エッセイ                                 大西赤人/小説と評論

ブレーキランプ 9

「強制」を避けるための「自発」

大西 赤人



 一昨年(1982年)の秋頃、10日間ばかりアメリカへ出かけたことがある。原則的には、幾つかの医療機関を見学する仕事の旅だったけれど、一般の観光コースとはズレた都市も巡り――メンフィス、ボストン、ロサンジェルス、サンフランシスコ――、とても楽しかった。

 海外旅行は初めてだったが、アメリカは映画やテレビで随分見慣れているせいか、いわゆる“カルチャー・ショック”は大して感じなかった。とは言いながら、もちろん、印象に残った事は数多い。その1つが、エレヴェーターの押ボタンである。

 限られた見聞に過ぎないけれど、どうやらアメリカのエレヴェーターには「OPEN(開)」の押ボタンはあっても、「CLOSE(閉)」は無いらしいのだ。従って、ある階にエレヴェーターが着いてドアが開くと、「OPEN」によって開いている時間を延長することは可能だが、それを短縮することは出来ない。アメリカのエレヴェーターが総て「OPEN」しか備えていないのか、また、昔からこのスタイルなのか、それとも最近になって変わってきたのか――その辺は僕には判らない。でも、とにかく僕は、「CLOSE」ボタンの無いエレヴェーターが気に入った。

 日本でも時おり「開」ボタンのみのエレヴェーターを見かけなくはない。しかし、大部分は「開」「閉」両方を備えている。付いている物は使いたくなるのが人情である。そこで、ドアが開き、人の乗り降りが(「開」ボタンによって延長するまでもなく)手早く済んでしまうと、ドアが自動的に閉まるまでの短い“間”を待ちきれずに「閉」ボタンをつい押すことになる。

 たしかに、あのホンの2、3秒、長くても精々5秒ぐらいの“間”はエラく無駄な時間に感じられるものだが、実際には文字通り「狭い日本そんなに急いでどこへ行く」そのままの一刹那《せつな》なのである。だから、僕は以前から「閉」ボタンはなるべく押さないように心がけている。一時「省エネ」が叫ばれた頃、「閉」ボタンを押すと電気を費《つか》うので止めましょう、という具合のステッカーがエレヴェーターに貼られていた記憶がある。でも僕は、必ずしもそんな節約思想に基づいて「閉」ボタンを忌避しているわけではない。実のところ、自分1人しか乗っておらず、しかも誰も待っていない階で偶々《たまたま》止まった時などは、やっぱり「閉」ボタンを押すこともある。

 僕が引っかかるのは、何人もの人間が乗り合わせている時、各階での乗り降りが終るか終らないかのうちに、一刻を争うかのごとく「閉」ボタンを押す人の様子に、極めて自分本位な物を感じてしまうからなのだ。操作盤の前に立ってテキパキと「閉」ボタンで“間”を殺している人を結構見かける。一見、乗客みんなのためにエレヴェーターのスピード・アップに“尽力”している様子だが、果たしてそうだろうか?

 挽作盤の前に立った客が――僕と同じように考えてか、それとも無意識にか――「閉」ボタンに触れないため“間”が生まれかけると、わざわざ遠くから手を伸ばして、これ見よがしに押す人もしばしば眼につく。いかにも『何をボサッとしてんだ、これを押せばドアは閉まるんだよ。ドンクサイ奴!』という感じの横柄さを伴っている場合が多い。

 細かい事は覚えていないのだが、過日、ベビー・カーに赤ちゃんを乗せた母親が、スーパーのエレヴェーターのドアに体を挟まれ、そのまま昇り出したため首の骨を折って死んだ事故があった。後ろ向きにベビー・カーを引っ張って外へ出ようとしているところだったから、ベビー・カーの赤ちゃんはエレヴェーターの中に残った形で無事だったという。

 これは、エレヴェーターの安全装置――ドアに何かが挟まったら再び開くので動き出すことはない――の構造上「考えられない事故」として今なお原因究明が続けられているらしい。しかし、当初の新聞報道によれば、この母子連れと乗り合わせた客の誰かが、エレヴェーターの中に残って操作盤の「開」ボタンを押し、ベビー・カーが降りるまで待ってあげさえすれば、そもそも事故は起こるはずがなかった。逆に言えば、この時に母子連れと乗り合わせた――何人かは判らないが――人々は、エレヴェーターのドアが開くと我勝ちにサッサと降りてしまい、結果母親は、閉まりかけたドアを慌ててスリ抜けようとして挟まれてしまったことになる。

“一事が万事”というのは短絡的な考え方だけれど、この象徴的な出来事などを想い合わすと、先の「閉」ボタンによるスピード・アップも、ただただ自分中心の勝手な行動なのではないか、とますます感じられるのである。

 老人の小言《こごと》めいた言い方になりそうだが、どうも近頃、人々の公共の場におけるマナーの広範な欠如が気にかかる。例えばエレヴェーターや電車の乗り降りのデタラメさ。中の人間が降りてから外の人間が乗り込む――この不文律が通用しなくなりつつある。ドアが開くと同時に二つの流れが闇雲にぶつかり合っている。あるいは、駅の階段の上り下り。これまた、上り口を下りる人・下り口を上る人が、正規の流れと入り混じり、ラッシュ時などは特に不必要な混雑を惹《ひ》き起こしている。

 同じ種類の実例は、他にも幾つとなく挙げることが出来る。多分、読者の方々それぞれにも思い当る見聞があるのではないだろうか? そして、それらの根に共通してあるのは、他者に配慮する心の乏しい近視眼的な誤まった個人主義だ、と僕は考える。

 このような状況を“道徳”あるいは“秩序”の「乱れ」と表現するのは容易だ。従って、このような状況が蔓延すれば“道徳”や“秩序”の再確認・再建の必要が叫ばれて不思議はない。しかし、その場合、事態は、大抵国家に代表される力による「強制」――「押しつけ」によって進むであろう。学校や軍隊など端的な例だが、多分、強制された管理が徹底していれば、少なくとも表面的には“道徳”も“秩序”も充分に機能するだろうから……。

 けれども、現代の多くの人々は「強制」や「押しつけ」を嫌っているはずなのだ。それゆえに、過度な個人主義に走るのでもある。ところが、それが実は自ら「強制」や「押しつけ」をかえって招き寄せているのではないか?

 上から管理される事で維持される“道徳”や“秩序”なんて決して真に人間的な物とはなるまい。こうした“道徳”や“秩序”の「強制」を免れるためにこそ人々は、エレヴェーターや電車などの卑近な場所から、「自発」である事を基本条件としながら、改めて他者をシッカリと視野に捕えたマナーを掴み直さなければならないように僕は思う。

(『進路ジャーナル』1985年2月号)