エッセイ                                 大西赤人/小説と評論

ブレーキランプ 10

“青春”の歪《ひず》み

大西 赤人



 野球の本場・アメリカの関係者は、日本の高校野球“フィーバー”を見ると一様に驚くらしい。技術的には間違いなくより拙劣な高校野球のほうが、むしろプロ野球を上回りかねないほどの人気を得る事態は不可解であるようだ。

 僕自身を考えてみるならば、高校野球の最大の魅力は、その“一回性”だと思う。県予選第1回戦から甲子園の決勝戦まで、一度でも敗れれば終局。後述するように高校球児の“青春”だの“純粋”だのは願い下げの僕だが、それでも「勝負」として見る限り、この“一回性”がプレイヤーの必死の技倆を引き出して、試合を思いがけずドラマティックに盛り上げる事は確かだ。

 この“一回性”については、プロ野球との比較で言うならば、「引き分け」の有無にもつながる。日本のプロ野球は引き分けがとても多い。それも延長戦を重ねての結果ではなく、9回で時間切れというケースがままある。一方、高校野球は延長18回まで戦ってようやく引き分け、しかも再試合だ。もっともこれとて、真夜中まで延長20回だろうが25回だろうが戦いつづけ、それでも決着がつかなければ翌日続行という大リーグ野球を見慣れているアメリカ人には、格別の特色とも感じられないだろうが……。

 ともあれ、先に触れた両大新聞の競合を主軸として、マスコミによる高校野球報道は年を追うごとに依然として過熱の度を加えている。この情況を苦々しく・批判的に見つめる人々は、(かく言う僕をも含めて)世の中に少なからず存在すると思う。特に、いわゆる「高校球児」の行き過ぎた美化――“純真”“無欲”“無心”などの形容詞の椀飯振舞《おうばんぶるまい》には単なる食傷に留まらず、不快や馬鹿馬鹿しさを感じることだろう。

 断わるまでもなく、そこには、高校生一般に対する(こちらも多分に行き過ぎた)白眼視・締めつけとの大きな落差がある。一人一人の選手を超えた所に、ひたすら野球に打ち込む高校生の無垢な虚像が作られる。そして、坊主頭で・礼儀正しく・たとえ誤審にも抗議はせず・1塁にはヘッドスライディングを行なう「高校球児」が次から次へと甲子園の土を踏む。

 そんな風潮に高校野球界全体が漬かっている代償として、「出場辞退」の問題が出て来る。まるで江戸時代の「五人組」のごとき連帯責任制の理不尽さと阿呆らしさは、「出場辞退」が“高校野球の教育的見地”から発表される都度《つど》、心ある人々から指摘・非難されながら、これまた少しも改まる気配がなかった。

 そして先頃の明徳義塾高校「元野球部長売春斡旋事件」の発覚により、また「出場辞退」(明徳の場合、厳密には推薦辞退)の是非が話題となった。今回、選手と直接的には全く無縁な事件だったから、連帯責任制への異議が大分強かったようだ。例えば元阪神の江本孟紀氏は某週刊誌に「先生が起こした事件の責任をなぜ生徒がとるんですか」の見出しで語っていたし、日本テレビ系『TVスクランブル』も(元野球部長は前校長代理であるけれども)「明徳の相撲部も卓球部も各大会へ出場するのに野球部だけが厳しい」と取り上げていた。

 体育館に明徳野球部員が集合し、キャプテンが半分泣きながら「夏目指して頑張ろう」と涙ぐむ部員たちに声をかけている情景――しかも、その一部始終をテレビ・カメラが追っている状況――に、僕は同情するよりも醜悪さを感じたものだ。つまり、彼らは今回の一件では被害者と見做《な》しうるが、相対的には高校野球の歪《ひず》みを露骨に体現しているからである。

 高校野球は、それがメジャーとなって比較的長い時間を経過しているから現象が目立つけれども、今や高校スポーツ界には同様の異常さが全体に蔓延しつつある。ちょうど毎日新聞と朝日新聞とが高校野球で張り合うごとく、日本テレビ系は高校サッカー、TBSテレビ系は高校ラグビー、フジテレビ系は高校バレーという具合に分かれて、大会時期には連日の中継放送が組まれ、野球に勝るとも劣らぬ“青春”美化が続く。

 「教育の一環として行なわれる」という建て前に反して、これだけ騒がれれば選手の側に勘違い――傲《おご》りが生まれても無理はない。例えば、この種の中継に例年携《たずさ》わる一テレビ局員から聞いた話でも、「どんな優勝候補チームの選手も、1回戦の頃は初々しいんですよ。勝ち進むにつれてダメ。決勝戦ぐらいになると可愛くないですねえ」という。

 結局のところ、マス・メディア、マス・コミュニケーションと言ってみれば癒着した現在の在り方では、上述のような高校生スポーツは歪みを起こして当然と僕は思う。つまり、先にも触れたごとく、スポーツを行なっている高校生が、現実をほとんど遊離して美化されて行く事に、根本的な不自然があるのではないだろうか?

 なお進めて考えれば、このような傾向は高校スポーツ界に限った物ではなく、アマチュア・スポーツ界、ひいてはプロを含めて大きくスポーツ界全体に多かれ少なかれ浸透しつつある。スポーツ選手=人格高潔・品行方正という具合の図式が形作られ、それに反した人間は社会的袋叩きに合う。

 過日明るみに出た「ロサンゼルス五輪水泳選手大麻事件」を報ずるマスコミの激しさは凄じかった。しかし、大麻を吸った彼らは競技者として無能だったろうか? なるほど新聞が声高に論難した通り、彼らは予選で落ちたけれども、中には日本新記録をマークした者が居た。スポーツマン失格の烙印《らくいん》を押されても、彼が日本で一番速く泳いだ選手であった事実は消えない。明徳にしても話は似たり寄ったりだ。選抜を辞退しなければならないチームが、四国中で一番強かった――昨年の秋季大会で優勝した――歴史は変えようがない。

 これが、大麻を吸ったからドン尻、売春を斡旋するような部長に指導されたからボロ負けというのなら話は判りやすいが、そうは行かない。そもそも、そうは行かないのがスポーツの特徴であろう。一流の選手の中に一流の人格を持つ者が居る事は推測しうる。しかし、逆に一流の人格を持っているからこそ150キロの球を投げたり、100メートルを10秒で走ったりする事が出来るのだろうか?

 僕は絶大なスポーツ・ファンであるから、スポーツ及びスポーツ選手を単純に貶めようとは思わない。ただ、近年の異常なほどのスポーツ・ブーム――とりわけ、その基点とも言いうる高校スポーツ――が、どうも、「知育偏重・学歴社会」の深化の裏返しに見えてイヤなのだ。灘高もラ・サールも甲子園には絶対現れるはずがない現実と、いわゆる“スポーツ学校”が学費等を免除してまで有望選手を抱え込み、そして彼らを改めて同じように大学・社会へ送り出す現実。ここには不快な“詐術”の臭いがある。

(『進路ジャーナル』1985年3月号)