのだろう(晩年の彼が散歩しているのを見たことがあるが、やっぱり普段も大魔神みたいに歩いていた)。芝居らしい芝居をしない佐分利は、清水にとっても小津にとっても、特別な存在だったようだ。
 のそのそ歩き、ぼそぼそしゃべる佐分利のような俳優が主演スターになれただけでも、戦前の松竹は革命的だった。城戸四郎が松竹蒲田撮影所所長に就任した1924年、島津保次郎は城戸より少し年下の27歳、清水宏は21歳ですでに監督で、ともに「オヤジ」と呼ばれていた。前年に清水より1年遅れて同い年の小津も入社していた。芝居くささを拝した映画作りは城戸所長の方針でもあったが、その方針をいち早く実践した監督が島津や清水であり、その映画的演技を体現したのが佐分利信(命名は島津)だった。愚妻の母によると戦前の佐分利は「ミーハー(ミ・ファ)より、ちょっと上のソーハー(ソ・ファ)に人気があった」という。松竹映画ファンはシャレたことを言ったものだ。

 島津の会心作「隣りの八重ちゃん」(1934)を読んだ脚本部長・野田高梧が「まるで芝居らしい芝居がない、ダメな脚本だ」と批判すると島津は激怒した(吉村公三郎『キネマの時代』)が、批評家もまた「『隣の八重ちゃん』の淡彩でスケッチ風なタッチを推賞すると同時に、いま少しドラマティックな迫力をもったものをと望むのであった」(岸松雄『人物・日本映画史1』)。
 清水宏にも「ドラマ」や「テーマ」を望む批評家はいたようだが、それもどこか見当はずれのような気がする。のちには野田高梧も、佐分利主演による島津の傑作「兄とその妹」(1939)の脚本を読み返しては感嘆し、小津との共同脚本では島津作品からの借用をするまでになった。島津は理屈ではなく直観によって「フィルムで書けばそれでいい」と自負していたが、即興演出によって「フィルムで書く」ことを、さらに推し進めたのが清水だろう。
 山田宏一著『エジソン的回帰』に「映画から、いはゆる舞台的な芝居を極力、除きたい」(『キネマ旬報』1935年1月上旬号)という「清水宏のささやかな演出論」が引用されている。そのささやかな演出論を飛躍させたのが翌年の「有りがたうさん」(1936)だった。上原謙が運転する乗合バスの車内と車窓のスケッチだけからなる、このリズミカルな即興映画は「オールロケーションで撮影されたという、イタリアのネオレアリズモより十年早いネオレアリズモ、フランスのヌーヴェル・バーグよりも二十五年早いヌーヴェル・バーグとも言うべき」(山田)傑作となった。
 「有りがたうさん」は清水32歳の作品だが、それまでに彼は100本以上の映画を撮っていた。トーキー移行期の清水の「若旦那」シリーズの端役でデビューしたのが上原謙だが、彼の息子の加山雄三は「若旦那」の戦後版である「若大将」シリーズに主演した。そういう学生ものやメロドラマを撮りつつ、トーキー時代の到来にともなう大船撮影所への移転を控えた昭和10年(1935年)ごろ、映画の革新を模索していた清水宏の様子を、新人脚本家だった猪俣勝人が書き残している。
 「私が蒲田へ入った頃には、すでに新松竹を代表する大監督になっていて、野田高梧(脚本部長)のシナリオがいかに旧くさくて詰まらないか、とうとうとして説いた」「彼の大言荘語は決して大風呂敷ではなく、立派な芸術論であったといえよう。体が大きいだけに、すべて大きいものが好きだった。シナリオの原稿なども、一コマに一字づつ書いたりすると、もっと大きく書けと文句を言われ、(略)すべて驚くことばかりだった」
 「(昭和)41年6月23日、京都嵯峨の新居で卒然として逝った。心臓麻痺であった。六十三歳、その死はすでに映画界には大きな衝撃を与えない存在にまで薄れていた」(『日本映画作家全史<上>』)
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キネマ旬報1937年11月1日号に掲載された
「風の中の子供」のイラスト広告。
斬新でモダンなこの絵柄は清水宏を象徴する

 戦前の清水は親友の小津(ともに1903年生まれ)からも一目置かれ、年下の山中貞雄監督は畏敬の念をもって清水に接し、伊豆のロケ現場に招かれて驚いたり感心したりもしたという。静岡の山のなかで生まれた清水は海に憧れ、伊豆を愛し、戦後は伊豆に設立した「蜂の巣」で戦災孤児、浮浪児を育て、「その後の蜂の巣の子供たち」(1951)などの映画作りの拠点にもした。戦前の清水組のロケの様子を笠智衆が自伝『俳優になろうか』で回想している。
 「例によって伊豆の大仁ホテルを根拠地にしてロケに出かけた。清水組のロケはリヤカーにカメラを積んで、ムシロを脇に抱えたりしてトコトコ歩いていくといった素朴なやり方だった」
 「その場のセリフは、助監督に大きな紙に少しづつ、大きな字で書かせて役者に見せ、それが済むと、また次のセリフを見せるといったやり方だった」
 脚本も演技も排除するために清水は役者に「気持ちなし!」と命じ、棒読みに近いセリフもよしとした。風通しのいい自然のなかに役者を置き、子供を遊ばせ、うらぶれた叙情、ユーモアとペーソスを漂わせた。当時としては冒険だった児童文学の映画化「風の中の子供」(1937)は高く評価されて興行でも成功を収め、東宝「綴方教室」(1938)、日活「風の又三郎」(1940)などが追随するかたちとなり、清水自身も戦中戦後にかけて子供の映画を連作した。晩年、なぜ子供の映画を撮ったのかと問われて、彼はこう答えた。
 「慣れて達者になttだけの俳優を、批評家はうまいなどと言っているが、本当にうまい人がいたら紹介してもらいたいもんだ」
 「そこへゆくと、子供はオイといえば集まるからね、アハハ。とにかく私は意識的に芝居をなくしていった。それで映画が一つの流れを持てれば、つまり詩だ。原作も俳優もなくて、もし映画がありうるとすれば、詩ですよ」(平井輝章著『実録 日本映画の誕生』)
 戦前戦中の松竹映画で活躍した多くの子供たちのなかでも、爆弾小僧こと横山準は清水の「彼と彼女と少年達」(1935)、「恋も忘れて」{風の中の子供」(1937)、「按摩と女」(1938)、「子供の四季」(1939)、「ともだち」(1940)、「みかへりの塔」「簪」(1941)などで特に大きな存在となった。
 芝居らしい芝居をしない(できない)無心の子供たちは、清水が新たな一歩くぉ踏み出す足がかりになった。バスや馬車やリヤカーに積んだカメラが、さらに彼の足どりを自由奔放なものにした。即興と自由を求めのは、清水のまっすぐな眼差しと心だった。
 僕が初めて見た清水作品は、小さな古本屋の棚にあった。昭和10年頃の映画雑誌を開くと、あどけなさの残る日本髪の娘が無心に笑っている横顔を、きわめて自然な眼差しで捉えたスナップ写真が目に飛び込んで来た。清水宏というのは、こんな写真を撮る人だったのか、ぜひ彼の映画も見てみたいものだ、と思った。それは「猪俣勝人が『日本映画名作全史<戦前篇>』(現代教養文庫)のなかで、『ともだち』(一九四〇)についてふれた次の一文を読んだときなど、清水宏を見ずして死ねない気分にかきたてられた」(山田宏一9と同じ気持ちだった。
 それから30年ほどの間にビデオ、回顧上映、CS放映などで次々と清水宏の映画を見ることができた。ほとんど忘れられた後期の作品にも、上原謙と久々にコンビを組んで上高地でオールロケした「霧の音」(1956)のようなメロドラマの佳作(労作『映画読本 清水宏』では「峠の彼方に」と題名を誤記。愛読者は各自訂正を)があることを知った。ほんとに生きててよかった、と思ったほどだ。
 戦前の松竹メロドラマは、逼塞する時代のなかで逃れることのできぬ運命と葛藤する男女の悲恋を数多く描いた。清水宏もそのような映画を数多く撮った。が、彼は城戸所長の英断と支援も得て、新たな一歩を踏み出した。
 「有りがたうさん」の翌年の、時局映画を装ったコメディ「花形選手」(1937)では、学生たちの行軍訓練を大陸での戦火とは無縁の無邪気な遠足のように描いた。
 植民地台湾でロケし、国策映画を装ったメルヘン「サヨンの鐘」(1943)では、山岳民族の娘サヨン(李香蘭こと山口淑子)を天真爛漫な女ターザン、あるいは清水宏その人のようなガキ大将として描いた。ちなみにサヨンは実在の軍国美談のヒロインで、「愛国乙女サヨン」の文字を削り取られて現存する慰霊碑の写真が西牟田靖著『写真で読む僕の見た「大日本帝国』時に掲載されている。
 「風の中の子供」と同じころ、文部省の小役人どもが「教化映画」なるものを思いつき、その第1作となった日活「路傍の石」(1938)が大ヒットしたそうだ。「みかへりの塔」(1941)は「清水調」でありつつ、非行児童の教化を名目とした、時局にかなう「名作」でもあった。だからといって、戦後のアプレ学生を先取りしたような不良学生の反抗を描くことで反教化、反時局的な「テーマ」を隠し持った猪俣勝人脚本、佐々木啓祐監督の異色作「都会の奔流」(1940)に比べて「みかへりの塔」の価値が低いとは必ずしもいえない。
 逆説的にいえば、清水宏は「いい時代」に映画を撮れたのだ。彼は逼塞する不自由な時代から自由であろうとし、同時に映画の自由を求めた。だからこそ、逼塞する現代の我々が見ても「映画とは、ここまで自由になれるものなのか」と新鮮な驚きを覚え、心から楽しみ、共感することができるのだと思う。

 以下は余話である。

 石井輝男監督のオムニバス映画「ゲンセンカン主人」(1993)を何度も見ているうちに僕は、石井輝男が清水宏と成瀬巳喜男の愛弟子にあたるという、それまでは意外にも感じられた事実を思い出して、ストンと腑に落ちた。
 画面に感じられる風通しのよさ、うらぶれた叙情、透明なユーモアとペーソスに加えて、ずっと前に石井監督から聞いた出たとこ勝負のロケの逸話なども思い当たった。ラストのトテ馬車が緩やかに進むリズムは清水の「按摩と女」(1938)を彷彿させるし、エピローグの試写会に原作者・つげ義春が登場するのは成瀬のオムニバス映画「石中先生行状記」(1950)の、今では失われたといわれる幻のエピローグ(『映画読本 成瀬巳喜男』参照)にそっくりだ(そのエピローグ撮影時のものと思われる記念写真が『現代日本文学アルバム9 石坂洋次郎』に掲載されている)。それらを思い合わせて、この傑作は清水、成瀬、石井の各々の色が溶け合った、いわば合作なのだと確信するに至った。
 今は亡き石井輝男の映画の、しばしば画面からはみ出しそうなクレジット・タイトルを見るたびに、「字は大きく書け!」という清水宏の声が画面の奥から響いてくるような気もして、清水宏と愚直なほどまっすぐな江戸っ子・石井輝男の微笑ましい師弟関係を思い、僕はつい口許がほころろんでしまう。

 (注)蛇足ながら本文中の「教化映画」について一言。教化映画(教育映画)は古くから作られてはいたが、国家による映画統制の手始めとして作られた文部省主導の教化映画は、やはり日活「路傍の石」(1938)が第1作になるようだ。杉山平一によると、「『路傍の石』のように、文部省の干渉に妥協しないため、文部省用と一般用の二つを作るという話が出るほど丁丁発止の渡り合いもあった。けれども兎も角、この時期、映画はまだ、のびのびと」していたという。

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