『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のM・J・FOXはトム・ソーヤーである    
               池田博明
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学級通信「Spinning Wheel 307」第11号
1986年1月29日発行 
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ホームページ作成者・池田博明


 
         映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」について 
                               池田博明

           タイム・トラベルものの制約

 映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を小田原オリオン座に見に行ったところ,卒業生のKさんに会った。もう2回目だと言う。面白くって,もうワクワクしてしまいますと言う。冬休みの最終日,映画館は満員だった。もっとも最後の回は『バック・トゥ・ザ・フューチャー』だけを再上映するので,若干空いたけれども。
 ゼメキス監督(脚本はゼメキスとボブ・ゲイル)には『ユーズド・カー(中古車)』という喜劇アクションの佳作があった。同監督の『ロマンシング・ストーン』は未見である。
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を見る前は,もっと複雑な話かと思っていた。
 タイム・トラベル映画の古典になると思われる設定があった。いくつかを挙げてみよう。
 30年前にトリップした少年(高校生)が,娘時代の母親に惚れられてしまう。もし母親が父親と一緒にならなければ自分の存在は消滅してしまうので,少年は必死になって母親と父親の仲をとりもつという設定。
 マッド・サイエンテストが愛すべき変人として描かれていること。
 過去を少し変えてしまったら,現在も少し変わってしまった(この映画の場合は,ハッピーエンドに変わってしまう)ということ。
 普通はタイム・トラベルものには約束がある。歴史を改変してはいけないのだ。その制約のなかでどんな面白い物語を作るかが,作家の腕の見せどころなのである。そんな意味で見事な傑作は,ハインラインの『時の門』(早川SF文庫)であった。これはタイム・トラベルものの制約にとりつかれた広瀬正が絶賛した中篇である。広瀬は負けじと,日本のラジオ草創期を舞台にした,『マイナス・ゼロ』という感動的なSF小説を書いた。
 最近では,映画『ターミネーター』もこの制約に忠実であった。
 未来社会では地上世界を機械軍団が支配している。未来社会はSF作家ディックの『人間狩り』そっくりの描写である。圧倒的に機械が優勢だったのだが,人間側にすぐれたリーダーが現れて,機械側はそのゲリラ戦術に手を焼いている。そこで,機械軍団は人間側のリーダーを産む事になる母親を抹殺するために,現代へ殺人機械(ターミネータ)を送り込む。一方,人間グループも,ターミネーターからその母親を守るためにひとりの戦士を送る。
 生身の人間(シュワルツネッガー)が,そのまま機械を演じるという倒錯的な映画である。
 タイム・トラベルものの制約から言って,女が生き残るはずだということは分かっている。無敵のターミネーターにどうやって人間が,しかもただの女が勝つのかという興味が観客を引っ張っていく。もっとも途中まで,私はこの母親=ヒロインを疑っていた。このヒロインは人間側の戦士をあざむく機械側のダミーだと思っていたのだ。敵をあざむくにはまず味方からあざむけというスパイ戦術がある。しつようにヒロインを追うターミネーターもまたあざむかれているのだ,と。そして,人間側のリーダーとなる男の子はターミネーターが何番目かに殺してしまった母親のゆりかごの中で既に産まれてしまっていたのだ,と。
 この予想は,未来社会から持ってきたという母親の写真が出てきたところで,見事にはずれていたことが分かった。この映画には「人間がそのまま機械を演ずる」という倒錯とともに,「女が男に勝つ」という倒錯もあった。

            SF世界のトム・ソーヤー

 ところが,『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は制約を無視してしまった。過去を少し変えたら,現在も変わってしまうのだ。
 そんなことは約束違反ではないか。ドクターの言葉を借りれば「そう固いこと,いいなさんな」ということになる。
 過去を変え,現在を変えるということは,位相をひとつズラせば,こんな風にも言えるだろう。「現在を変え,未来を変えてしまうのだ」と。
 ここにはひとつのメッセージがある。
 「少年よ,勇気を持ちなさい,未来はあなたの手で変えられます」というメッセージだ。
 個人の努力と研鑚を評価するプロテスタンティズムの精神である。
 主人公の少年(マイケル・J・フォックス)は,現在の世界では遅刻常習犯の不真面目な高校生だが,過去の世界では未来が見とおせて頭が良く,勇気のある少年になる。新しい「トム・ソーヤー」物語といってもよいだろう。
 香川県の山内豊さんは,その素敵なシネマコラムのなかで,映画『ビバリー・ヒルズ・コップ』のエデフィ・マーフィを,「トム・ソーヤー」ととらえた。「トム・ソーヤー」的に生きるということは,管理されずに生きるひとつの方法である。
 たしかにエディ・マーフィも,『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマイケル・J・フォックスも,「ハックルベリー・フィン」であるよりは,「トム・ソーヤー」かもしれない。
 「ハック」は自己の良心のささやきに耳を傾けながら,慎重に1歩を踏み出す,原初的な“noblesavage(聖なる野性)”と称すべき少年であるが,「トム」は外向的で,形式的なおきてに即して行動する,いわば“civilized(文明化された)”少年であるから。ちなみに,このハックとトムの定義は吉田弘重『マーク・トウェイン研究』(南雲堂)による。
 物語の最初で登場した意地悪な上役が,現代の状況が変化した最後では使用人になり下がっているのを見て,気分をすっかりよくしてしまう少年は「ハック」ではなくて,「トム」というべきだろう。
 もっとも,私には,作家ヴォネガットの次のような言葉が相変わらず新鮮に響く。
 「この(アメリカの)文化社会には,人はいつでも自分の問題を解決できるという期待がひろまっている。それが私には恐ろしくもあり滑稽でもある。もうちょっとエネルギーがありさえしたら,もうちょっとファイトがありさえしたら,問題はいつだって解決するのにという考えがひそんでいるのです。しかしこれはあまりにも事実に反するので,私は泣きたくなる−あるいは笑いたくなる」。
 ヴォネガットは社会の改良を個人の努力次第と考えることはとても危険なことだと言っているのだ。
 この意見は社会科学が普及した現代では常識であるはずなのに,ちっとも定着していないように思える。

【追記】
  『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』は過去を変えてはいけないという制約が無くなってしまった世界で,過去をどんどん変えてしまい,それに伴って現代も未来も変わってしまう話である。邪悪な人間がこの鍵を手に入れると,世界は邪悪な世界になってしまうし,正義派が関わればノーマルな世界になってしまう。
 となれば,これはもうフィリップ・K・ディックの世界である。したがって,私は『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』が一番好きである。キッチュな近未来の世界もニセモノめいていて、実にいい。
 しかし,一般にはこの『2』が一番受けが悪いという。
 どうにも不思議である。
 第一作めで、「Back to the Future」という言葉が出てくるのは一番最後の場面である。ドクが未来からマーティを迎えに来る。「どこへ行くの?」という質問に対する答えがこれである。一作目のキイワードが番組の最後に出て来るのである。したがって、このシリーズの本質(あるいは中心)は『2』にあると言っても過言ではないのではと思う。

                       池田博明記

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