“度忘れ”のメカニズム大西 赤人“度忘れ”とは、誰しもにとって身近な出来事だろう。いつもならすぐに思い浮かぶはずの名前や言葉が、なぜか滞る。「ここまで出てるんだけど……」なんぞとイライラしながら、「ホラ、あいつだよ、『××××』に出てた、主役の恋敵でさ、痩せてて眼が二重でちょっと鼻にかかった声で……ウ〜ン、じれったいなあ」なんて、「じれったいのは、おまえだろ」とツッコミを入れたくなるような有様は、お互いさまに経験するところ。この“度忘れ”、辞書を引くと“胴忘れ”ともいうらしいが、“度”や“胴”は意味を強めているだけ――“ど真ん中”や“ど根性”の“ど”の類――のようだ。ともあれ、単に何かを忘れるのとは異なる突発事態として、いかにも人間的かついささかユーモラスな現象である。 さて、“度忘れ”とは、基本的には老若に関わりなく起こるものと思うけれども、年齢を加えた人の場合には、しばしばボケの兆候として捉えられかねない。でも、「いつもならすぐに思い浮かぶ」事柄が不意に停滞するからこそ“度忘れ”であり、恒常的に思い出せなかったら、それは平凡な“物忘れ”になってしまう。 不思議な事に、大抵“度忘れ”は人の名前に関して発生する。地名とか曲名とか書名とかについても無いとは言えないが、人名に較べれば少ないだろう。電話番号や車のナンバーを“度忘れ”するという人にも、あまりお目にかからない。ましてや、「えーと、カッコaプラスbカッコの二乗の因数分解の公式、度忘れしちゃった」とか「ホラ、人が泣く時の副詞、出てこないんだ、何だっけ、コイゴイじゃないし、フカブカじゃないし……思い出した、サメザメ!」なんて奴にもまず出くわすことはない。顔も声も体型も何もかもありありと思い浮かぶのに、その人の名前だけが思い出せない――この“度忘れ”って奴、なぜ起きるのだろう? たとえば僕の場合、長塚京三という大変好きな俳優が居るのだけれど、どういうわけか以前から、この人の名前がいつもスンナリと出てこない。必ずモヤがかかって、行きつ戻りつし、しかも角野卓造という――僅かに「ぞう」という音しか共通していない――俳優の名前が先に思い浮かんでしまう。そんな経験を何度となく繰り返し、その度に「長塚京三、長塚京三」と殊更に意識したおかげで最近ようやく定着しつつあるものの、それでも「角野……じゃなくて、長塚……」というような連想になりがちだ。こうなると、“度忘れ”というよりも、記憶を呼び出す際に一種の「ロック」がかかっているかのようで奇妙だが、その「ロック」の理由は全く判らない。 名前が思い出せない時、頭の中で五十音を順に追ってみる人も少なくないだろう。あるいは、必死に追い求めているうちに袋小路に入り込み、むしろ全く別の事柄に注意を一旦逸らし、それから再度試みてみると、難なく正解が浮かび上がったりすることもある。これは全くの素人考えなのだが、人の記憶においては、特に、顔とか声とか身体つきとかを伴った他者の実体的存在の認識と、その他者の名前という観念的「記号」とは、かなり無理をして関連付けつけられているものなのではあるまいか。言ってみればこの二者は、直線で結ばれているのではなく、円周上に乗っかっているような具合なのではないかと思う。たとえば山手線の東京と有楽町は目と鼻の先、1駅の距離だが、もしも逆回りで向かえば20数駅も離れている。とはいえ、時間はかかっても着くことは着く。“度忘れ”とは、そういう状態ではないのだろうか。一方、“物忘れ”は、二者をつなぐ線路さえなくなっているから、いくら時間をかけても絶対に着くことは出来ない(即ち、思い出せない)。 人間の脳の働きは、まだまだ解明の行き届かない領域であるらしいけれども、“度忘れ”のメカニズムを研究している人なんて、居ないのでしょうかしらね? (2000.8.7) 前に戻る/次を読む/目次/表紙 |