時効事件を「オウムの犯行」とする警視庁発表に思う

大西 赤人  

 

 去る三月三十日、一九九五年に起きた国松孝次・警察庁長官(当時)銃撃事件の公訴時効が成立。この際、警視庁の青木五郎公安部長は「『事件はオウム真理教のグループが(松本智津夫)教祖(死刑囚)の意思の下、組織的・計画的に敢行したテロだった』との見解を発表」(三月三十日付『アサヒ・コム』)し、併せて「捜査結果概要」を公表した。

「概要では教団幹部ら8人をアルファベットで記載し捜査結果を評価したが、『可能性が高い』『推認される』などあいまいな表現で関与を指摘した。報道陣からは『あいまいな根拠で犯行グループと断定し、公表するのは人権侵害にあたるのではないか』との質問が相次いだ。青木部長は『15年間、48万人を投じた捜査について国民に説明する必要があると考えた。オウムによるテロの悲劇を二度と繰り返さないことが大事で、人権にも配慮して公益性の観点から判断した』と述べた」(同前『毎日新聞』)。

 警視庁ホームページでも公開されているA4用紙16枚に及ぶ同「概要」を確認してみると、そこには、たとえば「現場調査により判明した状況」「現場捜査の結果浮かび上がってきた犯人像」等々が数多《あまた》記され、たしかにオウム信者たちとの関連性が示唆されている。しかし、当然にもそれらは、立件にさえ至らなかった推測・状況証拠の羅列であり、自らの恣意《しい》)を主張するものに過ぎない。にもかかわらず、「捜査結果概要」は、こう結ばれる。

「結論
 以上より、本事件は、教祖たる松本の意思の下、教団信者のグループにより敢行された計画的、組織的なテロであったと認めた」

 記者会見で青木部長は、事件から得た教訓として、警察が脅威と見做して情報収集を行なう対象は、以前は「過去に暴力主義的破壊活動を行ったことがある団体」だけだったが、その後は「従来と異なる新しいタイプの脅威にも、感覚を鋭敏にして早期に発見し、的確に対処していくことが求められている」ことを挙げた後、次のように述べていた。

「警察の捜査能力を高めるのはもちろんでありますが、社会の中に犯罪を未然に防ぎ、犯罪が起きたとき、犯人の追跡に役立つ仕組みを整えていくことが有効な対策になると思います」
「例えば、15年前と異なり、今日の社会ではコンビニ、駅、商店街など、多くの人が集まる場所に、民間の方々の自主的な協力により、防犯カメラが整備され、これらが犯罪の防止にも、事件の解決にも大きな力を発揮するようになっています」(同前『産経新聞』)

 ここに示された方向性は、「防犯カメラ」と言い換えてはいるものの、要するに――“自主的”に設置された――「監視カメラ」を張り巡らし、市民相互に不信とともに警戒し合うシステムの奨励であり、さらにそれを警察が活用しようとする管理社会である。

 この前例を見ない警視庁発表は大きな反響を呼び、『読売新聞』や『産経新聞』のような保守派と位置づけられるメディアでさえ、さすがに真っ当な異議を唱えた。

「そこまで犯行を解明しながら、なぜ立件に持ち込まなかったのか。これでは、自らの捜査ミスを弁解しているとしか思えない」(三月三十一日付『産経新聞』社説)。

「真犯人かどうかを判断するのは裁判所であって警察ではない。公判請求の可否を検討するのは検察だ。それにもかかわらず警察が犯人と断じた。刑事訴訟手続きの逸脱も甚だしい。公安警察の危険な体質をうかがわせる」(四月一日付『読売新聞』社説)

 現在国会で審議されている刑事訴訟法改正が成立すれば、殺人や強盗殺人など法定上限が死刑に当たる罪は時効が廃止され、必然的に警察の責務は増大する。被害者遺族の強い要望を受けた変化だが、長い年月が経過した後に、犯罪の立証が極めて困難であろうことは容易に想定される。『足利事件』冤罪という大失態も起きている中、「警視庁長官狙撃事件」の時効を漫然と見送ることに忍びなく、その焦りが警察をして今回の異例の行動に踏み切らせたのかもしれない。しかし、このような逸脱は、“疑わしきは罰せず”などと使い古された言葉を持ち出すまでもなく、犯罪の究明――裁判による処罰という大原則を完全に崩壊させる警察の暴走であり、決して許容されるべきものではあるまい。
(『思想運動』2010年5月1日号)


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