評論                                       大西赤人/小説と評論
       小説今週のコラムコラムとエッセイメールマガジン経歴と著作リンク

評論の目次
               最近掲載の評論まんがスポーツ文学映画社会

最近掲載の評論

−−既発表の評論を順次掲載

「品」とは何か
ほとんど論理を超え、定量化も出来ない感性的な基準である「品」は、しばしば物事に評価を下す重要な手段として用いられる。日本固有の歴史伝統、精神風土に基づく「品」を尺度として想定し、そこから仮構される“日本人”の姿に収まらない横綱・朝青龍やスノーボーダー・国母和宏を国家と対置させて批判する手法はいかがわしい『社会評論』161号に掲載。(2010.4)

時効事件を「オウムの犯行」とする警視庁発表に思う
一九九五年に起きた国松孝次・警察庁長官(当時)銃撃事件の公訴時効が成立したが、警視庁は、この事件はオウム真理教のグループによるテロであったとの見解を発表した。しかし、公表された「捜査結果概要」は立件に至らなかった推測・状況証拠の羅列であり、犯罪の究明――裁判による処罰という大原則を完全に逸脱している。(2010.5)

国民の「責務」
鹿児島県阿久根市の竹原信一市長は、高度医療のおかげで、障害を持つ子供が自然淘汰されずに生き延びているが、社会には「刈り込む作業」が必要との持論を展開した。国民は「健康の増進に努めなければならない」と定められた「健康増進法」が厳然と存在する日本において、このような言説を単に「暴論」と非難して封じ込めるのではなく、根本から断ち切る必要がある。(2010.1)

無自覚な犯罪報道と裁判員裁判への影響
裁判員制度が始まり、裁判員は、本来ならば審理の過程のみにおいて容疑を判断すべきであり、先入見は排除されなければならない。しかし、マス・メディアによってもたらされる予備知識を遮断することは難しい。その際、警察・検察に対して極めて追随的なマス・メディアの報道姿勢は、裁判員の判断を左右しかねない。『社会評論』159号に掲載。(2009.10)

警察の横暴につながる権力の濫用
反論しにくい人気商売の芸能人に対する過剰とも思われる家宅捜索が連続し、報道では、単なる刑事手続に過ぎない「書類送検」が犯罪の成立を匂わせるかのごとく伝えられる。 そこには、重大な冤罪となった「足利事件」への反省は少しも見られない。(2009.7)

大事なのは実態を啓蒙的に認識させること
メキシコに端を発した新型インフルエンザに対し、日本政府は「水際対策」「水際作戦」を叫び立てたが、その侵入を阻むことは当然にも不可能だった。感染症を検疫によって阻止するというアドバルーンではなく、むしろ伝播は不可避であるとの現実を大前提に置き、その状況を国民に周知・認識させるべきではなかったか。(2009.6)

あるべき志≠フ決定的な欠落
2008年8月に発売された湊かなえのデビュー作『告白』は、様々なミステリのランキングで上位に位置し、ベストセラーとなった。シングルマザー、HIV、少年法、味覚障害、いじめ、ひきこもりというような現代的キーワードを巧みにちりばめ、社会的な切り口によって描かれた作品だが、この作品における作者の志≠ヘ決定的に怪しい。『社会評論』157号に掲載。(2009.4)

一般人に遠い死刑の実相
映画『休暇』は、長い日々をともに過ごしてきた死刑囚に刑を執行する刑務官たちの複雑な心情を静かに描き出す。彼らに死刑執行を命ずる権限を唯一保持する法務大臣が掲げ、楯に取る「正義」「社会正義」という美名は何なのか?『社会評論』154号に掲載。(2008.7)

「偽装」の原因・構造をこそ見極めよう
このところ、毎日毎日、食品の偽装表示、不正表示を伝えるニュースが新聞やテレビを賑わせている。正義を振りかざして表層的かつセンセーショナルに伝える報道手法は、かえって物事の実相を曖昧にし、人々の意識を鈍麻させて行く効果を発揮するだけではないのか? 『社会評論』152号に掲載。(2008.1)

「普遍化」による逆効果
とりわけネット社会においては、少しでも反日的な言論の持ち主を在日(あるいは帰化)朝鮮人、韓国人と一方的に認定≠オ、その言動を反日的なものとして攻撃する例が多々見受けられる。そんな中、『パッチギ! LOVE&PEACE』は反日映画や「在日」賛美映画ではないであろうけれども……。『社会評論』150号に掲載。(2007.7)

「ミステリー」と人間
大なり小なりの不可思議な“謎”が示され、探偵や弁護士や刑事、時には一介の市井人がその“謎”を解き明かす過程を描く形式がミステリーであるとして、なぜそれがこれほどまでに読む者の心を捉えるのだろうか。暇潰しのツール(消耗品)であればいいという状況が続いている限り、ミステリーにつきまとう悪しき「エンタテインメント性」はどうしても払拭されないことだろう。2005年4月中央大学出版部『中央評論』251号に掲載。

締め付けの強化で社会の歪みは正せるか?
「有害サイト規制法」が成立した。いわゆる「出会い系サイト」「裏サイト」などを経由して未成年者が犯罪に巻き込まれたとされる事例が頻発する中、規制の必要を求める声の高まりに応えた形だが、反面、表現の自由への侵害を懸念する見方も少なくなかった。絶望に駆られた自暴自棄的犯行は、単なる締め付けの強化によって抑止され得るのであろうか?(2008.6)

描かれた社会的リアリティー
一九七〇年、五月革命が収束した後のパリ。九歳の少女・アンナの安楽で平穏だった生活に大きな変化が訪れる。それは、“キョーサン主義”のせい、“フィデル(カストロ)”のせいなのだろうか。『全部、フィデルのせい』は、『Z』や『戒厳令』で知られるコスタ・ガヴラスの娘――ジュリー・ガヴラスによる非常に好感の持てる作品だった。(2008.3)

情報はアヘン
現代に生活する人間にとって、情報は不可欠である。「本来的に生な形で提供されるはずの情報」が加工されているとなったら、これは大きな問題につながる危険を孕《はら》んでいる。先頃も、女子ゴルフの生中継で、実際には1位になっていないのに、途中で『1位』と放送するという、事実をまげる報道を禁じた放送法3条に抵触する放送があった。『社会評論』148号に掲載。(2007.1)

「被害者」の感情を強調することの危うさ
社会的な出来事を論じようとする時、近年、顕著に感じられる傾向は、「被害」の過剰な強調である。被害者という存在を手厚く保護することは当然だが、被害者であることが主張の総ての正当性を担保するとは限らない。9・11同時多発テロを描いた映画『ユナイテッド93』(ポール・グリーングラス監督)は、被害者感情を煽ろうとしないという点において、積極的に評価することができる。『社会評論』147号に掲載。(2006.10)

同世代の“妖しい”星
五二歳で総理大臣の座に就いた安倍首相の近著『美しい国へ』。随分売れているようだし、日本の当面のリーダー・シップを執る人物の想いを知っておくべく、一冊を求めてきた──。朝日新聞社『一冊の本』2006年11月号掲載。

現在、人として学ぶべきこと
人間の生と死という大きな命題に対して、筆者自身の血友病という生死に密接に関わる特異な体質の話から書き起こし、さらに、安楽死や遺伝子操作など現代医学の進歩の抱える問題点を指摘し、人間にとっての生と死の意味合いを再検討する。1980年12月発行『岩波叢書「文化の現在」6「生と死の弁証法」』掲載。

個人における「情報処理」
近年、若者を主要読者層として完全に定着した「タウン情報誌」について、批判的感想を述べる年長者もいる。しかし、情報の錯綜した社会に生活している以上、情報の波を拒否しようとしても無理である。むしろ、なるべく多種多様の情報を得ながら、それに決して流されることなく、自分なりの処理を施すのが望ましいだろう。1982年5月発行『岩波講座「情報科学」8』月報。

あとに残される者の求める満足
小説、映画、テレビ・ドラマのテーマないし“道具立て”の一つとして、このところ目立つのは、外傷や(若年性)アルツハイマーによる「記憶」の後退あるいは喪失である。サスペンス映画『メメント』もそのひとつだが、2001年に日本で放送された連続テレビ・ドラマ『Pure Soul〜君が僕を忘れても〜』のリメイク、韓国映画『私の頭の中の消しゴム』もまた、若年性アルツハイマーが物語の大きな要素を占めている。

朝鮮半島の「二つの国」に対する非合理な愛憎
“韓流ブーム”で日韓関係の融和が進んでいる反面、気がかりなのは、北朝鮮白眼視の深刻化だ。拉致被害者・横田めぐみさんの「遺骨」のDNA鑑定のアヤフヤさにもかかわらず、一面的な見方ばかりが圧倒的に報道され、“北朝鮮叩くべし”という世論を定着させてしまった。さらに、『パッチギ!』に対する「北朝鮮擁護映画」というような否定的評価は、今の日本の状況を如実に物語っている。

「泣くこと」による理屈を超えた感情の解放
行定勲監督『世界の中心で、愛をさけぶ』は「泣く」べき物語であるが、到底「泣ける」ものではなかった。中島哲也監督『下妻物語』を観ていて、その少し前に起きた佐世保での小六同級生殺人事件を連想した。(2004.7)

「ロスト・イン・コミュニケーション」の国で
ソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』は、『ロスト・イン・コミュニケーション』であり、表面的には言葉が通じ合う人間同士でさえ、精神的に理解することは難しいという――ある意味では至極当然の――趣旨を描いた作品である。(2004.6)

道具立てに留まった社会性
最近の衝撃的な事件において「被害者の人権」が損なわれてきた状況を改革しようという方向性は正しいが、その反作用のごとく、加害者への処罰の強化が無条件に主張される流れには寒々としたものを感じる。そんななかで見た、死刑囚を描いたアラン・パーカー監督の映画『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』は、最後まで引っ張られはしたものの、あまり後味の良い作品ではなかった。(2003.10)

時代を読む
黒田信一の『インド人、大東京をゆく!』が架空のインド人を造形することによって日本人を客体化したように、東直己の『沈黙の橋(サイレント・ブリッジ)』は、日本が分断国家と化しているという半SF的異次元小説の中で、現実の我々を客体化した。石原都知事の「三国人」発言や森首相の「神の国」発言のような日本人中心の独善的な物言いに較べて、これらの試みがいかに健全かつ前向きな作業であるかは、今更言葉にするまでもない。(2000.10)

「死」を想う「死」を語る
人は、いつどのようにして、“死”の概念と最初に関わるのだろうか? 歴史的・風土的に日本では“死”を理想化ないし美化して、どこかしら曖昧なものとしてしまう傾向があった。しかし、最近の日本では、「脳死」や「安楽(尊厳)死」や「臨死体験」など種々の切り口によって、広く“死”が論じられるように変わってきた。これは明確な発展である。(1992.3)

“五体満足”の幻想
「障害」及び「障害者」という言葉について、多くの人々が、一定のパターン化したイメージを抱いている。その一つの象徴は、子供の誕生に際して用いられる「五体満足でさえあってくれれば……」という決まり文句だ。「障害者」の捉え方のどこが間違っているのだろう。(1987.11)

「男女産み分け」その是非を決めるのは誰か?
慶応大学医学部や開業産婦人科医グループの「女児産み分け」実施が大きく報道された。筆者は『朝日新聞』の取材を受け、「女児産み分け 出遅れる倫理」という記事にコメントが掲載されたが、その記事は本人には極めて不本意な形に凝縮されたものだった。筆者は、「産み分け」は奨励されても強制されても、あるいは禁止されてもいけないと考える。(1986.10)

発行差止めをくらった「社会タイムス」
一九六八年四月に中学校へ入学した筆者は所属クラブに社会部を選んだ。翌年には停滞した活動を嫌って一・二年四名が退部して新社会部を創部。ガリ版刷りの『社会タイムス』の発行を開始したが、その第三号がトップ記事「日の丸問題」のために、顧問の先生によって発行差し止めになる。一四年以上たった今、この特集を初めて掲載する。(1984.5)

真の感動とは離れたイメージの集積
小栗康平監督の六年ぶりの新作 『眠る男』 は、ロング・ランが続き、圧倒的な好評によって迎えられている。なるほど画面に映し取られた自然は美しいが、物語としては“退屈”という以外ない。そのためだけならば、変に役者など登場させずとも、環境ビデオのごとく、自然の映像をただふんだんに並べておけばいいことである。(1996.8)

『寅次郎 紅の花』
先頃公開された 『寅次郎 紅の花』 によって、69年の第1作公開以来48作目を数えた山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズだが、今回の寅次郎にはいよいよ活力がない。僕が始めて見たみたのは73年頃。その面白さと場内の活気に驚き、俄然ファンになった。しかし、寅次郎は77年の20作目頃から初期の活気を失い、本作ではほとんど枯淡の境地に陥っている。(1996.4)

「わけ知り顔」の物言い
知的障害を持った子供たちが暮らす全寮制の高等養護学校を舞台にした山田洋次監督の 『学校II』 は劇映画であり、象徴的な意味を籠めることも可能なはずなのに、「競争社会」を変革しようとする気概に乏しい。従って、凡庸な“お涙頂戴”の物語ではないにせよ、子供たちを取り巻く現状を結果として黙認するにも等しい結果となっている。(1997.1)

弱い人間を力強く描き出した映画
邦画に登場する「弱者」は往々にして、健気で、繊細で、ハンディキャップにめげず、明るく頑張っていることが多いが、アメリカ映画の場合、そんな風に図式的には作られない。たとえば 『ネル』 のように脆くて庇護されるべき「弱者」は、むしろ逆に周囲の人間を精神的苦境から救い出し、生きる力を与える。

礼宮と川嶋紀子の結婚
新天皇の憲法遵守宣言に端を発して礼宮結婚を挟み、浩宮の結婚へと進む天皇家のソフト・ムードは、特に若い世代の人々の皇室観にマッチし、天皇制の持つ問題点はいよいよ見えにくくなっている。(1990.7)

『インデペンデンス・デイ』と『評決のとき』
ご都合主義映画 『インデペンデンス・デイ』 で、大統領を先頭に、相も変わらず「正義」を振りかざしているアメリカの物腰には、いささか辟易させられてしまう。打って変わってリアルな法廷モノ 『評決のとき』 は、エンタテインメント作品の枠の中で色々と考えさせる要素を持つ映画だった。(1997.3)

幸福の演出と定着

ちょっと風変わりな映画、マイク・リー監督 『秘密と嘘』 の中で僕の印象に強く残ったのは、登場人物の一人である写真家のカメラによって定着されて行く人々の幸福の背後に、タイトルが象徴する裏腹な現実の存在が暗示されていることだった。入学式、運動会などでスッカリお馴染みとなった保護者によるビデオ撮影は、実はそれと同じ幸福の虚像の大量生産ではないだろうか。(1997.5)

金縛りに遭った『虹をつかむ男』
渥美清の亡霊に映画全体が金縛りに遭っているような山田洋次監督の 『虹をつかむ男』 は、この一作を見る限り、シリーズ化にふさわしい中身とは考えられない。もし、それでも続編を作ろうというのならば、『男はつらいよ』の名残を完全に払拭するつもりで立ち向かってほしいと思う。

宗教をどう考えるべきか
僕は、宗教――信仰とは全く無縁である。しかし、総てを完全に唯物的に判断するかとなると、超常現象に対して結構興味も関心も持つし、その存在を認める気持ちもある。先日このはからずも体験することになった“手かざし”の一幕も、そんな曖昧な僕の内心の揺らぎを強める一つの材料となった。(1991.8)

見える戦争、見えない戦争
テレビ・ゲームと化した湾岸戦争は、むしろ戦争という物の本質を露呈していると言うことも出来る。たとえ総ての事実がありのままに眼の前に差し出されたところで、見る者に想像力が伴わなければ、結局それもテレビの向こうの非現実的な光景に留まるだろう。(1991.2)



[これまでに掲載された評論]
映画、まんが、文学、スポーツ、社会の5分野に分類。全31本を掲載


まんが


『課長 島耕作』に腹が立った
フィリピン企業の組合潰しを引き受けた島耕作は、日本企業の進出でフィリピン人の生活は向上していると述べ、物質的豊かさの価値を肯定する。僕には、リゲインのCM「オレはこんな所で何をやってるんだ」という男の自嘲的な風情のほうが、確信に満ちた島耕作よりも、遥かに親しく人間的に感じられた。(1991.7)

『金田一少年の事件簿』はそれほどに面白い?
ようやく現われた本格ミステリ・コミック『金田一少年の事件簿』には、コミックならではのミステリの魅力を発揮してもらいたい。

秋里和国・小論
「少女まんが」に特有の奔放なコマ割りには、ついて行けないことがあるが、秋里和国のまんがは、コマ割りも絵柄も極めて明快で、僕のような人間でも読みやすい。これまでに読んだ秋里作品の中では、他を圧倒して『TOMOI』が素晴らしい。エイズに対する偏見が今以上に渦巻いていた1985年から87年頃にかけて、このように世俗意識を乗り越えた物語を描いていたことには驚きさえ感じさせられる。

吉田秋生・小論
吉田秋生の作品を最初に読んだのは、『夢みる頃を過ぎても』だったと思う。そして、『河よりも長くゆるやかに』に出会う頃には、僕は完全に吉田ファンの一員となっていた。『河よりも〜』や後年の傑作『桜の園』を読んでいて強く感じるのは、吉田の描く人間たち――とりわけ若者たちの心理描写の見事さである。ただし、僕の個人的な好みを記せば、たしかに『BANANA FISH』や『YASHA』もいいのだけれど、吉田秋生の本質は、必ずしもアクション編にはふさわしくないように思う。

武器としての「ゴーマン」から単なる「傲慢」へ
社会的少数者・弱者の側からの「ゴーマン」ではなく、多数者・強者の側からの鼻持ちならない「傲慢」に化しつつある、小林よしのりの書き下ろし約380ページに及ぶ大作まんが『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』を検証する。

“正論”としての「まんが」
サブ・カルチャーからメイン・カルチャーに出世(?)した「まんが」は、その気概を潜め、規制の価値観や強い力の理屈を伝え広めるための道具と化しつつあるようだ。『夢工場』や『人間交差点』など、弱い立場の人間に対する共感によって彩られた物語から、『課長 島耕作』や『加治隆介の議』へと作風を変化させた、弘兼憲史の作品から、「まんが」の現在について考察する。

まさにアニメ、されどアニメ
1時間行列してやっと観ることのできた『もののけ姫』は、既に観るべき対象から並ぶべき対象と化してしまっていた。いつもにましての宮崎駿作品らしい素晴らしさはあるが、『風の谷のナウシカ』や『となりのトトロ』の明快さが懐かしい。一回観ただけでは、なかなか正体が掴めないのでは、エンタテインメントには遠いものに思える。

「よくあるラブストーリー」の「ありったけのリアリティー」

『耳をすませば』について、宮崎駿は「ありふれた少女マンガの、よくあるラブストーリーをあえて映画化したのは、理想化した出会いに、ありったけのリアリティーを与えながら、生きる事の素晴らしさを、ぬけぬけと唱いあげようという挑戦である」と語っている。しかし、その「よくあるラブストーリー」は、あまりに既成の価値観に寄りそっているし、「ありったけのリアリティー」には、本末転倒の気配を感じてしまう。

スポーツ


「日本中」という胡散臭さ
冬季オリンピック長野大会、サッカーのワールドカップ予選、ひたすらスポーツとして楽しむのであればいいのだが、そこにかならず「国家意識」が際立って介在してくるところが困りものである。そうした場面でメディアの果たすべき役割は大きいはずなのだが、全くもって実行されていないのが実状だ。

文学


用意周到なる曲者・高村薫
多くが二段組で四百ページ、五百ページという大冊である高村薫の小説は、決して読みやすいとは言えない。数ページ進んではひと息、また数ページ進んではひと息、と読者に努力を要求するが、決して「退屈」ではない。そんな高村の最新第六作『照柿』は、「ミステリーじゃない」発言騒動への回答である。

「事実」の羅列によって「真実」は描き出されるのか?
宮部みゆきの『理由』が、リアリティーを増すためにノンフィクション形式をとったために、かえって小説世界における「真実」からは遠ざかってしまったことと、伊藤ルイを描いたドキュメンタリー映画『ルイズその旅立ち』が、「事実」を並べただけで、「真実」には到達できなかったこと。

映画


『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』と『うなぎ』
盛り沢山な割にはいまひとつ印象が散漫な篠田正浩監督『瀬戸内ムーンライト・セレナーデ』と、コッテリとしたタレの滴る蒲焼ではなく、アブラ抜きした白焼き的淡泊さの今村昌平監督『うなぎ』。(1997.8)

レニ・リーフェンシュタールと住井すゑ
ナチス・ドイツへの協力者レニ・リーフェンシュタールを描いたドキュメンタリー、レイ・ミュラー監督の『レニ』を見て、雑誌『Ronza』に掲載された「住井すゑにみる『反戦』の虚構」を想い起こした。(1996.1)

漱石とハーディ

週刊誌の新聞広告を見ていると、働き盛りの日本人男性たちは、色欲にのみ囚われた“色ボケ”であるかのようだ。良く言えば性的に自由で開放的、悪く言えば性的に下世話で無軌道な世相の下、十九世紀イギリスの作家・トマス・ハーディの小説『日蔭者ジュード』を原作としたマイケル・ウィンターボトム監督の『日蔭のふたり』を観ると、いささか複雑な想いに駆られる。(1997.10)

ぞんざいに扱われる高齢者たち
新藤兼人監督が杉村春子を撮った『午後の遺言状』は、杉村も乙羽信子も十二分の情感を醸し出し、むしろその事が「老い」の哀しさ・寂しさを漂わせている。ラスト・シーンは、あくまでも人間としての前進の意志と希望を打ち出していて気持ちがいい。(1995.10)

魔女裁判と被害者側の人権
森田芳光監督の『39【刑法第三十九条】』は、近年流行りのサイコ・ホラー仕立てで、幾らでもケレン味を付加し得る題材だが、演出はむしろ地味なぐらいであり、特に公判シーンは、検事や弁護士といえば弁舌ひたすら鮮やかという定型を排し、ボソボソと俯き加減に語る様子に、今までの映画にはなかったリアリティーが感じられた。(1999.7)

正月映画は“盛況”なれど……
かつてはドイツで『Uボート』のような佳作を撮ったペーターゼン監督が、ハリウッドの空気に浸って『エアフォース・ワン』のような作品を作るのは、「馬鹿馬鹿しい」だけでは済まないところがある。それと対照的に、あくまで作品本位の健闘が目立つイギリス映画の中でも、ピーター・カッタネオ監督の『フル・モンティ』はなかなかに活気のある一本だった。(1997.12)

『悪意の不在』の意味するところ
人間は、しばしば「善意」に基づいて過誤を犯す。「悪意」によって犯したことは反省することが出来るが、「善意」によって犯した場合には、その「犯罪性」を認識することは難しい。著者の映画に関する文章をまとめた単行本『悪意の不在』のタイトルの意味するところを、山田洋次監督の『学校』に絡めて考える。(1995.4)

蟹は甲羅に似せて穴を掘るか?

最後の作品となった第四十八作『寅次郎紅の花』を久々に映画館へ行って観た時、改めて僕は、『男はつらいよ』を見直した。マンネリにせよ安全装置に過ぎないにせよ、とにかくここまで観客の心を捕えつづけた映画が他にあっただろうか、と痛感したのだ。

ハンセン病の重い歴史は、『愛する』行為によって救済されるか
熊井啓監督の『愛する』は、69年の浦山桐郎監督の『私が棄てた女』と同じ遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』を原作とするリメイク版だが、二作の印象はずいぶんと違う。『愛する』を観て、差別され迫害を受けてきた、過去のハンセン病と現代のエイズを思い、「いわれなき差別」がいけないのなら、「いわれある差別」ならいいのかと、「差別」を批判する作業の持つ一抹の危うさを意識した。

『のど自慢』と『洗濯機は俺にまかせろ』
耳に馴染みの30曲を聴くだけで何となく暖かな気持ちになる、井筒和幸監督の『のど自慢』と、奇をてらわず現実に生きている人間を上っ面にとどまることなく描く、篠原哲雄監督の『洗濯機は俺にまかせろ』

『フォレスト・ガンプ』と『クイズ・ショウ』
トム・ハンクスの主演男優賞をはじめ、作品賞、監督賞など、今年度のアカデミー賞六部門に輝いた『フォレスト・ガンプ/一期一会』と、アカデミー賞では完敗したが、ニューヨーク批評家協会賞際優秀作品賞を受けるなど、実質的な内容は『フォレスト・ガンプ』を上回るとの評価が高かった『クイズ・ショウ』

“仮想”と“現実”との溝
筆者は、都内の某私立大学で「現代ジャーナリズムの在り方」と題した講義を持っている。学生の作成する“「報道」に対して感じること。望むべき「報道」の在り方”というレポートを読むと、「事実をありのままに伝えることは可能である」という幻想に未だ囚われていることを感じるが、そんな学生たちは、『トゥルーマン・ショー』『プライベート・ライアン』の2つの映画をどう見るだろう。

拡大ロードショーとミニシアターに二極分解する映画
拡大ロードショー作品は二、三か月でビデオになると、おっくうになり、ミニシアターでの単館ロードショへは松葉杖でもある身には辛く、最近は映画を見逃してしまいがち。そんな中でかろうじて見た二作、人気俳優をずらりとそろえた『ヒーローインタビュー』と、イングマール・ベルイマンの自伝的なシナリオを息子のダニエル・ベルイマンが映画化した『日曜日のピュ』

「事実」の羅列によって「真実」は描き出されるのか?
宮部みゆきの『理由』が、リアリティーを増すためにノンフィクション形式をとったために、かえって小説世界における「真実」からは遠ざかってしまったことと、伊藤ルイを描いたドキュメンタリー映画『ルイズその旅立ち』が、「事実」を並べただけで、「真実」には到達できなかったこと。

民族・人種としての自尊と排他
疑惑の渦中にあって自殺した新井将敬代議士に対して、辛淑玉(シン・スゴ)のあえて「死者に鞭打つ」コラムの見事さと、黒人監督スパイク・リーの『ゲット・オン・ザ・バス』の明るく前向きな結末から、差別について考える。

社会


宗教をどう考えるべきか
僕は、宗教――信仰とは全く無縁である。しかし、総てを完全に唯物的に判断するかとなると、超常現象に対して結構興味も関心も持つし、その存在を認める気持ちもある。先日このはからずも体験することになった“手かざし”の一幕も、そんな曖昧な僕の内心の揺らぎを強める一つの材料となった。(1991.8)

見える戦争、見えない戦争
テレビ・ゲームと化した湾岸戦争は、むしろ戦争という物の本質を露呈していると言うことも出来る。たとえ総ての事実がありのままに眼の前に差し出されたところで、見る者に想像力が伴わなければ、結局それもテレビの向こうの非現実的な光景に留まるだろう。(1991.2)

メディアの引き起こした殺人
オウム真理教の最高幹部・村井秀夫氏の刺殺事件は、メディアの引き起こした殺人である。マス・メディアは、挙国一致態勢でオウム叩きに奔走する前に、客観的にも相当な知的能力の持ち主である人々を筆頭に、多くの信者が社会常識や社会論理を逸脱したオウム真理教に加わる理由は何かを真剣に検討すべきだろう。(1995.5)

自爆寸前のマス・メディア 神戸の小学生殺害事件の容疑者14歳少年の報道など、センセーショナルな社会的事件に関するマス・メディアによるプライバシーの蹂躪は、松たか子一家へのバッシングなど、次々に対象を変えて反復される芸能ゴシップの下劣な姿勢とも通底し、皇室報道における無条件に等しい従順さともコインの裏表の関係にある。(1997.8)

“専門家”への不安と期待
薬害エイズ、動燃事故など、専門家が判断や対応を誤まり、結果的に多くの人々に被害をもたらす事例が目立っている。専門家に対する不信感は、脳死や臓器移植にまつわる問題にも大きな影を落としているようだ。日本の生命科学における草分け的な存在である渡辺格氏の著書『なぜ、死ぬか』をふまえ、脳死や臓器移植の問題について考えてみる。


表紙に戻る