今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

大ヒット中の映画『告白』(湊かなえ原作、中島哲也監督・脚本)は、“志”あるものとして世界に認められるであろうか

大西 赤人



 湊かなえによるデビュー作『告白』(双葉社)に関して僕は、昨年2月の本欄において、作者が何ものかを表現しようとするにあたっての“志《こころざし》”が決定的に欠落している作品であるという見地から細密な検討とともに強く批判し、その後、ほぼ同様の内容を雑誌『社会評論』に掲載した。(コラム374回)(社会評論157号)本稿でも、同作の結構に具体的に触れることを前もってお断わりしておく。

 繰り返しになるので詳述は避けるけれども、『告白』という小説を成立させている――主人公である中学校の女性教師・森口悠子が、幼い娘・愛美を死に追いやった1年B組の男子生徒二名に対する復讐のため、エイズ患者であるパートナー(愛美の父親・桜宮)の血液を注入した紙パック入り牛乳を彼らに密かに飲ませ、HIV感染・エイズ発症即ち死の恐怖を味わわせようとする――という基本的な構造に対して、僕は深甚な疑問と不信を抱いた。

「小説でも映画でもテレビでも、ことフィクションであれば、作者は、つまるところ自分の都合で登場人物を動かし、生かしも殺しもする。それは、かく言う僕も同じである。従って、病気にもさせる。都合よく難病にかからせたり、交通事故に遭わせたりして物語の舞台から消してしまったりもする。けれども、曲がりなりにも何ものかを表現しようとするならば、そこに一定の“志《こころざし》”があって然るべきであろう。『告白』の場合、そこが決定的に怪しい。“どうせミステリなんだから、堅い事は言いっこなしでしょ”と見る向きもあるかもしれないが、それはミステリに対して失礼というものだろう。しかも、『告白』は、シングルマザー、HIV、少年法、味覚障害、いじめ、ひきこもりというような現代的キーワードを巧みにちりばめながら、むしろ社会的な切り口によって描かれた作品なのだ。エイズを道具にしたことだけで短絡的に非難するつもりはない。しかし、“エイズ患者の血液=死への凶器”という基本プロットを立て、登場人物に終始それを追認させ、そのイメージを作者として最後まで否定せず、かえって増幅させつづけることによって読者にも恐怖を与えるという仕組みの『告白』は、僕にとっては決定的に“志”の低い作品と感じられ、この本が高い評価を得ている状況に対しては、ここに強く異議を唱えておきたいと考えるのである」(『社会評論』157号)

 しかし、当然ながら僕の苦言などは蟷螂の斧に過ぎず、その後も同書は2009年度本屋大賞を受賞するなど人気に拍車。文庫版も含めて累計200万部を突破と伝えられる中、ついには、『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』を手がけた中島哲也監督・脚本によって映画化が実現した。こちらもたちまち国内興行成績首位に踊り出し、相乗効果によって原作の売れ行きにも改めて火が点いているようだ。

 公開直前、4日付『朝日新聞』夕刊の稲垣都々世による映評には――
「ここでは崩壊した学校教育、イジメ、少年犯罪の問題だけではなく、シングルマザーやHIVへの偏見、さらには人間の倫理観にも言及する」
「言葉や物語展開、雰囲気や後味まで原作に忠実。完璧な映画化が、監督の今回のテーマだったのかもしれない」
 ――などと記されていた。その通りであれば、僕が原作に対して指摘した大きな問題点もまた、必然的に踏襲されざるを得ないはずということになる。次いで、14日付同紙夕刊には、監督に対するインタヴューが載っていた。この中で中島は、次のように述べている。

「原作の登場人物たちは日記やブログに気持ちを連ねるが、誰にも言葉を届けようとしない。映画化を通して、そうした孤独な人物たちの心に近づきたい」
「どうして人と人は向き合えないのか、わかり合えないのか。そんなことばかりを考えて映画を作ってきた気がする」
「森口先生と少年が向き合い、新たなコミュニケーションが始まることを期待させる作品になっていれば嬉しい」

 この映画化は見逃すべからずと思ったので、以前から話題にしていた妻と一緒に新宿の劇場へ出かけた。ところが、平日の夕方にもかかわらず、『新宿ピカデリー』は午後7時過ぎの次回も午後9時の次々回も既に全席指定完売。慌てて『バルト9』に回ってみたところ、いささか先となる午後8時過ぎの回に残席がチラホラ、離れた座席ながら二人分のチケットを何とか確保することが出来た。夕飯で時間を潰してから戻ると、“『告白』を御覧のお客様は大変混み合っておりますので……”とアナウンスが繰り返され、スクリーンへの入り口では整列入場が行なわれる状態。周囲からは、“こんなに人が多い映画館、初めて”という若い女性の声が聞こえるほどの盛況だった。

 映画は原作同様、生徒たちに向けた悠子(松たか子)による淡々とした語りで幕を開ける。騒がしい教室の中で、当初、彼女の声に耳を傾ける者は限られているが、“愛美の父親は、HIVに感染していた”“愛美は、このクラスの生徒に殺された”などの「告白」が続くうちに、生徒たちの意識は悠子の言葉に集中しはじめる。終業式当日ゆえの昂揚はあるにせよ、特に学級崩壊というわけでもなさそうなのに気ままに席を離れ、私語の枠を超えた勝手なおしゃべりを続ける生徒たちの描写はいささか過剰とも感じられるけれど、悠子の話を受けた彼らの交わす携帯メールをアップで捉えた映像が挟み込まれて緊張を高める流れは効果的である。

 原作は、「小説推理新人賞」を受賞した独立の短編『聖職者』(悠子の語り)を第一章とし、以降、『殉教者』(女子生徒・美月)、『慈愛者』(男子生徒の一人である直樹の姉・聖美)、『求道者』(直樹自身)、『信奉者』(男子生徒のもう一人である修哉)、と異なる一人称による四つの章が第一章をたどり直す形で綴られ、最終章『伝道者』では悠子の電話による語りというもう一つの結末を迎える。映画もこの構成に基づいてはいるものの、それぞれの視点は交叉しながら進むので、原作におけるAと思ったらBだった、Bと思ったらCだったというような単純な逆転の繰り返しに較べて、登場人物の心情は同時並行的に描かれ、観る者は出来事を俯瞰的に捉えることになる。傍観者の域を出ない聖美の存在を切り捨てたことも、むしろ物語を簡潔にしている。

 また、生身の中学生たちは個性を突出させるよりも集団としての不気味さを形作ることでリアリティーを醸し出し、修哉がAKB48のPVを見ている場面あたりの時代性の組み込みも――あざとくもなく――巧みである。原作の結末における殊更《ことさら》なヒネりに関しても、全編を通じた沈んだ色合いの基調とは対照的に大げさなほどのスローモーションや逆回転によって爆発シーンの現実感を削ぎ落とすことにより、荒唐無稽さを逆手に取った映像としてスクリーンに定着させている。

 このように映画『告白』には、小説『告白』の要素を上手に――あるいは上回って――視覚化している部分が少なからずあるけれども、その拠《よ》って立つところが“被害者である悠子が加害者の(少年法に護られた)少年に復讐するため、エイズを患う桜宮の血液を二人に飲ませ、HIV感染・エイズ発症即ち死の恐怖を与える”という論理基盤である点に変わりはない。いや、これに関しては、映画は整合性に工夫を凝らすことにより、結果として、その論理基盤を小説以上に強化してしまっている。修哉と直樹が飲み干す牛乳には、実際には桜宮の血液は入っていなかった。この経緯の説明として、原作では、終業式の一ヵ月後、病状が悪化した桜宮の死に際の言葉が次のように綴られる。

「終業式の日、きみが俺の血液を採取していることには気付いていた。何かたくらんでいるのだろうと、すぐわかった。学校に行くと、きみが、牛乳パックに血液を混入していた。恐ろしい復讐だと思った。牛乳は、きみが去った後すぐに、新しいものに取りかえた」

 これについて僕は、「終業式当日朝の桜宮は眠っていたとされているが、大の大人に覚られないように(注射器で?)血液を採ることを試み得るものなのか? 桜宮は、勤め先でもない学校に入り込み、自由に動き回れるものなのか?」と疑問を呈したけれども、映画では、そこに配慮がされており、当日朝、採血をしようとする悠子に気づいた桜宮が、その場で彼女を制止するという流れになっている。しかし、これは何を意味するか? 小説の悠子は、あくまでも自ら“血液を混入した”と信じている牛乳を修哉と直樹に飲ませることにより、「私のとった行動では、HIVに感染する確率は極めて低い、ということは最初からわかっていました。しかし、ゼロではない限り、正しい裁きが下されると信じ」ることが曲がりなりにも可能だった。

 ところが、映画の悠子は、桜宮によって血液の混入を未然に止められてしまったのだから、当然にもその後の教室における彼女は、修哉と直樹にHIVを感染させる確率が全くない・ゼロであることを認識しているわけで、言わば単なるハッタリ・こけおどしに過ぎない「告白」を実行している。従って、映画の悠子は小説の悠子以上に、生徒たちが“エイズ患者の血液が混入された牛乳を飲んだことによってHIV感染に到る(かもしれない)”と思い込んでくれること、昔ながらの“HIV感染=近い将来における死の確定”という図式の幻想を抱いてくれることのみに期待している。映画の終盤では悠子が高笑いをする場面、むせび泣く場面、最後の最後に「なーんてね」と呟く場面とがあるけれども、彼女の心情の変化は――松自身もプログラムのインタヴューで「あそこ【泣く場面】で私は、感情の出し方がわからなくなってしまって」と語っているが――観る者にとっても不可解なものとなっている。

 人間の悪意や後ろ向きの部分、反倫理性を描くことも表現として重要なものではあろう。また、先に記したごとく、僕は、『告白』がエイズを道具にしたことだけで短絡的に非難するつもりもない。HIV感染者だから、エイズ患者だから自動的に人格高潔というはずもあるまいし、彼らの存在を必要以上に美化したり過保護に扱ったりすることは不必要だろう。しかし、小説でも映画でも『告白』の大前提は、要するに“エイズ患者の血液=死への凶器”というインパクトである。科学者の母親に心酔し、自らも発明好きな少年という設定の修哉を筆頭に、一人として、その前提を疑う者が登場しない――登場し得ないという枠の中で物語は辛うじて成立する。生徒の誰かが“先生、それくらいでHIVって本当にうつるの?”とか“もしエイズになっても、薬飲めば大丈夫なんじゃないの?”とか言い出したら緊迫感は一気に薄れ、読者も観客も現実に引き戻されてしまうに違いない。

 HIVについては、歴史上、血液製剤の使用によって多くの感染被害を受けた血友病との関わりを忘れることは出来ない。『告白』原作にも、僅かに以下の言及がある。
「【桜宮の感染は】自業自得といえばそれまでです。血友病の患者の方など自分にはまったく過失がないのに感染させられた方もたくさんいらっしゃるのですから」

 去る4月17日、18日の両日、日本の血友病患者にとって約30年ぶりの全国的な集会となる「全国ヘモフィリアフォーラム」が東京で開催され、日本各地から二百数十名が参加した。この長い空白は、日本の血友病患者・患者会の多くが、偏見や差別を含めて、身体的にも精神的にもHIVによる深刻な打撃を被ったゆえに生じたものである。弁護士業のかたわらWFH(世界血友病連盟)会長に就いているマーク・スキナー氏も同フォーラムのために米国から来日し、特別講演の中で自らのHIV感染、HCV(C型肝炎ウイルス)感染をも明らかにしつつ、「HIVの悲劇」「HIVの歴史」を踏まえた患者会活動の重要性を強調した。この集会の実行委員長を務めた僕もまた、閉幕前の「呼びかけ」の中で次のように述べた。

「これまでの長い歴史の中で、“薬害エイズ(輸入血液製剤によるHIV感染被害)”をはじめとする深刻かつ不幸な出来事により、多くの先達、仲間が苦しんだ事実を忘れることは出来ません。私たちは、このような過去を踏まえながら、今、新たな一歩を踏み出したいと考えます」

 報道によれば、映画『告白』はハリウッド三社からリメイクのオファーを受け、アイルランド、香港、台湾への配給も決まっているという。果たしてこの作品は、“志”あるものとして世界に認められるのであろうか?
(2010.6.21)