八王子市の「オオバカモン問題」

                             大西 赤人

 世の中では、ちょっとした言葉が時と場合によって非常な大事を招くことがある。発したほうは軽い気持ちでも、受けた側は予想外に傷つくというケースは少なくない。ただし、あまりに警戒し過ぎると、いわゆる「差別語」のように、過剰な自己規制につながってしまったりもする。

 ところで皆さんは、「オオバカモン問題」を覚えていらっしゃるだろうか? 去年の話題ではあるけれども、実に面白いので、あえてここで再現してみようと思う。

 この出来事を初めて知ったのは、昨一九九六年十月二十八日付『朝日新聞』夕刊の記事。東京・八王子市の教育委員会が作成した「保育料減免措置の申請書」に「不適切な表現」があったため、同市教委が陳謝し、申請書の一部を差し替えたという内容だった。

 そもそも、「保育料減免措置の申請書」とは何か? 要するに八王子市には、保育料の高い私立幼稚園へ子供を通わせている家庭の一部(今年度の実績では約四割)に対して、一定の補助金を出すシステムがあるらしい。昨年初夏、その交付希望者のための申請書が市内各幼稚園に約六千部配られたのだが、同書の家族状況の記入例に、カタカナの振り仮名付きで、保護者名として「大庭嘉門(オオバカモン)」、妻の名として「大庭加代(オオバカヨ)」、加えて園児名として「大庭かおる(オオバカオル)」と例示されていたというのである。

 これに気づいた父母から「人を見下したようにも読める」などと抗議が寄せられたため、市教委は未配布だった約千部の保護者名を「大庭太郎」に書き換えた上、夏休み明けには、「不適切な表現があったのでおわびします」と陳謝する文書を配ったのだそうだ。

 市教委学務課の説明によれば、担当した職員は、「大庭」という姓の友人を知っていた上、歌手の嘉門達夫のファンだったもので、二つを合わせて偶然「大庭嘉門」としたという。この日の記事は、「同課は『そういう読み方になるとは気づいていなかったようだが、私たちのミス。管理が行き届かず、申し訳ない』と話している」と結ばれていた。

 僕は、これを読んで、おかしくて仕方なかった。大庭という姓の友人に、嘉門達夫のファン、その上、「そういう読み方になるとは気づいていなかった」……ウソをつけ、である。仮に百歩譲ったとしても、では「大庭加代」と「大庭かおる」は? 『たまたま思い付いたダジャレじみた名前をフザケ半分に使ったのだろう、下手な言いわけをしなけりゃいいのに』というのが僕の感想だった。

 ところが、この出来事は、意外なほど大きな反響を呼ぶ。新聞報道以来、一般からも市教委に抗議が寄せられ、市庁舎ロビーなどでは、「『オオバカモン』騒動は、公務員の公僕を忘れた根の深い病」などと記されたビラが撒かれた。十月三十日の市議会文教経済委員会では、教育長が「弁明の余地もありません」と陳謝している。

 それを報じた十月三十一日付『朝日新聞』には、「オオバカモン」について学務課長は見落としていたが、同僚は知っていたらしいとの記述があり、また、「この問題の根っこには、市民に対する公務員の差別感があり、それだけに不愉快でいやらしいものを感じます」というような評論家(俵萠子)のコメントも添えられていた。

 そして、記入例を作成した三十歳の男性職員は、教育長から事情を聴かれることになる。彼は、前年度の申請書の保護者欄には八王子市長の姓を使った「波多野太郎」という名前などが載っていたので、堅いイメージを少しでも和らげようと思ったのだそうだ。そして、まず「オオバカモン」という名前を考え、それから漢字をあてはめた、と白状したらしい(十一月一日、三日付『朝日新聞』)。結局、この職員は六ヵ月の停職処分に付された(なお、学務課長が三ヵ月、教育長、学校教育部長らも二ヵ月に渡り、二十分の一の減給処分を受けている)。

 僕には、この職員の日常の仕事ぶりは全く判らないわけだが、とにかく、その浅はかな行為を単純に弁護するつもりはない。もし本当に、堅いイメージを和らげる意図だったとしても、もう少しどうにかした名前にしろ、とは思う。とはいえ、同時に、それこそ「この大馬鹿者!」と彼を一喝すれば済む話のような気にもなる。

 結局、この出来事がここまで広がったのは、問題の申請書が「保育料減免措置」を求めるものだったため、“減免を希望する――言わば弱い立場の――人間イコール「オオバカモン」”という差別的な構図を作り出してしまったからこそに違いない。「六ヵ月の停職処分」の軽重はさておき、最初に述べた通り、不用意な言葉が大事につながったという意味で、典型的な例ではある。

 でも、そんな個人の勇み足を鬼の首でも取ったごとく公務員の「病」とか「差別感」などとと拡大しているようでは、かえって真の「差別」というものの怖さ、卑劣さについては、案外誰も実感せぬまま遠ざけられてしまうのではないだろうか。
(『看護教育』97年2月号)
表紙に戻る