今週のコラム                                 大西赤人/小説と評論

シネコンとミニシアターしか残らなくなりそうな映画館の状況のなかで、最近観た作品──話題沸騰の3D(立体)映画『アバター』、マイケル・ムーア監督『キャピタリズム マネーは踊る』

大西 赤人



 僕は東京都小金井市に住んでいて、映画を観に行く時には、吉祥寺か新宿、たまに渋谷か日比谷・銀座の劇場ということになる。中でも最も多く足を運ぶ場所は新宿なのだが、従来、この地域の映画館は大きく二つに分かれていた。新宿駅東口駅前及び新宿三丁目周辺の劇場群と、歌舞伎町の一画に集中した劇場群である。テレビ登場以前のどこの町にも映画館が存在したような時代は昔話であり、僕が触れはじめた頃には既に映画は斜陽と言われ、劇場の数も減少していた。社団法人日本映画製作者連盟のサイトを見ると、最多を数えた1960(昭和35)年の映画館(スクリーン)数は7457。それが一気に坂を転げ落ち、1965年・4649、1970年・3246、1975年・2443、1980年・2364と減りつづける。そして1993年には1734まで落ち込むのだが、そこから上向きに転じ、2009年には3396まで回復している。

 もっとも、これは読者の皆さんも想像されるだろう通り、近年増加している複合映画館=シネコン(シネマ・コンプレックス)の反映で、劇場自体はやはり減っている。先の3396という数字は「スクリーン数」であり、そのうちの約8割(!)に当たる2723をシネコンが占める。「映画館でも広がる地域格差 徳島県では一時、1館だけに」と題された記事(2009年7月31日付『産経ニュース』)は、「コミュニティシネマセンター」から刊行された『映画上映活動年鑑2008』に基づき、次のように報じていた。

「全国の事業所数(映画館数、成人映画館を除く)は2年間【2005年から2007年】で789から668と121館も減少したが、スクリーン数は2826から3177と351増えた。スクリーン数の増加が顕著だったのが、関東や京阪神地域で、関東1都6県の増加は計267スクリーン、大阪、京都、兵庫の2府1県も計50スクリーンの増加だった。この2つのエリアだけで全国の増加数の約9割を占める計算になる」

 2007年の映画館数で見ると、東京117、大阪44、愛知32、神奈川30、北海道、千葉29がベスト・ファイブ。その反面、28もの県には、ひとケタ台の劇場しかなく、見出しに言う徳島県に至っては、2005年の6館(14スクリーン)が2007年には徳島市内のミニシアター1館、隣り合う北島町のシネコン1館(8スクリーン)の計2館のみとなった。要するに全国的に一部への集中化が進み、映画の裾野自体はますます狭まっているものと感じられる。

 ネットを見ていると、このようなシネコンとミニシアターしか残らなくなりそうな状況への危惧に対して、“それで何が悪いかはよく分からない”というような見方もある。たしかに、総じて新しくて清潔で色々な店舗もくっ付いていて一ヵ所で複数の作品を観ることが出来るシネコンは便利だし、ミニシアターはミニシアターの独自性で勝負すればいいでしょう、と考えることも可能だろう。僕自身も感じる“シネコンは、昔の映画(館)がどこかしら持っていた怪しさ、危うさ、猥雑さが消えてしまって味気ない”などという想いは旧世代の感傷に過ぎず、シネコンが当たり前となった人々にしてみれば、そもそもそんな不純物に価値を見出すいわれもあるまい。

 ただ、やはりこのような集中化は、映画にとっては悪《あ》しき“囲い込み”につながるように思う。先の記事は、シネコンの運営には「半径40〜50キロ以内に40万〜50万人の人口が必要」なので「そのレベルに達しない所にはまったく映画館がなくなってしまうということになる」という現場の声(大分市の映画館「シネマ5」の田井肇支配人)を『映画上映活動年鑑2008』から引いている。しかも、一極集中した数多くのスクリーンを効率よく回転させて利潤を維持するためには、当然ながらメジャーなヒット作品を主軸に据えざるを得ないだろう。言ってみれば、無難なメニューを並べたファミレスのようなものだ。観る者の選択肢は狭まり、鑑賞眼も鈍磨させられて行く……。

 実は、事は地方に留まらない。冒頭に述べた新宿の映画事情が、僅かここ一年ほどで激変しているのだ。2008年秋の時点で、歌舞伎町には14の映画館があった。手元にある1983年発行の情報誌『ぴあ』を見てみると、名称こそ異同があるけれど15。即ち、四半世紀の間、ほとんど状況は変わっていなかったことになる。しかし、2008年、「新宿東宝会館」の取り壊しにより、会館内にあった「新宿プラザ劇場」が11月7日をもって閉館。一帯の中核ともいうべき存在だった「新宿コマ劇場」の入場客減少、老朽化による取り壊しに伴ない、併設されていた「新宿コマ東宝」が12月31日限り閉館。2009年に入ると流れは一層加速し、「新宿トーア」が4月17日閉館、「新宿ジョイシネマ1・2・3」が5月31日閉館、「新宿オスカー」が9月23日閉館、「新宿アカデミー」、「グランドオデヲン」、「新宿オデヲン」が11月30日閉館……。何と、「歌舞伎町シネシティ」と呼ばれた街から、前身を含めればいずれも数十年の歴史を持つ10もの映画館がアットいう間に消え去り、今や「新宿TOKYU MILANOビル」内の「新宿ミラノ1・2・3」、「シネマスクエアとうきゅう」の4館が孤塁を(?)守っているのみなのである。

 この歌舞伎町の――少なくとも歌舞伎町の映画館の――衰退をもたらした最大の原因もまた、シネコン。新宿三丁目周辺に、2007年2月、旧「新宿東映会館」だった「新宿バルト9」(9スクリーン)、2008年7月、旧「新宿松竹会館」だった「新宿ピカデリー」(10スクリーン)が連続してオープン、多くの観客を吸引してしまったのだ。そこには、2008年6月に埼玉県和光市駅と渋谷駅とを結ぶ東京地下鉄副都心線が全線開通、新宿三丁目駅に乗り入れるという条件も加わった。

「ピカデリーを運営する松竹の広報室は『新宿3丁目に向かう人の流れができた』と分析する。東京メトロによると、同駅の1日の平均乗降客数は、丸の内線だけだった時の約4万6000人から、約9万2000人に倍増しているという。
 一方、コマ劇場の運営会社を傘下に持つ東宝(千代田区)と周辺の映画館の計4社は『共同で歌舞伎町を盛り上げよう』と07年、一帯の再開発へ向けて企画会社を設立したが、1年余りで解散。東宝広報室は『足並みがそろわなかった』と言葉少なだ。
 【新宿】区によると、歌舞伎町への最近の客足を調査したデータはないが、城【歌舞伎町商店街振興組合】事務局長は『週末昼の客は確実に減った』と指摘。『映画館でも劇場でも、集客力のあるものであれば何でもいい』と切実な表情だ」(2009年12月9日付『読売新聞』)

 新宿という立地においてさえ、かくのごとき地滑り現象が起きている。もちろん、僕自身、「バルト9」や「新宿ピカデリー」にも出かけるから、シネコンを一概に否定しようとは思わないし、競争原理に基づく自然淘汰と言ってしまえばそれまでかもしれない。しかし、たとえば大型百貨店が業績不振で閉店するというようなニュースとも違って、曲がりなりにも文化・芸術の主要な一部を占めるべき映画という分野における――商業主義を露骨に体現する――あまりにも急激な変化を目前にすると、薄ら寒い違和感と疑念を抑えがたくなる。

 さて、映画の話のついでに、最近観た作品に少し触れておこう。一本は、国内外通じて話題沸騰の『アバター』(監督=ジェームズ・キャメロン)。同監督が手がけた『タイタニック』(1997年)の記録を抜き、早くも映画史上最高の世界興行収入を達成したと報じられている。しかも、『タイタニック』が一年半かけた数字を『アバター』は公開約40日で塗り替えたというから、今後もなお一層の上積みが見込まれそうだ。

 さて、本作には3D(立体)版と通常版とがあり、特に3Dが爆発的ヒットの要因となっていると思われる。ただし、3D版は劇場によって上映方式が異なり、ネットで見るところ、キャメロンが本来意図したIMAX3D方式の上映館は日本にはなく、それに準じたIMAX3Dデジタル方式でさえ日本中で4館しかないらしい。それ以外には上映館の多い三つの方式が混在しており、僕自身は、XpanD方式の劇場へ出かけた。

 僕に限らないと思うけれど、人間は、映像も音も「立体」という響きに惹かれるようだ。昔は、子供向けの雑誌などに、漫画や写真が赤と青で二重に印刷されていて赤青セロファンのメガネで見ると立体的になる付録がよくあったし、左右に並んだ僅かに角度の異なる二枚を――寄り目や遠目にして眺めると――立体的に見える写真も今でも見かける。一見わけの判らない幾何学模様なのに、ジッと見ていると意外な絵が浮かび上がってくるという本も一時期流行した。音に関しても、映画、テレビ、ラジオ、音楽メディア、「ステレオ」はほぼ必須の要素となっている。

 しかし、これらは考えてみると少々奇妙で、我々が十全な視力・聴力を持っている場合は、右のものは右、左のものは左と立体に見える・立体に聴こえることはごくごく当たり前の――むしろ平凡な――ありようである。それなのに、その当然の事が「3D」「ステレオ」として提供されると、付加価値を持つ。たとえば、コンサートを実際に聴いている時の音と、そのステレオ録音を聴く時の音とでは明らかに印象が大きく違う。話が先回りするけれど、『アバター』の3Dにしてもそうなのだが、手を加えられた映像や音は、極めて人工的な――現実の「立体」を強く、時に甚だしく誇張した――現象に変えて、我々の神経を刺戟する。

 『アバター』の舞台は22世紀の未来。地球から遠く離れた惑星・パンドラに存在する稀少鉱物を求める人類は、人類にとっては有毒な大気を避けるとともに、そこに暮らす先住民・ナヴィとの衝突を避けるべく、人間とナヴィのDNAを組み合わせた“アバター”を送り込んでいる。戦傷のため車椅子生活を送っていた元海兵隊員の主人公・ジェイク(サム・ワーシントン)は、事故死した兄に代わって――DNAが同じという理由から――この計画に参加する。成功の暁には、莫大な報酬の上に、足も治してもらえるのだ。アバターに転移した彼――正確には、彼の意識――は、自由にパンドラの大地を駆け巡る。このあたり、ジェイクほどではないけれど松葉杖で歩いている僕としては、ちょっと惹かれるものがあった。

 情報収集の使命を帯びてナヴィの部族と接触したジェイクは、族長の娘・ネイティリと出会い、ナヴィの実態に触れるうちに人類の身勝手さを感じはじめる。そして、鉱床の上にある集落を実力で立ち退かせようとする――事実上、破壊しようとする――人間たちに向かい、ナヴィとともに戦いを挑むことになる。この基本的な対立の構図は、昔の映画には幾らでもあった騎兵隊対インディアンの典型を連想させるし、“自然”に重きを置く世界観、ジェイクやネイティリが不気味な飛行生物にまたがって空を飛ぶシーンの多用は、日本人としての立場からから見ると“ああ、なるほど、宮崎駿、ね”というところ。ただ、ジェイク自身の肉体は常に人間の側(遠隔操作装置の中)にあり、その意識の転移したアバターのみがナヴィの側で行動するという二重性が物語を複雑かつスリリングなものとしている。2時間42分という長尺ながら飽きさせず、特にその3Dは、たしかに一見の価値ありと思う。空と地面との高低を意識した画面構成が奥行きとなって効果的だし、スクリーンの手前に漂ってきそうなクラゲに似た精霊などもとても美しい。多分、少なくともこの種のアクション映画、スペクタクル映画は、3Dでなければ成り立たないという時代がすぐに来るのではないかと思う。

 ただ、課題もある。これは上映方式の問題だが、XpanD方式の眼鏡はゴツくて重いため、とりわけ元々の(近視用)眼鏡に重ねてかけていると、鼻の付け根がひどく痛くなる(時々指で支えて浮かしていた)。眼鏡は回収して再利用されるのだが(使いきりの上映方式もある)、レンズ面が汚れて(傷ついて?)いて気になる。また、画面が暗くて色調が沈む(一瞬外して見てみると歴然としている)。それから、字幕も3Dになり、いつも一番手前に浮き上がっているため、画面上の――しばしば奥に向かって移動する――人や物と字幕とのピントの往復で眼が疲れる。

 まあ、上に述べたデメリットはいずれも限定的なもので、最善の上映方式であれば、眼鏡をかけていなければ、字幕が要らなければ発生しないと考えられる。先に「3Dでなければ成り立たないという時代がすぐに来るのではないか」と書いたが、ちょうどそれは、モノクロ映像の大部分がカラー映像へ移行した・移行せざるを得なかった過去の再現かもしれない。ただ、『アバター』は後学のためにも観て損はない作品とは思うものの、映画が終って3D眼鏡を外すと、どこかしらホッとする気分になったことは間違いない。つまり、映画の世界に没頭するというよりは、3D眼鏡を通して、万華鏡の千変万化の幾何学模様を2時間半余り見せられたとでもいう印象で、心地よい余韻よりは疲労感のほうが勝っていたのだった。

 もう一本は、『キャピタリズム マネーは踊る』(監督=マイケル・ムーア)。突撃・アポなし取材で知られる彼が、今度は真っ向からキャピタリズム――資本主義にぶつかったドキュメンタリーである。2008年、サブプライムローン問題が導火線となり、アメリカ発金融危機、世界同時不況が発生し、その解決を見出すべくオバマ大統領が誕生――そんな米国の激動を追ったこの映画は、言うまでもなく資本主義を徹底的に批判する。本作にしたり顔で現われる米国の金融関連エスタブリッシュメントたちの言動は、恥知らずもいいところである。ムーアは、公的資金導入によって平然と立ち直ったウォール街の大手銀行、大手証券会社を訪れ、“金を返せ”“市民逮捕に来た”と叫ぶ。もちろん、そんなムーアの「突撃」は今やお馴染みのわけで、言われるままに金を差し出すはずも、お偉方がノコノコ出てくるはずもなく、格別怒りも脅しもしないガードマンたちが適当にいなすばかり。するとムーアは、犯罪現場に張られる黄色い「立入禁止」のテープで建物をグルリと巻いてみせるのだが、正直言ってそれは、いわゆる“パフォーマンス”の域にも達していない。

 このムーアに較べれば、昨年12月に「レイバーフェスタ」で上映されていた15分ほどのビデオ『自動車会社の社長さんに会いたい! ツアー』(土屋トカチ)のほうがよほど面白い。この映像は、解雇された派遣労働者・期間工たちが、ピン芸人の松元ヒロに率いられ、三菱ふそう、日産自動車、いすゞ自動車などの本社を訪ねて雇用責任を質《ただ》すべく社長に面会を求める様子を追ったもの。事前に申し入れをしているので「突撃」ではないし、中にはテレビのインタヴュー番組で“社員の皆さん、いつでも会いにきて下さい”と語っていた社長も居たりする(笑)のだが、やはり結果は門前払い。しかし、トボけた物腰の松元に“あなただって、いつどうなるか判らないですよ”とマイクを突きつけられた担当者が、つい“覚悟してます”と呟く姿が映し出されるあたりは実に秀逸だった。

 ムーアの場合、その問題意識は鋭いし、それをエンタテイメント性をも備えた作品として作り上げる力は見事だけれど、手法としてはますます単純化・図式化されつつあるように思う。たとえば、医療保険の問題を採り上げた前作『シッコ』では、米国のひどさと対比する形で、早くから医療崩壊が指摘されていたイギリスを持ち上げていたし、今度の『キャピタリズム』では、同様に、労働者の権利が保障されているとして日本をやけに賞賛していた。このように善悪、白黒のコントラストを設けて対置させる二分法は、権力を手にしている者を非難・攻撃することで観る者への直截《ちょくせつ》的な判りやすさとなる。ところが、そのやり方は、ブッシュ前大統領については至極簡単だったけれど、ひとまず「チェンジ」を掲げて登場したオバマ大統領に対しては切っ先が鈍らざるを得ない。従って、『キャピタリズム』の終盤は及び腰で、ついに最後にムーアは“ボク独りではもう無理だ”“あなたたちみんなの力が必要だ”と弱音のようにも聞こえる――実は最初から自明の――言葉を口にする。プログラム収載のインタヴューによれば、ムーアは本作を『キャピタリズム:マイケル最後の映画』と名づけるつもりだったという。

 同じくインタヴューの中で彼は、「『民主主義』を信じている」「【社会主義の】考え方自体は確かに本来は民主主義に近い」「資本主義は17世紀の、社会主義は19世紀の理念だ。我々は21世紀に生きている。いま直面していることに対して、何か新しいことを考え出せる十分賢い人間じゃないのかな?」などと話している。ムーアもその嫌いがあるけれど、資本主義、社会主義、民主主義、は、しばしば対立する三すくみの事物のように語られる。しかし、たとえば手近に『大辞林』を見れば、三つはそれぞれ次のように説明されている。

資本主義「商品経済の広範な発達を前提に、労働者を雇い入れた資本家による利潤の追求を原動力として動く経済体制。資本家が生産手段を私有し、労働力以外に売る物をもたぬ労働者の労働力を商品として買い、労賃部分を上回る価値をもつ商品を生産して利潤を得る経済。封建制に次ぎ現れた経済体制で、産業革命によって確立された」

社会主義「資本主義の生み出す経済的・社会的諸矛盾を、私有財産制の廃止、生産手段および財産の共有・共同管理、計画的な生産と平等な分配によって解消し、平等で調和のとれた社会を実現しようとする思想および運動。共産主義・無政府主義・社会民主主義などを含む広い概念」

民主主義「人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す」

 要するに、「思想および運動」たる社会主義や「政治形態」たる民主主義には、世の中をこうしよう、こういう世の中にしようというヴィジョンが伴なうし、そもそも理屈から言っても、民主主義に基づかない社会主義など、本来はただの紛《まが》い物でしかない。一方、資本主義とは、あくまでも「経済体制」なのである。先の説明の主語と述語を端的に結び付ければ、「資本家が」〜「利潤を得る経済」になってしまう(笑)。それがあたかも人間社会をまとめる「理念」のように大手を振って通用すること自体、まことに奇怪と言うしかない。
(2010.2.1)