国民の「責務」

大西 赤人  

 

 鹿児島県阿久根市の竹原信一市長(元航空自衛官。二〇〇八年八月初当選。二〇〇九年四月には市議会の不信任決議を受け失職するが、五月の出直し選挙で再選)は、「ブログ市長」として知られている。市長選告示後に対立候補批判を書き込む、全職員二六八名の給与明細を発表する、市庁舎内に人件費の掲示を行ない、その張り紙をはがした男性職員を懲戒免職とする(処分取り消しを求める訴えを受けた鹿児島地裁が判決確定まで効力停止を決定、職員は職場復帰したものの給与支払いは停止されたまま)等々、やりたい放題とも言うべき言動を続けてきた人物である。

 先般、同市長による十一月八日付のブログが障害者を差別する内容として新たな騒ぎとなった。竹原は、多くの非難や抗議を受けながらも、取り消しや謝罪を拒んできたが、ここに至って文章の「修正」は受け容れたため、現在、当該箇所は一旦削除されている。参考までに原文を引けば、医師――特に勤務医の不足を採り上げ、その原因は「医師が金儲けに走っている為」で、「この体質を後押ししてきたのが医師会」とし、勤務医の給料を開業医に近づけるという議論が出ていると述べたあと、以下のように続けていた。

「しかしこんな事では問題は解決しない。医者業界の金持ちが増えるだけのこと。医者を大量生産してしまえば問題は解決する。全ての医者に最高度の技術を求める必要はない。できてもいない。例えば昔、出産は産婆の仕事。高度医療のおかげで以前は自然に淘汰された機能障害を持ったのを生き残らせている。結果 擁護【ママ】施設に行く子供が増えてしまった。

『生まれる事は喜びで、死は忌むべき事』というのは間違いだ。個人的な欲でデタラメをするのはもっての外だが、センチメンタリズムで社会を作る責任を果たすことはできない。社会は志を掲げ、意志を持って悲しみを引き受けなければならない。未来を作るために」

 竹原は、障害者差別であるとの批判に対して、賛同の意見も寄せられていると反論。「社会に対して政治は責任を果たさないといけない。現実を提起しただけで、議論のきっかけにしてほしい」(十二月十四日付『産経新聞』)、「一部分だけが取り上げられ、(世間が)情緒的な反応をしている」(同十五日付『毎日新聞』)、「社会をつくるには、命の部分に踏み込まないと駄目だ。表現としては厳しいが、刈り込む作業をしないと全体が死ぬ。壊死《えし》した足は切り取る。それで全体を生き残らせる。情緒で社会をつくることはできない」(同二十二日付『読売新聞』)などと持論を展開している。

 竹原の趣旨自体は、何十年も前の評論家・渡部昇一による「劣悪な遺伝子があると自覚した人は、犠牲と克己の精神によって『自発的に』その遺伝子を残さないようにすべきである」、「治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしい」などと“自助的精神”の必要をまことしやかに説いた『神聖な義務』と似たり寄ったり、陳腐かつありきたなものに過ぎない。

 しかしながら、この種の言説は、人々の心の琴線に微妙・隠微に触れるもののようでもある。実際、日本には、「(国民の責務)第二条 国民は、健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め、生涯にわたって、自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と定めた「健康増進法」(二〇〇二年公布)という法律も厳然と存在している。何をもって「健康」の定義とするかは一概に言いがたいにせよ、「健康」が――さすがに“勤労、納税、教育(を受けさせる)”という三大「義務」にこそ加わらなかったものの――国民の「責務」と位置づけられている恐るべき国なのだ。この際、阿久根市長のような言説を単に「暴論」と非難して結果的に封じ込めるのではなく、むしろその言い分をさらけ出させた上で根本から断ち切る必要があるだろうと思う。
(『思想運動』2010年1月1日号)


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