生物教育学雑誌,2:29-31,1991



      クロー著『遺伝学概説』について

           青少年センター 池 田 博 明

 クローの『遺伝学概説』原書第8版(1983年)の訳書が,1991年の1月に出版された。原書第6版(1966年)の訳書は6年後の1972年に,原書第7版(1976年)の訳書は2年後の1978年に出版されている。8版については,原書が改版されてから訳書が改訳されるまでに,8年もかかったわけである。
 分子生物学の参考書としては,ワトソンの『遺伝子の分子生物学』が有名だが,この本には練習問題が無く,解説だけでは高校の教科書レベルの遺伝学と,大腸菌やウイルスの遺伝学を関連させて理解することは困難だった。
 クローの原書第7版は,適切な説明とすぐれた練習問題によって,これらの関係はもとより,現代遺伝学の重要概念を独学するには,うってつけであった。高校レベルの遺伝法則をマスターすれば,ウイルス遺伝学はもとより,集団遺伝学などのかなり発展的な概念まで理解できることが,練習問題を解きながら分かるのである。また,実際の形質を把握するうえで量的遺伝や統計的手法,確率理論が重要であること,集団遺伝学が種分化を考えるうえで強力な仮説になること,今西進化論の理論的基盤の弱さなどがはっきりと理解できるようになった。
 これらのことは遺伝学を教えることの大切さを感じさせ,生物教師としての使命感や自信さえ持たせてくれた.また,授業の際に,すぐれた練習問題を適切に与えることの大切さを改めて感じた。
 そのような意味で,私は理科系へ進学する生徒には,原書第7版の訳書を遺伝学の最良の教科書として推薦してきた。その新版の訳書が出たのである。さっそく入手して,内容の異同を検討した。新旧の異同を比較することで遺伝学の新しい局面とポイントを把握できるだろうと考えたからである。
 まず,両版に付されている「遺伝学用語集」「索引」の異同を調べてから,本文に当たった。第8版の「遺伝学用語集」の用語数は298,第7版の用語集から削除された用語はひとつもなく,第8版で追加された用語は26で,約1割増えたわけである。
 以下新しく用語が追加された分野と,新しい内容を簡略に紹介したい。追加用語は【 】でくくった.

       異同のある分野
 章立ても若干変わり,どの章もかなり書き換えられているが,特に内容が一新したのは「細菌およびウイルス遺伝学」「DNAの複製と組み換え」「原核生物における遺伝子作用の調節」「免疫遺伝学」「突然変異」の各章で,分子生物学的分野に多い。
 1977年ごろまでは塩基配列の決定が容易ではなかった。第7版の発行は1976年なので,第8板で塩基配列を対象にする記述が増えるのは当然である。
 完全に削除された章は「細胞質遺伝」「生命の起源」の章である.「量的形質の統計的分析」は付録に移動した。

 1 DNA組換え技術

 多数の細菌で発見されている【制限酵素】の機能は望ましくないウイルスのDNAを切断することであるが,DNAを切断する有用なハサミとして使われるようになった。染色体以外のDNA断片を【プラスミド】とよぶが、ある種のプラスミドはエピソームである。
 組換え技術によって,効率よくDNAの塩基配列を調べることができるようになった。また,ウイルスの【条件致死】のような特定の条件下で致死となる突然変異体は研究に有用であった。

 2 DNAの複製方法があきらかになった

 DNAポリメラーゼは5'末端から3'末端の方向に働く一種類しかなく,逆方向のDNAの複製はオカザキ・フラグメントという断片になって行われる。岡崎断片の複製には短いDNAも働く。
 複製されたDNA鎖の間違いを修復するしくみがある。ウラシルを除く酵素や,新しい鎖と古い鎖を識別する機構,誤った塩基対合(例えばAとC)を直す機構,鎖のゆがみを正す酵素などがある。
 また,遺伝子の「組換え」はDNAの複製と修復の過程こ関係する証拠がある。複製の際の組換えの機構はホリデー・モデルで説明でき,このモデルで【遺伝子変換】とよばれる配偶子の分離比が3:1となる異常な分離も説明できる。

 3 高等生物の塩基配列の特殊性

 最初にDNAの全塩基転列が決定された生物は最小のファ−ジのひとつ,ファイ・エックス174である。むだなDNAは存在せず,重なっている部分さえあるのは驚くべきことだった。
 一方,高等生物では《翻訳されないDNA》がかなりあることや,転写されても翻訳されないDNAもあることが以前から知られていた。このようなDNAの過剰は調節と関連しているかもしれないという推測があったが,組換えDNAの技術によって.高等生物のむだなDNAは【介在配列】(翻訳される部分のまん中にある,翻訳訳されない領域)と【偽遺伝子】(転写も翻訳もされない部分)であることが分かった。
 介在配列の存在は予期されていなかった。mRNAはなんらかの方法で処理され,介在配列が切り出される。偽遺伝子の塩基配列は,偽遺伝子が正常遺伝子の重複やトランスポゾンによる移動で出来たことを思わせる。また,正常遺伝子の介在配列を欠く偽遺伝子もあるが,これは介在配列を切り離したmRNAから,逆転写酵素により作られたものに違いない。もっとも逆転写酵素が正常細胞で持つ機能や意味は分かっていない。

 4 動く遺伝子

 大腸菌のF因子は【挿入配列】を持ち,環状染色体と対合し,交叉して組み込まれる。研究者は,相補的でないために2本鎖が完全には対合しない【ヘテロ二本鎖DNA】を作って,挿入配列を電子顕微鏡で見ることに成功した。
 【トラシスポゾン】は,ひとつ以上の遺伝子と両端に挿入配列を含む染色体上のDNA領域である。挿入配列は遺伝子が染色体上を動くことを可能にする。似たような系は細菌だけでなく,トウモロコシ,酵母,ショウジョウバエにも見いだされている。トウモロコシでは長年,動く遺伝因子として研究されてきたし,ショウジョウバエでは雑種劣化とよばれる高い突然変異率を誘発する。

 5 遺伝子作用の調節

 大腸菌の染色体地図作成が進むにつれ,其核生物の染色体と比べて2つの大きなちがいがあることが分かってきた。ひとつは,染色体が環状になっていること(これは旧版でも分かっていた)。もうひとつは機能的に関連した遺伝子がしばしば強く連鎖していることである。オペロン説で仮定されたラックオペロンの遺伝子の構造と機能が分かってくると,機能が関連する遺伝子の連鎖は養分の突然の変化に対応するのに有利であると考えられた。
 【オペレーター】に結合するリプレッサーの抑制作用は,RNAポリメラーゼの機能を妨げることであることが分かった.
 【挿入配列】は両端に【パリンドローム】とよばれる逆向きのDNAの短い配列を持っており,この部分でDNA鎖はクローバー型構造となる。このような突出した構造は,オペレーター領域とCAP認識座位,【ターミネーター(転写の終了を指令する。酵素ローによって認識される)】にも見られ,タンパク質がこの領域を認識することを示す。
 パリンドロームは【リーダー】にもある。リ一ダー(先導領域)はオペレーターと最初の構造遺伝子の間にあり,短いベプチドを作るコドンを含んでいる。このコドンが翻訳されると,それより下流の転写が阻害される。このような【転写減衰】とよばれる現象は細胞中の栄養状態に応じた酵素生産の調節に関係している。
 高い突然変異の例と考えられたサルモネラ菌のべん毛の相変異は,実は遺伝子調節の切り替えによって起こるものと思われる。

 6 坑体の構造と遺伝子

 坑体の多様性を作り出す方法は,前もってすべての坑原に対応する遺伝子を備えておくのではなく,小数の部品(坑体のX・J・C各部など)をいろいろなやり方で組み合わせることで保証される。
 また,坑体生産細胞が一種類の坑体しか作らないのは,前駆細胞にある他の坑体を作る遺伝子が排除されるからである。坑体生産細胞と腫瘍細胞の雑種細胞から,単一クローン(モノクローナル)坑体を作り出す技術が開発された.
 驚くべきことに免疫糸では胚細胞の時期にDNA鎖の一部が欠失する。発生の過程でDNAが変化する現象は今のところ免疫グロブリンだけで知られているが,胚発生の別のところでも利用されているのではないだろうか。

 7 減数分裂時の選択

 減数分裂時にヘテロ接合体からは一般に2種の配偶子が同数生産される。しかし,小さい染色体が卵核に入りやすかったり,対立遺伝子に働きかけて精子の成熟を阻害するような現象が起こると,これに反した【減数分裂分離ひずみ】になる.

 8 性比

 性決定が性染色体以外の要因で決まる例もある。アリゲーターやカメの一部のように温度で決まるもの,魚のように発生の途中で転換するもの等。
 雌雄選択(性選択)や性比に対する選択,利他行動と血縁選択の問題は,近年興味が高まってきた。

 以上の他に,記述や概念はあったが,旧版では用語集に採録されていなくて,新版で採鍵された用語に,アニーリング,アミノアシルtRNA,ATP,ヒストン,精細胞,複合]染色体,付着],近縁係数,連鎖不平衝,遺伝率,選択差などがある。

 第7版の出版当時,他の多くの遺伝学の教科書では,集団遺伝学・量的形質・進化遺伝学の分野は,不十分だった。集団遺伝学専門の本は若干あったが,メンデル遺伝学と分子遺伝学と同等に集団遺伝学を扱った教科書は7版以外に無かったのである。
 現在は日本でも,集団遺伝学や分子生物学を幅広く扱った教科書がたくさん出版されている。しかし,簡にして要を得た説明と,適切な練習問題によって,クローのこの小著は遺伝学をカバーするのに質量ともにあい変わらず良い教科書であると思う。7版の内容はほとんど残っているし,分子遺伝学の章についても,化学的な面の説明を簡略にして,生物学的意義が把握しやすいような配慮が成されている。
 なお,第7版の練習問題の答には誤植などに基づく誤りが6ヶ所あることに気がついたが,これらは第8版では正されているし,内容刷新にともなって,かなり新しい問題に差し替えられている。

 紹介文献
 J.F.クロー著 木村資生/太田朋子 共訳
 「遺伝学概説」原書第8版.培風館.A5版.341頁.2266円


  アメリカと日本の教科書 → その比較 

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